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スッタニパータ488

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

488 尊い師は答えた、「マーガよ。施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人が、この世で他人に飲食物を与えるならば、まさに施与を受けるにふさわしい人々とともに目的を達成することになるであろう。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

施与を受けるにふさわしい人々とともに――この人々とはブッダをはじめとする供養に値する人々、つまり解脱し聖人(阿羅漢)となった人のことです。

目的を達成することになる――福徳(功徳)になるということです。ささげた供物が清いものとなる、つまり供物は無駄にならないで尊い価値あるものとなるといった確認です。

福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人

施しの求めに応ずる在家の施主。前の句において、ブッダは「誰であろうとも、実に、与える人、施主であり、寛仁にして、施しの求めに応じ、正しい法によって財を求め、そのあとで、法によって獲得して儲けた財物を、一人にも与え、さらにつづいては百人にも与え、さらに多くの人にも与える人は、多くの福徳を生ずるのである。」と在家の施主を定義されています。

ここで重要なことは「施し」というのは、誰が求めてきたものであっても、惜しむことなく慈愛をもって与える行為であるということです。そういう人が施主であり、在家として善良な行為であります。世の中には貧困にあえぎ生活に困っている人がたくさんいます。自らが正当な手段で得た財産を分け与えることは誠に尊いことです。神社や寺院にお供えやお布施をすることだけが施しではありません。

この世で他人に飲食物を与えるならば。この世で善なる行い、善行をなしたものは善きところに生まれ変わる。これは未来永劫に変わらぬ理法です。他人に飲食物を与えることは、すばらしいことであります。福徳を求め福徳を目指すとは、同じことを繰り返しているようですが、「福徳を求める」は他者に対する思いやりの心であり「福徳を目指す」は己に対する志であります。思いやりと志をもって「供物をささげる」つまり供養している人が、その目的であるところの善所に転生すると述べておられるのであります。

マーガ青年とブッダの会話

二人の会話は続きます。この会話を眺めているとお互いの言葉をそのまま受けて、いわばオウム返しのように語っています。これは古代インドであっても現代日本においても人間関係のみならず会話の中身の確認になります。受け取り間違いのないかどうかの確認でもありますが、さらに肝に銘じる記憶の手段としても有効です。

それはさておき、ここでマーガ青年は一つの疑問を抱きます。それは彼がこの段階では「施与を受けるにふさわしい人々」とは、いったい誰であろうと思ったのです。これが次のマーガさんの質問になっていきます。会話は互いに質問と回答によって成り立ちます。話し上手は聞き上手。聞き上手は質問上手。質問上手が話し上手、と言われます。仏典はまさにこのような会話形式で語り伝えられています。

最優秀賞アニメで決まる時世かな『月路』

映画業界の力関係を越えて「この世界の片隅に」が今年度の日本アカデミー賞の最優秀アニメーション作品賞に輝きました。業界もさすがに名作を無視できなかったのではないでしょうか。ただし監督やスタッフの中に主演声優ののん(本名:能年玲奈)ちゃんの姿は見えませんでした。あれほどの功績を残しながら未だ芸能界から干され続けておりNHK以外の民放テレビでは顔も声も名前も出てきません。旧事務所の無言の圧力というか旧事務所に遠慮?忖度?している様子が伺えます。「あまちゃん」の時からなかなかどうして若いのに大したもんやと思って応援してきただけに残念です。ホンマに。

尊い師は答えた、「マーガよ。施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人が、この世で他人に飲食物を与えるならば、まさに施与を受けるにふさわしい人々とともに目的を達成することになるであろう。」

スッタニパータ263

第二 小なる章

〈4、こよなき幸せ〉

263 施与と、理法にかなった行いと、親族を愛し護ることと、非難を受けない行為、──これがこよなき幸せである。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
施与――贈与と言いかえてもよい。物質的なものであってもよいし、精神的、無形のものであってもかまわないが、他の人々に何ものかを与えることによって、人々を助けることができるのである。”自分のものだ”と言ってにぎりしめるのではなく、他人に何かを与えるところに人生の深い喜びがあるのではないだろうか。

