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スッタニパータ449

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

449 悲しみにうちしおれた悪魔の脇から、琵琶がパタッと落ちた。ついで、かの夜叉は意気消沈してそこに消え失せた。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
夜叉――yakkha.ここでは悪魔のことをいう。

以上註記より引用した。

この詩句が本節の最後を締めくくります。精勤(精励)経と呼ばれるこのお経は、修行の本質を解りやすく今に伝えています。

悪魔の軍隊である烏たちが飛び去ったあとにナムチ(悪魔)だけが一人残ります。かれはブッダの側近くにいました。いつもつきまとっていたのです。その彼が一番大事にしていたものが琵琶でした。奈良の正倉院にもインドが発祥とされる四弦の琵琶が残っております。雅楽にも琵琶がありまして、その音色は哀愁のこもった、それは幽微な音色であり、いつまでも響くように感じられるのでございます。

かれナムチは、何よりも大切なその琵琶をいつも脇にかかえていたのですが、ふと、その琵琶を落としてしまいます。それからその場すなわちブッダのそばに消えてしまいました。このことが何を意味しているのかが大変重要な点であろうと存じます。

最後の一戦を勝ち抜くこと

あらゆる悪を討ち滅ぼし自己に勝利したブッダでしたが、最後に残ったものが只一つだけありました。それが何であるかといえば、自己にある主観であります。主観というのは客観に対する主観の意味ではありません。到達した境地のことです。すなわちブッダ釈尊に限っていえば悟りの中身です。仏教は仏陀の悟りの内容を伝える教えではありません。悟りを開かれたと一般に表現しますように、さとりを開放されたのです。

さとりの深淵な中身を人に伝えるのが目的ではなかったと気付き、その結論であるところの精励であること、その他じっさいに人々に役に立つ方法そのものを教えられたのです。真理をそのまま言葉で伝えることはできません。またそれは意味が無いのです。知識を教えたのではなく、智慧を教えられたということです。

中村元先生は、「琵琶がパタッと落ちた」と訳されています。はたと気づかれたのではないでしょうか。握りしめているものや、つかんで離さないものを離すのは並大抵なことではありませんが、ふと力が抜けたときに、あっさり手放すことができるものです。

ナムチの強力な心髄は、まさしくこの最後の執着であるところの主観でありました。自らの信念といってもいいでしょう。あふれるほどの自己の見解の中でも、ひときわ光り輝く中心的コア(核)の部分、自己を自己足らしめている本質の部分を、簡単に捨てられるかどうかであります。戒経、戒めの経の最後にいわく・・・

他の人は自らの主観にとらわれ、しがみつき、捨てられないでいるが、私たちは自らの主観にとらわれることなく、しがみつくことなく、簡単にそれらを捨てられる。このように戒めることができます。

ここにブッダ御自身の中にいたナムチは完全に消滅したのであります。これがブッダ釈尊の降魔成道の最後の瞬間でありました。

最後の戦い

悲しみにうちしおれた悪魔の脇から、琵琶がパタッと落ちた。ついで、かの夜叉は意気消沈してそこに消え失せた。

スッタニパータ444

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

444 みずから思いを制し、よく念い(注意)を確立し、国から国へと遍歴しよう。──教えを聞く人々をひろく導きながら。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
444-445 この二つの詩句から見ると、人々に対して教えを説くことが、義務とされているのである。

以上註記より引用した。

本詩と次の詩は、ブッダ釈尊がさとりを開いてから、人々に教えを説きながら遍歴された45年間を統括された内容となっています。後に八正道と呼ばれる実践の在り方を簡潔に示しておられます。ナムチを退け完全に解脱しています。前の詩句までは、精励の様子を克明に描かれているのに対し、本詩においてはすっきりと旅立ちの決意が述べられております。何も心にかかることがない晴れやかな様子であります。

