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スッタニパータ494

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

494 偽りもなく、慢心もなく、貪欲を離れ、わがものとして執することなく、欲望をもたぬ人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
偽りもなく、慢心もなく――第四六九詩、『ダンマパダ』第二〇詩参照。

以上註記より引用した。

ダンマパダ(中村元先生訳)
20 たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄とを捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執著することの無い人は、修行者の部類に入る。

偽りもなく

嘘をつかない。子供の頃に誰もが「嘘つきは泥棒のはじまり」と教えられたことと思います。では大人になって今までの人生で嘘をついたことのない人というのはどれだけおられるでしょうか。「嘘と坊主の頭だけはゆったことはない」坊主の頭はともかく嘘を言ったことがないと断言できる人は皆無でしょう。自分では嘘をついたつもりはなくても言った言葉が嘘になることもあるからです。明日の午後三時に会いましょうと約束したとします。ところが急な病気や怪我で約束の場所に赴けない場合もあります。これは嘘にならないかといえば実は約束違反ですから嘘になります。本当のことを話さないことが嘘偽りであるとするなら、どのような理由や言い訳があろうとも、残念ながら「偽り」になってしまいます。では未来の約束をするときにはどうしたら良いかと言えば、ブッダは無言で承認の意を伝えました。現在の日本では考えられませんが、現在のインドでもそういう慣習となっています。これは聞いた話ですから実際はどうか分かりませんが、とにかく偽りがないということは並大抵なことではないと同時に、それぐらいに注意するべきだというのが仏教の徹底ぶりなのです。いい加減なことばかり話すのとは大違いです。下手に冗談も言えないのが元来の教えです。

慢心もなく

この慢心もまた誰にでも身についています。驕りです。極端なことをいえば、自我というのが慢心の最たるものです。俺が俺がの我を捨てて、お陰お陰の悔に生きる。私がこうしてあるのは皆さんのお陰ですと口ではいいながら、内心は自分は少しも悪くないと思っている。こう思った途端に全く逆の方向に歩んでいる証拠だと気づけるかどうかであります。我思うゆえに我ありと、この我にとらわれている間は慢心状態が続きます。無我。どこまでいっても我というものは存在しない。自分だと思っている事自体が根本的な勘違い。我もまた我に非ずと達観して、謙虚に生きることができるかどうかです。

貪欲を離れ

最低限の欲は必要です。お腹が空いたら食事をいただけばいいのです。托鉢で頂いたものを有り難くいただく。そこにはもうちょっとというものがありません。足りないと思うこともありません。必要以上に求めることを貪欲といいます。自分のためのものは最低限にしておく。少欲知足。足るを知る。言葉はかんたんですが、実行は難しい。難行中の難行といわれる所以であります。この貪欲を離れることが出来たら修行は道半ばどころではありません。八合目までは軽くいきます。

わがものとして執することなく

執著しないことです。とらわれない。自分の持って生まれた性分だから、好きでやっているので、誰に遠慮があるものか。これが我がものとしてのとらわれであります。しまいには人のものまで欲しくなる。お金がないのに買ってしまう。安請け合いしてしまう。自分の時間を割きたくない。などなど。無執着の状態になればもうあと一歩となります。頂点は近いのですが、ほとんどの人は、ここまでたどり着けません。それほど執著というのは壁が高いのです。絶壁かもしれません。

欲望をもたぬ人々がいる

欲望を持たない人などいません。そう断言できるほど人は誰でも何かしらの欲望をもっています。ところが、ブッダは「欲望を持たぬ人々がいる」と断言されているのです。不可能ではないということです。登山をするように周到な準備をして身体を整え、一歩一歩登っていく。そうすると成長ですね。だんだんと向上していく。麓から頂上までを一気に駆け上がることはありません。千里の道も一歩から。当たり前ですが、頂上を目指すかどうかです。気がつけば頂上にいる。そういう歩みを続ける。欲望を持たなくていいようになるということです。

気をつけて行ってらっしゃい道しるべ(月路)

所々に道標があって「京まで十里」とか書かれていたりします。この道標というのはよく出来ていて四角い柱の面の方向に矢印で方角まで示してあります。お経というのもこの道標みたいなものかもしれません。行くべき道の方向をちゃんと書いてあります。ところが気をつけていないと、それこそ「お題目、空念仏」になってしまってはあまりに申し訳がありません。毎日毎日こうやってスッタニパータを一句ずつ辿りながら、同じようなことを何遍も読んでいるような気がして、いいかげん飽きてきて、こんなこと何か意味があるのかなあ、と考えでもしたら、簡単に言えば止めてしまうことになります。止めるのはいつでもできますが、意地でも最後までやってやろう。こうした野望を抱いております。これもまた縁ですよ。縁。

偽りもなく、慢心もなく、貪欲を離れ、わがものとして執することなく、欲望をもたぬ人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ483

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

483 「争いを離れ、心に濁りなく、諸々の欲望を離脱し、ものうさ(無気力)を除き去った人、

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
争い――sārambha.'strife'(Chalmers);'quarreis'(Fausboll).

