タグ別アーカイブ: 沙門

スッタニパータ551

第三 大いなる章

〈七、セーラ〉

551 あなたは見るも美しい修行者(比丘びく)で、そのはだは黄金のようです。このように容色がすぐれているのに、どうして〈道の人〉となる必要がありましょうか。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

道の人というのは沙門(道を求める修行者)のことです。あなたは、在家であれば、かの転輪王にも成れるのに何ゆえに修行者に甘んじているのですか?という賞賛です。

ここが一般の方には解らないところかもしれません。世間でも充分活躍できる人が何故に出家してお坊さんになったのですかという疑問であります。これに対する回答は、道元禅師さまが大変わかりやすく答えていらっしゃいます。正法眼蔵のなかで、「西天伝仏正法眼蔵の祖師のなかに、王子の出家せるしげし。いま震旦初祖、これ香至王第三皇子なり。王位をおもくせず、正法伝持せり。出家の最尊なる、あきらかにしりぬべし。」とあります。

かの達磨大師は香至王というインドの王様の第三皇子でしたが、出家されました。インドや中国あるいは日本では天皇や皇太子といえども数多く出家されています。地位や名誉あるいは幸福な生活をあっさり捨てるだけの価値が出家にはあるのです。王位さえ捨てるのに、大したことのない地位や名誉あるいは自己満足が、なぜ捨てられないのであろうかということを明らかに知りなさいという意味です。これにはムッとされる人が多いのではないでしょうか。実は、わたしもムッとした者の一人です。

出家の大義

年齢、性別、出自を問わず、出家することは最上最尊であります。これは、誰が何と言おうと仏家の原則です。くやしかったら出家しな。わたしはその一言で出家を決意しました。とくに永平寺の道元禅師ときたら、出家第一主義であります。出家にも色々ありますから、程度の差は歴然としています。中にはわたしを含めて、とても出家されているとは思えないお坊さんも多いと思います。世間と同じようにピンからキリまであるでしょう。それでも出家は最上の選択なのであります。とくに吾が曹洞宗のお葬儀は、なんと得度式です。お坊さんになる儀式であります。生前は、いろいろな事情で出家できなかった人であっても、亡くなった以上は、お坊さんになって頂くのが、亡き人を最高の儀礼で見送る方法なのであります。

であれば、生前に戒名を戴きましょう。文字通り出家しましょうということです。出家すれば、実は仏の方からアクションがあります。その人に見合ったメニューが用意されるということです。命ある間に最上の仏縁を戴きましょう。すると、あなたにしか出来ないことが、ちゃんと仏さまの方から用意して下さるのであります。生きた証となるばかりか、後生において、すばらしい役割りを与えていただけます。

このように書くと、まるで仏教のセールスマンのようですが、買うか買わないかは完全に自由であります。押し売りしたくてもできません。それは機縁というものが熟していなければ、どんなに出家したくても出家できないからです。無理しないでください。何度生まれ変わってでも、いずれは出家されます。それがこの仏教を知ったご縁、法縁というものです。早いか遅いかはさほど関係ありません。決してご無理なさらないでください。あなたが必要であると、ブッダが思われた瞬間に、あなたは必ずブッダの御下みもとに向かわれることでしょう。

あなたは見るも美しい修行者(比丘びく)で、そのはだは黄金のようです。このように容色がすぐれているのに、どうして〈道の人〉となる必要がありましょうか

スッタニパータ520

第三 大いなる章

〈6.サビヤ〉

520 安らぎに帰して、善悪を捨て去り、塵を離れ、この世とかの世とを知り、生と死とを超越した人、──このような人がまさにその故に〈道の人〉と呼ばれる。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
安らぎに帰して――samitāvi . 第四九九詩にも出てくる。

