タグ別アーカイブ: 普勧坐禅儀

スッタニパータ516

第三 大いなる章

〈6.サビヤ〉

516 全世界のうちで内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し、この世とかの世とを厭(いと)い離れ、身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人、──かれは〈自己を制した人〉である。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

どうしたら比丘は自制できるか。サビヤさんの三番目の質問に対して、ブッダは感覚器官を修養しなさいと言われています。この感覚というのは、外面的な五官により内面的な五感がもたらされるので、そこに意識を向けて修行しなさい、それが心の修養つまり心構えであり、現実的な対応だということです。もっと簡単にいうと、目や耳に入ってくる情報に好き嫌いの感情が生じます。これは好ましいとか好ましくないとか、あるいは快・不快といった気持ちのことです。この気持ちを冷静に観察するのです。すると「好き」が貪欲となり「嫌い」が怒りにつながっていく様子がはっきりします。また「どうでもいい」と無関心でいると虚無に陥ります。ではどうしたら良いかといえば、ここが修養、修行の要ですが、黙って「全て妄想」であると気づくことです。感覚に実態はないというしっかりした心構えがなければ、そのまま感情に流されていきます。その感情の激流に流され溺れれる前に、激流を渡るのです。どのように渡るか。空を知ることです。色即是空。目に見えるもの、耳に聞こえるもの、臭覚、味覚、触覚の感覚の全ては空であり、それによって思うことは全て妄想であり、実態のないものであり、とらわれるものではないという真理を実行するのです。今までに学んだ仏法が現実の生活の中で活かされなければ、ただのお話です。他人事です。いつまで経っても自分事になりません。を積極的に意識する。それは虚無ではありません。キーワードは色即是空。それが般若の智慧です。般若心経のなかの中心です。

身を修めて

このを身体で知り覚えるのが坐禅です。いつも背筋を伸ばしている。これは無意識になるまで訓練が必要です。姿勢や態度に気を付けていると、余計なことを思わず考えずにおれます。妄想が少なくなるのです。道元禅師が著した「普勧坐禅儀」を読むとよく分かるのですが、徹底して姿勢に注意することが事細かに述べられています。坐禅中に無心になるにはどのようにすれば良いかではありません。もうそういうレベルは超えましょう。ただただきちんと坐る。正身端坐といいますが、まさに身を正す以外無いのです。何か考えたらそれは余計なこと。妄想しそうになったら背筋を伸ばすのであります。これは道場以外の場所でもすぐに出来ます。首筋に意識を向けることです。なんにも考えないということは、身体の芯が真っすぐにならないと実現できません。そういうのが心構えです。この世とかあの世とか、そういうものも離れて、身を修める。きちんとするということです。

片付ける物の置き場を片付ける(月路)

整理整頓。これが私の今日的課題です。物がやたらと多いことに、引っ越しの際に嫌というほど気付かされました。困ったものです。土木工事に掛かる前に建築工事ということで、道具類を片付ける物置場を作ることにしました。友の倉庫を見た時にきちんと整理されているなあと思いましたし、とにかく勝手口が道具だらけで通行不能に近くなってきました。ここからやらねばと思っています。

どうもわたしは一言も二言も多い。これは昨日の総会でも自身で気づきました。あとから考えれば云わなくてもいいことまで、ついつい説明のために言ってしまう。自分の嫌いな部分です。これも観念なんですが、ここはいい年になったんだから少しは是正しなきゃならんと思っています。ただし若いうちは自分が正しいと思ったことは言うべきだと思います。またどんどん思う存分行動すべしといいたい。胸のうちにしまって、言いたいことを封鎖していると、どこかで暴発します。そういう怖さを感じます。引きこもりが相変わらず多いそうです。引きこもって何もしていないのが一番怖い。せめて遊びに行ってほしい。そんな風に思いました。

全世界のうちで内面的にも外面的にも諸々の感官を修養し、この世とかの世とを厭(いと)い離れ、身を修めて、死ぬ時の到来を願っている人、──かれは〈自己を制した人〉である。

スッタニパータ424

第三 大いなる章

〈1.出家〉

424 諸々の欲望には患(うれ)いがあることを見て、また出離こそ安穏(あんのん)であると見て、つとめはげむために進みましょう。わたくしの心はこれを楽しんでいるのです。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
諸々の欲望には患(うれ)いがあることを見て……――第一〇九八詩参照。

1098 師(ブッダ)は答えた、「ジャトゥカンニンよ。諸々の欲望に対する貪りを制せよ。──出離を安穏であると見て。取り上げるべきものも、捨て去るべきものも、なにものも、そなたにとって存在してはならない。
 
以上註記より引用した。

出家の姿、外観は普通の人々と何も変わりません。立派な衣を着ているとか、僧侶としての高い地位に在るとか、修行年数であるとか、どこのお寺の住職であるとか。そういう外観は全く何も関係ありません。これは内面の問題であります。当り前ですが、これをわかっていない、わかろうともしない人々が適当に批評しているだけであります。出離というのは、とらわれから抜け出し、こだわりから離れることです。形だけ出家したとしても、この出離という安穏を知らなければ、もったいない極みであります。

一言で申せば、普通の人々は一日中妄執で過ごすのです。あの人はああ言った。この人がこう言った。そんなどうでも良いことにうなされながら、ああでもない、こうでもないと妄想をめぐらし、どうしよう、こうしようと執著して一日を過ごしています。疲れないはずがありません。そういう物事を一々取り上げていたら、どんどん欲求不満が溜まりに溜まって、捨てるに捨てられないゴミのようなものが頭にいっぱい溜まってまいります。心のゴミ屋敷を自分でつくっています。取り上げるべきものも、捨て去るべきものも何もない。ガランとした心のなかにする。いわば心の断捨離を進めることが、つとめはげむこと、つまり精進、努力なわけです。こんな具体的なことはありません。