ものうさ――thina.無気力。

以上註記より引用した。

今日からの三つの詩偈が、応供として、真に供養に値する者の性状であります。このことは十分に強調されてよいことかと存じます。ブッダは自身への供養を明確に断りました。詩を説いて供物を得てこれを食することは、決まりに反するからというものでした。しかしながら、どうか供養をしてあげてほしい対象の者がおります。彼らにこそ供養をということで、述べられた話がこの偈文であります。一言一句を噛み締めて頂きたく存じます。

争いを離れ

この「争いを離れ」ということですが、まず基本的な最初の金言であろうと切に感じます。私たちの生活の中には必ずといっていいほど、争いがあります。争いの連続の中にあると言っても過言ではないでしょう。あの人がああいった、この人はこういった。いきなり殴る人は滅多にいませんが、殴る以上の攻撃を受け、あるいはまた攻撃をしているものです。そうした「争い」から離れるとは具体的に何を指すのでしょうか。これが次に述べられる言葉とつながってまいります。詩偈は端的な言葉ですが、くりかえし味わうと本質的な意味が朧気ながら感じ取れる仕組みになっております。読書百遍、意、自ずから通ずというやつです。

心に濁りなく

清浄であるということです。この言葉が「月」をイメージさせます。月は地球の衛星です。遠く離れた存在です。物理的に何の関係もないと思われていますが、月は月の方で、地球の方をいつも見ています。地球からすれば月の片面しか見ていません。地球から月の裏側は観測できないのです。このことが何を意味するかという話ではありません。ただ月は地球の廻りを廻っています。引力の関係ですが、月は地球の方ばかりを向いているのです。そして引力の関係上潮汐運動をもたらします。地球の干満と人間の呼吸に重大な影響をもたらしています。関係が無いと言いましたが訂正します。これ以上は深く申しませんが、月は太陽と同じく地球に多大なる影響を与えている存在であるとだけ申し上げておきます。何が言いたいのかといえば、心とは月のようなものだということなのです。心と月。心に濁りなきということを実感として捉えていただきたいために、このような私論の一端を申し上げました。忘れて下さい。

諸々の欲望を離脱し

解脱の状態というのは、「諸々の欲望を離脱し」た状態と言い換えることができます。何も求めることがないという境地です。そのためには諸々の欲望を満たすことではなく、欲望の全容をことごとく知る必要があります、欲望を知らなければ欲望からの離脱はかないません。欲望というものを真正面から眺めて、何故にそこから脱しなければならないかを深く思慮していいと思います。欲望を完全に肯定してから全否定するということです。人間の欲望を完全に理解し、その上で肯定的な否定を行うというものです。わかりやすくいえば、大金持ちが乞食になるようなものです。まずは大金持ちになりましょう。そして全財産を何ら惜しむことなく捨てましょう。できなければせめて欲望を理解しましょう。その上で、静かに離れることです。未練なく脱することです。

ものうさ(無気力)を除き去った人

ここは重要な部分です。ややもすれば無欲というのは無気力になりがちです。欲望の張りを失った時に陥るパターンです。これでは本末転倒です。無気力になるぐらいなら、欲望満々の方がいいのです。欲望を捨てて、つまり自己保身のための欲望などはあっさりとすてて、気力を養って、大欲のために邁進すればいいのです。ものうさを除き去るというのは、悟った顔をして、自己満足で知識を謳歌することではありません。死ぬまで元気に活動することです。死んだらその時。全てを超越して、元気に動き回る。ものうさとおさらばする。実行。実に行う。何をすればいいのか。それは自分自身が一番知っています。そのことに燃えればいい。そういう感じで受け取ることをオススメします。強制はできませんから。

今日も又飲んで食ったり働いたり(月路)

昨日は久しぶりに奈良に戻りました。やっぱここはええです。住めば都。自分のすみかです。ふるさともええけれどここはもっとええ。なぜなら自分の住所だからです。住んでいるところが極楽です。極楽とは遠いところにありません。今ここが極楽。金鳳は龍巣を栖(すみか)とす。宮崎禅師様から直接戴いた色紙の言葉ですが、今、龍巣たる禅龍寺に住んでいて、こんな幸せなことはありません。敦賀と五條。決して遠くはありません。近いものです。300キロ未満は近所と同じ。そういう風に思っています。

「争いを離れ、心に濁りなく、諸々の欲望を離脱し、ものうさ(無気力)を除き去った人、

スッタニパータ474

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

474 欲望にもとづくことなく、遠ざかり離れることを見、他人の教える異った見解を超越して、何らこだわってとらわれることのない〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
欲望にもとづくことなく――āsaṃ anissāya(=taṇhaṃ analliyitvā.Pj.p,409).したがってブッダゴーサはāsāとtaṇhāとは同義に解していたことが解る。

