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スッタニパータ460

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

460(師が答えた)、「それ故に、バラモンよ、あなたは求めるところがあって求めてきたのであるから、こちらに近づいて問え。恐らくここに、平安で、(怒りの)煙の消えた、苦しみなく、欲求のない聡明な人を見出すであろう。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

三帰依文は

「南無帰依佛、南無帰依法、南無帰依僧。帰依佛無上尊、帰依法離塵尊、帰依僧和合尊。帰依佛竟、帰依法竟、帰依僧竟。」

上記をまとめると

「南無帰依仏無上尊、南無帰依法離塵尊、南無帰依僧和合尊。」となります。これで三句二十四字となります。また道元禅師は正法眼蔵の帰依仏法僧宝巻において『根本説一切有部毘奈耶』巻四十五』より引いて次のようにも示されています。

帰依仏陀両足中尊、帰依達磨離欲中尊、帰依僧伽諸衆中尊

これもまた三句二十四字(第四五七詩参照)となっています。漢訳の妙味であります。

今日の詩句は、ブッダがスンダリカさんに仏法の心髄を説いておられる重要な箇所であろうと思います。と申しますのは、「あなたは求めるところがあって求めてきたのであるから、こちらに近づいて問え」と言われたことです。「求めよ、さらば与えられん」新約聖書のマタイ伝の言葉と同じように(もちろん歴史的にはブッダが先に述べておられますが)、これは原則です。聞く耳を持たない者に、何を言っても意味がありません。「せっかく道を求めてここに来たのでしょうから、もっとそばに寄って私に質問したらどうだね」といった感じでしょうか、とにかく聞いてみて「こりゃダメだ」と思ったら去ればいいだけの話です。物を買わされることもありません。勧誘ではないのです。真剣に道を求めてここにやってきたということを、ブッダは誰よりもよくご存知であります。

そこで、「恐らくここに……人を見出すであろう」とさりげなく予言されているのであります。予言ではなく、期待かもしれません。期待でもなく願いであり慈しみかもしれません。道を求めている者にとって、真理を聞くことは類稀な喜びであり希望でありますが、その逆に真理に巡り会えないことは誠に残念なことと申し上げてよいでしょう。

「平安で、(怒りの)煙の消えた、苦しみなく、欲求のない聡明な人」とは、ブッダを指すことはいうまでもありません。あらゆる煩悩を離れ解脱している人です。もう一度先程の三帰依文、三句二十四字を見てみましょう。帰依を南無と言い換えても同じです。

帰依仏陀両足中尊、帰依達磨離欲中尊、帰依僧伽諸衆中尊(帰依三宝)

両足中尊とは、仏陀(ブッダ)の尊称です。生類には多足,無足,両足がいて、中でも両足のもの(神々と人間) が尊く、両足の者の中で最も尊い人という意味です。人天の師ということです。

離欲中尊とは、達磨(ダンマ)を尊ぶことです。世の道理と法則の中で、欲を離れることが最も尊く、そのために聡明な智慧をもってこれを実行すれば、怒りが消え、苦しみのない平安の境地が実現します。真理、真如、理法、仏法ということです。

諸衆中尊とは、僧伽(サンガ)の尊さです。世界の無数の集団、集いの中でも、仏教を実践する仲間ほど心強いものはありません。衆生というのは人間(衆)とその他の生類(生)のことですが、和合衆、すなわち慈悲の心で自分ができることに取り組んでいる人々は、時間空間を超えても友であります。勝友(しょうゆう)、和合尊ともいいます。

まことに仏に出会うことは稀有なことです。人に生まれたことは、それだけで尊ぶべき境涯であります。前生の功徳と申し上げておきましょう。そして仏法(仏の教え)にめぐり遭えたことは何にも代え難いことです。ましてやスンダリカさんは、ブッダその人に実際にお会いしたのです。その話でありますから、これは一言ももらさず聞いておきましょう。幸いにも今の私たちは文献でその言葉を読むことが出来ます。ただこの文字面を読み流してもいいのですが、それは縁の深浅の問題ですからあえて強調いたしませんが、今日の詩句は、寺の外観になぞらえて申せば、山門(三門)のようなものでしょう。門に入るか否か、むろん自由意志で決めることができます。いつでも門は開かれております。

立春や 寒中見舞い 遅かりし (月路)

無常迅速。はや立春ですよ立春。そういえば日が長くなってきました。六時で薄明るく、また薄暗くなります。このお寺では毎日自動的に正午ならびに午前と午後の六時に鐘が鳴ります。これが一番ありがたい。ものぐさのわたしの為にあるようなシステムです。しかしこれって一人でお寺を預かる者にとっては、超助かるんですよ、実際。