精神論という言い方があります。心の内面を皮肉った、とても嫌な言い方があります。そういう人に限って、自分は完全でありリアルスティックであると本気で考えています。現実が現実でないとは申しません。また現実は現実だとも断言できません。何が平安で平穏なのかを突き詰めれば、出離以外にないのであります。何をしていても囚われない拘らない。誰から何を言われてもたじろがない。そういう不動の精神、安穏の境地。これを楽しむこと。これが出家の覚悟でなくして何でありましょうか。

こうなりたい。こう思われたい。わたしは間違っていない。これが最も大きな欲望なのです。自己への囚われ、自分自身が自分自身によって束縛されていること。さまざまな欲望には患い、憂いがあること。自分を苦しめているのは自分自身であること。これが憂い(患い)であることにいち早く気付いたものが出家するのであります。般若心経は全てを否定しています。ブッダの教えとされる四聖諦や八正道、十二因縁さえも「無」とします。これは無いという軽い意味ではありません。こだわらない、とらわれないということです。出離を無と表現したのです。理論武装に仏教をもってするなどは、以ての外であります。

わたしが「スーパー坐禅」を提唱するのは、こうした仏教者が陥りやすい、あるいはどっぷり浸かった完璧主義に、堂々と反旗を翻すものであります。あらゆる観念を捨てる。あらゆる権威から離れる。騒音の中で坐禅ができなければ、家族の声が飛び交う中で坐禅しなければ意味が無いのです。誰が何と言おうと、まるで仏像のように坐っている。寝ながらでも坐禅はできます。否、坐れない人が、あるいは寝たきりの方でも坐禅できなければ、意味がありません。やれ禅宗だ、仏教だという狭い了見で坐禅を捉えるのは、スタイルや格好、場所にこだわりすぎているからです。もう黙っていられません。

坐禅など 忘れてしまえと 暮晦日 (月路)

道元禅師は「普勧坐禅儀」と書かれた。これは誰にでも坐禅を勧めるというものです。年齢、性別、学歴、出自、宗教宗派、思想に関係なく、坐禅しましょうと仰ったではないか。坐禅と出離は同じ意味です。出離を楽しむことと坐禅を楽しむことは全く同義です。何も考えないというのは、考えないということを考えるというものです。非思量は非思考のことです。思考ではない思考。それをどう実現するかを「工夫」といいます。一つにこだわれば、それがこだわりです。人それぞれの坐禅があっていいのです。銘々各自の坐禅なのですから。

諸々の欲望には患いがあることを見て、また出離こそ安穏であると見て、つとめはげむために進みましょう。わたくしの心はこれを楽しんでいるのです。」

スッタニパータ282

第二 小なる章

〈6、理法にかなった行い〉

282 次いで、実は〈道の人〉ではないのに〈道の人〉であると思いなしている籾殻どもを除き去れ。──悪を欲し、悪い行いをなし、悪いところにいるかれらを吹き払って。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

外の作務で便利な電動器具のひとつに落ち葉集塵兼吹き飛ばし機能のついたブロアバキュームというのがあります。別に落ち葉が悪い奴らではないのですが、砂利敷きの上に落ち葉があるとスカッとしません。逆にこの落ち葉くんたちを吸い取ったり吹き飛ばしてやると庭も見違えるように整然となるのです。ひとつひとつ手で取るのは大変時間がかかりますので、お寺などの比較的ひろい場所は、この集塵機があるととても重宝します。

この落ち葉くん、放おって置くとだんだん枯れて粉々になり腐葉土として雑草の栄養分になります。ところがこの落ち葉や塵などを日頃こまめに取り除いておくと、明年は草むしりがとても楽になります。何事も日頃の手入れが肝心でありまして、日常の作務の大半がこの草むしりや庭木の手入れであります。掃除・清掃・片付け・処分が外作務(そとざむ)の中心です。お寺もお店と同じで、そこを預かる者の姿勢が問われます。反省しきり、今日は自身への警告としてこれを書いております。

道の人というのは、ここでは仏道を歩む者と解しておきます。いやしくも仏道を歩むと志した以上、世間と同じような贅沢は慎むべきであります。一生楽はないと腹をくくることです。世間が求める楽しみと出世間(しゅっせけん)の安楽とは外観からすれば全く違います。ただ手をこまねいて坐っているようにみえて、その実、坐ることだけに徹しておる様子であります。心の波を鎮めるには、やはり坐禅が一番です。道元禅師様は普勧坐禅儀で、心・意・識の運転を停(や)め、念・想・観の測量(しきりょう)を止(や)めて……、非思量。坐禅の要術なりと説かれました。宮崎奕保禅師は、「何も考えない、思ったことはその場かぎり、握りしめない、いわゆる前後際断や」と申されました。宮崎禅師の禅師号は「黙照天心禅師」(もくしょうてんしんぜんじ)であります。

道元禅師様の和歌の中で、坐禅の境地と思われる有名な歌をご紹介して今日の声と致します。『濁りなき 心の水にすむ月は 波もくだけて 光とぞなる』

次いで、実は〈道の人〉ではないのに〈道の人〉であると思いなしている籾殻どもを除き去れ。──悪を欲し、悪い行いをなし、悪いところにいるかれらを吹き払って。