遠ざかり離れることを見――vivekadassi.'blickt er einsam'(Neumann);'sees seclusion'(i.e.Nibbāna)(Fausboll).註(Pj.p.410)によると、=nibbānadassī.しかしニルヴァーナとvivekaとは別の概念である。

以上註記より抜粋して引用した。

欲望にもとづくことなく

この欲望は言うまでもなく「自己の欲望」です。欲望という概念は広すぎてとらえどころがないのですが、大望とか願いとか祈りとかあるいは志といったものまで欲望として片付けてしまえば「衆生済度」などとさえ口にできません。自己と他己を合せて衆生と申します。生きとし生けるものは全て「己」であります。自分というのは人間の一部分という意味です。人々のためにすることまで、欲望として斥けることを意図しておりません。ここは、自分だけの利益追求、せまい了見にとらわれていないで、そうした個人的な欲をベースにしないと考えたいものです。

遠ざかり離れることを見

遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃。般若心経の一節を思い出さずにはおれません。一切の顛倒夢想を遠離して、涅槃を究竟する。顛倒とは逆さまのことです。あらゆる妄想や逆転した観念から遠ざかり離れて、最後の静かな究極に至る境涯を示しています。つまり死ぬまでにあらゆる煩悩を乗り超えたということです。遠離することによって、はじめて見える。遠離しなければ見えない。近視眼的というか煩悩にまみれていては何も本質が見えてこない。ですから欲望から遠ざかり、欲望から離れている必要があります。

他人の教える異った見解を超越して

このブログの解説も一見解に過ぎません。もっとも自分に言い聞かせることを第一の目的に始めたものですから、人様がご覧になってはなはだ幼稚な見解と映るかもしれません。他人の目を気にせずに書いていますから、腹立たしく思われる向きもあるでしょう。どうぞ「他人の教える異なった見解を超越して」頂きたいと存じます。かんたんに申しますと大目に見て下さいということです。スッタニパータに関する解説は、ネットだけでも膨大な数にのぼります。自らの信ずる所あるいは宗派学派の見解に基づくあまり、我田引水は否めません。やたら難解な仏教学的な、あるいは論(阿毘達磨)を多用した解説も多く見受けますが、中村元先生の翻訳趣旨であるところの「既存の仏教知識から離れてごく一般的な言葉で」このスッタニパータを読み返していただきたい。同じ言葉を読んでも一年前に感じたことと現在はまるきし違うこともあります。それでいいと思います。他人の教える見解も自分が思っている見解も超越してまいりましょう。それが成長というものです。

何らこだわってとらわれることのない

何にもこだわらない。何にもとらわれない。こだわらない、とらわれない。これを「欲望と執著の対象が存在しない」などと申しますと、とたんに訳がわからなくなります。そういう人間離れした境地がブッダの到達された境地なのだ、と。これが究極だと。だから尊崇するのだと。そうなのかもしれませんが、そうであれば地上の人間はいつまでたってもブッダに近寄ることさえできません。まるで神のように崇め奉る以外ないでしょう。あの本は読んだ。この本も読んだ。そこにはこう書いてあった。だからこう考えるべきだ。これがこだわりで、とらわれの最たるものでしょう。そうではなく、小難しい学問は脇において、毎日の実践の中で、こだわらない。とらわれない。教えというものが本棚に並べられた知識では申し訳がない。実行。黙って実行するほかないと声を大にしておきます。

黙ってな実行するのが真理やで(月路)

昨晩、ある酔っぱらいからの電話。なんや、こんな時間に、しょうもないことで電話してきよってからに。とっさに昔ながらの感覚で電話を聞いていました。こんなにもブッダの言葉を読んでいるのに、とっさの感情というものはそうそう変わりません。電話を置いてから、ふとブッダの声がしました。「黙ってな、実行するのが真理やで。」あっ、そうやな。声は訛っていますが、自分の耳に親しんでいる敦賀弁でした。父や母、姉の使っていた言葉のトーンでした。ありがと

欲望にもとづくことなく、遠ざかり離れることを見、他人の教える異った見解を超越して、何らこだわってとらわれることのない〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

スッタニパータ469

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

469  偽りもなく、慢心もなく、貪欲を離れ、わがものとして執著することなく、欲望をもたず、怒りを除き、こころ静まり、憂いの垢を捨て去ったバラモンである〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
偽りもなく、慢心もなく……――第四九四詩に同じ。ここに数え立てられている煩悩はジャイナ教のそれと合致し、後代の小乗仏教の体系からは離れている。ジャイナ教では古来主な煩悩を怒り(koha=krodha)、慢(māṇa=māna)、いつわり(māyā)、貪り(lobha)を挙げるのが通例である(中略)。そうしてこの一組みは後代の文献にも継承されている(中略)。この四つは汚濁(煩悩 kasāya)と呼ばれている。修行者はこの四つを断じなければならないのである。なお第三二八詩参照。

