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スッタニパータ537

第三 大いなる章

〈6.サビヤ〉

537 上にも下にも横にも中央にも、およそ苦しみの報いを受ける行為を回避して、よく知りつくして行い、いつわりと慢心まんしん貪欲とんよくと怒りと〈名称と形態〉(個体のもと)とを滅ぼしつくし、べきものをた人、──かれを〈遍歴の行者ぎょうじゃ〉と呼ぶ。」

そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、座からち上って、上衣うわぎを一方の肩にかけ(右肩をあらわし)、師に向かって合掌がっしょうして、ふさわしい詩を以てのあたり師を讃嘆した。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
回避して――原文には parivajjayitā とあるが、これはここでは遍歴行者(paribbājaka)の通俗語源解釈とされている。

よく知りつくして行い――pariññacārī.pari√jñāは、或るものの本性を知るとともに、それを断ずる、という意味があり、ジャイナ教と共通である。

偽りと慢心と貪欲と怒り――ここに四種類の煩悩が挙げられているが、これはジャイナ教で説くところである。ジャイナ教では古来主な煩悩を、怒り(koha=krodha)、慢(māṇa=māna)、いつわり(māyā)、貪り(lobha)として挙げるのが通例である(中村『原始仏教の思想』下、三五七頁以下)。

得べきものを得た人――pattipatto ti pattabbaṃ patto ; yo caraṇanimittaṃ caraṇahetu caraṇapaccayā pattabhaṃ arahattaṃ patto ti vuttaṃ hoti(Pj.p.433 ad Sn.536).

以上註記より引用しました。

「苦しみの報い」とは業(カルマ)、悪業報のことです。造悪の者は堕ち。修善の者はのぼるという因果の道理であります。「上にも下にも」というのは「先にも後にも」と同じように過去にも未来にもということです。横にも中央にもというのは、現在とか今という意味です。時間の系列を、水が上流から下流に流れていくようにイメージすると当時の釈尊の説明が頷けると思います。今までも、そしてこれからも因果の道理というものをよく見極めて、過去の悪業を懴悔しつつ、微罪をも恐れて、わが心から貪瞋痴の煩悩を滅ぼし尽くす。そうして修行の目的たる解脱を得なさい。それが本来の遍歴行者なのだ。と、サビヤさんの20番目の(最後の)質問に端的に回答されています。その回答を受けてサビヤさんは最高の儀礼でブッダ釈尊に向かい立ち上がります。即従座起そくじゅうざき偏袒右肩へんだんうけん合掌向佛がっしょうこうぶつ。その場で真っすぐ立ってから右肩を現します。現在の僧侶のお袈裟の掛け方も右の肩を出します。そこで合掌して仏に向かいます。全てを聞き終わって、心は完全に晴れています。身体中に感激の電流が走り、熱いものがこみ上げてきたことでしょう。師に出会えた喜びです。

名称と形態(名色・個体の元)

私たちは認識の対象の色形に名前をつけて記憶します。たとえば父や母と聞けば、わが父を思い母を想うものです。好きな動物は?と問われれば可愛がっていた犬や猫を思い浮かべます。実は人それぞれの認識はよく似ているようで全く違うものです。 これを精神的な存在と物質的な存在といいます。認識の対象となるものの総称ですね。般若心経にある十二因縁(無明から老死まで)に、この名色みょうしきが出てまいります。ここでは深く入りませんが、たとえばご両親がすでに他界されていたとしましょう。ご生前を知る方は沢山おられますね。その人たちそれぞれの心にご両親の存在があるわけです。全員がそれぞれ全く違ったご両親を知っているのです。みんな呼び方が違うかもしれません。しかし口に出したその名は、いえ、その名を口にした瞬間に鮮やかに蘇ってまいります。身はすでに無くとも、その姿や声、しぐさ、顔の表情までも思い浮かべることができます。「お父さん」「お母さん」「父ちゃん」「母ちゃん」。子供のころに呼んでいた名をそっと口にするだけで、そこに存在されていることが身体でわかります。ブッダは「愛情」を滅ぼせと言われているのでは決してありません。冷徹な理論家になれと言っておられるわけではないのです。何より「慈しみ」が大事であると繰り返し説いておられます。わが両親を想い、家族を思うように、誰に対しても、いかなる存在にも、無償の愛、慈愛をもって接していこうと仰っておられるのです。まさしく時が存在であります。百年後には今の人類はほとんどこの世には存在していないでしょう。百年どころか明日の命さえ誰にもわからない。だからこそ出会いを、今日出会った全ての存在に対して敬意と愛情をもちましょう。これが愛嬌ならぬ愛敬あいきょうであります。