以上註より引用した。

「理法に適った行い」とは、自然体であるばかりではなく、慈悲の心から為す一切の行為を指すものと考えられます。人々を慈しみあわれむ優しい気持ちが「施与」という奉仕(無償の行為)となってあらわれ、家族や親族を愛し守ることにつながり、決して非難を受けることのない行為として不朽であります。俗に「情けは人のためならず」と申しますが、見返りを求めてする行為は他人も自分も気持ちの良いものではありません。そういう打算をこえて、善きことと思ったことを、ただ素直に行う中に何ものにも代えがたい深い喜びがあります。暑い中にひとしきり汗をかいて、誰にほめられるでもなく、黙々と作務に親しむこともまた、こよなき幸せであると。きっとブッダも人々や神々の幸せを考えた時に、そういう感慨をもたれたのでありましょう。

幸せは何も出家しなければ得られないというものではありません。在家であっても神々であっても幸せであることは可能であります。しかしながら幸せである行為を続けていることは、また非常に困難であることも事実であります。それは思わぬ出来事に必ず遭遇するからであります。平常が続かない、言い換えれば「無常」であることに誰もが気づくことになります。それが老病死であり、生きることの本質的な実態であります。そうした時に人々は救いを求めます。「衆生済度」の願い(誓願)をもって救いに立つ生き方を「出家」と申します。自未得度先度他、上求菩提下化衆生の道を選ぶのであります。

施与と、理法にかなった行いと、親族を愛し護ることと、非難を受けない行為、──これがこよなき幸せである。

スッタニパータ241

第二 小なる章

<2、なまぐさ>

241 梵天の親族(バラモン)であるあなたは、おいしく料理された鳥肉とともに米飯を味わって食べながら、しかも<わたしはなまぐさものを許さない>と称している。カッサパよ、わたしはあなたにこの意味を尋ねます。あなたの言う<なまぐさ>とはどんなものなのですか。」

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
梵天――brahman.世界を創造した主神として当時の人々から尊崇されていた。
梵天の親族――「梵天の親族」(brahma bandhu)といったわけは、「汝はバラモンとしての徳を欠いていて、ただ生まれのみのバラモンである」といって嘲っているのである。
汚れた(なまぐさい ama-gandha)物を受けてはならぬ、ということをジャイナ教でも教えている。それは恐らく施食として受けてはならぬという意味であろう。ただ「汚れた」(ama-gandha)という語の意味をジャイナ教では物理的生理的な意味に解していたのに、仏教ではそれを精神的な意味に解したのである。

以上註より引用した。

ティッサという異教徒のバラモンは、さらに突っ込みます。生臭の解釈をめぐってどうにも我慢ならなかったのでしょう。修行者(求道者)であるバラモンのカッサパ(迦葉)が、常日頃「私は生臭を許さない」と言っているのに、鶏肉料理とご飯を味わって食べているのはどうした訳だと詰問しているのです。修行者にとって生臭とは何かと質問したと言っても良いでしょう。とにかく「生臭」な奴め、どうだと鬼の首でも取ったような気分だったかもしれません。

仏教の僧侶(修行者)は食物であれ衣類であれ住む場所であれ、物理的な施し物を有り難く頂きます。布施を断らないのが原則です。所有とすることではなく、飢えをしのぎ肌を覆い雨露を避けるために、また供養者の功徳であると同時に施与されるに値いする修行を行うためであります。それ以上でも以下でもありません。財(たから)と法(教え)は共に布施(施与)であります。

道元禅師様は「一句一偈の法をも布施すべし、此生佗生の善種となる。一銭一草の財(たから)をも布施すべし、此世佗世(しせたせ)の善根を兆す。法も財なるべし、財も法なるべし、但彼が報謝を貪らず、自らの力を頒(わか)つなり、舟を置き橋を渡すも布施の檀度なり、治生産業もとより布施に非ざること無し。」との言葉を残されています。

ここで重要な事は報謝を貪らない、すなわち見返りを求めない期待しないことであります。これを教えたのだからとか、これを差し上げたのだから等は以ての外です。社会の人々が食べるためとか自分の生活のためと称して、実際に社会のだれかのために一所懸命働いていることも施与であり、立派な「布施」であります。

