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スッタニパータ583

第三 大いなる章

〈八、矢〉

583 迷妄めいもうにとらわれて自己を害なっている人が、もしも泣き悲しんでなんらかの利を得ることがあるならば、賢者もそうするがよかろう。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

本詩については何ら説明を要しないでありましょう。迷妄にとらわれることは、自己を害うことと同じであり、無益どころか不利となります。

嘆き悲しむのは、頭が混乱しているからです。自身にとってあってならないことが起ると、人は瞬く間に混乱に陥ります。ですからこそ、あらかじめ知っていることが大事なのです。幾度も悲しみを経ると人は学習しますが、若いときにはとかく混乱しがちであります。年齢ではありません。自分には何の落ち度もないと頑なに信じている愚かさです。信じられないことが起るのは致し方のないことなのです。それを本当に知っているか理解しているか否かであります。

たとえば無差別テロリストに子供を殺された親御さんの気持ちを考えてみましょう。これを他人事ではなく、また極端な例と思わずに、吾が事であったらと考えてみるのです。それは毎日のニュースでも身近な出来事でも何でも確かめられます。所詮は他人事ですましているのです。慈しみというのは、格好つけた優しさではありません。口先で何度念仏や題目を唱えようと、慈しみの心が根付くことはありません。その人の苦しみをわが苦しみとして理解できるかであります。

罪のない子供が殺された場合に「いかり」が生じます。昨日も中学2年の女子生徒が行方不明になりました。無事であってほしいと願いつつ、最悪の事態が生じたときに、嘆き悲しまないでおれるでしょうか。こう申し上げると、誰でも反発されます。罪を憎まないはずがないじゃないかと。これが普通の受け止め方でしょう。ところがこれでは残念ながら他人事なのです。ご自身に理不尽なことが生じた時に、見事に罪を憎み犯人を憎み嘆き悲しむことになります。実はこれが混乱であり迷妄なのであります。

ブッダの言葉を表面でとらえていると、結局何もわからないのです。良い言葉だなあと思っているぐらいでは、あまりに勿体無い。そう申し上げておきます。これを言葉で説明しても無意味かもしれません。言葉の限界です。「無常」という言葉ぐらいは中学生でも知っています。しかし本当に「無常」ということは80歳になっても知らないのです。わからないのです。自身が罪のない被害者になって「無常」を思えるかどうかです。嘆き悲しまないでおれるかどうかです。

迷妄めいもうにとらわれて自己を害なっている人が、もしも泣き悲しんでなんらかの利を得ることがあるならば、賢者もそうするがよかろう。

スッタニパータ202

第一 蛇の章

<11、勝利>

202 この世において智慧ある修行者は、覚った人(ブッダ)のことばを聞いて、このことを完全に了解する。何となればかれは、あるがままに見るからである。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
完全に了解する――parijanati.それの名詞形はparinnaであるが、この語はジャイナ教においては、同時に「断ずる」「すっかり捨ててしまう」という意味がある。最初期の仏典においても、同様の意味合いをもっていた、と考えられる。

「この世において」という修飾語は「生きている内に」ということを示しています。早い内にしっかりと肚に納める必要があるということです。「智慧ある修行者」であることが条件です。智慧については今までに何度も出てきましたから、言葉慣れしてしまったかもしれませんが、もう一度確認しておきましょう。

智慧とは、真理を真理として見ることが出来る心の眼であります。実相といいますが、ものごとのありのままの姿をありのままに見るという正しい見解のことです。「正見」と言い換えてもいいでしょう。なにしろ曲がったものの観方をしない、真正面に素直に見たときに、本質が見えてくるものです。

言葉を連ねても、ちょっと変わった言い方をしようが、世の中の物事はさほど複雑にできていません。むしろ意外とシンプルです。善いことをして悪いことをしない、好き嫌いしない、良い悪いと決めつけない、優しい気持ちで過ごす、クヨクヨしない、贅沢しない、質素に生きる、などなど。当たり前のことをやる。してはいけないことをしない。生まれた以上死ぬまでいっしょうけんめいに働く。明るいというのは馬鹿笑いではなく明らかにしていることです。

昨日、友のお父上様の尊い言葉を知りました。女性アイドルの悲しいニュースもありました。娘さんの親にしてみればやり切れない気持ちで一杯でありましょう。殺してやりたいほどの気持ちになってもやむを得ません。けれども、けれども誰がいつ亡くなっても不思議ではありません。悲しい事実であっても受け止めざるを得ないのです。失われた生命を元に戻すことができない現実を目の当たりにして、ただただ無常を思う以外ありません。

この世において智慧ある修行者は、覚った人(ブッダ)のことばを聞いて、このことを完全に了解する。何となればかれは、あるがままに見るからである。

 