以上註記より引用しました。

「安らぎに帰する」という言葉を聞いて、サビヤさんははたと思い至ります。心が静まった状態という意味もあるこの言葉は、のちに静慮(じょうりょ)とも訳されます。禅定のことであります。善いとか悪いとか、この世の出来事は全て善悪を基準とした道徳で支えられています。法律はもちろん社会慣習も道徳規範といわれるように、互いの信義誠実の原則がなければ成り立ちません。いわば道理ではありますが、それは当然の前提でありますが、ここでブッダ釈尊が述べられているのは、自身の内面のことであります。表向きには立派な社会人が、とんでもない破廉恥な行為に及ぶことがあるでしょう。表面は取り繕っていても、内心には大きな波が荒れ狂っているのかもしれません。あの人がああいった、この人はこういう、そうした反応が自分の心の水を撹乱しているのです。

沙門の道

禅定を修している人の心の水は、月が映っているようなものであります。どのような罵倒を受けようとも、蔑まれようとも、全く反応しません。善悪という判断や評価をしないのです。それを人に告げることもありません。自然がそうであります。山や川、海や樹木が、ただそこにあるのと同じです。川の流れが石ころを洗うように、海の波が砂浜を洗うように、ただ塵芥から離れていく。

「岩もあり木の根もあれどさらさらと、たださらさらと水のながるる。」

この世を知っていても、あの世を知っていないのであれば、この世もあの世も知らないことと同じです。表だけを見て裏を見ないと全体はわかりません。昔何かの手違いでしょうか、裏面が印刷されていない紙幣が発見されたというニュースがありました。手にした人はびっくりしたでしょうね。これは偽札ではありません。ちゃんと額面通りに換金されたそうです。あの世を信じるとか信じないという話ではないのです。本質を見極めているかどうかです。死んだらおしまいという簡単な話でもありません。生死というものが、自分のものとなり、そしてそれを手放すことであります。

「生を明らめ死を明らめるは仏家一大事の因縁なり。」

道元禅師様は、わかりやすく釈尊の教えを解説してくださった大恩人、身近な佛であります。佛の書かれたこと、正法眼蔵から抽出して明治時代に「修証義」が編纂されました。この一番最初に、総序という第一章があって、その冒頭にこの生死について解説されています。これが結論です。これが全てと言ってもいいでしょう。生死を明らかにすること。これが沙門の道、仏道を歩む出発点であり到達点であります。

庭造り和風に徹することにする(月路)

お寺の崖面、法面の土や石が駐車場に崩れて落ちています。鹿や猪が駆け下りるのが原因です。お寺の正面でもあり、何とかせねばと思って、石垣のうえに、土留のブロックを並べようとしていました。ところが昨日の夜、本屋さんで庭園に関する本を見て、愕然としました。『図解・日本庭園の見方・楽しみ方』という日本造園組合連合会理事長の宇田川辰彦さん監修の堀内正樹さんの著書です。鹿脅しの作り方まで描いてあって、とても楽しく読みました。そうなんです。お寺なんですからしかも禅寺なのですから、ブロックで直線でズバッーとやるのは相応しくない。徹底して和風でいこうと思いました。幸いに寺の裏山には石ころや竹がいっぱいあります。これを使わない手はありません。新たなスタートです。これをやりだしたら面白くてやめられません。大好きな作務であります。無心になれます。

安らぎに帰して、善悪を捨て去り、塵を離れ、この世とかの世とを知り、生と死とを超越した人、──このような人がまさにその故に〈道の人〉と呼ばれる。

スッタニパータ518

第三 大いなる章

〈6.サビヤ〉

518 サビヤがいった、「何を得た人を〈バラモン〉と呼ぶのですか? 何によって〈道の人〉と呼ぶのですか? どうして〈沐浴をすませた者〉と呼ぶのですか? どうして〈〉と呼ぶのですか? 先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
――nāga.仏の称号の一つである。

以上註記より引用しました。

サビヤさんはさらに四つの質問をブッダに問いかけました。伝統的な用語で列記すると次のとおりです。

  1. 何を得た人が婆羅門(ばらもん)なのか。
  2. 何によって沙門(しゃもん)なのか。
  3. 何故に沐浴者(もくよくしゃ)なのか。
  4. 何故に龍(りゅう)なのか。

