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スッタニパータ569

第三 大いなる章

〈七、セーラ〉

569 月は、諸々の星のうちで最上のものである。太陽は、輝くもののうちで最上のものである。修行僧の集いは、功徳くどくを望んで供養くようを行う人々にとって最上のものである。

師はこれらの詩をとなえて結髪の行者ケーニヤに喜びの意を示して、座からって、去って行かれた。

そこでセーラさんは、自分の仲間とともに、ひとりで他人から遠ざかり、おこたることなく、精励せいれいし専心していたが、まもなく──諸々の立派な人々がそれらを得るために正しく家を出て家なきに赴く目的であるところの──無上の清らかな行いの究極きゅうきょくを現世においてみずからさとり、体得し、具現していた。「〔迷いの生存のうちに〕生まれることは消滅した。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。そしてセーラさんとその仲間とは、聖者の一人一人となった。

そののちセーラさんはその仲間とともに師のおられるところに赴いた。そうして、衣を一方の(左の)肩にかけて〔右肩をあらわして〕、師に向かって合掌し、次の詩を以て師に呼びかけた。──

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
月は……最上のものである――Bh G.X,21 参照。

修行僧の集い――saṃgha.音写して「僧」、「僧伽」という。五人もしくは五人以上の組織のある団体をいう。わが国で「一人の僧」などといって個々の僧侶をさしていうのは、原義からの転用であって、この場合には適合しない(cf.Dnp.190)。
 これはヒンドゥー教のほうで説いていたことが、たまたま仏典にすがたを現わしているだけで、その逆ではあり得ない。そのわけは、後代の仏典『提婆菩薩破外道小乗涅槃論』によると、右の所説はマータラ(Māṭhara)という外道の論師の所説となっているが、マータラは『バガヴァッド・ギーター』などを含む『マハーバーラタ』の編者ヴィヤーサ(Vyāsa)の別名であるからである。
以上註記より引用しました。

ここまでの詩句の内容は、結髪(有髪)の行者つまり在家の修行者であるケーニヤさんが、ブッダやブッダの弟子たちに食事の供養を行うことは、王・海・月・太陽のように最上であることであるということを示しています。

功徳くどくを望んで供養くようを行う人々にとって、サンガ(修行僧の集い)は最上であると述べられています。これは重要なことでありますが、今日はなぜ功徳を望み、供養を行う必要があるのかを考えてみたいと思います。

修行僧は修行に専念するわけです。当然に生産をしません。するとお腹が空くわけです。修行僧とて人間ですから食べなければ身体が衰えます。そこで何より有り難いのが、飲み物と食べ物です。その飲み物と食べ物を供養する。供養とは栄養を提供するというほどの意味です。それでまた修行に専念できるのです。

供養は食べ物だけとは限りません。身に纏う布を施すこともあります。これが本来の布施です。「無財の七施」と申しまして、財産でないものを施すことも優れた供養であり布施であります。たとえば「和顔わげん」という優しい顔も布施ですし、「愛語あいご」という優しい言葉をかけることも布施であります。

修行者に供養を施すことが功徳となるのは、仏の教えを弘め伝えていくための原則であります。お寺や托鉢のお坊さんに供養することが、そのまま功徳になります。そのままというのは、財法ニ施ざいほうにせと申しまして、互いに功徳を積むことなのです。事情によって在家に留まらざるをえない人々が財を提供し、出家して修行に専念できる人が法を提供するという両方向の「ニ施」なのです。

セーラさんは出家して怠ること無く修行に専念し、ほどなくして究極の境地に達しました。二度とどこにも生まれない聖者となりました。彼岸に至ったわけです。聖者となった人々も人間には変わりありません。それらの聖者に供養することは最大の功徳になります。功徳は善き処に生まれ変わるためです。地獄に堕ちないためです。かんたんに言えばそうなります。功徳を望むことは欲望ではありません。人間として当然ですし、それが正解であります。

今日の結論は

供養は双方向の功徳である。

スッタニパータ452

第三 大いなる章

〈3.みごとに説かれたこと〉

452 好ましいことばのみを語れ。そのことばは人々に歓び迎えられることばである。感じの悪いことばを避けて、他人の気に入ることばのみを語るのである。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
好ましいことば――piyavācā.漢訳仏典ではしばしば「愛語」と訳すが、愛情のこもったことばである。

