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スッタニパータ530

第三 大いなる章

〈6.サビヤ〉

530 内的には差別的〈妄想とそれにもとづく名称と形態〉とを究め知って、また外的には病いの根源を究め知って、一切の病いの根源である束縛から脱れている人、──そのような人が、まさにその故に〈知りつくした人〉と呼ばれるのである。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
究め知って――このあたりの文章は難解であるため註釈にしたがって解釈した。so ca anuvicca papañcanāmarūpaṃ ajjhattaṃ attano santāne tanhaditthi-mana-bhedaṃ papañcam tappaccayā nāmarūpan ca aniccanupassanādihi anuviditva,na kevalañ ca ajjhattaṃ, bahiddhā ca rogamūlaṃ……anuvicca(Pj.p.431).

以上註記より引用しました。

 この詩句は大変難解であると思われますが、ここが仏教の根幹をなす部分ですから、出来る限りがんばって腹に修めるように致しましょう。このpapañcanāmarūpaṃという原語は、仏教学では「心と身体の妄想」と訳しています。何のこっちゃさっぱりわからんという向きには単に「妄想」でもいいと思います。もっとかんたんに申しますと「観念」ですね。作り事です。頭のなかで認識していることは、そのままズバリではないといっても過言ではありません。普通の人は、自分の経験や体験あるいは本を読んだり映画を観たりして、自分で認識(認知)方法を編み出して来ているわけです。いわばあらゆる出来事を自分に都合のいいように(というかごく自然に)捏造して観ているわけです。認知というのは、認知症ですっかりおなじみになりましたから、説明するまでもないかと思いますが「外界にある対象を知覚した上で、それが何であるかを判断したり解釈したりする過程のこと」です。現代では認知科学の研究がさまざまな学問領域で進められていますが、ブッダは2500年前の大昔にこの認知というものに言及されています。この認知という脳の機能によって、私たちは世界を実感しているのです。手をたたけば、パーンと音がします。これは単純な例ですが、この音を聞いて、また手をたたくのを見て、何を感じるかです。また何を思うかです。唯識につながっていきますが、ここでは深入りせずに、そういうことを研究した人々がいて、その研究結果がきちんと残されているということだけ知っておきましょう。

もう一つ、一切の病いの根源が束縛であるというのは、何を意味しているかということです。人間が生れるということは、すなわち老化が始まるということでもあります。成長も病気も同じ現象です。これを成長と観るか、老化と観るかの違いです。そして病にかかり死んでいきます。生老病死という四苦も人間の成長過程であります。悲しむことでも辛いことでもありません。苦というのは苦しいという感想ではないのです。現実を指した言葉であります。事実として、生きているということは苦であるという認識です。それを生きるということは苦しいとやるものですから、わかったようで、いつまで経ってもわからない。束縛という言葉を聞いても、誰かに縛られているように感じてしまう。これも勘違い。自分が束縛の主体です。自分で自分を観念という鎖・縄で縛っておるようなものです。それを解くのが解脱です。病というのは現象です。あらゆる現象は自分がこころに作った世界であります。たとえばガンに罹ったとしましょう。検査の結果、余命宣告を受けたとしましょう。これは現象です。ところが何年たっても死なない人だっているわけです。宣告どおりの人もいます。もっと速く進行する場合だってあります。そうした現象は誰にも予測できません。しかしながら、ガンと聞いただけで病が病気になります。ガンと闘う。ガンと戦わない。どちらが正解というものではありません。ガンですよ。ああそうですか。これだけなんです。くよくよしたって始まりません。

先日、知り合いの方が壊疽という病気に罹りました。私の伯父も壊疽で足を切断しました。エノケンさんも確か同じような病気だったと記憶しています。こうした病は誰でも罹る可能性があります。聞いただけでも可哀想でたまらない話ですが、放おっておけば命はありませんと医師から云われれば手術する以外に選択は無いように思います。家族や友人の辛さは察するにあまりあります。他人事ではありません。そのときに、自分事としての学びがあります。自分がそうなったらどうするか。これが仏教を学ぶ意義とは申しません。現実の生活の中で、仏教がなければ、仏教ではないのです。生死の中に仏あれば生死なし。仏というのは仏法のことです。仏法は、まさに解脱と涅槃が目的です。ここを学ぶために、これを身にするために、これを心とするものであります。

