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スッタニパータ491

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

491 一切の結び・縛めを断ち、みずから慎しみ、解脱し、苦しみなく、欲求のない人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

つぎの四九二詩とほぼ同じことが二句に亘って説かれます。「一切の結び・縛めを断ち」と「一切の結び・縛めから解き放たれ」の違いだけです。原語ではsabbasaṃyojanabandhanacchidāとsabbasaṃyojanavippamuttāの違いです。では断つと解き放たれではどう違うのかというのが疑問に感じられるかと思います。解脱の様子を述べた重要な箇所ですから、強調の意味ももちろんあります。しかし最も重要な点は釈尊をはじめとする独覚佛陀と佛陀の教えを聞き阿羅漢果に達した者との違いではないでしょうか。

 みずから慎しみ

自ら慎む。自制と同じように、セルフコントロールができており穏やかであるという語感もあります。平安である。心に平和があるということです。平和を環境や他人に求めるのではなくして自らが平安である様子です。眼に映るもの、耳に聞こえるもの、におい香り、寒さ暑さ、身体に感じるもの全てにおいて、さらには内なる意識において、自らの見解や感情にもとらわれることなく、さらりとしている。岩もあり木の根もあれどサラサラとただサラサラと水の流るる。河の流れのようにゆったりと。そのような境地に至る様子です。

解脱し苦しみなく欲求のない人々がいる

解脱すると一切の苦しみがなくなります。解脱すると何も求めることがなくなります。こんなことが果たしてあり得るのでしょうか。この世は一切「苦」につながれています。苦の対義語は「楽」です。「常楽我浄」は「無常」と「苦」「無我」「不浄」の仏教一般の世界観を真逆に述べた言葉として有名です。延命十句観音経に「観世音。南無仏。与仏有因。与仏有縁。仏法僧縁。常楽我浄。朝念観世音。暮念観世音。念念従心起。念念不離心」とあります。すなわち解脱とは常楽我浄になることなのです。こんなことが果たしてあり得るのでしょうか。可能性を否定して不可能だと断定したときに正に不可能となります。可能性を信じ断定することなく実行したときに正に可能です。当然です。現に仏教はそうした解脱した人々によって伝えられ2500年続いてきております。田舎の一見ただの見窄らしい老人が解脱していることもあるのです。信じられないかもしれません。仏教の解説書をしきりに読みながら論説ばかりに眼を奪われ、得意気になっている人には、申し訳ありませんが何時まで経っても解脱のときはまいりません。何か一つでも貫いて実行している人が、この解脱という最上の「楽」に至るのであります。これを「大解脱地」と賞賛するのであります。

皆ともに成ぜんことをこひ願ふ(月路)

普回向(ふえこう)。願以此功徳、普及於一切、我等與衆生、皆倶成佛道。願わくはこの功徳をもって、普く一切におよぼし、我らと衆生と、皆ともに仏道を成ぜんことを。この後に南無釈迦牟尼仏と三辺お唱えして読経を終えます。晩課がこうして終えますと薬石の時間。そして沐浴。夜坐。ようやく一日が終えようとするその時に、もう一度この普回向を心の中で唱えます。今日一日のわが動静が仏作仏行であります。これが功徳であります。この功徳が一切に及びますように。自分が解脱しようとか、悟りを得ようとか、四向四果を目指そうとか、そんなことを考えるよりも、この道を愚直に歩む以外ないと確信する。これが菩薩道。やっぱ日本の仏教は世界一じゃないですかねえ。

一切の結び・縛めを断ち、みずから慎しみ、解脱し、苦しみなく、欲求のない人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。