以上註記より引用した。

この詩句を勘違いして、お世辞を言いながら相手に気に入られるように話す意味に解釈することもあろうかと思いますから、ちょうど註記に「愛語」が出てまいりましたから修証義の一節をここで引用しておきます。

修証義 第四章発願利生 愛語

愛語というは、衆生を見るに、先ず慈愛の心を発(おこ)し、顧愛の言語を施すなり。

慈念衆生(じねんしゅじょう)猶如(ゆうにょ)赤子(しゃくし)の懐(おも)いを貯えて言語するは愛語なり。

徳あるは讃(ほ)むべし、徳なきは憐れむべし、怨敵を降伏(ごうふく)し、君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり。

面(むか)いて愛語を聞くは面を喜ばしめ、心を楽しくす。

面(むか)わずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず、愛語能(よ)く廻天の力あることを学すべきなり。

廻天の力とは、人々に歓び迎えられるということです。天上の者いわゆる神々と天下の者すなわち人々に喜ばれる言葉を語りなさいといわれています。特定の人に気に入られるように話すこととは、大きく次元の違う内容です。たとえば叱咤激励というのは、相手が快く思わない言葉かもしれません。

「がんばりなさい。今は苦しいだろうが、切なくて辛くて、泣き出してしまいたくなるだろうが、くじけちゃいけない。誰にもつらいことはあるものだ。そんなときこそ自分を自分でほめてあげなさい。がんばっているから辛いんだ。頑張ってる証拠じゃないか。もう少しだけ我慢して耐えなさい。そのときに成長しているんだ。まっすぐ成長していくんだ」

わたしがかつてある人から一枚の詩のコピーを戴いた時のことを思い出します。

長い人生にはなあ
どんなに避けようとしても
どうしても通らなければ
ならぬ道てものがあるんだな

そんなときはその道を
黙って歩くことだな
愚痴や弱音を吐かないでな

黙って歩くんだよ
ただ黙って
涙なんか見せちゃダメだぜ

そしてなあ その時なんだよ
人間としての いのちの根が
ふかくなるのは

相田みつを氏の「道」という詩でありました。

寒中に 小春日和の 語り口 (月路)

昨日は久々の小春日和でありました。お寺の梅も膨らんできました。橋本まで買い物にいきましたが、どこもかしこも春のようなポカポカでした。人間つらいときは必ずあります。それを乗り越えると何でもないのですが、そのときは無性に腹立たしく思うこともあります。一時的なものにするコツというものもあります。ただそういうテクニックではなしに、辛さは辛さとして抱く、思い切り自分を抱きしめることも必要かと思います。辛抱です。いつかうちとけて良き仲になることもあると友から教えられました。愛語の力によって。

やはり人には愛情が必要です。自己と他己に対して。面と向って優しい思いやりの言葉を語り、陰で人の善いところをほめる。語り口には気をつけたいと思いますが、この度の嵐もようやく過ぎ去りました。何でもなかったことが幸いでした。

道

好ましいことばのみを語れ。そのことばは人々に歓び迎えられることばである。感じの悪いことばを避けて、他人の気に入ることばのみを語るのである。

スッタニパータ450

第三 大いなる章

〈3.みごとに説かれたこと〉

わたしが聞いたところによると、──或るとき尊き師ブッダはサーヴァッティー市のジェータ林、〈孤独な人々に食を給する長者の園〉におられた。そのとき師は諸々の〈道の人〉に呼びかけられた、「修行僧たちよ」と。「尊き師よ」と、〈道の人〉たちは師に答えた。師は告げていわれた、「修行僧たちよ。四つの特徴を具えたことばは、みごとに説かれたのである。悪しく説かれたのではない。諸々の智者が見ても欠点なく、非難されないものである。その四つとは何であるか? 道の人たちよ、ここで修行僧が、〔ⅰ〕みごとに説かれたことばのみを語り、悪しく説かれたことばを語らず、〔ⅱ〕理法のみを語って理にかなわぬことを語らず、〔ⅲ〕好ましいことのみを語って、好ましからぬことを語らず、〔ⅳ〕真理のみを語って、虚妄を語らないならば、この四つの特徴を具えていることばは、みごとに説かれたのであって、悪しく説かれたのではない。諸々の智者が見ても欠点なく、非難されないものである。」尊き師はこのことを告げた。そのあとでまた、〈幸せな人〉である師は、次のことを説いた。

