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スッタニパータ624

第三 大いなる章

〈九、ヴァーセッタ〉

624 怒ることな、つつしみあ、戒律を奉、欲を増すことな、身をととの、最後の身体に達した、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
『ダンマパダ』第四〇〇詩に同じ。

怒ることなく――Vajrasūcī,S. の部にも同様に説く。

つつしみあり――vatavanta. パーリ文註解(ad Dhp.400)によると頭陀行(dhutavata)を実行している人であるという。つまり少欲知足を行なっているのである。

戒律を奉じ――sīlavanta. パーリ文註解(ad Dhp.400)によると、四清浄戒(catu-pārisuddhi-sīla)をたもつことであるという。catupārisuddhisīlaṃ(Skrt.catur+parisuddhi+sila)とはcatusaṃvarasilaともいい、(1)pātimokkhasaṃvarasīlaṃ,(2)indriyasaṃvarasīlaṃ,(3)ājivapārisuddhisamvarasīlaṃと
(4)paccayasannissitasaṃvarasīlaṃ
とをいう(中略)。
それらを訳すと、
(1)「別解脱律儀」、身と語とに悪をなさないことを誓うこと、
(2)「根律儀」、感官を制しととのえること、
(3)「正命清浄律儀」、生活を正しくすること、
(4)「縁に関する律儀」、生活必需品を節制することである。
catupārisuddhisīlaṃという語は、ジャータカ第三八八(vol.Ⅲ,p.291),
Dhammapadaṭṭhakathā,vol.Ⅳ,p.111,ad v.375 に出ている。第三七五詩に四種清浄戒の萌芽があると言えよう。清浄会とは、説一切有部のほうでは四種持戒のうちの第四であり、煩悩の汚れを離れた無漏清浄を守ること(『雑阿毘曇心論』『倶舎論』第一八巻一七右)であって、パーリ仏教で意味するところとは異る。

欲を増すことなく――anussuda=taṇhāussāva-abhāva,Comm.ad Dhp.400(taṇhāussodābhāvenaanussadam,Pj.ad Sn.v.624).
身をととのえ――danta.眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの器官を制しととのえること(パーリ文註解 ad Dhp.400)。

最後の身体に達した人――もはや生まれ変わって次の身体を受けることがない、との意(後略)。

以上註記より引用した。

長らくお盆休みを頂きました。と、申しましてもブログをゆっくり書いている暇がないという超大忙しの旧盆でありました。今年は福井へ帰って段取りが変わったことと、新たなプロジェクトの始まり、さらには観音堂建設の準備とで文字通り大忙しの日々でした。

この8月17日には、大慈観音堂の起工式(地鎮祭)を厳修いたしました。禅宗のお坊さんの場合、全ての行事は「修行」であります。もちろん行事のみならず一日の生活の全てが修行なのです。

もちろん人間ですから、いろんな感情が沸いてまいります。それを一々こだわっておるととても前に進みません。前に進める。一所懸命に努力することを「精進」と申します。つまり全ては修行ですから、そう思わなければ、何も前へ進みません。ああでもない、こうでもないと言うておる暇はないのであります。

昨日、基礎の丁張り(水盛り遣り方)を出しました。敷地の高低差が比較的に大きいので、道路側では高基礎のようになります。今日は午前中は大雨でしたから、理事長と二人で工程工法会議を行いました。現場は全休であります。

 

スッタニパータ478

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

478 迷妄にもとづいて起る障りは何ら存在せず、あらゆることがらについて智見あり、最後の身体をたもち、めでたい無上のさとりを得、──これだけでも人の霊(たましい)は清らかとなる。──〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
迷妄にもとづいて起る障り――Mohantarā ti mohakāranā mohappaccayā, sabbakilesānam etaṃ adhivacanaṃ(Pj.).つまり一切の煩悩のことをいう。

人の霊――yakkha(=purisa.Pj.).第八七六詩参照。

以上註記より引用した。

876 「この世において或る賢者たちは、
『霊の最上の清浄の境地はこれだけのものである』と語る。さらにかれらのうちの或る人々は断滅を説き、(精神も肉体も)残りなく消滅することのうちに(最上の清浄の境地がある)と、巧みに語っている。