内に差別、外に病

今日の結論は、仏教というものは結局「解脱」の教えであるということです。差別的(妄想とそれにもとづく名称と形態)と訳された中身は、実物(ほんもの)に適当に名前を付けて、こころの中で勝手に形作って認知しているのが実態である。これは本物からしてみればえらい差別的なあつかいです。失礼にもほどがあるのです。たとえばレンギョウという名の木に人間が勝手に連翹という名を付けて、黄色い可愛い花が咲くから庭木にどうぞと思っているようなものです。このような差別的な(観念)こころが現実世界(実相)を歪めているということが一つ。もう一つは、外に病いの根源である束縛というものがあります。これは自己を取り巻く環境ですが、じつはこれも自分が作った檻のようなものです。その束縛から脱する。解脱ですね。例えていえば会社や組織に身をおいていても、こころは本来自由なのですが少しも自由を感じないとしたら、それは実に自分の外に檻をこしらえているからです。檻でも何でもない実際に無いものを頑丈なコンクリートと鉄で作ってしまったのは誰かということです。つまり有るものを無いとしたり、無いものを有るとしている心を開放しましょう。解脱しなさいということでありましょう。

半月過ぎ銀杏切る日が近づきし(月路)

この19日の水曜日に銀杏の枝を切ることになっています。先月総代会で決まったのですが、それまでにあれもこれもして置かなければならないことが沢山ありました。まだ予定の半分もできていません。なぜ銀杏の枝を切るのかと言えば、秋になるとこの銀杏の葉が落ちて墓地に向う路がイチョウの葉で埋め尽くされてしまうからです。この枝も葉も燃えにくくそれで神社や寺院の傍に植えるらしいのですが、この葉は滑りやすくとても危険ですので、景観はいいのですが、実際に困ったものとされました。銀杏に罪はないのですが、管理上切ることにしました。だれが上に登って切るのか?一番若いもの?どうやら私になりそうですが、和尚はやめておけ。そういう声があるのも確かです。このあいだ、傷害保険に加入してきました。ひとり一ヶ月1,220円。高いのか安いのか知りませんが、死亡保険金300万円です。これは誰にも伝えません。

内的には差別的〈妄想とそれにもとづく名称と形態〉とを究め知って、また外的には病いの根源を究め知って、一切の病いの根源である束縛から脱れている人、──そのような人が、まさにその故に〈知りつくした人〉と呼ばれるのである。

スッタニパータ514

第三 大いなる章

〈6.サビヤ〉

514 師は答えた、「サビヤよ。みずから道を修して完全な安らぎに達し、疑いを超え、生存と衰滅とを捨て、(清らかな行いに)安立して、迷いの世の再生を滅ぼしつくした人、──かれが〈修行僧〉である。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

自ら道を修してとは、人から勧められて、あるいは寺を継ぐために仕方なくといった動機ではなく、自ら進んで求めた道を歩み修行している状態です。もちろんきっかけは人それぞれですから、たとえ人から勧められたり、寺を継ぐという動機であっても、教えに触れ、心に感じ入るところがあって、志をもって修行している人は、まさしく自ら道を修しているのであります。発心といいますが、やむにやまれぬ強い動機のことです。志といってもいいでしょう。完全な安らぎ、すなわち涅槃に達して、あらゆる疑問が解消し疑念が無くなり安定して、生きていく執著も老いて死んでいく不安も捨て去り、ただ日々における清浄な行いに終始し、妄想することなく安定した心で日々を過ごしている。二度と生まれ変わらない最後の生を淡々と生きている。そういう人が比丘(修行僧)なのであります。

比丘(修行僧)