450 立派な人々は説いた──〔ⅰ〕最上の善いことばを語れ。(これが第一である。)〔ⅱ〕正しい理(ことわり)を語れ、理に反することを語るな。これが第二である。〔ⅲ〕好ましいことばを語れ。好ましからぬことばを語るな。これが第三である。〔ⅳ〕真実を語れ。偽りを語るな。これが第四である。

そのときヴァンギーサ長老は座から起ち上がって、衣を一つの肩にかけ(右肩をあらわして)、師(ブッダ)のおられる方に合掌して、師に告げていった、「ふと思い出すことがあります! 幸せな方よ」と。「思い出せ、ヴァンギーサよ」と、師は言われた。そこでヴァンギーサ長老は師の面前で、ふさわしい詩を以て師をほめ称えた。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
みごとに説かれたこと――この教えは殆んどそのままのかたちで他の仏典(SN.ⅷ,5,Subhāsitā.vol.1,p.188f.)に出ている。漢訳相当経としては『雑阿含経』第一二一八経(大正蔵、二巻、三三二頁上)、『別訳雑阿含経』第二五三経(大正蔵、二巻、四六二頁中以下)などがある。

450 立派な人々――santo(MBh.Ⅻ,242,2参照).

以上註記より引用した。

1,善い言葉を語り、悪い言葉を語らない

今日からまた新しい節に入ります。このお経は全部で五句の短いお経ですが「善言経」と呼ばれ、言葉に関する修行の角目を端的に示されております。身口意三業(しんくいさんごう)といいますが特に言葉は気をつけなければなりません。内なる言葉によって外なる行いが生じ、全ての行為が全ての心と呼ばれるからです。まことに身の行いが口(語)に伴い意(こころ)となり、それが業(ごう)すなわち因縁となってまいります。怖いものです。

立派な人々とは、いわゆる「善人」のことです。言葉と行いが合致していて、善き言葉を語り善き行いをしている人が善人であります。善き言葉を語りながら、悪しき行いをしていれば、そもそも悪人どころか嘘つきであります。悪しき言葉を語りながらも、善き行いをしている人もたまにはいますが、へそ曲がりでしょう。何も難しく考える必要はありません。

2,理法を説き、道理に反することを説かない

理法については、今まで何度も学んでまいりました。あらためて申すまでもありませんが、ものごとの道理と法則です。当然と必然。誰が聞いてもなるほどと納得できるものかどうかです。事実の裏付けがあるかどうか、自己満足や独断偏見でないことです。この道理に反すること、道理にそぐわないことを説くな、語るなということです。

3,慈悲の言葉(愛語)で話し、冷たい言葉を出さない

愛語は優しい言葉という意味です。いたわり、ねぎらい、慈しみ、あわれみ。ともに励ましあい、ともに慰め合う。それが愛し合うことですが、どんな相手に対しても、どんな状況であっても自分からは優しい言葉を貫くことです。なかなかどうして、大変むずかしいことですが、これを努力することが修行です。決して冷たい言葉を吐かないこと。ときには黙って聞いてあげることも愛語であります。愛語の実力を信じてください。

4,真実を語り、嘘をつかない

真実とは何か。本当のことです。これは実は確かめられません。真実だと信じ切っていることでも、真実とは限りません。ですが、ここではそこまでの厳密な意味ではありません。本心、良心にしたがって本当のことを言うということです。嘘をつかない。事実を曲げないという意味です。

この四つともいわれてみれば、至極あたりまえのことを言っているようですが、ここで少し自分自身を振り返ってみますと、穴があったら入りたくなるほどの過去があります。いや、今日ももしかしたら嘘をつき、冷たい言葉を吐き、道理に外れたことを云い、悪い言葉を語っていたかもしれません。

我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋癡、従身口意之所生、 一切我今皆懺悔。(懺悔文)

きのうきょう あしたとてまた さんげかな (月路)

