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スッタニパータ559

第三 大いなる章

〈七、セーラ〉

559 わたしに対する疑惑をなくせよ。バラモンよ。わたしを信ぜよ。もろもろの〈さとりを開いた人〉に、しばしばまみえることは、いともむずかしい。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

さとりを開いた人(sambuddhāna:正覚者)に遭うことは稀有であるから疑わずに信じなさい。開経偈に「百千万劫難遭遇」とあります。一劫は一説に43億2000万年と言われていますから、とてつもない時間を経て、われわれはやっと真理に遭えたというわけです。真理を知ったということです。これは如来の真実であると説かれています。

これは私達の心を読んで話されたことだと思います。どこか心から信じていない部分があるものです。それを見通して、疑惑を無くしなさい、信じなさい、と強調されました。ということは、仏陀以外に会って真理でないことをさんざん聞いてきた者が、真理そのものに出会っても俄には信じられないであろうという深い慈悲からであります。またや偽物に出会ったと勘違いして、せっかくの縁(チャンス)を逃してどうするのといった具合でしょう。

機縁(チャンス)

縁というと軽く考えがちですが、これは七億円の宝くじに当たるよりも確率の低い稀有なことであるという貴重なことであります。「チャンスの女神には後ろ髪が無い」という西洋のことわざがあります。Take the Fortune by the forelock.という西洋の格言から、チャンスはその前髪を捉えよといった意味です。通り過ぎてからでは、もはやその縁はつかめないという現実を示しています。もちろん逃してしまっていい縁もたくさんあるわけです。何でも掴めばいいものではありません。ここが大いに迷ってしまう原因であります。

仏縁という言葉があります。この言葉自体は一般に安易に使っておりますが、じつはとんでもないことであります。むかし、ある遊女が戯れに尼さんの格好を真似て笑っておりました。ところが次の生に本物の尼さんになり、また次の生では悟りを得たといいます。このような話は枚挙にいとまがないほど仏典に出てまいります。これはものの喩えといった軽いことではありません。昨日のご朱印を見ただけでも、またブームに乗った「御朱印ガール」や「仏像ガール」とてどのような仏縁法縁僧縁を頂戴するかわからないのです。わたしの拙いブログとて、ちらっとアクセスしただけでどのような法縁をつかむかしれないのであります。これは言いすぎですが、仏法というものは人知において計り知れないということだけははっきりと申せましょう。諸法皆是因縁生しょほうかいぜいんねんしょうと申します。世のあらゆることは全て縁に因りて生じるということです。

お弁当箱の歌にも泣けてくる(月路)

年のせいか涙もろくなってきております。NHKのみんなのうたという番組で、半崎美子さんの「お弁当ばこのうた」という歌がかかっておりました。子供向けの歌かと思って聞いておりましたら、最期の最期に泣かされました。奈良の姉さん、この間のお弁当ほんとうに美味しかったよ。お花もたくさんありがとう。

わたしに対する疑惑をなくせよ。バラモンよ。わたしを信ぜよ。もろもろの〈さとりを開いた人〉に、しばしばまみえることは、いともむずかしい。

スッタニパータ446

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

446 (悪魔はいった)、「われは七年間も尊師(ブッダ)に、一歩一歩ごとにつきまとうていた。しかもよく気をつけている正覚者には、つけこむ隙(すき)をみつけることができなかった。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
つけこむ隙――otāra.ṃ.chance;fault(Mayrhofer:PaliGrammatik,Bd.Ⅱ,p.95f.)=randhaṃ vivaraṃ(Pj.p.393).

みつけることができなかった――nādhigacchissaṃ(=nādhigamiṃ.Pjp.393).ただしādhigacchissaという読みを採用すると、'he would have attained'(Mayrhofer:PaliGrammatik,Bd.Ⅱ,p.95f.)となる。