比丘(びく)のことを沙門(しゃもん)と呼んだりもしますが、こだわらなくて良いと思います。平たく言えば仏教の修行僧です。単に修行と言えば、何もかもが修行であります。生きていること自体が修行です。しかしここでは仏教を修行しているものを僧侶とか比丘と申します。今日の問題は、じつに自分が比丘であるかどうかです。剃髪し衣を着て袈裟をかけているから比丘ではないのです。サビヤさんの質問に戻れば、比丘は何ものを得たのかということになろうかと思います。その質問では何かを得る、たとえば悟りとか法力とか神通力といった超のつくような能力を手にするように思われたのですが、真逆でした。正反対です。得るのではなくして捨てたのであります。見栄や体裁はおろか、プライドとかアイデンティティとか、自己を構成している観念さえあっさりと捨てているのであります。終いには自己の見解さえも捨てて、すっかり身軽になっている状態、様子であります。ほとんどの苦しみ痛みは自己の思いというものが原因です。その思い込みを捨てる。拘らず捕らわれない。そういう日々を過ごしているかどうかで、自分が比丘であるかどうかを確かめることができます。ブッダは修行僧を定義しているのではありません。修行僧とはどのような人を指すのかと客観的に言っておられるのでないのです。佛の付けた道を現に愚直に歩んでいる、そうした自分事の確認です。

草むしり右手の鎌に沿う左(月路)

いつも下手を通り越した俳句や川柳をほとんど思いつきで書いているのですが、凡人中の凡人の愚作中の愚作でも、脳の体操ぐらいの気持ちでやっております。それで今日の草むしりの句は、昨日の実際の草むしりが我ながら熟練の域に達してきたなあという自負であり自慢であります。苔を取らずに草を抜く技なぞは、小浜のお寺で教えていただいた秘伝を長年やってきたスゴ技であります。短時間に広範囲の草を取る。これが修行だなどと見得を切るつもりではありません。何か一つぐらいは役に立ちたい。これがわたしの仕事、商売であります。時給0円

師は答えた、「サビヤよ。みずから道を修して完全な安らぎに達し、疑いを超え、生存と衰滅とを捨て、(清らかな行いに)安立して、迷いの世の再生を滅ぼしつくした人、──かれが〈修行僧〉である。

 

スッタニパータ467

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

467 諸々の欲望を捨て、欲にうち勝ってふるまい、生死のはてを知り、平安に帰し、清涼なること湖水のような〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
全き人――tathāgata.漢訳仏典では普通「如来」と訳される。
 
以上註記より引用した。

1,まず内なる欲望を捨てる。

2,つぎに外なる欲に負けない。

3,そして生死を明らかに知る。

4,解脱して心の平安に至る。

清涼な状態にある人。まるで湖水のごとくあられる如来(タターギャタ)。完全なる人。ブッダのことです。そのような人こそが献菓されるに相応しい、供に応ずる(応供)方である。供物を受け取るに値する尊き人であるといいます。ですから私たちは仏様に供物をささげるのであります。

今日からはまた新しい締めの言葉が繰り返されます。「〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。」です。こういう繰り返しを漢字圏では韻を踏むといいます。漢詩などでお馴染みの手法ですが、仏典ではいささか意味が異なります。それは、強調であると同時に共通項ともいえます。この詩でいえば、供物をささげるに値するかどうかが問われているわけですから、順序よくその修行を完成させなさいということを一番教えてあげたい。そういうブッダの優しさがにじみ出ていると思います。

なぜなら世間での商売であれ仕事であれ家事であれ芸術や科学であれ、到達したように見えて、その実、完成に至ることは決してありません。それこそ一生が勉強といえば勉強。修行と言えば修行で終わるわけです。完成ということがないのです。ところが、ブッダの教えときたら完成があるのです。解脱そして涅槃であります。ブッダと同じ状態に成れる。信じられないことのようですが、これは挑戦に値することです。

今から発見したり発明する必要はありません。ブッダのつけた道を愚直に歩むかどうかです。自分にはとても無理と思えば無理です。可能かどうかはやればわかります。難しく考えれば出来ません。やるかどうか。教えられたとおり実行する以外に道はありません。教えに酔うことなく、教えのとおりやっていく。坐禅を毎日していればわかります。していなければいつまでたってもわからない。ただそれだけの話しです。