自らの思いを制すること

自分の思い(思惟・考え方)を制御すること。人は皆、自らの思いによって生活します。仕事であれ趣味であれ日常生活のすべてが自らの思いによって立ちふるまいます。この思いをコントロールしていく。これが基本です。正見、正思に始まる八正道の最初の部分の原典ともいうべき簡潔な表現かと存じます。

念(注意)を確立すること

日常すべてにこの念(おもい)を確立する。いつも注意している。気をつけている。これは交通事故などに気をつけるといった漠然とした思いではありません。何をするにも、よく知り、よく気をつける。一息ごとの注意です。正知と正念といいますが、阿含経典の「如来は道を教える」に詳しく述べられておりますから、ぜひ今一度参考にしてみて下さい。漢訳では「算数目犍連経」と呼ばれる比較的古い層に属するお経で、ブッダがその弟子に最初に修行の具体的方法を教えるくだりが分かりやすく紹介されています。当時の修行指導の様子が目に浮かぶ内容です。ぜひご一読下さい。→ここから

国々を遍歴された理由

ブッダ成道より八十歳で涅槃に入られるまでの四十五年間はまさしく遍歴でありました。梵天勧請(ぼんてんかんじょう)の説話もありますが、神話的な話は脇におきまして、ブッダの悟りを極言すれば、慈悲、いつくしみに尽きると思います。もの凄い修行であったのですが、死をも顧みない壮絶な魔との戦いであったのですが、その結論は、人々にはこの深い真理は決して理解できないであろうが、それでも道を教え続けることである。いずれは多くの者があとに続くとの確信でありました。

事実、仏教は二千五百年続いております。八万四千の法門と幾千万巻の経典ことごとく、ブッダの智慧と慈悲を今に伝えています。教えを聞く人々をひろく導きながら。この発願に全ての思いが込められているような気が致します。このひろく導きながらは原文のままです。色んな弟子が居ていいのです。仏教徒はみんなブッダの弟子です。中にはそれこそ様々な人々がおります。そんなことブッダは、とうの昔にご存知でありました。

閑話休題

四九日や 浴司掃除が 残りおり (月路)

四九日(しくにち)と言いまして、四と九のつく日が浴司(よくす・風呂)であったり髪と鬚を剃る日でもありました。もちろん今では毎日のように浴びておりますが、誰かと会う時は極力鬚を剃りますが、原則は四九日、まあ修行僧の休日というか一休みの日です。坐禅をお休みするお寺も多いと思います。放参(ほうさん)とかいいましたが忘れてしまいました。

みずから思いを制し、よく念い(注意)を確立し、国から国へと遍歴しよう。──教えを聞く人々をひろく導きながら。

スッタニパータ443

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

443 神々も世間の人々も汝の軍勢を破り得ないが、わたくしは智慧の力で汝の軍勢をうち破る。──焼いてない生の土鉢を石で砕くように。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
智慧の力で……うち破る――原文にはpaññāya gacchāmiとあるが、諸異本並びに前後の関係から見ると、gacchāmi=bhecchāmiと解してよいであろう。

以上註記より引用した。

この詩句は大変深く難しいと素直に思います。焼いた土鉢を石で砕くのは簡単です。それを「焼いていない生の土鉢」と表現されています。これは、いったいどういう意味であろうかと他の文献も当たってみましたが、どれも言い当てていないように思います。そこでごく普通に解釈してみました。

焼き物(土器)の工程でわかる意志

陶芸をされたことのある方なら、またその過程をご存じの方なら誰でも知っていることですが、粘土をこね、ロクロを回しながら造形し、窯にいれるあの焼き物をイメージしてみてください。窯に入れる前の作品は柔らかく、石を使わなくても手で簡単に壊すことができます。それなのに何故誰もができないことをやり抜くことの例えとして「焼いていない生の土鉢を石で砕くように」と説かれたのか、ということです。