スッタニパータ200

第一 蛇の章

<11、勝利>

200 また身体が死んで臥するときには、膨(ふく)れて、青黒くなり、墓場に棄てられて、親族もこれを顧みない。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
墓場に棄てられ――当時は林の中の墓場(smasana)に屍体を捨て去るという葬法が一般的であったことが解る。
以上註より

家族や親戚あるいは知人・友人のご遺体に直面された方ならご存知であろうから、この詩句の意味するところはよく解るし、あまり考えたくないところでありましょう。ですがこの事実を直視する必要があります。見て見ぬふりではなしに事実を受け入れていきましょう。なぜなら死というものの現実を受け入れることは自分が生きていることを確かめる絶好の機会であるからです。めったにない肉親の死を目前にしてただ「無常」ということ「常無し」ということ「変わらぬものは無い」ということをしっかりと目に焼き付けておくことが重要です。言葉で云々と理解するよりも最も直接的に教えてくれるからです。

私は小学校の五年生の時に祖母を亡くしました。ずっと遺体のそばで線香を替え、水を替え、ロウソクを替える役目でありました。祖母から微かに漂ってくる死臭に辟易しながら、徐々に青黒くなっていく様をつぶさに見ながら、ああ自分もいつかはこうして死んでいくのだと心細く、悲しい気持ちでいっぱいになりました。

「南無帰依佛、南無帰依法、南無帰依僧」とくりかえしお唱えしながら、訳のわからないままに、お唱えする以外なかったのです。「生を明らめ、死を明らめるは仏家一大事の因縁なり」と「修証義」の一節を諳んじながら、ただただ線香と水とロウソクを替えるばかりでした。祖母の死は私にとって遺体を見る初めての体験でありました。

これは理屈ではありません。現実です。これほど説得力のある「体験学習」はないのであります。日本で仏教が死と密接な関係を保っているのもこの一点にあります。祖母は自らの死によって最期まで家族に教えてくれて下さったと心より感謝いたしております。それは一緒に仏壇の掃除や真鍮磨きを叩きこまれた日頃があってのことでありました。

また身体が死んで臥するときには、膨れて、青黒くなり、墓場に棄てられて、親族もこれを顧みない。

 

 

 

スッタニパータ101

第一 蛇の章

<6、破  滅>

101 「よくわかりました。おっしゃるとおりです。これが第五の破滅です。先生! 第六のものを説いてください。破滅への門は何ですか?」

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
昨日は「うそをついてだます」ことについて述べました。明日は第六の破滅についてです。その前に、もう一度嘘について考察してみます。世の中は契約社会であり、契約は約束のことで、約束とは未来に生じる結果をあらかじめ予測し、互いの信義に基づいて、誠実にこれを守る取り決めといえます。
ところが、未来のことは誰にもわからないという事実に対する挑戦でもあるわけです。インド社会ならずとも、このような取り決めには、おのずと不履行を招く可能性があります。そこでこの不履行に対して違約条項や担保責任といったことも同時に約束しています。もし約束を破った場合には、このようにすると。しかしこれも未来における完全な担保となるわけではありません。
19歳の少年が養親である60歳代の夫婦を殺害した容疑で逮捕されました。これは最近の事件です。ご存知の方は多いと思いますが、わたしたちはこれをニュースで知って何故にと訝りますが、殺害したという事実を受け止められずに何故殺したのかという事情の方を詮索したがる傾向にあります。人それぞれに生まれてから今日までの体験・経験は全て違うという事実に対する挑戦でもあるわけです。事実に対する挑戦は、いたるところで平然と行われています。

うそをつくことは、愚かさからです。ひとをころすことは、怒りからです。おろかさといかりは猛毒中の猛毒です。仏教ではむさぼりとともに三毒と呼ばれています。これを普通の感覚で受け止めていては、大変な事実誤認につながります。なぜなら世間人間の問題はすべてこの三毒によるものであるからです。どうぞ確かめてみてください。核実験もミサイル発射も拉致問題も虐待も約束不履行も、ありとあらゆる問題がこの三毒によるものなのであるか否かを。

「破滅への門は何ですか?」と真摯に問いかけて下さい。ブッダは事実だけに光を当ててこれに応えられます。これが真実と呼ばれるものです。あとは全て妄想です。同情さえも感傷さえも感動であっても全て妄想です。意味がないことを考えたり思ったりすることは全て妄想であり、妄想を常に意識してこれを離れる。逆に、事実に注目して無常(ものごとは常に移り変わる)を常に意識して、今自らがなすべきことをなす。淡々と目の前のことをこなしていけば、なにも不安がないことをしっかりと伝えていきたいと存じます。