ただ坐る他にあるなら出してみよ(月路)

一年の計は元旦にあり。では一日の計は?もう坐禅しかないでしょう。一日の計は坐禅にあり。昨日は朝から桜井市の斎場にお葬式で出かけ、帰ってから夕方まで雪除け。遅くまでほとんど明日の法要の準備でした。少々筋肉が痙攣気味ですが、それでも朝の坐禅が一日響いています。ただ坐っているだけですが、一息一息だけなのですが、40分間の静けさは一日中鳴り響いています。うまく言えませんがそんな感じです。

濁りなき心の水にすむ月は波もくだけて光とぞなる(道元禅師)

諸々の欲望を捨て、欲にうち勝ってふるまい、生死のはてを知り、平安に帰し、清涼なること湖水のような〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

スッタニパータ372

第二 小なる章

〈13、正しい遍歴〉

372 清らかな行いによって煩悩にうち克った勝者であり、覆いを除き、諸々の事物を支配し、彼岸に達し、妄執の動きがなくなって、生存を構成する諸要素を滅ぼす認識を立派に完成するならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
妄執の動きがなくなって――anejo(=apagatatanhAcalano.)(後略)

以上註記より抜粋して引用した。

昨日は朝一番で会社に出向き、久々にてんてこ舞いの社員らと話しました。そして社長にもお会いして現在の心境を話し了解を頂きました。胸が晴れました。それから寺にも顔を出し、友と食事したあとに冬物を積み込み、ゆっくりと寺路(家路)につき、午後8時過ぎに到着。やはり住めば都です。一番落ち着きます。ごろんとなれる場所。それが巣。龍巣(りゅうそう)を栖(すみか)とする金鳳たちが待っていてくれました。

さてさて、今日のブッダの声もまた、これ以上はないといった趣の言葉が並んでおります。逐次解説は不要でしょう。このまんまで充分かと思いますが、あえて解説をすれば一点だけ。生存を構成する諸要素を滅ぼす認識という言葉でありましょう。原語はSaṅkhāranirodhañāṇakusalo.であり「諸行止滅の智慧に明るい」ほどの意味でありますが、わかりにくいですよね。ようするに生きているうちは煩悩が生じます。それで人間が死にますね。するとロウソクの炎がふっと消えるようなもので、煩悩も消えるわけです。最後の瞬間まで一所懸命に修行しつづけた人が死んだら、それを涅槃と呼ぶのです。修行の完成。それを体で解っている者。これが一番説明しにくい。宮崎禅師はそれを遺偈で「坐断而今」と仰った。もっと分かりにくいかと思いきや、このほうが実際に分かりやすいでしょう。

今日は最後に、道元禅師さまの遺偈をご紹介いたします。

五十四年  五十四年
照第一天  第一天を照らす
打箇浡跳  箇のぼっ跳を打して
触破大千  大千を触破す
 咦      咦(いい)
渾身無覓  渾身に覓(もと)むる無し
活落黄泉  活きながら黄泉に落つ
※三行目の「浡」は正しくは足偏

清らかな行いによって煩悩にうち克った勝者であり、覆いを除き、諸々の事物を支配し、彼岸に達し、妄執の動きがなくなって、生存を構成する諸要素を滅ぼす認識を立派に完成するならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

 

スッタニパータ358

第二 小なる章

〈12、ヴァンギーサ〉

358 先生! カッパ師は執著の根元を見たのです。ああ、カッパ師は、いとも渡りがたい死魔の領域を超えたのです。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
執著――upādāna.