以上註記より抜粋して引用した。

ではどうしたらこのように澄んだな水のような心に成れるのでしょうか。ここが今日のポイント(ブッダの声の透徹したところ)かと思います。後代に三毒と呼ばれまとめられることになる「貪瞋痴(とんじんち)」すなわち「貪り、怒り、愚かさ」は心の毒のようなものであると考えると、それはいつまで経っても消すことが出来ない煩悩ということになってしまいます。すなわち何かにすがって消してもらいたいと願う信仰に結びつき祈願に向うのです。

そうではなくして「わがものとして執著することなく」と述べられているように、我執に気づくことが基本です。我がものと思うからこそ、また自分というものにとらわれているからこそ全ての煩悩が生じるのであります。全ては空であると思い知ること。これが核です。本来は何も無い。五官によって感覚が生れ、自己中心的にものごとを捉えてしまっているのが現実です。あるがままを見ていないということです。自分勝手に悩んだり苦しんでいる、全ての原因です。この原因となっている考え方をあっさり手放してしまうことです。

そうしないと我執によって「怒り、慢、いつわり、貪り」の四つを断じることは永遠に為しえません。なぜ怒るのか腹が立つのか。なぜ驕り高ぶりが生じるのか。なぜ嘘をついたり騙してしまったりするのか。なぜに欲望が次から次へと生まれるのか。それは汚れて濁った水(汚濁水)だと分かってはいても、自分ではどうしようもできない。人間なんだから。そういう結論で片付けてしまいます。しかもその方がずっと楽ですし慰めになると本気で思っています。腹が立つのは全部人のせい、世の中のせい、だから戦わなければならないと真剣に憤っている。愚の骨頂です。

取り組むべきは空を知ることです。この世の現実は空であります。空を完全に自分のものにしたとき、一気に「偽りも、慢心も、貪欲も、欲望も、怒りも」全てが無くなります。そうした心が生じなくなります。生じませんから消す必要もありません。「心が静まり憂いという垢」も生じない澄み切った水のようになるのです。何を見ても何を言われても、たとえ棒で頭を叩かれようが鞭打たれようとも、穏やかな顔でおられるのです。腹が立たない。動じない。これが解脱の姿であります。蛇が皮を脱いでしまうようなもの。脱皮であり脱出です。自己からの解脱。無我ということです。

キリストも釈迦牟尼仏と成給う(月路)

昨日久しぶりに「ベン・ハー」を観ました。十字架を背負って丘に向って歩くキリストをローマの兵士が鞭打ちます。よろけながらも、地に倒れても、血だらけになって傷つきながらも、そのお顔は穏やかで澄んだ瞳をされていました。映画ではその顔を映し出しませんが、人々は驚くのです。そして悲しみます。ところがキリストは磔刑のまさに命終えんとするとき、静かに述べます。「父なる神よ、人々を許し給え。彼らは罪を知らないのです」と。

かれもまた人として生れた神であります。そしてわたしは「キリスト様もブッダである」とさえ思えました。数々の逸話はともかくも、わたくしというものが無い。超越とは超のつく能力なんかではありません。正に乗り超えたのです。人々の苦しみの原因がほんとうにわかっていたのです。それは空(くう)を知ったことに他ならないと思います。罪と表現しようが煩悩と呼ぼうが、それは文字の差程度のものです。言葉では表現できない「あるがまま」が空そのものであります。

偽りもなく、慢心もなく、貪欲を離れ、わがものとして執著することなく、欲望をもたず、怒りを除き、こころ静まり、憂いの垢を捨て去ったバラモンである〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

スッタニパータ467

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

467 諸々の欲望を捨て、欲にうち勝ってふるまい、生死のはてを知り、平安に帰し、清涼なること湖水のような〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
全き人――tathāgata.漢訳仏典では普通「如来」と訳される。
 
以上註記より引用した。

1,まず内なる欲望を捨てる。

2,つぎに外なる欲に負けない。

3,そして生死を明らかに知る。

4,解脱して心の平安に至る。

清涼な状態にある人。まるで湖水のごとくあられる如来(タターギャタ)。完全なる人。ブッダのことです。そのような人こそが献菓されるに相応しい、供に応ずる(応供)方である。供物を受け取るに値する尊き人であるといいます。ですから私たちは仏様に供物をささげるのであります。

今日からはまた新しい締めの言葉が繰り返されます。「〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。」です。こういう繰り返しを漢字圏では韻を踏むといいます。漢詩などでお馴染みの手法ですが、仏典ではいささか意味が異なります。それは、強調であると同時に共通項ともいえます。この詩でいえば、供物をささげるに値するかどうかが問われているわけですから、順序よくその修行を完成させなさいということを一番教えてあげたい。そういうブッダの優しさがにじみ出ていると思います。

なぜなら世間での商売であれ仕事であれ家事であれ芸術や科学であれ、到達したように見えて、その実、完成に至ることは決してありません。それこそ一生が勉強といえば勉強。修行と言えば修行で終わるわけです。完成ということがないのです。ところが、ブッダの教えときたら完成があるのです。解脱そして涅槃であります。ブッダと同じ状態に成れる。信じられないことのようですが、これは挑戦に値することです。