鉄は熱い内に打てという格言があります。冷えた鉄は伸ばすも曲げるも至難です。それと同様に欲望や妄想などが固まらないうちに、つまり誤った考えとして固定観念にならないうちに完全に捨ててしまうことを意味しています。自己の見解に固執しないということは、至難なことです。特に年を経ると、妄想を捨てましょうとか、欲望から離れましょうと言われても、「そうは言ってもなかなかどうして無理な話だ」という決めつけが、根本的な部分まですっかり浸透してしまっていて完全に固定しています。「わかっちゃいるけどやめられない」的な固定観念の鎖に雁字搦めになってしまうのです。

若いうちはまだ素直に実行できるのですが、個人差にもよりますが、たいていは三十五歳を超えるとそうした世間一般の考え方に染まり、焼き物に例えるとすっかり焼きあがって完成品となり、色も形も変えることは不可能になります。もちろん床に落としただけで、使いもにならないぐらいに割れてしまいます。石で割るまでもないのです。多分に嫌らしい言い方で恐縮ですが、年齢に関係なくすっかり焼きあがっている人が多いかと思います。

粘土のままであれば、焼く前であれば形作られた器を石で砕くことは可能です。この石は真理といってもいいでしょう。いい加減な自らの手で壊しても、また同じような形を作ってしまうのです。作っては壊し、作っては壊し、やり直しているようでは、人生埒が明かない。いつまでも不安定なままです。早く焼きたい、気持ちは焦る、焦って窯に入れようものなら、ある日突然にあっさり壊れてしまいます。時既に遅し。思い当たる節はございませんか?

智慧は自らの見解に拘らないこと

これに尽きるとは申しませんが、あまりにも自己の見解、ほとんど欲望という粘土を形作り妄想という名の釉薬をかけて焼き上げた完成品に自惚れているのです。変えようもない完成品ですから、それで満足していようが不満であろうが変えようがありません。命と言いますが、生きているというより、もう死んでいるのも同然です。綺麗事をいうつもりはありません。わたしはもちろん、世間のほぼ全員、神々であろうとそうであります。智慧というものは誰にでも備わっているものではありません。そうした自己の見解、観念をあっさり捨てることが智慧であるといわれているのです。これは並大抵なことでは決して得られません。得られたと思ったとしたら、それは浅知恵に過ぎません。そういう謙虚さを非常に強く持っていること。これもまた固定的な焼き物(観念)ではありますが。

閑話休題

拾八の 鐘を撞くかや 初観音 (月路)

観音様の縁日は普通十八日です。当寺の近くにある観音様の初観音(年初の縁日)は、今年は二十二日の日曜日に開かれます。導師を頼まれておりますが、その前日の土曜日は餅つきのお手伝い。といっても臼や杵は用いません。今は電動餅つき機というのがありまして、蒸籠で蒸したもち米を入れて、つけたら丸めて板の上に並べるだけです。だけですが、これもご婦人方の労力は大変なものです。いずれは餅屋さんに依頼することになろうかと思います。これも時代の流れでしょう。

観音様でさえ、頭上に化仏(けぶつ)と呼ばれる仏さまを頂いておられます。われわれ仏教徒は、この謙虚さに学ぶべきかと存じます。たとえブッダの言葉として現代に伝わっている教えといえども、これにこだわり、これを絶対視してはならないと存じます。ブッダ自身は何も残されておりません。すべて伝聞であります。無記といいますが、修行の役に立たない関心事についてはもちろん、最古層の経典とされるこのスッタニパータとて、言葉にすれば完璧ではありません。原語とて後世のものです。ではありますが、人々の中にしか佛は存在しないのですから、自灯明法灯明。自己を拠り所とし法を拠り所とする他はありません。

神々も世間の人々も汝の軍勢を破り得ないが、わたくしは智慧の力で汝の軍勢をうち破る。──焼いてない生の土鉢を石で砕くように。

スッタニパータ438

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

438 誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自己をほめたたえて他人を軽蔑することである。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
ここでは「自己をほめたたえて他人を軽蔑することである」(attānaṃ samukkaṃse pare ca avajānati)が悪徳として挙げられているが、それを受けて後代の仏教では「不自讃毀他戒」が成立する。