以上註記より引用した。

この節の締めは、解脱した人が涅槃に入ったことをヴァンギーサさんが確信したところで終わります。なぜそう言えるのか。それは「執著の根元」という言葉の意味を考えれば解ります。

執著が始まるのは母胎に宿ったときから。へその緒から無意識に栄養を取り込み、猛スピードで成長していきます。この頃は生きたいなどといった半端な考えは持ちません。赤ちゃんの生命力の強さは、真冬で裸同然で投げ出されようと、崖から転げ落ちようとちょっとやそっとでは死にません。もちろん放おって置かれれば脆い命ではありますが、必死に泣きわめき援助を求めるのです。誰もが愛くるしく、援助せずにはおれない力を最大限に発揮しています。これが人間の執著の根元です。

子供から大人へ変貌しても、この執著は衰えることはありません。知恵がつき図々しくなっていきますが、さまざまな形態をとりながらも、執著はモンスターのように大きくなっていきます。自己への執著は、妄想を限りなく想起し、感情が理性を完全に支配し、理屈で雁字搦めに自己を縛り、人間を化物にしてしまうのであります。執著こそが人間の本質といっても過言ではないでしょう。自分が誰よりも自分を一番愛しているという事実です。

結局この世に生まれたということは、地獄の始まりであります。自分の主張が通らないからといって競売に附される予定の自宅に火を付け、創作爆弾を腹に巻いて自殺した人が周りに重軽傷をはじめ、多大な迷惑をかけていいわけがありません。しかしながら殆どの人々は自分の姿であるとは思っていません。いい年をして馬鹿な人迷惑な話で片付けているのです。自分もいずれ棺桶に入れて頂き火葬場で焼却してもらう身でありながら。

そうしてまた生まれてきます。これが死魔の領域という名の輪回の姿です。目出度い、おめでとうと喜びます。ですが、本当にお目出度いでしょうか。これからの人生をわずかな希望や喜びで騙されながら、健気に生きていくだろう赤ちゃんを見たとき、自分を見るのです。これは世間一般の目からみれば、大変にマイナス思考、暗い考え、虚無主義と思われるに違いありません。ですが、残念ながら事実です。じつに明白な理法なのです。

永遠の命というのは、この世に二度と生まれないことです。不生ということです。そして最後の死を迎えます。二度と死なない。不死ということです。これを涅槃と呼んでいます。輪廻からの解脱。これが修行の完成であり、ブッダになるということ。すなわち成仏です。これは教えられていないと解りません。聞きたくないことかもしれませんが、事実であり理法であります。輪回から解脱した人が死ぬことを般涅槃(はつねはん)と呼ぶのであります。

先生! カッパ師は執著の根元を見たのです。
ああ、カッパ師は、いとも渡りがたい死魔の領域を超えたのです。」

スッタニパータ354

第二 小なる章

〈12、ヴァンギーサ〉

354 カッパ師が清らかな行いを行なって達成しようとした目的は、かれにとって空しかったのでしょうか? かれは、消え滅びたのでしょうか? それとも生存の根源を残して安らぎに帰したのでしょうか? かれはどのように解脱したのでしょうか、──わたくしたちはそれを聞きたいのです。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
カッパ師――原文にはカッパーヤナ(KappAyana)となっているが、ブッダゴーサに帰せられる註釈によると、「そこでカッパーヤナというのはカッパその人を尊敬して呼んでいるのである」(中略)。ayanaとは「……におもむく道」という意味であるが、それを付けると尊敬を意味するのだという。他の用例があるかどうか、わたくしは知らないが、インドでは人名のあとに「足」(pAda)という語をつけると尊敬を意味するから、それと同じ考えかたであろう。Kappa,apt wayfarer(Hare).KappAyanaという語はパーリ聖典一般の中には出てこない名であり、わずかに本書第三五四頌に一回だけ出てくる(中略)。前後関係から見ると、Nigrodha-Kappaの別名で、両者は同一人を示しているし、マララセーケーラもそのように解している。

ちなみにKappiyaという語は本書にも、またパーリ聖典一般にも出てこない。普通名詞として Kappiya,「時間に支配される」(第五二一頌)、akappiya v.860,「分別を受けることのないもの」、na kappiyo v.914,「はからいをなすことなく」という表現があるが、固有名詞ではない。それらが「分別」のkalpaに由来するか、「劫」のkalpaと関係があるかはなお研究を要する。

(中略)

……安らぎに帰したのでしょうか――原文にはnibbAyi so? Adu sa-upAdi-seso?となっている。(後略)
 