すなわち婆羅門・沙門・沐浴者・龍と呼ばれる人の資質を問うているのでありますが、これに対するブッダ釈尊の回答もまたサビヤさんにとって腹にストンと落ちるものでありました。なぜなら、サビヤさんは普通の人ではありません。道を求めて遍歴している人、そうです彼もまた自分なりに修行している人であったからです。なお、このバラモンや沙門・沐浴者・龍というのは仏教の専門用語ではありません。釈尊以前にインドで使われていた普通名詞であります。当時においては、一般にバラモンと言えばカースト制度における最上階級のことでしたし、司祭者ほどの意味でした。沙門は出家修行者のことでバラモンは出家しませんでした。沐浴というのはガンジス河で水浴する神聖な儀式であり、龍というのは龍象などと呼ばれ超人・仙人・偉人といった意味がありました。こういう時代背景を考えてみると、不思議にも現代の日本、あるいは世界の現状と相似していることに気づきます。否、いつの時代にも一般的な認識というものがあります。極端なことを申せば、ほとんど固定観念になっているのが常識というものの本質かもしれません。常識という色眼鏡で見ていると、ものごとのありのままが見えないのです。ところが、観念の色眼鏡を外せば、何もかもが鮮明に見えてまいります。

言語道断

一般的に「言語道断」とは言葉に表せないほど余りにひどいこと、とんでもないこと、もってのほかの意で使われております。しかしながら元々は仏教の言葉で、奥深い仏教の真理や究極の境地は、言葉では言い表せないという意味です。「言語」は言葉に出して表すことです。「道断」は言うことが断たれること、「道」は口で言うことです。また、「言語の道が断たれる」意にも使われます。これが世間で解釈されている「言語道断」ですが、禅宗でよく読まれる「信心銘」によれば、この言語道断もまた見事に覆されます。

至道無難(しいどうぶなん)、唯だ揀択(けんじゃく)を嫌う。但だ憎愛莫ければ、洞然(とうねん)として明白(めいはく)なり。毫釐(ごうり)も差有れば、天地懸(はるか)に隔たる。現前を得んと欲せば、順逆を存すること莫かれ。

現代語に訳せば「真理に至るのは難しいことではない。ただ取捨、憎愛の念を起こして、選り好みをするのを嫌うだけである。ただ憎むとか愛するとかがなければ、それはこの上なく明白になる。しかし、そこに少しでも差異が有れば、天と地のように遠く隔たってしまう。我々に本来具わっている佛心が日常の行動に現れるためには、憎愛の心を離れなければならない」ほどの意味となります。

まだまだ信心銘は続きますが、ようするに好きだとか嫌いだとかの対立概念を捨てた時に、はっきりと見えてきます。真理は一つです。二つに分けて考えるから尚更わからなくなる。有と無、動と静のような二元対立(分別)を超えて、ただ一つの真理に向う。この真理が「自分を自分が自分にする」ということです。坐禅は自己と他己を区別しません。自灯明ということ、そしてそれが法灯明なのです。頭で考えるのではなくして、分けて考えるのを止めて、そのまま一つになる。坐禅をするときは坐禅に成りきる。坐禅そのものになる。これを信心といっております。去来今つまり現在過去未来、三世の問題ではありません。全ては空であり時であります。一瞬一瞬が存在の証明です。なお、信心銘は次の詩句で締めくくられています。

信心不二、不二信心、言語道断(ごんごどうだん)、去来今(きょらいこん)に非ず。

観念をもって観るのがアカンねん(月路)

ふざけているようですが、これはわかりやすい。お気に入りです。たまには月路さんもええこと云わはる。その通りや思います。昨日はとても嬉しいことがありました。作務中にお檀家様からの電話。「マイクロサンガ」見ましたよ。観音様の眼にある宮崎禅師様のお話をお聴きになりダビングされたとのこと。また、片っ端から読んで下さるとのこと。やってて良かったとつくづく思いました。感激です。今日は午前中はお墓の相談。午後から敦賀に向かいます。お葬式が立て続けに二つです。去年頃からお葬式が格段に増えてきました。ご連絡のたびに、無常を身体全身で感じます。