以上註記より引用した。

わたしが所属する曹洞宗では大乗菩薩戒という戒を受戒いたします。十六条戒ともいいますが、その中の十重禁戒の第七にこの「不自讃毀他戒」(ふじさんきたかい)自らをほめ他をそしってはならない、という戒めがあるのですが、今更ながら仏祖正伝を感じております。正しく伝わっているのは多くの先人のお陰であり、師資相承と申しまして、師から師へと確かに受け継がれてきたのです。こうして中村元先生をはじめ多くの研究者のおかげで、ブッダ釈尊の教えを確認することができるのですが、この詩句もまた、その一つであります。

誰も直接自分を褒めるような自慢はしないのですが、間接的に自慢している場合が多い。それは他人をけなし、あざけり、倒して、軽蔑し、結果的に相手を壊すことによって、自己を讃えているともいえます。いわゆる綺麗事をいってあたかも自分が立派であるかのように錯覚しておるのです。それに気づきなさいということです。反省。

今日のカウンターパンチは、「誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉」であります。この誤って得られたという形容は、利得だけにかかる言葉ではありません。けだし名声と尊敬と名誉すべてが誤って得られたものだとしたわけです。後代の仏教では「名利」(みょうり)といいますが、これは誤って得られた、実態のないものであるといわれております。ですから名利を捨てなさい、名利から離れなさい、これに尽きるといわれます。どんなに修行を積んでも俺は大したものだ、これぐらいになったら、これぐらいの名誉や地位は当然だ、これぐらいの給料も当たり前だ、などと名と利を誇るようでは、修行をしなくなります。努力しなくなるということです。これが慢心の最たるものです。

縁日や 虚空蔵菩薩の 声がする (月路)

虚空蔵菩薩は智慧を授けてくださる仏さまで、毎月13日が縁日です。隣のお寺の禅源寺には金庫のなかに納めてあるそうです。一度拝観したいものと思っておりますが、お名前の通り虚空、何もない空間を蔵しておられる菩薩です。結局仏教はこの虚空を説いているのです。ごちゃごちゃと色んな物を詰めているようでは、悟りには至らない。心のなかを空っぽにしたときに見えてくるのが智慧です。智慧を得るのはまず空っぽにすること。空っぽにする方法が坐禅ときたものです。世間でも虚心坦懐というではありませんか。わだかまりや誤解、錯覚、誤って得られたものが沢山あります。片っ端から捨てていきましょう。

誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また自己をほめたたえて他人を軽蔑することである。

スッタニパータ434

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

434(身体の)血が涸れたならば、胆汁も痰も涸れるであろう。肉が落ちると、心はますます澄んでくる。わが念いと智慧と統一した心とはますます安立するに至る。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
心はますます澄んで――心が澄むというのは信仰の特質であると、仏教では一般に定義する。第四三二詩に信念(信仰)に言及したので、それを受けている。

以上註記より引用した。

わが念い――sati.一般に念と訳される。比較的最近では気づきと訳していることが多くなってきていますが、日本語としては不適切で、よく気をつけている、あるいは記銘と記憶、総じて「わが念(おも)い」としたものでしょう。今の心と書いて念。ここでは、あっさり「信念」という意味であるとした方が解りやすいと思います。

智慧――paññā.一般的な意味での智恵と変わりませんが、漢訳の伝統にしたがって智慧としたものでしょう。三学の一つであるこの智慧は今の言葉で表せば「英知・叡智」といってよいと思います。深遠な道理を知りえるすぐれた知恵のことです。音訳して般若。般若心経の般若です。

