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スッタニパータ538

第三 大いなる章

〈6.サビヤ〉

538「智慧ゆたかな方よ。諸々の〈道の人〉の論争にとらわれた、名称と文字と表象とにもとづいて起った六十三種の異説を伏して、激流をわたりたもうた。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
名称と文字と表象とにもとづいて起った――saññakkhara-saññanissitāni.アビダルマにおける「名・句・文」に対応するものが述べられているのかと思って一応このように訳してみたのであるが、註釈は「名称(概念)と文章(判断)」と解していたようである(中略)。

六三種の異説――梵網経(DN.I,p.13ff.)に説かれた六十二の異端説に、自己の身体が実在すると見なす見解(身見 sakkāyadiṭṭhi)を加えて六十三とする(Pj.)。異説を説明していう、(後略)。

 以上註記より抜粋して引用しました。

今日からの詩句はブッダに向ってサビヤさんの讃嘆の言葉が続きます。こうしたお経のスタイルは漢訳でも当然に踏襲されています。状況説明に続き、対話があり、讃嘆があります。しかしながら、この讃嘆の言葉がサビヤさんの感想であると考えるのは著しい間違いです。お経の内容は「結集けつじゅう」という評価機関で厳密に考証されたものであると学問的に評価されています。釈尊は対話として伝えられた部分のみならず修行中に多くのことをサビヤさんに教えられました。その結果が「讃嘆」という形式で経典として伝えられたのです。ですからサビヤさんの言葉はブッダ釈尊の教えられた内容ということです。ここは非常に大切なところです。今に伝わった儀式・作法にもブッダの心が伝わっているのだと考えるか、それとも長い間に釈尊の心が独自の判断で歪められていると考えるかです。中村先生の和訳に当っての註記をいつも引用させて頂いておりますが、非常に厳密に注意深く翻訳されていることがお分かりでしょう。そのように、このスッタニパータという最も古いお経のことは、仏教のプロフェッショナルが、こぞって注目をし、洗練を重ねてきたものであります。多少テキストの違いはありましても、その心(精神)は些かも歪んでいません。伝え方に多少の違いはあったとしても、その伝えるべき得べきことは厳格に踏襲されてきております。

論争という激流

これは現代もまた同じであります。論争をしないという結論に至るまでに、論争という激流があったわけです。異説がはびこるとどうなるか、それは間違って伝えられるという混沌であります。この混沌を避けるために、ブッダは一人、理法に基づく言葉を選びました。厳しい修行によって理法を体得されたのです。頭で考えて作り出した普遍的な理論には限界があります。そうした理論を根底から覆す神通力を身につけておられた。これはいわゆる超能力というものではありません。対機説法たいきせっぽうと申しまして、その人の既存の観念に対しての臨機応変の機、機縁というものを絶妙に活かして対話されたのです。上から目線で押し付けるようなことがなかった。その人が真理に目覚めるように、その人が理法を理解できるように対話を重視したのです。多くの識者が、自ら到達した境地に陶酔しているのに比べ、ブッダの慈悲は底なしの優しさでありました。たとえば刊行されている本を読むということを考えてみましょう。人の意見感想というものをいくら読みましても自分のものにはなりません。それどころか、私はあの本を読んだ、あの人のあの本も読んでいます、といった独善に陥るということです。まるで自分がその境涯にあると錯覚してしまうのです。とんでもありません。激流というのは、こうした独善の海に溺れることを指しています。自分の身体が真に実在するのか、それとも実在しないのかということを断定することはできません。それを実在するとか、実在しないとか適当に頭で考えていては本質から遠く外れていきます。サビヤさんは、まず吾が事としてそのことを第一に表明されました。独善からの引退宣言でありました。

今日からは我を行く梢かな(月路)

木々の枝先に新しい芽が息吹く季節となりました。山々の色も無数の緑色に覆われてきました。この木の芽時というのでしょうか、新緑のシーズンはまさしく目に青葉ですね。こうなれば初鰹。明日からはまた敦賀で三日間過ごします。初鰹には早いかもしれませんが、敦賀のおいしい魚をいただくのが楽しみです。今日はある檀家様のところへ法事で出かけます。このマイクロサンガを全部見て下さったというご奇特な方です。まことに有難く、こんな方がおられるということに正直、驚いています。なんと御礼を申し上げてよいやらわかりません。ともかく自然体で向かいます。どうぞ宜しくお願い申し上げます。