サビヤがいった、「何を得た人を〈バラモン〉と呼ぶのですか? 何によって〈道の人〉と呼ぶのですか? どうして〈沐浴をすませた者〉と呼ぶのですか? どうして〈竜〉と呼ぶのですか? 先生! おたずねしますが、わたくしに説明してください。」

 

スッタニパータ515

第三 大いなる章

〈6.サビヤ〉

515 あらゆることがらに関して平静であり、こころを落ち着け、全世界のうちで何ものをも害うことなく、流れをわたり、濁りなく、情欲の昂まり増すことのない〈道の人〉、──かれは〈温和な人〉である。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
全世界のうちで何ものをも害うことなく――ジャイナ教においても全く同じことを言う(na hammai kamcaṇaṃ savva-loe.Āy.1,3,3,3)。第三六八詩参照。

以上註記より引用しました。

平静であること。辞書には「おだやかで(落ち着いていて)静かなこと。心がいらだったりあわてたりしていない状態(を保つ)」などとあります。「平成」に入ってからよく変換候補に上がってきたので、ずっと見慣れた言葉でしたが、あらためて善き言葉であると思います。このブッダの回答は「何により比丘は温和となれるか」というサビヤさんの質問に対するものです。温和に成れる、温和であり続けることができるのは、まさに何事にも平静であること、動じないことと喝破されたのであります。この堂々とした姿勢・態度は威厳を保とうとしているものではありません。落ち着いているというのは単にボーっとしているのでもありません。常に気をつけていて、自己の心を落ち着けていることです。他人の言葉や態度に過剰に反応しないのです。また相手を傷つけない、何ものも害うことがない正しい言葉をかけることです。相手の話を最後まで聞く、途中で遮らないことでもあります。まことに耳の痛い話であります。

道の人、沙門

男の修行僧を沙門といいます。桑門とも貧道ともいいます。沙門のことを中村元先生は「道の人」と訳されました。仏道を歩んでいる人という感じからすれば分かりやすい表現であると思います。比丘というのはビクシュの音訳でブッダの弟子というほどの意味で良いかと思いますが、沙門は道を求めて歩む行者のイメージが強いと思います。あまりこだわらなくて良いと思いますが、この詩句では、修行中のことを述べておられるので、道の人、沙門とされたものです。

つまり修行とは何かを説いておられるのです。もっとも大事な角目が何かを具体的に説いておられる。平静であることしかり、情欲の昂まり増すことのないことしかりであります。情欲は反応です。反射といってもいいでしょう。瞬時に起る心の動きです。これを放置しておくとだんだん昂じてまいります。怒りが増幅するのです。これを抑えることは至難です。ですから念をもって最初の反応に気づくことが重要なのです。これは常に身を正す習慣がなければ実行できません。背筋を伸ばして身を正す、いつもの注意、クセになるほど身を正せということです。

ありがたや骨の安めに雨の降る(月路)

晴耕雨読。好きな言葉の一つです。晴れたら外作務、雨なら内作務。外業、内業。修行という意味では「外行(がいぎょう)・内行(ないぎょう)」がいいですね。とにかく今日は少し肌寒い朝を迎えました。今日は内行にします。午後からは住民となった初の区の総会出席です。少し緊張しそうですが、平静でいきます。

あらゆることがらに関して平静であり、こころを落ち着け、全世界のうちで何ものをも害うことなく、流れをわたり、濁りなく、情欲の昂まり増すことのない〈道の人〉、──かれは〈温和な人〉である。

スッタニパータ384

第二 小なる章

〈14.ダンミカ〉

384 これらの出家修行者たち、並びに在俗信者たちは、すべて、(目ざめた人の教えを)聞こうとして、ここに集まってきたのです。けがれなき人(目ざめた人)がさとり、みごとに説いた理法を聞け。──神々がインドラ神のことばを聞くように。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