統一した心――samādhi.禅定のことです。サマーディは仏教独自の言葉ではありませんでした。ヨーガ修行の最もポピュラーな修行法で坐禅というほうが現在ではわかりやすいのではないでしょうか。これも三学の一つに数えられています。統一した心と訳されているのは、全ての心(理性と感性と霊性)を統一する、バラバラに妄想している心を一つに集中することで統一をはかるといった意味が込められている名訳です。

安立する――tiṭṭhati.安定して確立している。以上の信(戒)・定・慧の三学を安立(あんりゅう)する具体的な修行法が坐禅です。頭で思考するのではなく、心を安立するには身体を真っ直ぐにする、最も安定な姿である結跏趺坐を行うことです。姿勢に気をつけ、姿勢を正し、何も考えない。普勧坐禅儀では、「心・意・識の運転を止め、念・想・観の測量を止めて」とあります。非思量が坐禅の要術であると喝破されております。

本詩でのポイントは、体液が出なくなり肉が落ちると、心がますます澄んでくる、という記述です。わたしが僧堂での修行時代、ピークで80キロあった体重が師寮寺で10キロ修行寺で20キロ落ちて50キロ、十代のころの体重になったとき、身も心も軽くなった実感がありました。肋骨がくっきり、腹はぺしゃんこ、足も手も細くなり、皺だらけ、老人のように痩せこけ、風呂場の鏡に映る我が姿に愕然としたものです。心がますます澄んでいたとは申しませんが、軽くなった実感は確かにありました。もちろんこのままだと死んでしまうのではという恐怖もありました。およそブッダの苦行とはかけ離れていましたが、何となく朧気ながらその輪郭だけは分かるような気が致します。

餅の山 水に漬けても 食べ切れぬ (月路)

今朝は一段と寒くなりました。気温はさほどでもないのですが、寒気が致しました。風邪かな、これはいかんということで、みかん汁を温めて飲みます。これは効きます。冬みかんの効果はもっと宣伝されていいと思います。それはともかく、今日は年賀状を取りにいくのと、孫にお年玉を上げたい理由で帰郷いたします。明日の記事を投稿してから。

(身体の)血が涸れたならば、胆汁も痰も涸れるであろう。肉が落ちると、心はますます澄んでくる。わが念いと智慧と統一した心とはますます安立するに至る。

スッタニパータ432

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

432 わたくしには信念があり、努力があり、また智慧がある。このように専心しているわたくしに、汝はどうして生命(いのち)をたもつことを尋ねるのか?

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
信念――saddhā.狂熱的な信仰ではなく、道理を信ずることである。

生命――第四二七詩で命に言及しているのに対していう。

以上註記より引用した。

何度も申し上げますが、この節ではブッダ釈尊の成道前の苦行について述べられておるのです。命さえも惜しんでいない。そうした荒行をものともしないのは、狂信的な信仰によるものでは決してありません。徹底して道理を信じている、いわば信念に基づくものであります。ここが大変重要で、ややもすれば得体の知れない超能力であるとか、神通力といった不可思議な力を得るがための苦行ではないのです。

信念をもって、努力を重ね、智慧を得て、専心すること。現代においてもそのまま通用する成功哲学の根本でありましょう。何事を成し遂げるにも、まず最初に道理をわきまえて目標を設定し、たゆまぬ努力を積み重ね、試行錯誤を繰り返しながらだんだん智恵が育まれ、右顧左眄せずに一途に求めるならば、ものごとは成就いたします。反対に考えればよくわかります。適当な思いつきで、たいした努力もせず、自己批判ばかりで右顧左眄し、結果をあせり、すぐに諦めるようでは、成功はおぼつきません。

信念・努力・智慧・専心。ここには微塵も抹香臭きことはありません。透徹した道理に貫かれています。一本筋が通っているわけです。わたしがスッタニパータを読んで強く惹かれるのは、この普遍の真理がわかりやすく述べられているからです。ブッダを熱狂的に信奉しているからではありません。後世に祭り上げられた仏教用語に惑わされることなく、普通の言葉で、普通の理解によって、真理を概観しておくことはとても重要であると心底思っております。