つまるところ、物の値打ちではないのであります。供養する人と供養を受ける者との気持ちと心なのです。小さな子供さんが自分のお小遣いの中から紅葉のような手を合わせてお賽銭を入れる功徳は真に計り知れないものであります。「財法二施、功徳無量、檀波羅蜜、具足円満 、乃至法界、平等利益」(ざいほうにせ、くどくむりょう、だんぱらみつ、ぐそくえんまん、ないしほっかい、びょうどうりやく)

梵天の親族(バラモン)であるあなたは、おいしく料理された鳥肉とともに米飯を味わって食べながら、しかも<わたしはなまぐさものを許さない>と称している。カッサパよ、わたしはあなたにこの意味を尋ねます。あなたの言う<なまぐさ>とはどんなものなのですか。」

スッタニパータ227

第二 小なる章

<1,宝>

227 善人のほめたたえる八輩の人はこれらの四双の人である。かれらは幸せな人(ブッダ)の弟子であり、施与を受けるべきである。かれらに施したならば、大いなる果報をもたらす。
この勝れた宝は<つどい>のうちにある。この真理によって幸せであれ。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
八輩の人〔四双の人〕――仏教の聖者の位を、預流、一来、不還、阿羅漢という四つの聖位に分つ。これを四双(cattari yugani)という。四双一々を、その一々に向って進みつつある位(向 magga)と至りついた境地(果 phala)とに分つから、全部で八つの位があることになり、合わせて八輩(attha puggala)という。

幸せな人――原語はSugataで、仏のことをいう。漢訳仏典では「善逝」と訳す。

ブッダの弟子たちは、修行の進み方に応じて四つの段階に分れ、その一つ一つの段階がさらに二つに分れるから、四くみ(四双)で八種類の人(八輩)となるのである。こういう段階説は、同じ『スッタニパータ』のうちでも古い部分(第四章 Atthaka-vagga' 第五章 Parayana-vagga)には見られない。教義が或る程度整った段階で現れたのである。

 以上註より引用した。

覚りの階梯(修行段階)・・・四向四果

預流向(よるこう)
預流果(よるか)
一来向(いちらいこう)
一来果(いちらいか)
不還向(ふげんこう)
不還果(ふげんか)
阿羅漢向(あらかんこう)
阿羅漢果(あらかんか)・・・「応供」(おうぐ)ともいう。

ブッダの弟子たちは、ブッダが説かれた教えを後世に伝えるために「サンガ」漢訳で僧伽を形成していきます。これが本詩での「つどい」に相当します。教えの内容を正確に伝えるために韻文形式で韻を踏んだ詩偈の形にして伝えたものです。今でもお坊さんはお経を諳んじてお唱えすることがあります。一つ間違えば自分でも気づきますが他の人も直ぐ分かります。唱和することは何千年も同じ言葉を伝えるのに好都合であります。今のように電磁記録であっても一瞬で消えて無くなるかもしれませんし、紙媒体では百年持てば最高でしょう。人から人へサンガの中にあって守り伝えてこれたことは奇跡的でありますが、お坊さんはよく知っています。伝える技術というか仕組みを。

善人のほめたたえる八輩の人はこれらの四双の人である。かれらは幸せな人(ブッダ)の弟子であり、施与を受けるべきである。かれらに施したならば、大いなる果報をもたらす。
この勝れた宝は<つどい>のうちにある。この真理によって幸せであれ。

スッタニパータ217

第一 蛇の章
<12、聖者>

217 他人から与えられたもので生活し、[容器の]上の部分からの食物、中ほどからの食物、残りの食物を得ても、(食を与えてくれた人を)ほめることもなく、またおとしめて罵ることもないならば、諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
上の部分からの食物――瓶から最初に取り出した食物。
中ほどからの食物――中ほどまで取り出された瓶から取り出した食物。
残りの食物――瓶の中に一匙か二匙か残っているのを取り出した食物。
おとしめて罵る――nipaccavadi (=dayakam nipatetva appiyavacanani.).
以上註より引用した。