以上註記より抜粋して引用した。

清らかな行いを行なって達成しようとした目的

修行の目的は、解脱であります。

生存の根源を残して安らぎに帰したか

涅槃(ニルバーナ)に至ったのかということであります。二度と母体に宿ることのない不生すなわち不死となったのかどうかであります。四向四果の最上位である阿羅漢果に達したのかという質問であります。生存の根源を残してとありますが、生存の根源を残さずとしたほうが意味が通ずるものと思われます。

解脱し涅槃に入る

生きている間に解脱し、死すときに涅槃に入ることが、仏教ひいては修行の目的であり完成とされています。最も優れた修行の結果といえるでしょう。これをカッパ尊者が成し遂げられたのかを最後に質問して、ブッダ釈尊の言葉を待ったのであります。

カッパ師が清らかな行いを行なって達成しようとした目的は、かれにとって空しかったのでしょうか? かれは、消え滅びたのでしょうか? それとも生存の根源を残して安らぎに帰したのでしょうか? かれはどのように解脱したのでしょうか、──わたくしたちはそれを聞きたいのです。」

 

スッタニパータ346

第二 小なる章

〈12、ヴァンギーサ〉

346 われらの疑惑を断ってください。これをわたくしに説いてください。智慧ゆたかな方よ。かれらが全く亡くなったのかどうかを知って、われらの間で説いてください。──千の眼ある帝釈天が神々の間で説くように。あまねく見る方よ。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

ヴァンギーサさんのブッダに対する懇請が続きます。ここで疑惑は疑団とも読み取れます。こころにわだかまっている疑い、疑問を解決したいと願うのが修行者の真摯な態度であります。彼のもっとも知りたいことは、全く亡くなったかどうか、その一点でありました。一般的な生を全うしたという意味ではありません。全き死というのは解脱し完全な涅槃に入ることを指します。二度と母胎に宿らない、すなわち不生を完了したということです。

これは誰にもわからないはずです。何しろ亡くなったのですから確かめようとてない話です。質問自体が適切さを欠くでしょう。ここが哲学とは違うところでありまして、宗教的な匂いがするかもしれません。ところがブッダ釈尊は見事にその疑問を解き明かしてくれるのです。ブッダに誤魔化しはありません。誰もが納得できる言葉で明瞭に完璧にお答えになるのです。今は信じられないかもしれませんが、それこそ疑ってかかっていいのですが、あなたご自身が質問していると仮定して、試しにブッダの代わりに回答してみてください。さて何と答えられますか?

智慧豊かな人、あまねく見る人、この上ない人よ、と最上の敬意をもって懇請するのですが、如来十号の原型がここに見て取れます。この尊称は決して大袈裟なものではなく儀礼ではないのです。正にこのような形容に値する人物であった。だからこその尊称であり質問であることを確認しておきたいと存じます。

さて今日は、わたしの発願(ほつがん)の日であります。昨年の今日、このブログを始めようと決意しました。そして二週間後の10月27日より第一日目をアップしたのです。まもなく一年経とうとしています。あの頃と今は全く違う生活を送っています。マイクロサンガを毎日更新するということは、毎日欠かさず日記を書くということでもありました。そんなことが出来るとは思っていなかった。続けられたのは友の厳しくも優しい眼があったからです。毎日二人だけが見て下さいました。ここに改めて厚く御礼申し上げます。こうなったら命の続くかぎり続けます。

われらの疑惑を断ってください。これをわたくしに説いてください。智慧ゆたかな方よ。かれらが全く亡くなったのかどうかを知って、われらの間で説いてください。──千の眼ある帝釈天が神々の間で説くように。あまねく見る方よ。

スッタニパータ339

第二 小なる章

〈11、ラーフラ〉

339 衣服と、施された食物と、(病人のための)物品と坐臥の所、──これらのものに対して欲を起してはならない。再び世にもどってくるな。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
衣服……――ここに挙げられた四つがビクの四つの必需品と考えられていた。
 
