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スッタニパータ495

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

495 実に諸々の愛執に耽らず、すでに激流をわたりおわって、わがものという執著なしに歩む人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

愛執は愛著と同じで、とらわれて心が離れないことです。正法眼藏現成公案に「花は愛惜に散り、草は棄嫌におふるのみなり。」の一節が思い浮かびます。花は惜しまれて散っていく。草は嫌われても生えてくる。実に諸々の人々は愛する嫌うという観念にとらわれ執著しております。この執著は全て妄想からきておる。この妄想を離れることが、激流たる煩悩の河を渡る方法であります。我がものという、自分のものであると思っている自分に執著しない。自分が私がという主語主体を忘れる。何かに賢明に取り組んでいる時はそれこそ我を忘れてやっているものです。そういう無心無私に生きていく。余計なことを考えない。突き詰めれば、こだわらない、とらわれない、ことです。

拘らないことに拘る

ここは一つこだわらないことに少々こだわってみます。今日のテーマは「愛執」でありますから、愛というものにこだわってみます。愛という言葉自体に罪はないのですが、好いた惚れたとなると責任はぐっと重くなります。ところがこの段階では、この責任というものをまだ感じていない段階ですね。少年少女のような恋をイメージするとわかりやすいかもしれません。もう少し進むと寝ても覚めてもアバタもエクボ状態に陥ります。人間関係でいえば家族・友人・親戚・恋人なんでもいいんですが、特定の人を思い浮かべてください。すると愛というものの現実が見えてまいります。ほとんど純粋な愛というものはありません。自分が愛しているという事実です。この自分がというところが曲者です。このくせものは、勝手に純粋な愛だと押し付けておるわけです。これでややこしくなる。すべては己からなんですね。対象が問題ではありません。花も草にも罪はない。その罪のない花や草を手前勝手に好んだり嫌ったりしておるのが実態です。そんなことは云わなくても誰でも知っています。知っていながら気づかない。だから苦しんでいるという話です。愛することに執著しないこと。ここはしっかり押さえておきましょう。

大震災六年過ぎし供養する(月路)

未だ東北大震災の傷跡が深く残る中、震災関連死は昨年9月末で3,523名、内66歳以上が3,123名と88%を超えます。震災関連死と一口に申しましても様々な状況がありますが、とりわけ悲惨なのが子供に先立たれた方の苦しみです。今日はいわゆる3.11。当日ですから七回忌をお寺で執り行います。ここ遠く離れた場所から物故者の霊に供養いたします。先祖供養という言葉がありますが、そろそろ先亡(せんもう)供養と言い換えた方がいい時代にきています。このことはまた後日詳細に述べたいと存じます。

実に諸々の愛執に耽らず、すでに激流をわたりおわって、わがものという執著なしに歩む人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ209

第一 蛇の章
<12、聖者>

209 平安の境地、(煩悩の起る)基礎を考究して、そのたねを弁え知って、それを愛執する心を長ぜしめないならば、かれは、実に生を滅ぼしつくした終極を見る聖者であり、妄想をすてて(迷える者の)部類に赴かない。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
平安の境地------santipadam
終極------anta
妄想------takka.あれこれ思慮する思い。
迷える者の部類に赴かない------註に従って解した。(後略)
以上註より引用した。

では平安の境地というものは、どういうものであるかの説明が、生を滅ぼし尽くした終極という表現です。少しわかりにくいかもしれませんが、二度と生まれて来ないために、今生を最後の人生にするために、徹底して煩悩を滅ぼす、つまり次から次へとわき起こる煩悩を片っ端から無視して、一切とらわれない姿勢を貫くことであります。

煩悩を滅ぼし尽くす方法は、明確です。煩悩の起こる基礎である妄想と執著をしっかり観察することです。煩悩の種や煩悩の芽を育てないことであります。何が種や芽になるのかをわきまえ知っていることが必要です。

敵を知り己を知らば百戦して危うからずと申します。煩悩との戦いは自己の内にある煩悩を知ることが先であり全てであります。人の煩悩はいざ知らず、我が煩悩は何であるかをきっちりと知ることであります。

煩悩の種は妄想です。そこから執著という芽が出てまいります。ですから徹底して妄想を刻々と振りはらい捨てること、そして芽生えてしまった執著を取り除くこと、決してその芽を育てないことであります。

煩悩の別名が迷いと呼ばれています。迷いが悩みとなり苦しみの海に溺れるようになります。溺れてからでは遅いのですから、癌の早期発見みたいなもので、妄想の段階でそれと気づく心の習慣が大事ではないでしょうか。

聖者の修行とは、実に妄想を妄想と気づくことから始まります。どのようなことをしている時でも妄想の軍隊は矢継ぎ早に攻撃してまいります。その大軍を迎え撃つ静かな姿勢が坐禅とか瞑想と呼ばれております。

平安の境地、(煩悩の起る)基礎を考究して、そのたねを弁え知って、それを愛執する心を長ぜしめないならば、かれは、実に生を滅ぼしつくした終極を見る聖者であり、妄想をすてて(迷える者の)部類に赴かない。