子を抱く燕の巣とて同じなり(月路)

先日には、燕の巣にも母鳥の卵を温めている姿が見られました。ときおりピーチクと母鳥の声がして振り向くと、屋根の上でじっと見守っている父鳥の姿。エサを運びながら、気が気でなさそうでした。昔聞いた短歌に、『ほろほろと、鳴く山鳥の声聞けば、父かとぞ思ふ、母かとぞ思ふ』というのがありました。「行基菩薩」の歌らしいのですが、ちょうど母が亡くなった直後のことでしたので、泣けてしかたなかったのを覚えております。ご先祖様の供養をするということは、これこれこういう理由があるのだといくら説教されてもピンと来なかったのですが、この山鳥の歌で、よく身に染みました。今日のこの山寺にも山鳥の声が聞こえてまいります。

上にも下にも横にも中央にも、およそ苦しみの報いを受ける行為を回避して、よく知りつくして行い、いつわりと慢心まんしん貪欲とんよくと怒りと〈名称と形態〉(個体のもと)とを滅ぼしつくし、べきものをた人、──かれを〈遍歴の行者ぎょうじゃ〉と呼ぶ。」

スッタニパータ182

第一 蛇の章

<10、アーラヴァカという神霊>

182 「この世では信仰が人間の最上の富である。徳行に篤いことは安楽をもたらす。実に真実が味の中での美味である。智慧によって生きるのが最高の生活であるという。」

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

信仰――saddha.
徳行に篤いこと――dhammo sucinno.
真実――saccam.
智慧によって生きる――pannajivim…
釈尊の成道直後の詩によると、「信仰(saddha)を捨てよ」ということを教えている。それは、ヴェーダ以来の祭祀・教学に対する信仰を捨てよ、というのである。しかしここではブッダの説いた真理、理法に対する信仰を説いているのである。信仰を意味する原語はいろいろあるが、saddhaというのは、理法、教えに対する信頼を意味するのであって、個人に対する熱狂的服従ではない〔このような教えは本書では遅い部分に現れてくる〕。以上註より引用しました。

  1. 真理・理法に対する信仰が最上の富である。
  2. 徳行に篤いことは安楽をもたらす。
  3. 真実が味の中での美味である。
  4. 智慧によって生きるのが最高の生活である。

この中で真実の美味というのは、味覚というより味わいと捉えたほうが分かりやすいと思います。たとえば真心をつくして行動した時の結果というものは、まことに実行したものにしか体験できない真実の味わいがあります。人に喜んでいただいたときや何か価値あるものを成し遂げたときに得られる果実もまた、真実(まことのみのり)であります。

また智慧の生活こそが最上の生活であると喝破していることも見逃せません。真理を知り、熱心に修行し、真実を味わい、深い智慧である「慈しみ」を貫くことが活き活きと生きる最高の日常であり生涯なのであります。

「この世では信仰が人間の最上の富である。徳行に篤いことは安楽をもたらす。実に真実が味の中での美味である。智慧によって生きるのが最高の生活であるという。」

スッタニパータ160

第一 蛇の章

<9、雪山に住む者>

160 雪山に住む者という神霊がいった、「かれは欲望の享楽に耽らないだろうか?その心は濁っていないだろうか?迷妄を超えているだろうか?諸々のことがらを明らかに見とおす眼をもっているだろうか?」