今から発見したり発明する必要はありません。ブッダのつけた道を愚直に歩むかどうかです。自分にはとても無理と思えば無理です。可能かどうかはやればわかります。難しく考えれば出来ません。やるかどうか。教えられたとおり実行する以外に道はありません。教えに酔うことなく、教えのとおりやっていく。坐禅を毎日していればわかります。していなければいつまでたってもわからない。ただそれだけの話しです。

ただ坐る他にあるなら出してみよ(月路)

一年の計は元旦にあり。では一日の計は?もう坐禅しかないでしょう。一日の計は坐禅にあり。昨日は朝から桜井市の斎場にお葬式で出かけ、帰ってから夕方まで雪除け。遅くまでほとんど明日の法要の準備でした。少々筋肉が痙攣気味ですが、それでも朝の坐禅が一日響いています。ただ坐っているだけですが、一息一息だけなのですが、40分間の静けさは一日中鳴り響いています。うまく言えませんがそんな感じです。

濁りなき心の水にすむ月は波もくだけて光とぞなる(道元禅師)

諸々の欲望を捨て、欲にうち勝ってふるまい、生死のはてを知り、平安に帰し、清涼なること湖水のような〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

スッタニパータ445

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

445 かれらは、無欲となったわたくしの教えを実行しつつ、怠ることなく、専心している。そこに行けば憂えることのない境地に、かれは赴くであろう。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

この詩での彼らとは、ブッダの教えを聞く者たち、すなわちブッダの弟子のことを指しています。自らの思いを制し、自らの言動に気をつけていることが無欲ということです。無欲の鑑がブッダであることを示しています。この無欲をわざわざいうまでもないとする解説もありますが、わたしはブッダの教えというのは、ある意味、無欲になることであると思います。

ほしがらない、とらわれない、こだわらない、現実にこうした境地に至るには無欲でなければできません。せめて少欲知足でなければ、いつも何かをほしがり、いつも何かにとらわれ、いつも何かにこだわるものであります。無欲というのは、口でいうのは簡単です。ところが無欲の人などいないわけです。はっきり申し上げれば、ブッダが無欲でなければ、悪魔を滅ぼしたと聞いたぐらいでブッダの弟子になる人などいないのではないでしょうか。頭からブッダを尊崇しているのならばともかく、わたしは無欲になったブッダだからこそ、安心してついていくことができるのだと思っています。

無欲ほど到達しがたい境地は他にありません。客観的な尺度で「無欲」ほど強いものはないと思います。私は無欲であると本心から言える人は皆無でありましょう。「そこに行けば憂えることのない境地」とは「無欲の境地」のことであると思います。政治家が無欲といい、商人が無欲といい、役人が無欲といい、ボランティアに携わる人々が無欲であるといい、宗教者が無欲だといいましても、はたして無欲とは言わないし言えないでしょう。

良いところに行きたい。死んだら天国にいきたい。地獄には行きたくない。信者がほしい。名誉がほしい。感動がほしい。地位がほしい。賞賛がほしい。感謝されたい。尊敬されたい。信頼されたい。信用がほしい。実績がほしい。あれも食べたい、これも食べたい。あれを着たい、これも着たい。ここに住みたくない、あそこに住みたい。数え上げればキリがないほど欲望の日々です。およそ無欲とは無縁の日々であります。欲望を無くしていくことが、無欲です。少しずつ無くしていく。人生の道は欲望を捨てていくというより、少なくしていく道でもあるわけです。そうして死の直前になって、何もほしくないかと聞かれたときに、何もいらないが、何もほしくはないが、時間がほしい、死にたくないというのです。

命も惜しまない、すっかり無欲となった人の姿がブッダその人の姿でありました。その姿をみた人は分かるのです。衣だけをまとい、与えられたものだけを食し、林の中、樹の下で過ごす旅人。その顔と姿は光り輝いていたといいます。神々しいお姿であったのです。無欲。無欲となった人。それが悟った人であります。無欲の人の教えを実行する。不放逸。怠ることなく専心している。その人もまた無欲に近づくのは当然であります。

大寒や 梅の蕾の 春きざし (月路)

今日はなんと大寒です。あっという間に正月が過ぎ、玄関近くの梅の蕾がいっそう膨らみました。「自然は立派やね」とは宮崎禅師の言葉ですが、毎年きちんと時が来たれば花がさくと申されておりました。道元禅師さまも梅がお好きで、なぜかといえば、一番先に咲くからだと聞いた覚えがあります。誰がみていなくても山のなかでも美しい花が咲く。これは無欲無心の姿であろうと存じます。ああして欲しい、こうして欲しいというものが一切ない。自然ということ。それもありきたりの自然ではなくして、大自然であります。大空や大地。この天地の営みに心をむける。大心。大事です。今日は大寒。少しも寒く♪♪♪ないわ。

かれらは、無欲となったわたくしの教えを実行しつつ、怠ることなく、専心している。そこに行けば憂えることのない境地に、かれは赴くであろう。」

スッタニパータ441

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

441 或る修行者たち・バラモンどもは、この(汝の軍隊)のうちに埋没してしまって、姿が見えない。そうして徳行ある人々の行く道をも知っていない。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

ナムチの軍隊に埋没してしまって姿の見えない修行者とバラモン。欲望を先陣とする数々の軍隊にすっかり滅ぼされた者たちは、もう修行者でもバラモンでもない。それで姿が見えない。攻撃に破れ沈み消されてしまったわけであります。

なんとも凄い言い方ですが、結局ナムチ軍に勝てるものはほんの一握り、いや勇者というのは全く稀有であります。これは現実をありのまま表現しているのでありますから誰もこれを否定しえません。

修行などと軽く口にも出せないのか?