以上註記より引用した。

悪魔ナムチの敗北宣言

ナムチは正直に素直に敗北を認めます。自らの心と行いに常に気をつけているブッダには、悪魔のささやきが通用しませんでした。一歩一歩ごとにつきまとったナムチでしたが、ついに付けこむ隙間がなかったと述懐します。この敗北宣言は、後に神話的に述べられたものとは思えないほどの現実味があります。なぜならば「われは」という主語は文脈としてはもちろん悪魔ナムチのことですが、これはブッダ釈尊自身の回想でもあるからです。かれの内心に悪魔があらわれます。幾度となく甘い言葉が浮かぶのです。だれでも分かるはずです。やめる。怠り。断念。そうした言葉自体が頭に浮かぶのはやむをえません。これが悪魔の正体です。言葉によって、頭に浮かぶ言葉によって人は行為を選択するのです。悪魔の言葉に勝つか、負けるかのいずれかを選ぶことができるのであります。

正覚者ブッダの勝利宣言

私たちの妄想や執著あらゆる観念は、すべて言葉・言語で出来ています。このことは言うまでもないことかもしれません。しかしながら言葉の強さを意識しなければ観念を克服することはできません。どのような言語であれ、言葉は悪魔にも神々にもなります。言葉は凶器どころか悪魔そのものに成り得るのです。また言葉は友であり家族です。自らに励ましを与えてくれ、あるいはいたわり、あるいはなぐさめ、癒やしてくれるのも内なる言葉です。ですから譬喩としての悪魔ではなく、現実に悪魔がつねにつきまとっているわけです。六年間の修行の間はもちろん正覚者となった後の一年も、あわせて七年間を振り返ったときに、いつの時にも悪魔の言葉に動揺することがなかったと釈尊は正直に述べておられるのです。

精励ということの本質

精励、努め励むということは、結局自身の中の言葉で決まります。このことを悪魔との戦いとして表現されています。怠けを悪魔と呼んだのであります。世間一般でもよく魔が差すといいます。悪い行為は悪魔という化け物が勝手にさせたのではありません。悪い言葉の通り行動した結果であります。怠けたのは「怠け」という言葉によって怠けたのです。疲れたとか調子が悪かったというのも全て言い訳です。勝利を得るためには自身の言い訳を許さないことでしょう。朝起きられない。なすべきことを先送りにする。そうした甘えが自身の中にあるときに精励とは程遠い悪魔に敗北した姿、様子となります。

大統領 就任式の 言葉かな (月路)

日本時間の今日未明、合衆国の大統領にトランプさんが就任しました。今日からはトランプ大統領ですね。この就任式の模様をテレビで見ました。政権交代がこのように平和裏に執り行われる風景にあらためて感慨を深くします。世界では戦争を繰り返し、醜い争いどころか殺戮が日常の国や地域がまだまだ沢山あります。演説の内容や支持の割合はともかく無事に就任されたことを素直に賞賛したいと思います。関係者の努力でしょうね。これに尽きると思います。何事もなく無事であることは、努力、精励の賜物。人々に感謝を述べる大統領。言葉はいかようにもなるものです。言葉に気をつけます。

(悪魔はいった)、「われは七年間も尊師(ブッダ)に、一歩一歩ごとにつきまとうていた。しかもよく気をつけている正覚者には、つけこむ隙(すき)をみつけることができなかった。

 

スッタニパータ177

第一 蛇の章

<9、雪山に住む者>

177 世に名高く、微妙な意義を見、智慧をさずけ、欲望の起る根源に執著せず、一切を知り、よく聡明であり、気高い路を歩みつつあるかの大仙人を見よ。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
気高い路を――ariye pathe…….
以上註より

この詩句は前句と同様ブッダの偉大な聖人としての資質を示したものでありますが、この中で一つ他者への行為が述べられています。それは「智慧を授け」とある部分です。ブッダは弟子を統率したり管理することはなかったのです。「如来は道を教える」つまり智慧(教え)を授けてくださいます。迷っている者に求める道を指し示すようにして、ただ道を教えているのです。そして自らが気高い路であるブッダ(正覚者)としての路を歩まれるのであります。

制圧によって得た権威によって偉大な聖人となったのではありません。中身もないのに周りが祭り上げた象徴的な存在でもありません。自ら悟り得た微妙な智慧と一切の世間の理法を知り、実践し続けた故の大勝利であり、史上最大の勝者であります。

世に名高く、微妙な意義を見、智慧をさずけ、欲望の起る根源に執著せず、一切を知り、よく聡明であり、気高い路を歩みつつあるかの大仙人を見よ。