迷妄にもとづいて起る障りは何ら存在せず

彼の人(ブッダ)には一切の煩悩が存在しない。煩悩とは、迷いや妄執に基いて起る障りとあります。障りとは障害のことではありません。苦しみということです。悩みです。つらいと思う気持ちのことです。苦しみはとらわれとこだわりが原因だということです。言葉がだんだん難しくなってきますが、がんばって読み続けていきましょう。なるべく簡単な言葉に置き換えて理解するようにしたいものです。そうでないと言葉の重みに耐えかねて、崩れてしまっては元も子もありません。余談ですが、この元とは元金のことで子とは利子のことだそうです。無理をすれば何もかも失うことのたとえとして使われます。教えも元々は非常にシンプルだったのですが、そこから派生した論の積み重ねで膨大な仏教学が構成されています。ところが知識ばかり増えて智慧は少しも増えない。これでは主客転倒です。

あらゆることがらについて智見あり

これは解説するまでもないでしょう。ブッダには知識による知見ではなく智慧による見解があったということです。地上の全ての事柄を知っていたのではなく、人間の心のはたらきについての正しい見解をもっておられた。あらゆる事柄というのは人間の考え方や行い、そして感情や性格などの全てという意味であります。

最後の身体をたもち

ブッダはもう二度と生まれ変わりません。輪廻から完全に脱し、最後の生涯でありました。最後の生であり最後の身体を保ちながら最後の死を迎えました。それを涅槃といいます。

めでたい無上のさとりを得

無上の覚りを得る。この上ない覚り。めでたい、祝福に値する最上のものを手にされたということです。誰もが為し得なかった無上のさとり。完成をみた。成し遂げた。全人類が最大限の賞賛をもってしても届かない。それほど偉大な功績であったのです。さらりと述べておられますが、大変なことなのです。神でさえ到達できなかった「さとり」を手にされたのですから。

これだけでも人の霊は清らかとなる。

この挿入された文章については、スンダリカというバラモンに対して述べた言葉だということを忘れてはなりません。バラモンは霊魂の浄化ということを第一義としていました。現代日本に置き換えれば、極楽浄土に生まれ変わることを第一としている考えの人に、輪廻からの解脱を説いても、どうもピンとこないのです。無上のさとりの内容を知っただけでも「人の霊は清らかとなる」と言われたのですが、そういう巧みな言葉を使って、この人を導かれた。事実、霊という言葉には、人それぞれの思い入れがあります。ご先祖様の霊に感謝のまことを捧げましょうと言われて、余程の人でない限り怒り出さないように「これだけでも人の霊は清らかになる」という表現には嘘がないのです。それは前に述べられていることのいずれをとっても清らかな心であるからです。霊を心とか精神と置き換えれば済むことです。巧みな言葉使いとは嘘ではなくていわゆる方便です。方法であり便法なのです。

たましいも霊も精神皆こころ(月路)

まことしやかな占いというのがあります。スピリチュアルとかなんかで結構若い人たちでも年配の方でも真面目な顔をして運勢というものを信じています。考えられないのですが、適当に話を合せてフンフンと聞いています。その人が信じているのですから信じるなといっても、あるいは迷信だと言おうものなら、あっという間に嫌われてしまって怪訝な顔をされるのが落ちです。そうそう嫌われたくないので、適当に付き合っておりますが、実にクダランですね。あースーっとしました。血液型。生まれ年。星座。姓名判断。その他の云々カンヌン。知りませんが、知りたくもありませんが、そういえば私も若い頃には占いにハマったことがありました。生年月日と血液型が同じで同姓同名の人がいました。新潟県と福井県の違いはありましたが、同じ運勢とは間違っても思えませんでした。

迷妄にもとづいて起る障りは何ら存在せず、あらゆることがらについて智見あり、最後の身体をたもち、めでたい無上のさとりを得、──これだけでも人の霊(たましい)は清らかとなる。──〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。」