以上註記より引用した。

ここでは日常に最低限必要なものだけで生活し、それ以上を望まないことを具体的に示しています。比丘は三衣一鉢と申しまして三枚の衣(袈裟)と托鉢のための鉄鉢だけを身に着け携え、雨露をしのぐだけの所(樹下)に寝食し、病気になったときの腐尿薬だけを薬として常備していたとされています。この四つだけが比丘(出家者)の威儀であることは後世にまで伝わっております。

これ以外は渇愛を滅ぼし解脱するために不必要であるばかりでなく邪魔になるのだという厳しいルールです。欲を起さないというのは食欲と睡眠と羞恥と治癒以外を求めるなと言う具体的な意味があります。そして再び世に戻るな、すなわち出世間したものが世間に戻るなという期待と、再び生れてくるなという不生(涅槃)を説いておられる気が致します。

これは大変厳しい戒律中の戒律です。スマホなんぞ問題外ですね。ですからこの出家というのは口でかんたんに言えますが、文字通り半端じゃ無いんです。軽々しく比丘(ビクシュ)とは名乗れません。日本の僧侶はほとんど比丘ではありませんね。修行道場で何年間か修行してハイ終わり、あとはご自由に。なんていうのは職業僧侶であって、本来の比丘は一生修行は当たり前で、行住坐臥、四威儀をごくシンプルに生きたのです。

これができたら解脱するのは道理かと存じます。徹底してやるというのはこういうことでしょう。独覚佛陀と申しまして、釈尊からたった一度たった一つの教えだけを聴いて、それを徹底して実行して涅槃に至ったお坊さんが現におられたのです。たくさん聞いたからって何ひとつ実行しない者とは大違い。知識と智慧の違いをまざまざと見せつけられた思いです。

衣服と、施された食物と、(病人のための)物品と坐臥の所、──これらのものに対して欲を起してはならない。再び世にもどってくるな。

スッタニパータ267

第二 小なる章

〈4、こよなき幸せ〉

267 修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、安らぎ(ニルヴァーナ)を体得すること、──これがこよなき幸せである。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
修養――tapo.一般に「苦行」と訳されるが、しかし仏教では身の毛もよだつような苦行、荒行を勧めているのではないから、便宜上「修養」と訳してみた。ブッダゴーサは「煩悩を焼きつくすこと」だと解している。(中略)

聖なる真理を――ariyasaccana.saccanamとあるべきなのに、metreの関係でこうなった。

安らぎを体得すること――原文ではニルヴァーナを体得すること(nibbana-sacchikiriya)となっている。世俗の生活をしている人が、そのままでニルヴァーナを体得できるかどうかということは、原始仏教においての大きな問題であったが、『スッタニパータ』のこの一連の詩句からみると、世俗の人が出家してニルヴァーナをを証するのではなくて、世俗の生活のままでニルヴァーナに達しうると考えていたことがわかる(しかし、のちに教団が発達すると、このような見解は教団一般には採用されなかった)。

以上註より抜粋して引用した。

この詩句は、現代仏教学の常識をひっくり返すほどの衝撃に満ちています。それはニルヴァーナ(漢訳では涅槃という)の境地を体得できるのは出家だけとは限らないということです。これは「安らぎ」の境地という表現と根本的に相違します。いわば「悟りの階梯」であるとか四向四果といったものは後世の仏教学者が伝えたものですが、それらとは全く別に原始仏教(一般に初期仏教と呼ばれているものは必ずしも最初期の仏教ではありません)すなわちブッダご在世のころには、出家在家の区別なくニルバーナに達しうるとされていたのです。ニルバーナに完全も不完全もないのですが、とにかく在家であっても涅槃の境地を体得できる可能性があるというのは大きな希望です。日本の僧侶の生活実態は、ほとんど在家と変わりありませんから、この詩句は励みになります。