釈尊が成道と呼ばれる成功をつかんだのは、まぎれもなくこの道理にそって苦行したからであります。もっとも釈尊は人々には中道という道を勧めています。だれでも通ることができる道です。釈尊ほどの苦行をしなさいとは誰も言っていない。いいでしょうか。電球を発明しなさいとは言っていないのです。エジソンの真似をできなくても、電球を使えばいい。当り前ですが、念のために申し上げておきます。釈尊のこころが普通の人に理解できるほど、真理というものは簡単なことではありません。電球一つとってみても、それこそ2%のインスピレーション(ひらめき)と98%のパースピレーション(努力)の賜物であることはいうまでもありません。

七草を 一草にして 粥すすり (月路)

エジソンにナムチが無理をするな、そんな無理をしていたら死んでしまうよと囁き、その甘言にエジソンが負けていたら電球や蓄音機は発明できなかったというだけの話です。エジソンのみならず多くの偉人は、「信念・努力・智慧・専心」をもってしてその成功を手にしたのです。結果的にすべて人類のためになっています。それを横目にみながら、適当に批評している圧倒的に多くの人々に、言葉は悪いですが、爪の垢でも煎じて飲めと言わんばかり。パキスタンのラホール国立美術館に所蔵されている釈迦苦行像。何も云わなくても、全てを説かれています。わたしにとって胸に刺さる痛烈な刃(やいば)でありました。

苦行像

わたくしには信念があり、努力があり、また智慧がある。このように専心しているわたくしに、汝はどうして生命をたもつことを尋ねるのか?

スッタニパータ329

第二 小なる章

〈9、いかなる戒めを〉

329 みごとに説かれたことばは、聞いてそれを理解すれば、精となる。聞きかつ知ったことは、精神の安定を修すると、精になる。人が性急であってふらついているならば、かれには智慧も学識も増大することがない。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
精となる――sAra.註は、目的(意義)が成就する(attho sijihati)という意味に解しているようである。
 
以上註記より抜粋して引用した。

この詩句の意味するところは、真理の言葉を聞いて理解し、これを実行していると自己の目的を成就する(自己実現)が、あれもこれもと気持ちだけが焦り右顧左眄していると何も得るものはない。という風にとらえることもできます。

これも確かな現実的な戒めであります。この節につづく「精励」の前置きとしての意味も含まれているように感じます。単に経の小さなまとまりを適当に順番に並べたのではないものと思われます。ここでは「」が取り上げられていますが、そもそもとは何であろうかと考えた時に、人間の一番根本的な部分。現代的な言葉を探すと、「やる気」が一番わかりやすいのではないでしょうか。精も根も尽き果てるという表現がありますが、その精根のこととして当てはめれば、本詩は、やる気を出す方法ともいえます。

精神の安定を修する」とは具体的に何を指すのかといえば、それはもう坐禅のことと申し上げておきます。他にも色々とあるのでしょうが、わたしは知りません。知ろうとも思いません。ブッダが人々に勧めていたことは姿勢を正して坐ることです。そして禅定(定)を楽しむことでした。これが基本中の基本であります。坐に親しむことです。時間があればって、精神の安定をはかることが、なにより一大事であります。

仏教の三学とは、戒・定・慧であることは申すまでもありません。その三学が全て合わさった実行の姿(相)が坐禅です。坐禅に三学が含まれておる。否、坐禅を三つに分解して説明したものが三学である。これほど手っ取り早い方法は他にありません。今日は、学派宗派を超えて実践するべき修行が坐禅なのだとはっきり申し上げておきます。

みごとに説かれたことばは、聞いてそれを理解すれば、精となる。聞きかつ知ったことは、精神の安定を修すると、精になる。人が性急であってふらついているならば、かれには智慧も学識も増大することがない。