後に仏教は聖道門と浄土門に大別されることになります。私はこの分類にはほとんど意味がないと思っておりますが、とにかく自力と他力といった考え方が現れることになります。そもそもブッダ釈尊は自力や他力どころか、そういう仏教的なことは何も仰っていないのです。ブッダの話を聞いた人が、私はこのように聞きましたという話を体型的に分類整理していったものが後代に仏教として伝えられたわけです。それを否定しようというのではありませんが、肯定しすぎると的が外れていきますよということだけは申し述べたいと思います。

今日の詩句だけを見れば、欲望や妄執などに打ち勝てる者はほとんどいないのが現状なのですが、それでは修行に意味が無いのかといえば、それは全く違います。爪の垢でも煎じて飲めばよろしい。完全な人など居ないというのは事実ですが、完全なものを求めているのも事実です。だれだっていい加減な人間を信用しないのと同じことです。素晴らしい人がいる。そういう人が現実にこの世に居た。それだけでも救いであります。宗教はそういう完全な人、あるいは絶対的な存在に帰依したいという欲望であります。それは一言でいえば幸せになりたいとか幸せでありたいといった純粋な希望でありましょう。

聖道門というのは悟りの仏教、これを自力といっています。浄土門というのは救いの仏教、これを他力といっています。この分類に意味が無いと思うのは、悟りも救いも自力も他力も分ける必要がないと思うからです。たとえば南無阿弥陀仏と念仏するのは自力であり他力であります。念仏をお唱えするということ自体が自力ですし、それで救われるのですからこれは他力である。坐禅や唱題とて同じ。やらなければ何にもならないし、決して自己満足ではないでしょうし、坐禅や唱題をしたからといって何にもならないなら誰もしないでしょう。

全て意味はあるのです。ただわからないだけです。真理がわかったということは何も解っていない証拠です。わかるわけがない。そう思って正解。小難しい理屈や妙に説得力のある解説に少し気分がよくなる程度だと思っておきましょう。自惚れや他惚れ?に気をつけましょう。徳行ある人々の行く道というのは、いわゆる天上、極楽、お浄土への道のことです。そうした道も知らない、知っていない、知ろうともしないナムチの下僕になるなと申されております。しかしナムチは知っているのです。だからそれを断念させようと躍起です。

一つでも 貫けば善し 寒の入り (月路)

ブッダのように完全を貫くことは無理です。しかしながらブッダの爪であるところの優しさ、慈悲のかけらでも実行しましょう。それだけでも凄いことなんですよ、実際。謙遜というのは、自分を小馬鹿にした言葉ではありません。こんな私でも何か出来ることをさせてもらいたいという謙虚で慎ましい姿勢と態度であると思います。うちの檀家さんで、金銭的には何も出来ないと言われつつ、奉仕作業に朝早くから熱心に取り組まれる方がおられます。頭が下がります。指先の感覚がなくなるほどの冷たい水で洗い物をされている姿。人が見ていないなか神社の落ち葉をかき集めておられる姿。いつのまにか、お地蔵さんに供えられている野に咲く花。観音様に供えられていた十円玉。どれも真心。これが信心。年いったのでしょうか、やたらと涙もろくなってきました。不言実行。徳行。やっぱいい言葉やね。

或る修行者たち・バラモンどもは、この(汝の軍隊)のうちに埋没してしまって、姿が見えない。そうして徳行ある人々の行く道をも知っていない。

スッタニパータ436

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

436 汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執といわれる。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
嫌悪――原文にはaratiとあるが、パーリ原典協会のパーリ語辞典の解釈に従う。註にはadhikusalesu dhammesu arati=abhiratiと解す。

第四の軍隊としての「妄執」(taṇhā)の原語はもともと渇を意味するが、ここでは第三の軍隊を「飢渇」(khuppipāsā)と呼んでいるから、taṇhāと「渇」(pipāsā)とは別の概念である。taṇhāは人間存在の奥にある意識下の、衝動的なものであるが、pipāsāは生理的な概念である。