本詩で、ようやくダンミカさんの問いかけがおわります。原文には、sannisinnā という言葉があります。出家者と在家者が「共に坐りながら」ブッダの教え(仏法)を聞こうと集まったというのです。わたしはここに注目しています。どこにいても修行者は静かに坐っているのです。この坐法は、いわゆるヨーガの結跏趺坐です。両の手のひらを上に向けて、ももの上に置き、すべてを聞き漏らすまいと全てを受け入れる姿勢であり態度であります。

この手のひらを上に向けるという姿勢は、やってみると身体全体でわかるのですが、理屈抜きに実に能動的な準備行動なのです。まず椅子に腰掛けていても、床に座っていても、寝ていても、すぐに立ち上がることができます。反対に手を下に向けていると、手や腰あるいは肘や膝に力が集中してしまって、なかなかすんなりとは立ち上がれない。この事実をどうかご自身で確かめてみて下さい。この手のひらを上に向けるという所作は、ブッダ在世のはるか以前よりインドで発見されたものだといわれております。何しろ大昔ですから文献や絵像などではわずかな記録しかありませんが、それでも多くの沙門(修行者)が独覚と申しまして、この姿勢で悟りを得たとされます。悟りを得るというのは、崇高な境地に至るという意味ではなく、ごく普通に己が心に、またあることに目覚める。気づくということです。「」という文字は、心偏に吾と書きます。自分の悟りは自分だけのものだという意味です。万人がそれぞれの心をもっている現実です。

単に手のひらを上に向けるというだけですが、反対に言えば手の甲という外側に大事なポイントがあります。力の入らない部分でもあります。この手の甲を上手に使うことで、体全体で動作できます。これは日本の古武道から習ったことですが今、介護の現場でも大変役にたっているという現実的で社会的な効果があります。もっともっと注目されて良いことだと思います。研究に値することがらでもあります。

夜眠る前に手の甲を下にしていると、すぐに眠れます。また目覚めがいいのです。起き上がるときにも手の甲を下にしましょう。手のひらを上に向けるということです。やってみればわかります。この不思議な現象は科学的にも解明されつつあります。単純なことなのですが、すごい発見だと思われませんか。座るときにも手のひらを上に向けて座ります。膝や腰を痛めている人はたくさんおられますから、これだけでもおすすめして下さい。この所作は予防でも有り、膝や腰を毎日傷つけないという健康習慣でもあります。もちろん一切お金がかからない最も簡単な健康法です。

手の平だけではなしに、足の裏まで上に向けた姿勢が結跏趺坐です。真理とは意外と簡単なことです。パワーというのは決して力任せのことではありません。余分なところに力をいれずに、全身で意のごとくになるということです。これを受用如意(自由自在)と申します。

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これらの出家修行者たち、並びに在俗信者たちは、すべて、(目ざめた人の教えを)聞こうとして、ここに集まってきたのです。けがれなき人(目ざめた人)がさとり、みごとに説いた理法を聞け。──神々がインドラ神のことばを聞くように。」

 

スッタニパータ130

第一 蛇の章

<7、賤しい人>

130 食事のときが来たのに、バラモンまたは〈道の人〉をことばて罵り食を与えない人、──かれを賤しい人であると知れ。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
バラモンあるいはシラマナは食事時が来たときには、在家の人のところへ行って食物を乞うのであったという。このことをpindaya carantoという。
以上註より抜粋引用しています。

シラマナはシュラマナ(沙門)のことです。バラモン階級以外の出家者(修行者)のことと考えていいでしょう。供養される人といった意味合いがあります。在家者が出家者を供養する慣わしであったのです。お寺を檀家さんが守っているのも、お坊さんにお布施するのも、古代インド(お釈迦様以前)からの伝統的な慣例が現在まで形を変えても引き継がれてきているといえます。

出家者は生産を行いません。ですから自分で稼ぐことはできないので、食べさせていただく必要があるわけです。でないと死んでしまいます。一日二食、しかも午前中だけです。その待ちに待った食事、とくに若いお坊さんや少年僧(沙弥)は、これだけが楽しみなのです。事情があってお坊さんになった子供もいます。国民の義務として軍隊に入るように若いときに出家することもあります。とにかく出家者には青年や少年、もちろん老人もいます。