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

本日はお釈迦様の御誕生日です。花まつり、灌仏会(かんぶつえ)です。

欲望の享楽に耽り、その心が濁る

欲望には際限がありません。食欲、性欲、物欲、睡眠欲をはじめとする様々な欲望に苛まれ、その楽しみから抜け出せないどころか徐々に享楽の罠に嵌っていくと、本来は澄み切った透明な心がどんどん濁っていきます。そうなると何も見えなくなる。心の濁りは眼球の濁りで眼が見えなくなるように、あるがままの世界があるがままに見えなくなってしまうのです。そうして身近な大切なひとの優しい心遣いにさえ気づかない愚か者に成り下がっていきます。後世の仏教ではこれを「無明」と呼ぶようになります。闇の中に蠢いているようなものです。

迷妄を超えている

迷妄とは「物事の道理に暗く、考えが誤っていること。それによる心の迷い。」と辞書にあります。迷妄を超えるとは、物事の道理を弁えて迷いのない状態です。こころが鮮明であるということです。澄み切った眼をもっているからこそ、ものごとを透徹して揺ぎ無いのです。

 

諸々のことがらを明らかに見とおす眼をもっている

この詩句は同じ事を違う角度から問いかけているのです。欲望にとらわれていないから道理を弁えて迷いがなく、明らかに見通せるのであります。慧眼ということです。智慧の眼であります。正しい信念と言い換えてもいいでしょう。仏教が智慧と慈悲の教えといわれる所以であります。しかもこの智慧は大いなる優しさである慈悲の心すなわち「慈しみ」の後ろ姿なのです。かんたんに申せば「慈悲」と「智慧」は表裏一体です。

世界の、そして人々のありのままを姿を観れば、手を差し伸べずにはいられない、真っ暗闇の中の人々を助け出したい思いに溢れます。それが慈しみの心、ブッダの教えです。

「慈しみ」こそが仏教の真髄であり、あるがままを観る智慧をもつことは、教えを実行する、慈しみの実践のための必須条件といえます。

雪山に住む者という神霊がいった、「かれは欲望の享楽に耽らないだろうか?その心は濁っていないだろうか?迷妄を超えているだろうか?諸々のことがらを明らかに見とおす眼をもっているだろうか?」

 

 

スッタニパータ158

第一 蛇の章

<9、雪山に住む者>

158 雪山に住む者という神霊がいった、「かれは嘘をつかないであろうか? 粗暴なことばを発しないであろうか? 中傷の悪口を言わないだろうか? くだらぬおしゃべりを言わないだろうか?」

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
粗暴なことば――註釈にしたがって解した。
中傷の悪口――vebhutiya.註解に言う。
以上註より抜粋して引用した。

本詩と次詩もまた対をなして問答が繰り返されていきます。今回は言葉に関しての特集です。

①嘘をつかない②粗暴な言葉を発しない③中傷の悪口をいわない④くだらぬおしゃべりを言わない、以上の4つを確認しています。いかがでしょうか。

これには誰もが耳が痛いのです。普通の人々は平気で①嘘をつき②粗暴な言葉を発し③中傷の悪口をいい④くだらぬおしゃべりを交わすのであります。自分にとって都合の良いとか悪いとかの問題ではありません。これらの資質は人間性のうえでの善悪であります。人間性の悪い者が幸せに豊かに暮せるはずがないのです。人間性の善い者が不幸になっても貧乏であっても、少しも傷つかないのです。それは人間としての誇りです。崇高な人々は、自分に誇りをもっています。静かであって心が安らかで堂々と生きているのです。何も食べなくても、ただ水だけ飲んで、おいしいと満足する余裕であります。武士は食わねど高楊枝といった痩せ我慢ではありません。何も食べるものがなかったら、何とかしようと努力するのです。それまでは水を飲んでいたら大丈夫だという明るいこころです。そうなのです。生きものや人々に対する慈しみは、まずもって自己への慈しみからはじまります。自分を誰よりも大事にするが故に慈しみの心は育まれます。そうやって少しずつ弛まぬ努力をすることが向上のための努力です。

他人のこころと自分のこころを一つにはできないかもしれません。そういう無駄な努力を行わずに、自分のこころを一つにする。慈しみの心で満たす努力を続けていきましょう。今日の言葉の四つの戒めは、自分を縛るものではありません。自己を向上させる大事な道具だと思って積極的に身につけてまいりましょう。

