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スッタニパータ563

第三 大いなる章

〈七、セーラ〉

563 神聖な者、無比なる者、悪魔の軍勢を撃破する者、を見ては、だれが信ずる心をいだかないであろうか。たとい、色の黒い種族の生れの者でも、(信ずるであろう)。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
色の黒い種族の生れの者でも――低い階級の生れの者をいう。kaṇhābhijātika(=nica-jātiko tamo tama-parāyanabhāve ṭhito.Comm.ad Therag.833,vol.Ⅲ,p.50).

以上註記より引用しました。

悪魔の存在を、世界中で人間にも動物にも「悪魔」と大昔から呼んできた存在を、信じる信じないにかかわらず、現実的な存在と位置づけたのには、深い理由があります。このことを今日は現代的な視点から透察してみたいと思います。それは世界中で繰り広げられているテロをとってみれば解りやすいと思います。

イギリスでまたもや悲しい事件がありました。たった一人の人間が一度に22名の子供たちを含む人々を自爆テロで殺害しました。容疑者である彼が「悪魔」なのでしょうか。たしかに彼が実行したことは悪魔の所業以外の何ものでもありません。これに異を唱えるのは「聖戦」を主張する宗教・思想団体のメンバーくらいのものでしょう。これほど明白なことはありません。この事件の本質を語るのに「悪魔」以外のキーワードをもってして説明することは不可能です。よく「洗脳」されたなどと軽々しく口に出すでしょう。これほど本質を誤魔化してしまう言葉はありません。「洗脳された」で片付けられるほど問題は簡単ではないのです。

「悪魔」は人間の脳の仕組みの一つであります。そう考えれば、彼が悪魔に征服されたことが手に取るように理解できます。悪魔の軍勢に襲いかかられたら、普通の人間はイチコロです。誰だって殺人鬼になってしまう。これを神話やお伽噺ぐらいに思っているので、現代の神話である「洗脳」という言葉で簡単に納得してしまうのです。「殺したいほど憎いと思った」ことがごく一部の人々の感情でありましょうか。「正義の戦いであると心から信じた」「聖戦に勝利してかの世で祝福を受けたい」とさえ頭脳は考えてしまうものなのです。これを宗教や思想のせいにすることは簡単です。普通の人々は、そういう外野の声を無視することはできないのです。ヤジの声が耳に入ったとたん動揺してしまう。反応してしまうものなのです。

強い精神力を、などと申し上げているのではありません。かれらは弱い人間ではないのです。どこにでもいる普通の人々なのです。だから悪魔にしてみれば赤子の手をひねるようなものです。悪魔の存在としかいいようのない脳の仕組みの一部をご紹介しました。科学的に心理学的に脳科学的に分析してみれば良いのです。この仕組の全体像を言葉で表せば「悪魔」と呼ぶのが適切であることに気づくでしょう。もはや小手先のテロ対策では問題が解決しないということを充分ご理解いただけたことと存じます。

神聖な者、無比なる者、悪魔の軍勢を撃破する者、を見ては、だれが信ずる心をいだかないであろうか。たとい、色の黒い種族の生れの者でも、(信ずるであろう)。

スッタニパータ442

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

442 軍勢が四方を包囲し、悪魔が象に乗ったのを見たからには、わたくしは立ち迎えてかれらと戦おう。わたくしをこの場所から退けることなかれ。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

ブッダ釈尊が坐禅している周りに旗を翻した悪魔の軍勢が取り囲みます。悪魔の総大将ナムチが王の象徴である象にまたがり勝ち誇るようにして陣触れを発します。最後の総攻撃が開始されました。

「立ち迎えて彼らと戦おう」とありますが、ここでは実際に立ち上がって戦うのではありません。一歩も退かないという意味であり決してその場を動かないという不動の決意であります。

降魔成道とは実際に何をしたのか?

降魔成道といわれるように成道に降魔という言葉がついています。この降魔は文字通り悪魔を降したという意味ですが、文献によれば触地印あるいは降魔印といって右手を地面につけている像がたくさん残っておりまして、その降魔の様子が克明に描かれています。わたしの家の仏壇にも降魔成道の釈尊像を祀ってあります。この触地印(そくちいん)ですが、なぜ地面に触れているのかが、長い間疑問でありました。いわく悪魔よ地獄に戻れ、地にひれ伏せよ、あるいは大地の神を出現させといった解説もされるのですが、いずれも神話的であり、どこか釈然としませんでした。

決してこの場を離れない不動心

その答えが「私をこの場所から退けることなかれ」という言葉でありました。結跏趺坐しながら左手を上に向け、右手を地面に触れているのは正しくこの場を退かない、すなわち誘惑に負けないことを指し示しているのではないでしょうか。やってみるとわかりますが、この釈尊の教えが身体で再現されるのです。坐禅の最中にも、ありとあらゆる妄想が襲ってまいります。その妄想を断ち切るべく、たまには触地印をいたします。神秘的ではありますが、そのとき、すっと妄想から抜け出すことができます。密教の不動明王(お不動様)はこの降魔成道の説話から象徴的に祀られていったとする説もあります。不動尊とも無動尊とも呼ばれる所以かと存じます。さりながら……

言葉の観念だけでは理解できない

仏教を学ぶにつれ、だんだんと仏教概念が頭のなかに張り付いてまいります。さまざまな仏教知識が知らず知らずのうちに思想を展開していきます。何もそれを全否定するわけではありませんが、言葉による観念で空腹を満たしていると、すぐに飽きてきたり、どこかに真理が埋もれているような気がして探し求めるようになります。答えはどこにも見つかりません。それでも師を求め、あるいは道を求めています。ところが簡単な実践を行うだけで、言葉では言い表せないような発見があるものです。やってみること。やり続けること。やり遂げること。坐禅は釈尊の成道の姿であることは申すまでもありません。

二十二年 正月中旬 かの地震 (月路)

今日は1月17日、阪神淡路大地震より22年経ちました。生まれた赤ちゃんが22歳。わたしが40歳のときのことでした。妻はもう起きていました。二階で寝ていたわたしは、あまりの衝撃に家が壊れるのではないかと、火は大丈夫かととっさに階下へよろけながら降りていきました。

地震。家が縦に揺さぶられるようでした。家族は全員無事。200キロ以上も離れた場所で震度5、震度7というのは想像を絶します。高速道路が倒れ、ビルが倒れ、火災が発生。すさまじい映像に息を飲みました。あれから22年。あれから22年が過ぎました。しみじみ、速いものです。

地震になれば誰もがじっとしてはいません。じっとしては居れないでしょう。地面が動くのですから。地響きを上げて怒涛のごとく攻めてくるナムチ軍にブッダは静かに右手を地面に触れました。その時に大地が裂けるような地震が起きたのでしょう。その大地震によって、すべてのナムチ軍が地割れの中に落ちていくなか、ただ一人、ブッダは坐禅したまま動きませんでした。動揺しなかったのです。

軍勢が四方を包囲し、悪魔が象に乗ったのを見たからには、わたくしは立ち迎えてかれらと戦おう。わたくしをこの場所から退けることなかれ。