(師が答えた)、「それ故に、バラモンよ、あなたは求めるところがあって求めてきたのであるから、こちらに近づいて問え。恐らくここに、平安で、(怒りの)煙の消えた、苦しみなく、欲求のない聡明な人を見出すであろう。」

 

スッタニパータ209

第一 蛇の章
<12、聖者>

209 平安の境地、(煩悩の起る)基礎を考究して、そのたねを弁え知って、それを愛執する心を長ぜしめないならば、かれは、実に生を滅ぼしつくした終極を見る聖者であり、妄想をすてて(迷える者の)部類に赴かない。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
平安の境地------santipadam
終極------anta
妄想------takka.あれこれ思慮する思い。
迷える者の部類に赴かない------註に従って解した。(後略)
以上註より引用した。

では平安の境地というものは、どういうものであるかの説明が、生を滅ぼし尽くした終極という表現です。少しわかりにくいかもしれませんが、二度と生まれて来ないために、今生を最後の人生にするために、徹底して煩悩を滅ぼす、つまり次から次へとわき起こる煩悩を片っ端から無視して、一切とらわれない姿勢を貫くことであります。

煩悩を滅ぼし尽くす方法は、明確です。煩悩の起こる基礎である妄想と執著をしっかり観察することです。煩悩の種や煩悩の芽を育てないことであります。何が種や芽になるのかをわきまえ知っていることが必要です。

敵を知り己を知らば百戦して危うからずと申します。煩悩との戦いは自己の内にある煩悩を知ることが先であり全てであります。人の煩悩はいざ知らず、我が煩悩は何であるかをきっちりと知ることであります。

煩悩の種は妄想です。そこから執著という芽が出てまいります。ですから徹底して妄想を刻々と振りはらい捨てること、そして芽生えてしまった執著を取り除くこと、決してその芽を育てないことであります。

煩悩の別名が迷いと呼ばれています。迷いが悩みとなり苦しみの海に溺れるようになります。溺れてからでは遅いのですから、癌の早期発見みたいなもので、妄想の段階でそれと気づく心の習慣が大事ではないでしょうか。

聖者の修行とは、実に妄想を妄想と気づくことから始まります。どのようなことをしている時でも妄想の軍隊は矢継ぎ早に攻撃してまいります。その大軍を迎え撃つ静かな姿勢が坐禅とか瞑想と呼ばれております。

平安の境地、(煩悩の起る)基礎を考究して、そのたねを弁え知って、それを愛執する心を長ぜしめないならば、かれは、実に生を滅ぼしつくした終極を見る聖者であり、妄想をすてて(迷える者の)部類に赴かない。

スッタニパータ208

第一 蛇の章
<12、聖者>

208 すでに生じた(煩悩の芽を)断ち切って、新たに植えることなく、現に生ずる(煩悩)を長ぜしめることがないならば、この独り歩む人を(聖者)と名づける。かの大仙人は平安の境地を見たのである。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
長ぜしめることがないならば------原文にはjays tam assa nanuppa veccheとなっているが、註にassa jayantassa nanuppa veccheとあるのに従って解した。
見た------「さとる」とは見ることなのである。
以上註より引用した。

一般に悟りを得るなどと軽々しく口にしますが、ブッダの教えられたさとりは得るものではなく、得られるものでもありません。平安の境地を見ること、平安の境地に至ることであります。極めて能動的に努力を重ねた結果を自身が見るのであります。

刻一刻と芽生えてくる煩悩の芽を刻々と断ち切り、新たな煩悩の芽を植えることなく、実際に既に生じている煩悩を成長させることのないようにしている修行者が、黙々と独り歩むことが平安であり、聖者と呼ばれる所以であります。

煩悩とは執着と妄想がその要素であります。煩悩が自身を苦しめている元凶であることに刻々と気づき、頭に降りかかる火の粉を振り払うように取り除くことが修行の中身であります。その具体的手順を教えられたのがこの節の意図であると存じます。聖者の説明を通して、修行の在り方を手に取るように教えて下さったのであります。

誠に修行とは日々の生活の中にあって、心の積極的な認識作業に他なりません。刻々と煩悩に気をつけて黙々とただ息をすること以外に何もありません。それが平安であることを実感するものでありましょう。

すでに生じた(煩悩の芽を)断ち切って、新たに植えることなく、現に生ずる(煩悩)を長ぜしめることがないならば、この独り歩む人を(聖者)と名づける。かの大仙人は平安の境地を見たのである。