雪山に住む者という神霊がいった、「かれは嘘をつかないであろうか? 粗暴なことばを発しないであろうか? 中傷の悪口を言わないだろうか? くだらぬおしゃべりを言わないだろうか?」

スッタニパータ157

第一 蛇の章

<9、雪山に住む者>

157 七岳という神霊は答えた、「かれは与えられないものを取らない。かれは生きものを殺さないように心がけている。かれは怠惰から遠ざかっている。目ざめた人(ブッダ)は精神の統一をやめることがない。」

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

昨日の質問(前第156詩)に対する満額回答であります。まったくそういう資質をもっている、ブッダという人は。問題ないと応えているのですが、なぜこのような繰り返し、リピートを行うのかといいますと、これは口伝だからです。一言一句正確にそのまんま伝えるための工夫ですし伝統的手法です。文字で書き写すよりも何千年と延々と正確に伝えていく口伝は人類の智慧の結晶ともいえるでしょう。キーボードであろうがコピペであっても間違えるのですが、お経を毎日のように唱える手法は、一言一句正確に伝わります。お寺で修行すればわかるのですが、だれかが少しでも間違えますとすぐに解りますから間違った方向に変わっていくことがないのです。

さて、今日はとくに「精神の統一」について再考します。「精神一到何事か成らざらん」ということわざがあります。これは朱子語類に「陽気の発する処、金石も亦透る、精神一到何事か成らざらん(天地間の陽気が発すれば、金や石も突き通してしまう。精神を集中して行えば、何事も成就できないことはない)」とあるのに基づくものです。精神一到と精神統一とは明らかに(漢字も)違うのですが、精神の集中を禅定と捉えていたり、いわゆる止観(サマタ・ビバサナ)瞑想がそのまま禅定(正定)とはいえません。もっと素直に、精神集中とか、瞑想のテクニカルなことよりも、精神の統一は心の統一であることを強調しておきたいと思います。

なぜこのことにこだわるかといいますと、禅というと何かことさらに別個の精神状態があるかのような、もっとはっきりいえば無心とか無念無想などといったわび・さびのような、禅寺の雰囲気、坐禅などのものものしい体系的なもので、この禅定というものを捉えていただきたくないのです。昨日も申し上げましたが、精神の統一と訳された「定」は心を一つにすることです。ブッダの教えは「慈しみ」で貫かれた教えであり、この慈しみを離れた教えは一つもないのです。

仏教の目的はただ一つ「慈しみ」です。仏教はそのための体系として「智慧と慈悲」を説き、そしてその具体的な方法として三学(戒・定・慧)があるのですが、そういう教理的なことよりも具体的な修行方法とか自身のあり方のほうが重要なのです。

集中して、今のこころを見つめ、慈しみ(大いなる優しさ)のこころに統一していくこと。慈悲の瞑想とか「やさしい気持ちになること」でも何でも言い方は何であれ、今の自分のこころに気づいてやさしい気持ち、幸せを祈るきもちにまとめていく、そういう慈しみの心に決めていく作業が「精神の統一」であることをお伝えしたいと存じます。それが最初期のブッダの教えであったと申し上げても決して過言ではありません。

七岳という神霊は答えた、「かれは与えられないものを取らない。かれは生きものを殺さないように心がけている。かれは怠惰から遠ざかっている。目ざめた人(ブッダ)は精神の統一をやめることがない。

 

スッタニパータ156

第一 蛇の章

<9、雪山に住む者>

156 雪山に住む者という神霊がいった、「かれは与えられないものを取らないであろうか? かれは生きものを殺さないように心がけているであろうか? かれは怠惰から遠ざかっているであろうか? かれは精神の統一をやめないであろうか?」

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

与えられないものを取らない。生きものを殺さない。怠惰から遠ざかっている。精神統一を行っている。すべて基本的な姿勢と態度であります。後代において戒律として徐々に箇条的に整えられるのですが、原始仏典では戒律というよりも生活身上(信条)といった色彩が強い感じがいたします。

「与えられていないものを取らない」というのは「盗まない」というよりも厳格です。盗むという意思に拘わらず、所有する権限がないのに、他人のものを手にしないということです。たとえば置き引きはもちろん盗みですが、だれのものか分からないからといって勝手に自分のものにしないことです。