「智慧ゆたかな方よ。諸々の〈道の人〉の論争にとらわれた、名称と文字と表象とにもとづいて起った六十三種の異説を伏して、激流をわたりたもうた。

スッタニパータ273

第二 小なる章

〈5、スーチローマ〉

273 神霊よ、聞け。それらの煩悩がいかなる原因にもとづいて起るかを知る人々は、煩悩を除きさる。かれらは、渡りがたく、未だかつて渡った人のいないこの激流を渡り、もはや再び生存をうけることがない。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

本節締めの詩は、神霊(夜叉)に向って仏法の何たるかを高らかに宣言されています。人間が煩悩の原因である妄想そして執著の元をはっきりと知って除き去る。それは煩悩という名の激流を渡り、再び人間として生まれてくることのない「不生」に至ることであり、それゆえに「不滅」であると。

生存というものが真に価値あるのであれば、何度でも再生を願うべきでありましょう。生まれ変わりという輪廻が真の幸福であるならば「不死不生」を目指す必要とてありません。

私たちの一生は苦しみと悲しみに満ち溢れています。一時的な満足感や幸福感あるいは克服によって乗り越えることはできても、また新たな波に襲われ最後にかならず死の時を迎えます。どのような財宝や資産があっても、愛しい人々との別れは必然であります。

このことをどう捉えるかによって生き方が変わります。二度と生存を受けない道を選ぶのか、それとも縁をもって再生を望むのかであります。これは自由選択に委ねられています。ただオール・クリアの再生などはあり得ません。それが輪廻の理法であります。

つぎの節ではその「理法」について詳しく説かれています。

神霊よ、聞け。それらの煩悩がいかなる原因にもとづいて起るかを知る人々は、煩悩を除きさる。かれらは、渡りがたく、未だかつて渡った人のいないこの激流を渡り、もはや再び生存をうけることがない。

 

スッタニパータ219

第一 蛇の章
<12、聖者>

219 世間をよく理解して、最高の真理を見、激流を超え海をわたったこのような人、束縛を破って、依存することなく、煩悩の汚れのない人、──諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

まずもって世間の道理を理解して、その上でブッダの教えられた真理(真如)を静かに見極めることで、煩悩の渦巻く激流の海を渡ることができます。それはすなわちあらゆる束縛を自ら破って、他人に依存することなく、煩悩によって自らを汚すことのないように日常生活を送るということであります。

この詩句の意味する処は、世間の道理に阿(おもね)ないでよく理解するというところにあると存じます。世間と仏法の乖離を肌で感じる人は多いのですが、いわゆる理想論に対しての現実論のように、それは誠にそうであるが一般社会では受け入れられないであろうと勝手に決めつける論法であります。

例え話として、お経に書かれていることは至極もっともなことだと思いつつも、たとえば慈悲の心を持ちましょうということに対して、ハエや蚊を平気で殺したり、一番お世話になっている親に対して素っ気なく対応したり、一緒に仕事している方を疎んじていたり、友達を心の中で蔑み、罵りの気持ちを持ったりすることは現実にないでありましょうか。

自分の気持ちに正直になることがもてはやされる世の中にあって、虚心坦懐にまずは自らの心をあるがままに見つめること。このあるがままは自分の都合の良いように解釈することではありません。いつも「慈しみ」の心に照らしてものごとを観察する習慣、つまり修行をする以外に方法がないのであります。

この今現在の気持ちは真理(慈しみ)に沿ったものであるのかどうか。静かに振り返る訓練をするかどうかであります。世の中はじつに脆弱であります。怠ることなく仏法を我がものにする努力、すなわち「真理を黙って実行する」ことに尽きると思う次第であります。

世間をよく理解して、最高の真理を見、激流を超え海をわたったこのような人、束縛を破って、依存することなく、煩悩の汚れのない人、──諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。

スッタニパータ183

第一 蛇の章

<10、アーラヴァカという神霊>

183 「ひとはいかにして激流を渡るのであるか? いかにして海を渡るのであるか? いかにして苦しみを超えるのであるか? いかにして全く清らかとなるのであるか?」

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

同じような質問が続きます。今回も4問です。激流の渡り方、海の渡り方、苦しみの超え方、全く清らかとなる方法です。

私たちは、ややもすればこうした抽象的な質問を避けがちであります。また抽象論は綺麗事と捉えるむきもあります。なぜなら実感がわかないからでありましょう。実感を伴わない議論は聞きたくないのです。もうウンザリなのかもしれません。