昨日、降りしきる雪の中をお寺から県道までの参道、階段、坂道、通路、橋を順次雪かきをしておりました。橋の上をかいている時に、橋の袂の警察犬訓練所のお兄さんが出てきて、一緒に除雪してくれ、二人で融雪剤(塩化カルシウム)を撒きました。一昨日は彼一人でやってくれたそうです。おたがいニッコリ笑いあって挨拶らしい挨拶もしなかったのですが、心は通じ合いました。重い塩カルの袋を彼が運んでくれ、私は撒くだけでした。あっという間に融けていく雪、降りしきる雪。なんか、こころの中まで融けていくようで、あったかくて、うれしくて、足は軽く、あの人はいい人なんだなあとか勝手に思いながら、ずぶ濡れになりながらも、気分は爽快でした。あしたもいい天気。雪でも構わない。明日もいい天気。

愛語

立派な人々は説いた──〔ⅰ〕最上の善いことばを語れ。(これが第一である。)〔ⅱ〕正しい理(ことわり)を語れ、理に反することを語るな。これが第二である。〔ⅲ〕好ましいことばを語れ。好ましからぬことばを語るな。これが第三である。〔ⅳ〕真実を語れ。偽りを語るな。これが第四である。

スッタニパータ275

第二 小なる章

〈6、理法にかなった行い〉

275 もしもかれが荒々しいことばを語り、他人を苦しめ悩ますことを好み、獣(のごとく)であるならば、その人の生活はさらに悪いものとなり、自分の塵汚(ちりけが)れを増す。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
荒々しいことばを語り――註にしたがって解した。(mukharajatiko=pharusavacano)

自分の塵汚れを増す――ジャイナ教でも同様にいう。(veram vaddhei appano.)

最初期の仏教においては、「出家」とは文字通り、家から出て家の中に住まぬことであったらしい。「家から出て家なきに至る pabbajito……agarasma anagariyam」という句は、古い仏典に現れてくるが、「家なき」というのは「農耕・牧畜などの家業を行わぬことである」と註解されている。(中略)ここで「家」(agara)という語は、家柄・家系・家庭の意味ではなくて、「家屋」「建物としての家」の意味に用いられるのがインド一般の通例である。原始仏教および原始ジャイナ教(中略)の古い経典では修行者を「家なき人」(anagara)と呼んでいる。古い仏典をみても、修行者は少なくとも一年のうちの或る時期には実際に家の中に住まなかったらしい。出家したあとのゴータマは一時王舎城のパンダヴァ山の山窟(girigabbhara)の中に坐していた。そうしてこのような生活が実際に修行者たちに勧められている。

以上註より抜粋して引用した。

 

他人を苦しめあるいは悩ますことを好む者は、獣のような性質であります。そういう人は自分で自分の首を締めるようなものであり、どんどん生活が悪化し、自己に付着する塵汚れが増すとされています。その先は申すまでもありません。悪道へと落ちていくのです。

この詩句での重要なポイントは「もしもかれが」という箇所です。誰でもそうなるのではなく、もしもという仮定であります。これは最悪の仮定です。ほとんどの人は自分はそうではないと思っているでしょうし、実際それほどの悪人はそうそういないのですが、人間貧すれば鈍すると言われるように、心が貧しくなるとそういったことにも気づかないでどんどん悪化していくものです。これは心の方向に問題があります。真に慈悲の心で行う言動は、たとえそれが荒々しい言葉であっても人を傷つけるものではありません。ところが優しい言葉であっても、その言葉の奥に嫌悪があれば、人は簡単に傷つきます。陰湿なイジメがそうでありますし、体罰と称するものの多くは傲慢であり嫌悪感情のなせるものでありましょう。

ただし極力荒々しい言葉、暴言を吐かないようにいつも注意することは最も大事です。言葉ひとつで人は傷つき、言葉一つで人は勇気づけられるものです。もう少しで危ないところを救われた、そうした救いの言葉、たかが言葉されど言葉であります。修証義に「愛語能く廻天の力あることを学すべきなり」とあります。まさに愛語の力は計りしれません。

道元禅師さまの御詠歌に「水鳥の往くも帰るも跡絶えて、されども道は忘れざりけり」とあります。水鳥たちの行ったり来たりの動きは水面にも空中にもその跡が残りません。しかしながらその往復の道を忘れることはありません。同様に私たち修行者の修行の跡は何も残りませんが、修行の道が消えることはございません。仏仏祖祖の残された道はしっかりと受け継がれていきます。それが日日の行持であり、仏道であります。

もしもかれが荒々しいことばを語り、他人を苦しめ悩ますことを好み、獣(のごとく)であるならば、その人の生活はさらに悪いものとなり、自分の塵汚(ちりけが)れを増す。

スッタニパータ266

第二 小なる章

〈4、こよなき幸せ〉

266 耐え忍ぶこと、ことばのやさしいこと、諸々の〈道の人〉に会うこと、適当な時に理法についての教えを聞くこと──これがこよなき幸せである。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
耐え忍ぶこと――khanti.khantiがmetreの関係でkhantiとなった。
ことばのやさしいこと――sukham vaco asmin ti suvaco,suvacassa kammam sovacassam,sovacassassa bhavo sovacassata.

諸々の道の人に会う――道の人samanaは、漢字で「沙門」と音訳するが、諸宗教を通じての出家修行者をいう。徳行の高い人に会えばおのずから自分が高められるから、そのことが勧められているのである。

適当な時に理法についての教えを聞く――適当な時に仏教の教えを聞くという意味である。古代のインド人や現代の南アジアの人々は、陰暦の半月の第八日および第十五に寺院に参詣して教えを聞くが、そのようなことをいったものである。現代の生活では、読書をしたり講演会に行ったりテレビで講話を聞くなどということがこれに当てはまるであろう。

以上註より抜粋して引用した。

この詩句の四つの角目は、在家信者のみならず出家修行者にとっても重要な要素であります。まずもって忍耐、つぎに愛語、そして師との出会い、さらに疑問点を尋ねること。いずれも最重要なことがらであります。一つひとつ見てまいりましょう。

最初の「耐え忍ぶこと」でありますが、忍辱(にんにく)と呼び、 六波羅蜜の第三番目で種々の侮辱や苦しみを耐え忍び心を動かさないことであります。侮辱や苦痛に耐えることは、昭和天皇の終戦の詔勅にある「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」というフレーズが実感としてわかりやすいのではないでしょうか。何でもないことに目くじらを立てるなどは愚の骨頂でありますが、たとえば「あの人がこういった、こんなことされた」ぐらいはへっちゃらでしょう。ところが、身内や知り合いに受けた仕打ちに対して胸が張り裂けそうになる出来事も実際には多々あります。他人事ではすまされない激震に襲われることもあるでしょう。そういう外圧と、内心にある起爆装置にスイッチが入るような場合、たとえばトラウマになっている過去の傷が疼きだす、発作をおこすこともままあるのが現実です。忍耐は内圧と外圧に負けないことです。耐えがたい外圧や忍びがたい内圧、いわばストレスやプレッシャーに負けない体力が必要なのです。「耐え忍ぶこと」そう申し上げる以外ないのです。怒ったら負けだと子供のころから教えられていますが、忍耐ほどはっきりした勝負はありません。真に勝つためには理法に照らした「大忍」で正々堂々と坐っていることです。決して坐して待つのではありません。「坐」の一字であります。自分と他人に負けない姿が「坐」であります。これは日頃の鍛錬がものをいいます。腹を立てず、腹と肝を据えるのが「坐る」という動詞の真骨頂です。「耐え難きを耐え、忍び難きを忍ぶ」唯一の具体的な方法であります。

つぎの「ことばのやさしいこと」は仏教一般に「愛語」と呼ばれています。和顔愛語(わげんあいご)とよくいわれておりますが、仲良くしたいために優しい言葉を向けるのではありません。もちろん嫌われたくないからでもありません。そういった虚飾ではなくして自然体としての愛語です。慈しみあわれむ心が根底にあってこその愛語なのです。小さな子供たちを見守るときの優しい言葉は、声の大小ではありません。危ない時にも小さな声をかけることではありません。やさしい心から発する声は、ことばがやさしいのであります。「危ないっ」「いそいで」「きをつけて」「ありがとう」「さようなら」。

さて沙門(しゃもん)とは出家修行者のことですが、お釈迦様は王子として城に在るとき、門から出て一人の修行者(沙門)の姿を見ます。これが出家の動機になったという逸話があります(四門出遊)。自分もあのように出家となりたいと思ったのです。仏縁というのはこうした出会いであります。出会いが人を変えることは道理であります。また善知識のことばを聞いて出家したひとが、さらに尋ねることが肝心です。質問するという謙虚な姿勢なくして向上ははかれません。独学の怖さは独善になりやすいからであります。これを増上慢といって仏道修行の中でもっとも忌み嫌われております。道元禅師様も 「丙丁童子来求火」の話をもってこれを強く戒めておられます。火の神の子供が火を求めてやって来る話です。

最後に「理法」です。もうこれはいうまでもありません。知ろうと知るまいと、善い悪いでもなく、好きであろうが嫌いであろうが、そんなことは人間の勝手な了見であります。この世には「理法」というものが確かにあるのであって、それを真理であるとか摂理とか名前をつけて呼んでおりますが、この理法についての教えを「仏法」とよんでおるわけです。教えは実行するためにあるのですが、折にふれて教えを聞く中に、必ず疑問が生じるのであります。それを自分で勝手に類推して確かめないでいると、それはもう仏法ではなくてその人の宗教になってしまうのです。自分さえよければいいとなってしまう。自由そうで良くみえるのですが、とんでもないことです。こんなことでは人間の数だけ宗教ができてしまう。現代はまさしくここが病巣であると思います。仏祖単伝のこの法をしっかり伝えなければならないと同時に、わが増上慢を強く戒めるものであります。

耐え忍ぶこと、ことばのやさしいこと、諸々の道の人に会うこと、適当な時に理法についての教えを聞くこと──これがこよなき幸せである。

スッタニパータ187

第一 蛇の章

<10、アーラヴァカという神霊>

187 適宜(てきぎ)に事をなし、忍耐づよく努力する者は財を得る。

誠実をつくして名声を得、

何ものかを与えて交友を結ぶ。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
適宜に事をなす――patirupakariとは、場所・時間などを逸することなく、世間的なあるいは超世俗的な財を、適宜に得させる手段を講ずることである(desakaladini ahapetva lokiyassa lokuttarassa vadhanassa patirupam adhigamupayam karotiti patirupakari.)
財を得る――だからここで「財を得る」というのは、宗教的な財でもよいし、世俗的な財でもよく、両者にかかわるのである。
何ものかを与えて交友を結ぶ――註釈家によると、四摂事によって友人をつくるという意味であるとも解し得るという。以下省略
以上註より引用した。

註釈の四摂事(ししょうじ)とは、四摂法(ししょうぼう)あるいは四恩(しおん)と呼ばれる仏教の基本原則のようなものです。これには「布施」「愛語」「利行」「同事」の四つの角目があります。

  1. 布施(ふせ、dāna)
    分かち合うこと。
  2. 愛語(あいご、piya-vācā)
    優しい言葉、気に入る言葉、心に訴える言葉。
  3. 利行(りぎょう、attha-cariyā)
    相手を利益する、為になる行為。
  4. 同事(どうじ、samānattatā)
      平等に接すること。

適宜に事をなすとは、キチンキチンとテキパキと為すべきことを為すことでありましょう。問題を先送りしたり、与えられた課題に真面目に取り組むことなどはいうまでもありません。これは道理であります。焦らず焦らさずコツコツと辛坊強く努力するものが、財を為さないはずがないのです。当然の前提であり必然の結果であります。

これらを貫く原理は「誠実」であるとブッダは説かれています。現代にも否これは不変の真理でありましょう。この誠実を尽くした人が「名声」を得るのであります。

「何ものかを与えて交友を結ぶ」とは、後世に四摂法と呼ばれて仏教の原則ともなる仲間づくりの基本的な見解を説かれたことと推察できます。文字通りの意味ももちろんですが、たがいに愛語と利行を与え、分かち合い、平等に接することが友情を育む基本であります。

かのブッダでさえ弟子に対して友と接するような姿勢と態度でありました。偉ぶったところが微塵もなかったのです。それゆえに弟子たちは心の底からブッダを慕い、ブッダの説かれた教えを実践することに邁進したのであります。

適宜に事をなし、忍耐づよく努力する者は財を得る。誠実をつくして名声を得、何ものかを与えて交友を結ぶ。