他人から与えられたもので生活するというのは出家者の本来の姿であります。自ら生産をしないのが大原則です。托鉢(たくはつ)と申しまして朝から家々を回って食(じき)を乞うのであります。これを乞食行(こつじきぎょう)と申します。鉄鉢を片手に村々を回ると在家の方々が鉢(はつ)を満たしてくれます。これを寺に持ち帰り皆で分けて頂くのです。また着るものは布施された布を用いて三種類のお袈裟といたします。これを三衣一鉢(さんねいっぱつ)と呼んでいます。

現在の日本でも一部で托鉢は行われておりますが、ほとんど応量器という鉄鉢に因んだ漆塗りの鉢にお金を受け取ることが多いと思います。これも布施として有り難く頂戴しております。金額や食物の質と量にかかわらず黙って受け取ることが習わしです。これは食を与えてくれた方の功徳となるとされています。供養というのは供え養うと書きますが、仏道修行者に供養することは、また布施をするということは、「施与」という在家者にとっての大きな功徳になるとされているからであります。

もちろん供養、布施に値しない者がこれを受け取ることは大変な罪であります。修行をしてもいないのに修行者と名乗り、応供(おうぐ)といって供(く)に応じることは最も恥ずかしく愚かで悪道に落ちる原因となります。所謂似非僧侶には気をつけて頂きたいと存じます。

ここでは食を受け取る順番や中身には一切頓着することなく、供養者に対して平滑に扱うこと、すなわち褒めたり罵ったりしないことが強調されております。現代でも仏家には布施を受け取るときの態度として慇懃(人に接する物腰が丁寧で礼儀正しいこと。)であることが伝えられております。

布施する側にしてみればもっとペコペコと頭を下げてほしい、もっと感謝してほしいなどと思われる方もいるかもしれません。また受け取る側はなんだこれっぽっちかと憤慨する輩がいないとも限りません。慇懃無礼な奴だとか、僧侶を何だと思っているのかなどと考え違いも甚だしいものがあります。それを予め見越した本詩であると思えてなりません。

他人から与えられたもので生活し、[容器の]上の部分からの食物、中ほどからの食物、残りの食物を得ても、(食を与えてくれた人を)ほめることもなく、またおとしめて罵ることもないならば、諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。

 

スッタニパータ191

第一 蛇の章

<10、アーラヴァカという神霊>

191 ああ、目ざめた方がア-ラヴィーに住むためにおいでになったのは、実はわたくしのためをはかってのことだったのです。わたしは今日、何に施与すれば大いなる果報が得られるかということを知りました。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

ブッダは、アーラヴィの神霊の住居に住んだときに神霊からとがめられるように詰問を受けています。アーラヴァカという神霊にしてみればまさか自分のために住みに来たとは思ってもいなかったのでありました。

さて、神霊は「四種の徳」である誠実・自制・施与・忍耐のうちの施与が具体的に何を指すのかに気づいたのです。それはブッダ自らがわざわざお越しになって、こうして大いなる果報を得る方法を教えてくれた。しかも自然な問答という形で私が最も知りたかったことをズバリ教えてくれた。では私がすべきは何かといえば、これはもう決まっているではないか、私もブッダのようにこの素晴らしい真理(仏法)を伝えていくことであると、こう確信をしたのであります。

布教という言葉がありますが、現代日本では怪訝な目でみられることも多いかと存じます。自分だけやっていればいいんじゃない?人に迷惑かけないでといった雰囲気が大勢を占めているかもしれません。さまざまな邪な教えがはびこっているのは古代から現代まで変わらぬ事実でしょう。いろいろな誹謗中傷にただ黙って耐えるしかないときもあるかもしれません。そのようなときでもこの四種の徳を思い起こすのです。誠実・自制・施与・忍耐。

ブッダの偉大な教えを何としても人々に伝えたいとの熱い思いから、しかも自らの欲望・感情をおさえつつ、人々に対して自らのできることを精一杯行い、どのようなことがあっても決して心挫けることなく耐え忍ぶこと。

この詩句を聞いた人々は、我が事として多いに歓喜し、自らの生き方の指針としたことは言うまでもありません。

ああ、目ざめた方がア-ラヴィーに住むためにおいでになったのは、実はわたくしのためをはかってのことだったのです。わたしは今日、何に施与すれば大いなる果報が得られるかということを知りました。

スッタニパータ189

第一 蛇の章

<10、アーラヴァカという神霊>

189 もしもこの世に誠実、自制、施与、耐え忍びよりもさらに勝れたものがあるならば、さあ、それら他のものをも広く<道の人>、バラモンどもに問え。」

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉

自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
ここに教えらている徳目は叙事詩に出ている。

(Vedasyopanisat:satyam satyasyopanisad damah damasvopanisan moksa etat sarvanusasanam)

遡るとウパニシャッドのうちに説かれている。――atha yat tapo danam arjavam ahimsa satya-vacanam iti,ta asya daksinah.以上註より抜粋しました。

前句と同様に「四種の徳目」を別の表現で説かれたものであります。もういちど列記して整理を試みます。

1 誠実

2 自制

3 施与

4 耐え忍び(堅固)

この徳目以外にさらに勝れたものがあるならば、広く問いなさいと、自分で調べて確かめなさいと言われます。なぜならブッダはこれ以外にはないとご自身からは言明されないのです。じつは神霊は、その必要はありませんと答えるのですが、押し付けをしないで本心から得心したかどうか自主性を重んじるのであります。換言すれば徳目とは「得心」の内容です。本人がすっと心に落ちるものでなければ、ただ善いお話を聞いてハイそれまでよ、ではまことに勿体無いと存じます。現代であれば自分で紙に書いて壁に貼っておくぐらいの、そのうち諳んじるほどに大切な「心のお守り」としたいものです。日常にこの四つの角目を得心いたしましょう。これを四種(ししゅ)の徳目と申します。(現代風に申せば)「在家の成功原理」と申しても宜しいかと存じます。

もしもこの世に誠実、自制、施与、耐え忍びよりもさらに勝れたものがあるならば、さあ、それら他のものをも広く<道の人>、バラモンどもに問え。」

スッタニパータ188

第一 蛇の章

<10、アーラヴァカという神霊>

188 信仰あり在家の生活を営む人に、誠実、真理、堅固、施与というこれら四種の徳があれば、かれは来世に至って憂えることがない。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
信仰あり在家の生活を営む人に――saddhassa gharam esino.(中略)
真理――原語はdhamma.ここでそれが何を意味するのか、よく解らない。註は第186詩の「教えを聞こうとする熱望によって智慧を得る」ことを言うのだと解する。しかしどうも適合しない。次の詩句に出てくる「自制」(dama)がここでdhammaと書き換えられたのだと解すると、第188詩と第189詩はうまく相応する。

「四種の徳」の解釈をめぐっては、様々に論評することができますが、ここでは推察ではなしに文字通りの意味で受け止めておきましょう。在家の生活では、何が最も重要であるかを分かりやすく説明しています。

第一に誠実であること。これは日本語では「まこと」という言葉が直感的に馴染むのではないでしょうか。まことを尽くして事に当たるということです。

次に真理ですが「自制」に置き換えると「忍耐」の意味にも取れます。この世が苦である以上、一にも二にも忍耐・辛抱の連続、一生楽はない、今を喜ぶことが悟り、すなわち真理といえます。

堅固は身持ちが堅いという意味の徳分であります。フラフラしない、右顧左眄しないということです。右往左往もしない真っ直ぐな生き方といった徳分です。

施与とは、自分に出来ることを、社会のためになることを進んで行うという徳目です。布施という言葉でも説明されますが、ここでは仲間内のみならず広く施しを行うことです。

この詩句でもっとも肝心な点は、来世にも憂いがないと保証されていることです。在家の人には後生があるのです。あの世に生まれ変わっても幸せであるための徳を今生で積みなさいと説かれているのであります。

信仰あり在家の生活を営む人に、誠実、真理、堅固、施与というこれら四種の徳があれば、かれは来世に至って憂えることがない。