スッタニパータ212

第一 蛇の章
<12、聖者>

212 智慧の力あり、戒めと誓いをよく守り、心がよく統一し、瞑想(禅定)を楽しみ、落ち着いて気をつけていて、執著から脱して、荒れたところなく、煩悩の汚れのない人、ーー諸々の賢者は、かれを〈聖者〉であると知る。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

ここでは、心の統一と瞑想(禅定)について考察してみます。禅定は戒律や智慧とともに仏教の三学と呼ばれています。もとより後世の仏教一般における分類であり、戒と定(じょう)と智慧は分けて捉えるべきものではありません。

戒は自己の戒めであり、定は別名「果」と訳されるように四向四果とか四沙門果の果でありまして、悟りの階梯を指す言葉ですが、これもまた仏滅後何百年も経ってから後世の仏教学者の研究によるものです。

あまり学問的なことに拘らずあっさりと申し上げますと、実際の修行段階であります。その中身は外観からは瞑想とか坐禅といったスタイルです。何もしていないように見えるのが特徴です。ただ寝そべっているのではありません。きちんと坐って修行しているのであります。これはブッダ以前のインド社会でヴェーダ以来もしくはそれ以前からの最もポピュラーな修行スタイルなのです。ヨーガも源流は同じです。坐るだけが修行ではありませんが、一番安定した身体に負担の少ない精神統一に最も適した姿勢であります。

形式は結跏趺坐という足を組んで手をその上に乗せて法界定印という両親指をつける手の組み方をします。仏像(坐像)でおなじみでありましょう。

こうして坐ってからすることは呼吸ぐらいのものです。これもことさら作り事をしないで息を長いなら長いまま短いなら短いまま、いわゆる特別な呼吸法を用いずに、ただ坐って一息一息を刻々とありのまま気をつけるだけで何も考えません。最初のうちは色々と頭に浮かんできますが、それに執著しないであっさりと手放します。

よく精神統一を精神集中と勘違いすることがありますが、心の統一とか精神統一というのは、簡単に言えば普通の人でもバラバラになってしまっている心の意識の運転を完全に止めることです。いわば思考停止するわけです。考えない努力と言ってもいいでしょう。まあそれさえも考えない。考えないということも考えない。何かに集中することもしない。

たとえば念仏でも唱題でも読経であっても集中していると間違います。余計なことを思っても当然間違います。集中することなく集中すると言ったら変ですが、頭を空っぽにするような感じで、とにかく無心になって坐禅なら坐禅、読経なら読経になりきる。無念無想と申しますが、大宇宙のど真ん中にポツンと坐っている、そういう姿勢と心が一つになっている状態が心の統一ということです。

心と身体が別々になっているというのは、今ここに居ながら坐っておきながら、過去や未来に心が向いてしまっている状態です。大便をするときは大便になる。小便のときは小便そのもの、他の余計なことを頭に置かない。

この方法が正しいとか、あれが間違っているとか余計なことばかり考えて今ここに居ない。心ここにあらずの状態から、今、心ここにあり、ありのまま、あるがままを修行いたしましょう。

智慧の力あり、戒めと誓いをよく守り、心がよく統一し、瞑想(禅定)を楽しみ、落ち着いて気をつけていて、執著から脱して、荒れたところなく、煩悩の汚れのない人、ーー諸々の賢者は、かれを〈聖者〉であると知る。

 

スッタニパータ202

第一 蛇の章

<11、勝利>

202 この世において智慧ある修行者は、覚った人(ブッダ)のことばを聞いて、このことを完全に了解する。何となればかれは、あるがままに見るからである。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
完全に了解する――parijanati.それの名詞形はparinnaであるが、この語はジャイナ教においては、同時に「断ずる」「すっかり捨ててしまう」という意味がある。最初期の仏典においても、同様の意味合いをもっていた、と考えられる。

「この世において」という修飾語は「生きている内に」ということを示しています。早い内にしっかりと肚に納める必要があるということです。「智慧ある修行者」であることが条件です。智慧については今までに何度も出てきましたから、言葉慣れしてしまったかもしれませんが、もう一度確認しておきましょう。

智慧とは、真理を真理として見ることが出来る心の眼であります。実相といいますが、ものごとのありのままの姿をありのままに見るという正しい見解のことです。「正見」と言い換えてもいいでしょう。なにしろ曲がったものの観方をしない、真正面に素直に見たときに、本質が見えてくるものです。

言葉を連ねても、ちょっと変わった言い方をしようが、世の中の物事はさほど複雑にできていません。むしろ意外とシンプルです。善いことをして悪いことをしない、好き嫌いしない、良い悪いと決めつけない、優しい気持ちで過ごす、クヨクヨしない、贅沢しない、質素に生きる、などなど。当たり前のことをやる。してはいけないことをしない。生まれた以上死ぬまでいっしょうけんめいに働く。明るいというのは馬鹿笑いではなく明らかにしていることです。

昨日、友のお父上様の尊い言葉を知りました。女性アイドルの悲しいニュースもありました。娘さんの親にしてみればやり切れない気持ちで一杯でありましょう。殺してやりたいほどの気持ちになってもやむを得ません。けれども、けれども誰がいつ亡くなっても不思議ではありません。悲しい事実であっても受け止めざるを得ないのです。失われた生命を元に戻すことができない現実を目の当たりにして、ただただ無常を思う以外ありません。

この世において智慧ある修行者は、覚った人(ブッダ)のことばを聞いて、このことを完全に了解する。何となればかれは、あるがままに見るからである。

 

スッタニパータ186

第一 蛇の章

<10、アーラヴァカという神霊>

186 [師いわく、──]「諸々の尊敬さるべき人が安らぎを得る理法を信じ、精励し、聡明であって、教えを聞こうと熱望するならば、ついに智慧を得る。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
安らぎ――nibbhana.
教えを聞こうと熱望する――刊本にはsussusaとあるが、ブッダゴーサ註にはyava dhammasavanena sassusam labhatiとなっているので、後者に従って解した。以上註より引用した。

師とは、むろんブッダのことです。これから前句の質問の回答が始まります。まずは智慧を得る方法です。智慧を得るにはその条件が必要です。誰でも智慧を得れるわけではないのです。そんじょそこらの生活の知恵とは違います。猿知恵、浅知恵でもないのです。いわば崇高な「智慧」なのです。

人々の中で「尊敬に値する人」というのは、そうざらにいません。尊敬さるべき人とはそういう人です。あっさり申し上げれば「感謝されている人」と言ってよいでしょう。これが人格的な条件です。人から感謝されてもいない人は、いままで(過去に)努力していない人ですから問題外です。そういう現実に尊敬されている人が、「安らぎを得る理法」つまり仏法(ブッダの教え)を信じて、精励(努力)し、聡明であって(心から納得できて)、教えを聞こうと熱望すること。これは並大抵のことではありませんが、もっともかんたんなステップなのです。

聞いたことを一つ一つ実行すること。実行できるようになったら次にやるべきことを心から聞きたいと強く望むこと。すると新しい教え(身についていないこと)を聞くことができるのです。

一つ具体的な例をお話しましょう。私たちは幸せや平和を望んでいるとしましょう。ところがこれではいつまでたっても求める幸せは永遠に得られません。今現在に幸せや平和を感じる気づくことがなければ、幸せは観念・想像の中にしかないのです。今この瞬間に幸せを感じられるかどうかが智慧の鍵であります。

今日はひさしぶりに尊敬するマインドフルネスの師の動画をご紹介します。この動画で智慧の鍵を得てください。

諸々の尊敬さるべき人が安らぎを得る理法を信じ、精励し、聡明であって、教えを聞こうと熱望するならば、ついに智慧を得る。