修養とあるのは単に「修行」でよいでしょう。あまり言葉の表面的なニュアンスにこだわる必要はないと思います。清らかな行いとは、「八正道」のことです。聖なる真理を見るというのは「四諦」を理解・会得していることです。ようするに四諦の真理を知り、八正道を歩み、修行すれば涅槃に至ると説かれているのです。言葉としては実にシンプルですが、物足りなく感じる人も多いのです。そういう人に限って権威や地位・名誉に走ったり、修行そっちのけで学問的な追求を重ね、どんどん頭でっかちになっていきます。仏教知識の追求よりもっともっと大事な、自分の心の成長を阻害する壁の方が一大事なのであります。問題は自己の外にはありません。そして問題は自己の内に必ず存在します。これが課題であります。

修養と、清らかな行いと、聖なる真理を見ること、安らぎ(ニルヴァーナ)を体得すること、──これがこよなき幸せである。

スッタニパータ235

第二 小なる章

<1,宝>

235 古い(業)はすでに尽き、新しい(業)はもはや生じない。その心は未来の生存に執著することなく、種子をほろぼし、それが生長することを欲しないそれらの賢者は、灯火のように滅びる。このすぐれた宝が(つどい)のうちに存する。この真理によって幸せであれ。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
未来の生存に――ayatike bhavasmim(=anagatam addhanam punabbhave.)

以上註より引用した。

業(ごう)とは、カルマのことです。業については釈尊以前より輪廻転生とともに盛んに論じられていました。ここでは仏教としての業をブッダの言葉から引用いたします。

比丘たちよ、意思(cetanā)が業(kamma)である、と私は説く。―『増支部経典』 (Aṅguttara-Nikāya) Nibbedhika suttaṃ

「悪しき業」論なる偏見があります。この国にもあり、他の国にもたしかにあります。すなわち生まれ素性(門地、家柄)は、前世までの行為によって決まるというものです。とんでもない偏見であると同時に、最も強烈な差別であります。ブッダはこれまでも学習してきましたように、「人間は生まれによって尊いのでも賤しいのでもない。その人の行為によって尊くも賤しくもなる」と何度も力説されております。仏教徒の中に、悪しき業論を話す人が居るならば、その人はもう仏教徒とは申せません。それこそお門違いも甚だしいのです。

今日の詩は、聖者(賢者)となった人が、涅槃に赴くときの有り様を述べた最も理想的な姿を説かれたものです。「古い(業)はすでに尽き」とは、過去の為した行いによる生存のサイクル(輪廻)は今生で最後であるという意味であり、「新しい(業)はもはや生じない」とは、もう二度と生まれ変わることはないという意味であります。つまり永遠の存在となる「不生不死」について説かれたものです。

わたしたちは一般に、あの世とか来世での再誕を望みます。他者の冥福を祈り、自らのより善き後生を願うのが一般的でありましょう。ところが、仏教での理想は「未来の生存に執著することなく」悪因悪果である全ての生存にかかる「種子をほろぼし、それが生長することを欲しない」ことなのであります。そしてロウソクの火が終にフッと消えるように「灯火のように滅びる」ことが理想なのであります。これを涅槃と呼びます。

修行仲間(サンガ・つどい)の中には、このように勝れた賢者(不還果以上の修行者)が現れます。そういう先輩に見習いながらも、自身が未だそういう状態でなければ、それを励みにして努力するという「幸せ」の中に居りましょうという意味であります。

仏教の厳密な意味を知ることが目的ではありません。仏教の教理をいくら知識として蓄えても「それがどうしたの」と言われれば何の返答もできないでありましょう。そういう知識は不要とはいいませんが、テレビのコメンターでもあるまいし、評論ではいつまでたってもブッダの心に近づくことはできません。ブッダの申された通り、まさしく「意思がカルマ」なのです。何をどう行動するか、どのように生きるか、それは何時なのかということこそ大事な要ではないでしょうか。

宮崎禅師は「善いこともせんのに、善い報いを得ようとするのは、欲望だ。それは転倒(てんどう)と言って、ひっくり返った考えや。」と申されました。

古い(業)はすでに尽き、新しい(業)はもはや生じない。その心は未来の生存に執著することなく、種子をほろぼし、それが生長することを欲しないそれらの賢者は、灯火のように滅びる。このすぐれた宝が(つどい)のうちに存する。この真理によって幸せであれ。