そんな修行者に、食事の時間がきたのに、言葉でいじめて、食事させない人。そういう人が現実におられたのでありましょう。

托鉢しながら何時間も歩いていた頃、何か変なものでも見るかのような眼差しで、無視されたことは何度もあります。どれだけお腹がすいても、これも修行ですから水を飲んでしのぐのですが、さすがに二日も何も食べずに歩くのはこたえます。変な話ですが、そんなとき在家者の姿は仏に見えるのです、じっさいに。

食事のときが来たのに、バラモンまたは道の人をことばて罵り食を与えない人、──かれを賤しい人であると知れ。

スッタニパータ129

第一 蛇の章

<7、賤しい人>

129 バラモンまたは〈道の人〉、または他の〈もの乞う人〉を嘘をついてだます人、──かれを賤しい人であると知れ。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
バラモンまたは道の人……
──第100詩参照
以上訳注にありました。

これは「破滅への門」と同じです。

嘘をつかないことは五戒にも謳われた最重要な戒めでありますが、中でも修行者などの乞食(こつじき)に対して、嘘をついて騙すことはもっての他だと説いておられます。考えても見てください。世間のしがらみを捨てて、修行に専念している人は生活の糧である食(じき)を人々に乞うしか方法がないのです。お金を得ようとして仕事をすればもう修行者(沙門)とは呼べないからです。ですから鉢(はつ)をもって食を乞う乞食行(こつじきぎょう)托鉢(たくはつ)をするわけです。その修行者の鉢の中に道端の石ころ(価値のないもの)を入れたとしたら、破滅であり賤しい人であると断定されるのであります。これは例えでありますから、このように修行者に嘘をついて騙すことを強く戒められていることを、しっかりと認識しておきましょう。

バラモンまたは道の人、または他のもの乞う人を嘘をついてだます人、──かれを賤しい人であると知れ。

スッタニパータ100

第一 蛇の章

<6、破  滅>

100 「バラモンまたは〈道の人〉または他の〈もの乞う人〉を、嘘をついてだますならば、これは破滅への門である。」

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
第129詩参照。
バラモンまたは道の人――原文にはbra-hmana,samana.(「努める人の意」。Skrt.sramana.漢訳では「沙門」と訳す)という語を使っている。バラモンはバラモン教の司祭者でヴェーダ聖典を奉じ、それに規定されている祭を実行する。〈道の人〉はそれ以外の修道者で、ヴェーダ聖典を奉じない。この二種が当時の宗教家の二大別で、第130、190、441、529、859、1079詩に出てくるのみならず、原始仏教聖典一般、「アショーカ王詔勅文」文法書、諸仏典に出てくる。メガステネースはBrakhma-nas,Sarma-nasと音写している。
もの乞う人――vanibbaka(=ya-caka)
嘘をついてだます――これらの修行者に「何でも欲しい資具をいって下さい」といって、言わせておいて、あとでそれを与えないならば、だましたことになる。以上註より抜粋
嘘をつくことは、騙すことです。五戒には「嘘をつかないこと」とあります。子供にも分かる戒めです。ところが平気で嘘をつく人が大勢います。そうです、ほとんどの人は実は嘘を平気でつくのです。約束がそうです。わたしは約束を破ったことがないと言い切れる人は意外と少ないのです。ブッダは決して約束をしませんでした。なぜなら確実な約束など誰にもできないことを知っていたからであります。明日わたしの家にお越しいただけませんかという招聘に無言で応えたのです。参りましょうといえば、承知したことになりますから約束をしたことになりますので、無言で応えたのです。これは何もブッダに限りません。インド社会ではヴェーダの時代から了解するときは無言で、了解できないときは了解できない旨を伝えました。行きますか行けませんではなく、無言と不承知の二者択一で返答する慣わしです。文化の違いといえばそれまでですが、厳格に戒を守ろうとする姿勢が覗えます。明日のある時間に確実な約束をできないのは、その時刻までに何が起るかは誰にもわからないという事実であります。一億円借りて五年後に確実に返せる人は果たして存在するでしょうか。一円も使わずに死んだとしても。