以上註記より抜粋して引用した。

つぎの詩句では、ものうさ・睡眠、恐怖、疑惑、見せかけ・強情、さらには利得・名声・尊敬・名誉、また自己を褒め讃え他人を軽蔑すること、と続きます。これらはナムチの軍勢であると喝破されるのであります。いかがでしょうか。なにも言えません。人間に巣食う本質にみごとに迫っています。これはブッダが発見されたものではありません。だれにでもある人間性ですし、ブッダ自身のなかに存在していたものです。それを明確にされた。よく勘違いしてしまう態度に、自分はそうではない、人々がそうだという奢りがだれにでもあるものです。その部分が一番大事で、哲学的に本質を見定めることが目的ではありません。現実に、これらの軍勢を打ち破らなければ、解脱など遠い夢のような話で自分には全く関係ないことになってしまいます。

まず今日は、第一から第四の軍勢を肝に銘じておきたいものです。欲望が第一です。全ては欲望に帰一します。全部自己の欲望から派生したものばかりです。だれでも自分が一番大事です。それを一言でいってしまえば、「欲望」なのです。この欲望をしっかり見つめることから始めたいものです。ついで嫌悪。自分が可愛いゆえの嫌悪、人の欠点が見えてしまう、嫌だと思うことです。これについては他人の悪口をいうのが証拠でしょう。胸が痛みます。さらに飢渇。飢えと渇き。腹が減った、喉がかわいた。なんでもないことのようですが、食べ物、飲み物によって自分の身体が出来ています。口にするものが人間を維持しているのですが、これに貪欲であるとどうなるか。結果は歴然としております。少欲知足。足るを知らなければ、大変なことが待っています。ときには断食をすることも必要かもしれません。そして妄執。妄想と執著。この大軍勢は難敵です。この妄執が生え抜きの精鋭部隊ですから、ここまでであっさりと陥落してしまいます。

餅が割れ 鏡開きぞ 何しとる (月路)

正月もはや半ば。時は急流。もろい筏にのって竿をさしておりますと、転覆どころか筏ごとバラバラになってしまいそうです。年末にやり残したことを、まあいいやとそのままにしておいたつけが、いつやってくるかとハラハラしながら目移りばかり。困ったものです。何かに集中していると、これは後でいいや、放おっておこうと思い、事実そのままにしておく。悪い性格が最近もろに出ています。反省と謝罪。どこかの国のようですが、これも欲望ですね。第一の軍勢だけで充分です。わたしを倒すのは。今日はここまで、また明日。

汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執といわれる。

スッタニパータ424

第三 大いなる章

〈1.出家〉

424 諸々の欲望には患(うれ)いがあることを見て、また出離こそ安穏(あんのん)であると見て、つとめはげむために進みましょう。わたくしの心はこれを楽しんでいるのです。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
諸々の欲望には患(うれ)いがあることを見て……――第一〇九八詩参照。

1098 師(ブッダ)は答えた、「ジャトゥカンニンよ。諸々の欲望に対する貪りを制せよ。──出離を安穏であると見て。取り上げるべきものも、捨て去るべきものも、なにものも、そなたにとって存在してはならない。
 
以上註記より引用した。

出家の姿、外観は普通の人々と何も変わりません。立派な衣を着ているとか、僧侶としての高い地位に在るとか、修行年数であるとか、どこのお寺の住職であるとか。そういう外観は全く何も関係ありません。これは内面の問題であります。当り前ですが、これをわかっていない、わかろうともしない人々が適当に批評しているだけであります。出離というのは、とらわれから抜け出し、こだわりから離れることです。形だけ出家したとしても、この出離という安穏を知らなければ、もったいない極みであります。

一言で申せば、普通の人々は一日中妄執で過ごすのです。あの人はああ言った。この人がこう言った。そんなどうでも良いことにうなされながら、ああでもない、こうでもないと妄想をめぐらし、どうしよう、こうしようと執著して一日を過ごしています。疲れないはずがありません。そういう物事を一々取り上げていたら、どんどん欲求不満が溜まりに溜まって、捨てるに捨てられないゴミのようなものが頭にいっぱい溜まってまいります。心のゴミ屋敷を自分でつくっています。取り上げるべきものも、捨て去るべきものも何もない。ガランとした心のなかにする。いわば心の断捨離を進めることが、つとめはげむこと、つまり精進、努力なわけです。こんな具体的なことはありません。

精神論という言い方があります。心の内面を皮肉った、とても嫌な言い方があります。そういう人に限って、自分は完全でありリアルスティックであると本気で考えています。現実が現実でないとは申しません。また現実は現実だとも断言できません。何が平安で平穏なのかを突き詰めれば、出離以外にないのであります。何をしていても囚われない拘らない。誰から何を言われてもたじろがない。そういう不動の精神、安穏の境地。これを楽しむこと。これが出家の覚悟でなくして何でありましょうか。

こうなりたい。こう思われたい。わたしは間違っていない。これが最も大きな欲望なのです。自己への囚われ、自分自身が自分自身によって束縛されていること。さまざまな欲望には患い、憂いがあること。自分を苦しめているのは自分自身であること。これが憂い(患い)であることにいち早く気付いたものが出家するのであります。般若心経は全てを否定しています。ブッダの教えとされる四聖諦や八正道、十二因縁さえも「無」とします。これは無いという軽い意味ではありません。こだわらない、とらわれないということです。出離を無と表現したのです。理論武装に仏教をもってするなどは、以ての外であります。