今日は憲法記念日ですね。改正すべきでないか、改正すべきであるかという議論が始まっています。憲法もすべて抽象的です。具体的なことは何も書いていないでしょうか。不磨の大典ともいわれていますが改正できない法律ではありません。人間が作ったものですから完全なものでないことは確かです。

たとえば「戦争をしてはならない、軍備をもってはならない」ことを憲法9条の規定は示していますが、世界中の戦争は自衛のための戦争です。かのテロ国家ISでさえ自衛を標榜しています。日本の自衛隊はどう見ても軍隊です。ですから個別であろうが集団であろうが自衛のための戦争に違いなく、国防軍であろうが自衛隊であろうが軍隊にかわりありません。日本人は詭弁が大好きですから子どもたちに上手に説明しているだけです。隣にヤクザがいていつも鉄砲を撃っているのに、戸締まりもしない警察に通報もしない人はいません。自衛隊が軍隊であり、国の交戦権を放棄していないので、憲法の規定とは完全に相違する、すなわち憲法に違背することは確かであります。だから憲法を変えるべきか、わざわざ変えなくても理想論として掲げておけばいいじゃないか、と今後も論議は続きます。

翻って、ブッダの教えは、変えてならないのです。「人を殺していけない」「嘘をついてはいけない」「怠ってはいけない」などの教えを抽象論に、綺麗事に、理想論ではなしに、「決してしてはならない」のであります。もしもしてしまえば激流に飲み込まれ海の底に沈み大変なことになることを心から悲しみ、まるで吾が子を心配する親のように、教えてくれているのです。仏教は憲法と違います。広大な慈愛であることを確認しておきたいと存じます。

「ひとはいかにして激流を渡るのであるか? いかにして海を渡るのであるか? いかにして苦しみを超えるのであるか? いかにして全く清らかとなるのであるか?」

スッタニパータ173

第一 蛇の章

<9、雪山に住む者>

173 「この世において誰が激流を渡るのでしょうか? この世において誰が大海を渡るのでしょうか? 支えなくよるべのない深い海に入って、誰が沈まないのでしょうか?」

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
激流――迷いの輪廻の生存を激流または海に譬えるのである。

大海――前註に同じ。「大海」(annava)という場合には、インド人は洪水によって出現した大海原を考えていたと思われる。中部インドの人々は海洋(ocean)を知らなかった。以上註より引用。

ここでいきなり激流と出てまいりましたが、なぜ激流かといえば、迷いの海、しがらみの森といった比喩で説明してきた「貪欲」から抜けだし離れることは並大抵のことではないからです。それこそ川でいえば激流、海でいえば荒波の中を乗り越えていくほどの大変な覚悟を必要とするからです。ですからそのような激流に誰が好き好んで挑戦するものかと問いかけているのであります。およそこの世の中でそんな無茶をしなくても、平凡に生きていけばいいじゃないか、無理をすることはないじゃないか、保証のない暗く深い海、すなわち訳のわからない危なっかしい道なぞ誰が歩むものですか、みすみす沈むと解っているようなものではないか等々、それはそれは心配の種をどんどん蒔いて、ブッダに問いかけるのであります。まるでその情景が目に浮かぶようなシーンであります。この説話のクライマックスと申し上げてもいいでしょう。

この神霊の問いかけは、ずばり一般人の言葉や素直な気持ちを代弁しているように感じます。誰だって怖いのです。覚悟するということは並大抵なことではないのです。何の担保のないものに身を預けることなど、まさしく思いもよらぬことではあります。

それほど口で言うのは簡単ですか、貪欲を離れるということ、しがらみの森、迷いの海からの脱出は難しいものがあり、無理すること、波風を立てることはないではないかというのが平穏無事を望む多くの人々の言い分であり、現状維持派の正論でありましょう。

「この世において誰が激流を渡るのでしょうか? この世において誰が大海を渡るのでしょうか? 支えなくよるべのない深い海に入って、誰が沈まないのでしょうか?」