「生きものを殺さない」というのは大変厳格なことであります。虫一匹殺さない、魚や鳥などを捕って食べない、家畜を飼わないことであります。ただし魚や肉を食べないということではありませんでした。すでに食肉となったものを頂きそれを食べることは問題なかったのであります。それは自らが殺していないからです。後代には肉食そのものも禁止されていきます。

怠惰から遠ざかることは、現実的な戒めであります。人が見ているところでの怠惰というのは普通ほとんどありません。そのような人は何かに囚われているか病的なことでありますから医師や臨床心理士など専門家の診察と治療が必要です。問題は誰も見ていないところでの怠惰です。これによって人生や人が決まると申し上げてよいでしょう。積極的な毎日の努力なしにこの怠惰から遠ざかる術はありません。

精神の統一、後に禅定と呼ばれることとなるこのメニューは、坐禅や瞑想といった外観のことではありません。ブッダは心を統一しなさいと教えられているのです。静かに姿勢を整えてリラックスした状態で、慈しみのこころをまとめていく作業です。生きとし生けるものが幸せであるようにと、ただその一念に心を統一することなのです。すべては慈しみのために思い感じ考え観じていくことなのです。

このようにブッダの教えは、非常に前向きな生き方、もっとも優しい姿勢、自分に厳しく公正であるといった成功の条件でもあるといえます。戒律といった消極的な捉え方ではなく、ブッダのように「立派な心」を持とうという積極的な捉え方をすれば、仏教がもともと明るい宗教、前向きな哲学であったことを知ります。

「人の心を照らす教え」それが仏教の醍醐味でありましょう。

雪山に住む者という神霊がいった、「かれは与えられないものを取らないであろうか? かれは生きものを殺さないように心がけているであろうか? かれは怠惰から遠ざかっているであろうか? かれは精神の統一をやめないであろうか?

スッタニパータ152

第一 蛇の章

<8、慈しみ>

152 諸々の邪まな見解にとらわれず、戒を保ち、見るはたらきを具(そな)えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
前略
見るはたらき――dassana.洞察する直感をいう。
再び母胎に宿ることがないであろう――na hi jatu gabbhaseyyam punar eti.もはや、迷いの生存にもどることはないであろう、の意。註には、「かれは浄居天(Suddhavasa,pl.)に生まれて、そこでアラハーの境地に達してニルバーナに入る」と解するが、これは後代の解釈であろう。以上註より抜粋して引用しました。

今日でこの「慈しみ」の節は終りますが、この「慈しみ」を抽出して「慈しみの経」として独立させても充分仏教は伝わると存じます。それほど重要なお経でありますから、他は読まずとも知らなくとも、このお経を実践すれば覚りを得ます。ブッダがそう仰っておられるのですから間違いありません。慈しみを「慈愛」と呼んでも差し支えないかと思います。

愛着が愛の全てではありません。妻を娶り子供を授かった親であるならば誰もが体で分かっていることです。仏陀も人の親であり、夫であり、子であったのです。そういう人間らしい生活の中から、国を捨て、父の期待を裏切り、母の悲しみを背に、最愛の妻と息子を置いて、出家の道を選んだという覚悟こそを知るべきです。

究極の愛、無償の愛こそが慈悲であり、慈愛であると申しておきましょう。

諸々の邪まな見解にとらわれず、戒を保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。

 

スッタニパータ151

第一 蛇の章

<8、慈しみ>

151 立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。
この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
崇高な境地――brahmam viharamを漢訳では多くは「梵住」と訳す。(中略)「崇高な境地」として、後代の仏教では、慈、悲、喜、捨(=心の平静)の四つを数える。それを「四梵住」という。ところが、ここでは「慈」についてのみ述べている。四梵住の観念のでき上がる前の段階のものであることが解る。
以上註より抜粋して引用した。