わたしが「スーパー坐禅」を提唱するのは、こうした仏教者が陥りやすい、あるいはどっぷり浸かった完璧主義に、堂々と反旗を翻すものであります。あらゆる観念を捨てる。あらゆる権威から離れる。騒音の中で坐禅ができなければ、家族の声が飛び交う中で坐禅しなければ意味が無いのです。誰が何と言おうと、まるで仏像のように坐っている。寝ながらでも坐禅はできます。否、坐れない人が、あるいは寝たきりの方でも坐禅できなければ、意味がありません。やれ禅宗だ、仏教だという狭い了見で坐禅を捉えるのは、スタイルや格好、場所にこだわりすぎているからです。もう黙っていられません。

坐禅など 忘れてしまえと 暮晦日 (月路)

道元禅師は「普勧坐禅儀」と書かれた。これは誰にでも坐禅を勧めるというものです。年齢、性別、学歴、出自、宗教宗派、思想に関係なく、坐禅しましょうと仰ったではないか。坐禅と出離は同じ意味です。出離を楽しむことと坐禅を楽しむことは全く同義です。何も考えないというのは、考えないということを考えるというものです。非思量は非思考のことです。思考ではない思考。それをどう実現するかを「工夫」といいます。一つにこだわれば、それがこだわりです。人それぞれの坐禅があっていいのです。銘々各自の坐禅なのですから。

諸々の欲望には患いがあることを見て、また出離こそ安穏であると見て、つとめはげむために進みましょう。わたくしの心はこれを楽しんでいるのです。」

スッタニパータ423

第三 大いなる章

〈1.出家〉

423 姓に関しては〈太陽の裔(すえ)〉といい、種族に関しては〈シャカ族〉(釈迦族)といいます。王さまよ。わたくしはその家から出家したのです。欲望をかなえるためではありません。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
みずから「太陽の裔」と称していたのであるから、ここには太陽崇拝の痕跡が認められる。中世のインドの王家には、太陽の末裔と称する王家と、月の末裔と称する王家とがあった。
 
以上註記より引用した。

太陽の末裔というのはインド神話からきたもので、ゴータマという姓が神話のリシという聖賢の子孫だという極めて難解な話になりますから、ここではそういう学問的な話は脇において、釈迦族の王家の出身だと名乗ったということでいいでしょう。なお、日本には八百万の神々の神話がありますように、インドにも古来より数多の神々が伝承されています。太陽の末裔釈迦族、日本では天照大神の子孫が皇室と呼ばれているようなものです。

問題はその後です。その王家から出家したというのです。何不自由なく育ったが出家した。王位の継承者であったが出家した。王家では大変困るであろうが出家した。欲望を叶えるためではありませんと、きっぱり断言しています。これにはビンビサーラ王の方でカウンターパンチを食らったようなものでしょう。人には欲望がある。それは願望であったり希望であったり、はたまた熱望かもしれません。目的とか目標とか言葉は違っても、煎じ詰めれば全てが欲望といえば欲望であります。そうした世間一般の欲望から全て離れたのです。地位や名誉、財産を得ること、あるいは王位継承者としての権利義務の一切を捨てたわけです。

家族をも捨てた。世間から見れば最低です。普通は許されるものではありません。出家というのは命惜しさに出家するのならやむを得ないとされていますが、何かに失敗して責任をとって出家することもあったでしょうが、自分から何の問題もないのに出家するというのは、ただごとではありません。普通は考えられないことでありましょう。この時代には仏教がまだ成立していないわけですから、前例がほとんどなかったのではないでしょうか。後代にはブッダ釈尊の志を継承して、インドや中国の王族でも、日本の天皇家や貴族でも出家されていますが、当時バラモン階級以外の者が出家することは大きなタブーであったのです。

家いでて 帰ることなき 年の暮(月路)

ここはビンビサーラ王ならずとも次の言葉を待たざるを得ません。なにゆえ欲望を叶えるという人生の一大事をあっさり放棄したのか。王位を蹴ってでも求めたものは何なのか。それほど大事なことがあるのか。興味津々であります。欲望をかなえるためでないなら、いったい何があるというのだ。修行して何になる。そもそも出家とは何なのか。疑問がふくらみます。ああわからない。はやく言ってくれ。王はそう感じたに違いありません。なぜなら、出家する者の気持ちは出家しようと決めた者でなければ決して理解できないからであります。理屈では幾らでも納得もするでしょうが、評論家であれば見事に言葉で説明できるかもしれませんが、実際に出家した者から聞く言葉は、ともあれ実に単純なものでありました。

姓に関しては〈太陽の裔〉といい、種族に関しては〈シャカ族〉(釈迦族)といいます。王さまよ。わたくしはその家から出家したのです。欲望をかなえるためではありません。