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スッタニパータ532

第三 大いなる章

〈6.サビヤ〉

532 内面的にも外面的にも執著の根源である諸々の束縛を断ち切り、一切の執著の根源である束縛からのがれている人、──そのような人が、まさにその故に〈育ちの良い人〉と呼ばれるのである。」

そこで、遍歴行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに尊師に質問を発した。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

一般に、生れ育ちの良い人というのは出自というか血統や家柄で言うことが多いのは今も昔も変わりません。当時はカーストなどの身分制度が厳格でしたから当然にその線で回答がなされると思われたことでしょう。ところが、ブッダは全く別の観点で理法を説かれました。今回の4つの質問に対する4つの回答のうち、今日のこの詩句はまとめでもあります。繰り返しになりますが、生れ育ち(家)を離れた人が、まさにその故に、生れ育ちの良い人、つまり高貴な人、選ばれし人であると説かれたのであります。

解脱するには

生れ育ちというのは、執著の根源である諸々の束縛ということです。これを象徴してと言っているわけです。外面的な家というのは、環境ということです。認識の対象といってもいいでしょう。内面的というのは感受と認識であります。これは今までさんざん学んできましたから繰り返しません。この束縛を断ち切り、一切の執著の根源である束縛からのがれている人。すなわち解脱した人。出家するというのは、外も内も家という束縛から脱出することであります。執著というとらわれから脱するには、束縛を解くほかにありません。解き脱することから、解脱げだつと呼ばれております。解脱するには執著しないこと。それは束縛を断ち切り、束縛から脱することであると説かれているのであります。束縛からのがれることなくして、執著を離れることはまことに困難であります。まさにここを適確に突いておられます。

一番や花の名所は多けれど(月路)

あっという間に花が散りましたが、ここ西吉野のお寺の桜が一番です。昨日は高田までバーベキュー用のお肉を書いに出かけました。檀家さんの差し入れです。ありがたいことです。道道すっかり散り終わった桜。葉桜となった町々を抜けて、お寺に帰ってきました。吉野は見事でしたが、桜の木の多さからいえば世界一かもしれませんが、ここの枝垂れ桜は満開。我が家が一番。みんなそうでしょう。どこへ出かけていっても、帰ってくるところが一番落ち着きます。まるでお帰りなさいと言わんばかり。ただいま。だれに告げるというより、だれも聞いていませんが、只今。「ただ今」しかありません。お後がよろしいようで。

内面的にも外面的にも執著の根源である諸々の束縛を断ち切り、一切の執著の根源である束縛からのがれている人、──そのような人が、まさにその故に〈育ちの良い人〉と呼ばれるのである。」

 

スッタニパータ375

第二 小なる章

〈13、正しい遍歴〉

375 「尊いお方(ブッダ)さま。まことにこれはそのとおりです。このように生活し、みずから制する修行者は、あらゆる束縛を超えているのです。かれは正しく世の中を遍歴するでしょう。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

今日の言葉は化仏がブッダに対して述べたものとされます。その結論は「自制」であります。この自制が、あらゆる束縛を超える。自制は自戒と同義です。みずからが自らを制御しないで、だれかのコントロールを待っていたら、それは即ち「束縛」以外の何物でもないという道理です。

この意味をわからない人が、何かをわかろうとしても無理です。さっさとこの場を立ち去るしかない。それほどに明確な真理です。化仏とは自分自身のことです。自分の中の仏さまが、それで善いとか悪いとか、いろいろに判断してくれます。自灯明ということです。自らを明かりとして進む。真っ暗な中を歩む者が、明かりを持たないでどうするのかという厳しいことばであります。

今日はアメリカに敬意を表して、彼の地の伝説の人となったスティーブ・ジョブズ氏の神スピーチをもう一度聞きました。ある意味、かれはスーパーマンでした。わたしも彼に憧れた者の一人として、卒業の日の学生の一人になって、静かに聴き入りました。

「尊いお方(ブッダ)さま。まことにこれはそのとおりです。このように生活し、みずから制する修行者は、あらゆる束縛を超えているのです。かれは正しく世の中を遍歴するでしょう。」

スッタニパータ219

第一 蛇の章
<12、聖者>

219 世間をよく理解して、最高の真理を見、激流を超え海をわたったこのような人、束縛を破って、依存することなく、煩悩の汚れのない人、──諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

まずもって世間の道理を理解して、その上でブッダの教えられた真理(真如)を静かに見極めることで、煩悩の渦巻く激流の海を渡ることができます。それはすなわちあらゆる束縛を自ら破って、他人に依存することなく、煩悩によって自らを汚すことのないように日常生活を送るということであります。

この詩句の意味する処は、世間の道理に阿(おもね)ないでよく理解するというところにあると存じます。世間と仏法の乖離を肌で感じる人は多いのですが、いわゆる理想論に対しての現実論のように、それは誠にそうであるが一般社会では受け入れられないであろうと勝手に決めつける論法であります。

例え話として、お経に書かれていることは至極もっともなことだと思いつつも、たとえば慈悲の心を持ちましょうということに対して、ハエや蚊を平気で殺したり、一番お世話になっている親に対して素っ気なく対応したり、一緒に仕事している方を疎んじていたり、友達を心の中で蔑み、罵りの気持ちを持ったりすることは現実にないでありましょうか。

自分の気持ちに正直になることがもてはやされる世の中にあって、虚心坦懐にまずは自らの心をあるがままに見つめること。このあるがままは自分の都合の良いように解釈することではありません。いつも「慈しみ」の心に照らしてものごとを観察する習慣、つまり修行をする以外に方法がないのであります。

この今現在の気持ちは真理(慈しみ)に沿ったものであるのかどうか。静かに振り返る訓練をするかどうかであります。世の中はじつに脆弱であります。怠ることなく仏法を我がものにする努力、すなわち「真理を黙って実行する」ことに尽きると思う次第であります。

世間をよく理解して、最高の真理を見、激流を超え海をわたったこのような人、束縛を破って、依存することなく、煩悩の汚れのない人、──諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。

スッタニパータ218

第一 蛇の章
<12、聖者>
218 婬欲の交わりを断ち、いかなるうら若き女人にも心をとどめず、驕りまたは怠りを離れ、束縛から解脱している聖者──かれを諸々の賢者は(真の)<聖者>であると知る。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

この詩句には解説を要しないと思います。ただブッダ在世当時は女性の出家者(尼僧)が居なかったのでこのような表現になったものと思われます。どのような若い女性に心を留めずとありますから、一瞬はとっさに心が動いたとしても直ちに離れることでありましょう。若くない女性に対しても同様でありましょう。

肝心なことは、驕りと怠りから離れて為すべきことを黙々と行うことです。昼間に横になることを慎むことであります。そうすれば自分以外の人々からの束縛から離れることができます。束縛から開放されるのを待ち望むのではなく、自分から束縛を解脱するということであります。束縛しているのは自分自身であることに気づいて縛めを説き脱け出す、あるいは脱ぎ捨てるといった方が分かりやすいかもしれません。

かれを諸々の賢者は(真の)聖者であると知る。とこの詩句についてのみ(真の)という修飾をしてありますが、聖者の中の聖者ほどの意味でありましょう。性欲や驕慢、怠惰という毒蛇はいつも私たちの身近にいて窺っております、赤い舌を出しながら、私たちの堕落を。

婬欲の交わりを断ち、いかなるうら若き女人にも心をとどめず、驕りまたは怠りを離れ、束縛から解脱している聖者──かれを諸々の賢者は真の聖者であると知る。

 

スッタニパータ175

第一 蛇の章

<9、雪山に住む者>

175 愛欲の想いを離れ、一切の結び目(束縛)を超え、歓楽による生存を滅しつくした人──、かれは深海のうちに沈むことがない。」

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
歓楽による生存を滅しつくした人──abhinandinitanhasamkhataya nandiya tinnan ca bhavanam parikkhinatta nandihavaparikkhino.以上註より

さらにブッダは、激流や大海と比喩される迷いの海の底に沈むことのない秘訣を授けられます。迷いに沈むとは、抜け出すことができなくなることであります。もがけばもがくほど沈む底なし沼に苦しむ人々に、どうすれば良いのかを具体的に説き示されたのであります。

一つには、愛欲の想いを離れることです。愛し求める想いを断ち切ることはできないかもしれませんが、愛し求める対象からすっと離れること、それをさっと手放すことはできます。想いを離れることは辛いことのように感じられますが、苦しみから抜け出す平穏で穏当な方法なのです。

そしてあらゆる束縛を超えるとは、束縛、縛めに気づくことです。何が自己の縛めとなっているのかを見極めることです。眼を背けないことであり、あるがままを見つめれば「結び目」のあること、固い結び目に気づきます。抽象的に聞こえるかもしれませんが、世間のしがらみは大抵の場合「結び目」であり、束縛なのです。ほどけば解ける結び目です。

「歓楽による生存を滅しつくす」とは、解脱のことです。蛇が皮を脱ぐように自分で自分の古い皮を脱ぎ捨てるのです。五感によって惑わされている「観念」が歓楽による生存です。生きている価値観、楽しみ、生きがいといったものさえ滅ぼす覚悟です。何もかもを捨てて、まっさらな自己に戻るのです。生まれたままの本来の自己の本分に立ち戻ることなのです。むやみやたらと担いでいる重荷をおろし、一切の荷物を手放し、手ぶらになれば軽いのです。身軽になりましょう。そうすれば沈むことがないのであります。

かんたんに言います。捨てることです。「捨ててこそ」であります。

愛欲の想いを離れ、一切の結び目(束縛)を超え、歓楽による生存を滅しつくした人──、かれは深海のうちに沈むことがない。」