あの世ならいざ知らず、とは書いてありませんが、わざわざ「この世では」と断って、生きている限りは、慈しみの心遣いをしっかり保った崇高な境地に至れと説かれているのであります。このように最初期の仏典、すなわちブッダの本来の教えには、仏教独自の用語など一切ないのです。およそ仏教用語などは全て後世の人々の概念の整理上作られた造語であり、都合のいい言葉に過ぎないのです。本質は、仏教の実践です。知識がいくら増えても、肉が増える、体重が増加するだけの話で肥満であり、欺瞞であります。

この慈しみの章だけを知った人でも充分覚り(崇高な境地)に至ります。そのような身の行いを続ければいいだけです。何も難しいことはありません。夜寝ているとき以外は、目ざめているときは、いつも慈しみのこころでいる、ただそれだけです。

知っていてもやらない、実行しなければ教えは何の意味もないのです。万巻の書を読もうが仏教教理に精通しようが、そんなものはプロやマニアあるいは学者や研究家に任せておけばいいのであります。わたしたちにできることで、やるべきことは、無量のやさしさ(愛)のこころを保ち続けることだけであります。

立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。

スッタニパータ150

第一 蛇の章

<8、慈しみ>

150 また全世界に対して無量の慈しみの意(こころ)を起こすべし。

上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
障害なく――asambadham(=sambadhavirahitam,bhinnasiman ti vuttam hoti,sima nama paccatthiko vuccati).場所に関しても限界を設けることなく、分け隔てをしないことである。以上註より

この詩句は丁度スッタ・二パータの150番目に当りますから、ぜひ憶えておきましょう。なぜならブッダの布教姿勢を端的に言い表しているからであります。まず全世界に対してと宣言されています。2500年前のインドの一地方において堂々と全世界に無量の慈しみの意を起すべしとあります。

さらに上に下に横にというのは世間の身分や年齢の上下、地位や立場に関係なく、だれに対しても、どのような存在(動物だろうが植物だろうが)であっても、時間や空間さえも超えて過去の様々な思い(怨み・憎しみ・敵意等々)をもつことなく、慈しんでいくべしであります。

こういう姿勢の原則からブッダ成道の35歳より入滅の80歳に至るまで、ずっと旅されていました。まさにブッダの旅は慈しみの旅であったわけであります。

あるときブッダはある村をもうそろそろ出て旅に出ると仰られました。その時むらの者たちはこぞって何度もお留まり頂くようお願いしましたが、ブッダの決意は固く出発の準備をされていました。そこへ一人のスードラ(奴隷の身分)の小さな娘が「わたしがお願いします」と申し出たのですが、むらの者たちは、長老たちがお願いしても無理なものをお前がと笑っていました。その娘はブッダの前に額ずくと「私は五戒を守ります。どうか残って教えをお説き下さい」と。ブッダはそれからまた暫らく滞在されたとのことです。

わたしはこの話を最初聞いたとき涙が止まらず、いまこうして思い出しながら書いていますが涙が止まりません。お話の詳細は覚えていませんが、五戒を守るという心に、ブッダさえも心が動き、そして2500年の後までも時間と空間を超えて、ブッダの慈しみが伝わっているのであります。この慈しみを多くの方々に伝えたい、その一心であります。

また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを行うべし。

スッタニパータ149

第一 蛇の章

<8、慈しみ>

149 あたかも、母が己が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
無量のaparimana.それは無量の生きものを、念ずる対象(よりどころ)とすること(aparimana-sattarammana)である。以上註より抜粋

無量には四無量心と呼ばれる分類があります。すなわち「慈・悲・喜・捨」でありますが、ここでは慈しみのことです。慈しみを現代の日常語で申せば「やさしさ」でありましょう。それも母が最愛のわが子を必死に護る力強い優しさであります。やさしく強い母は子供を命をかけて守るのです。その強き優しい心を一切の衆生に対して起す、のちにこのことを漢訳で「発菩提心(ほつぼだいしん)」略して発心と呼ぶようになります。発心とはまた仏弟子となることをも意味します。ブッダの弟子は、時間と空間を超えて、一切の生きとし生けるものに対して無量の心を持つことが求められます。否、どのような人や生き物に対しても幸せであることを願う、こころやさしき者たちこそが、立場や持ち場が違っても「ブッダの弟子」といえるでしょう。(たとえ宗教が違っても心と行いが同様であれば。)

あたかも、母が己が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし。