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スッタニパータ527

第三 大いなる章

〈6.サビヤ〉

527 全世界のうちで内面的にも外面的にも正邪の道理を知っていて、人間と神々の崇敬を受け、執著の網を超えた人、──かれは〈聖者〉である。」

そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

正邪の道理を知るということは、戒律を知るということです。むろんこの段階でサビヤさんは完全な戒律を受けているわけではありません。しかしながらブッダは弟子以外の人にも問われれば同様に真理を説かれました。ここが他の六師たちと決定的に違うところです。ブッダ釈尊(釈迦牟尼佛)は手に握りしめるものは何もないのです。偉そうにして自分が特別の存在であるかのように振る舞うことがありません。事実、ブッダは内からも外からも尊敬されていました。世間の道理を弁えることは誰にでもできます。そんなことは大したことではありません。正邪の道理は、世間の道理と根本的に違います。なぜなら時代を超えて通用するのであります。人間と神々の崇敬を受けるに値する真理を知っており、知っておるからこそ実行できるのであります。知らずには実行できないのであります。執著という頭の中に張り巡らされた網、ネットですね。このネットのようにビッシリと執著に囚われている。このネットを打ち破り、完全な自由を得ることが、聖者の道であります。このは正か邪か、このは正か邪か、認識において正か邪か、そして執著において正か邪か。正しい道か、邪しま道か。そうした真っ直ぐな眼を持つことなのです。それは身体の一部としての眼ではありません。正見といいますが、正しい見解というような安物レベルの話ではありません。あるがままに見るという心眼であります。人間の道理、神々の道理、梵天の道理。これに共通する誰もが納得できる道理、これを真理と名付けているわけです。これは言葉には完全に表せませんが、その時における、その場における、その人における真実というものがあります。事実でもいいです。その事実を観念のメガネをかけて見るのではなくして、あるがままに見る。それには執著を超える必要があるのです。自分に対する執著を捨てないで、何事も正見をもって見ることは出来ません。この最も執著しているところの自分という存在に対してさえ執著しない。それが無我ということの本義であります。一番愛している自分に執著しないこと。これが実行できるかどうかです。これは頭の中で考えていたって、いつまで経っても実行できません。修行しかないのであります。そしてその修行をしていることがそのまま覚りであります。修証一如と申します。これが真理でありますが、あえて真如と申しておきます。真理が言葉では表せないからであります。

聖者の道

このくだりではサビヤさんの質問に真っ向から答えて、聖者の道を示しておられます。いわば暗闇で明かりを灯したようなものであります。執著の網を超えたとさりげなく仰っておられますが、これは光明であります。これにサビヤさんは身の震えるほどの歓喜を味わっておられます。ここで喜べないようでは、話だけを聞いてふーんと思っているようなことでは、何を話しても伝わりませんし、ほとんど無意味です。ですが、ブッダはそういう人にも、惜しげなく真理を説かれ続けました。問われれば道を教えたのであります。この聖者とは誰のことでありましょう。サビヤさんは既に確信していました。ですが押して、さらに心から聞きたいと思われて、さらに質問をされました。質問をしないということは、いわば驕りであります。自ら成長を阻止してしまう悲しい観念です。この観念に覆われている方がほとんどです。ですから聖者というのは稀有なのであります。質問することの勇気がなくして、修行とは呼べません。問答というのは学生でも職人でも会社人でも何でも必要でしょう。独学とか独習には明らかに限度があります。アマチュアや趣味ならばそれでいいでしょうが、プロの世界では師弟関係なくして一流にはなれません。師を持つことです。「たとい七歳の女流なりともすなわち四衆の導師なり衆生の慈父なり」道元禅師さまの言葉です。

雨上がり枝垂れ桜の色に酔ふ(月路)

ようやく雨が上がり、昨日はお寺でさるお檀家様の三回忌の法要を営みました。94歳で亡くなられたお母様は、たいそう信仰に篤く、その思い出話を伺って感動しました。お墓参りをしたいと申されて親戚のお嫁さんに連れて行ってもらったのですが、足がお悪く、その親戚の方は自分一人では何かあったら大変だからということで、ご家族を呼んだとのことでした。その一ヶ月も経たない一昨年の4月16日にお亡くなりになりました。それが家族との最後の楽しい一時であったと述懐されたとのことでした。ご自分の最期がわかっていらっしゃった。ご主人を早くなくされた苦労の連続のなかでも、やさしく明るい方であったと聞きました。お母様のご冥福を心からお祈りいたします。南無大悲観世音菩薩。

全世界のうちで内面的にも外面的にも正邪の道理を知っていて、人間と神々の崇敬を受け、執著の網を超えた人、──かれは〈聖者〉である。」

スッタニパータ477

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

477  自己によって自己を観じて(それを)認めることなく、こころが等しくしずまり、身体が真直ぐで、みずから安立し、動揺することなく、疑惑のない〈全き人〉(如来)は、お供えの供物を受けるにふさわしい。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
自己を観じて――cf.SN.I,p.116G.「自己を自己なしと見て(drsṭvātmānaṃ nirātmānaṃ)、かれはそのとき解脱する」(中略)。

それを認めることなく――nānupassati.自己を実体としてそこにあると認めることなく、の意であろう。(後略)

以上註記より抜粋して引用した。

自己によって自己を観じて(それを)認めることなく

これは解脱するための最も肝心なところです。たいへん難しい言い回しのようですが、簡潔にまとめられております。自己というものが実体として存在するという前提では、この文章は意味が通じません。ところが自己と思っているのは自我であり感官によって得られた自分自身の姿形や自己認識に過ぎない。すなわち世界のどこにも自己という実体は存在しないとする無我説によれば、かんたんに意味が通じます。そこで後代の仏教一般には無我という概念をひねり出したのです。いわば魂とか精神といった真我というものを否定したのです。ところが、輪廻という概念を持ち出すとどうにも都合が悪くなります。ようするに矛盾するわけですね。そこでこの矛盾を埋めるのに都合のいい論法はないかと、またまた思考を重ねて考え出されたものが非我という概念です。我は無しとするのではなく、我は我なれど我に非ずとしたのです。ああややこしや仏教論。平たく申し上げればそういうことなのですが、これは全き人の悟られた(言葉に出来ない)ことを論理的に解き明かそうとするものですから、行き詰まったり、訳がわからなくなったり、適当に解釈して無理やり納得してきたのです。何度も申し上げているとおり、解脱を言葉で理解しようとしてもそれは無理です。ここはこれ以上、余計なことを考えないで、すなおに「自己によって自己を観じて、それを認めることなく」と受け止めればそれでいいと思います。考えすぎないことです。

こころが等しくしずまり

心が等しく静まる。これもわかりにくい表現です。われわれは通常有ることでは平静でありましても、何かのことでは波風が立っているものです。具体的に申し上げれば、体の健康面では悩むことがなくても金銭的に悩んでいることもあります。また家族のことで心配があったり、漠然とした不安とか、過去の体験による障害であるとか、様々な憂いというものを抱えています。それらの全てがとらわれやこだわりをもとに波打っているものです。それらが全て静かになっている状態をこころの安定とか平安と呼ぶのです。静かな水面をイメージすると良いでしょう。

身体が真直ぐで

身体が真っ直ぐというのは、姿勢を正しているということです。常に身体を捻じ曲げないでいる。一挙手一投足にも常に気をつけている。足を投げ出さない。手を抜かない。そうした所作が身についているということです。真直ぐを形にあらわした姿が坐禅であります。身体の芯が地球の中心に向っている。そうした安定的な様子であります。

みずから安立し

安定して自立していることです。昨日も今日も明日もゆらぎがない。そうした不動の姿勢です。誰から何を言われようが、たとえ蹴飛ばされようともどっしりと安立している様子です。誰かのためとか、自分のためとか、皆のためとか、為を意識していないこともまた安立といえるでしょう。誰かに依存しているところが少しでもあれば、それはもう安立とは呼べません。安らかに立っておれないのですから。

動揺することなく

外的な刺激で動揺しない。これが安立の安全な立場です。揺れ動くところに立たないことも大事です。安定した場所に安定した姿勢で安定した気持ちでいることは誰でもできますが、不安定な場所でも、どのような状況でも動揺しないことは、誰にでもできることではありません。動揺しないことではなく、動揺することがない安定さを保つことが出来るかどうかです。

疑惑のない〈全き人〉

完全なる人(如来)には疑惑がありません。人を疑うことも惑わすこともないのです。もちろん人から疑われるような人ではないのですが、心無い攻撃を受けたことはありました。殺されかけたこともあります。ブッダは殺害されませんでしたが、ブッダの弟子には殺害された人もおられます。それでもブッダには疑惑がありませんでした。こんなことは稀有なことです。ふつう考えられないのです。後ろから棍棒で殴られたシャーリープトラ(舎利佛)尊者は、殴られても平然と前に進んで歩かれたそうです。殴った方が恐れて詫びを入れると、尊者はそうでしたかと全く動揺がありません。疑惑のない人とはそういう人のことです。全き人と凡人の大きな違いがここにあります。

雨が降り風の吹くなか桜植え(月路)

戴いた桜の苗木、といっても樹高3メートルもある桜の木を観音様の後ろに植えました。古いアスナロの木を昨年伐りましたので、その横に今後のセンターツリーとするべく本堂の前に植樹しました。もう一本モミジの木も贈呈くださるとかで、これは玄関前にどうかなと思っています。そういえば紅梅が咲き始め、冬景色に彩りを添えてくれています。一昨日からのお天気と昨日午後からの雨でお寺のまわりの雪もすっかり融けました。春は確実にやってきております。昨日は牡丹鍋も頂いてお腹いっぱいになりました。この桜が咲く頃には、外で花見ができるぞと子供のように一人はしゃぎながらスコップを片付けました。

自己によって自己を観じて(それを)認めることなく、こころが等しくしずまり、身体が真直ぐで、みずから安立し、動揺することなく、疑惑のない〈全き人〉(如来)は、お供えの供物を受けるにふさわしい。

スッタニパータ473

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

473 執著を超えていて、執著をもたず、慢心にとらわれている者どものうちにあって慢心にとわれることなく、畑及び地所(苦しみの起る因縁)とともに苦しみを知りつくしている〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
畑及び地所――苦しみの起る因縁、すなわち業と煩悩とをさしていう(後略)。

以上註記より抜粋して引用した。

執著を超えていて、執著をもたず。

執着も中途半端が一番良くありません。執着を持つなら徹底して持つべきであろうと思います。どのような仕事であっても執着なしにこれを遂行することは不可能です。人間は執着によって、すなわちコダワリによって成長するのです。これはもうはっきり申し上げておきます。このブログでは他の仏教ブログと大いに違います。それは骨を抜くのが目的ではないからです。欲望のない人など本来はいないのです。居たらそれは人間ではありません。よろしいでしょうか。格好つける必要はありません。欲望大いに結構です。ただそれが自分だけの欲望であるならばそんなものあっさり捨ててしまえと叫んでいるのです。執著について申し述べるとすれば、それは「お金」に尽きると思います。「お金」で苦労している人は半端ないほど沢山おられます。それがこの世の実態です。執著を考える時に「お金」ほどわかりやすいものはありません。執著を超えるには、自分の中のわがままを捨てる。もっとわかりやすくいえば「人のためにはたらく」ことであります。自分のためを捨てるということです。「無私」これなくして一歩も前へ進みません。「無我」というと抹香臭くていけません。それを言うなら「忘我」でしょう。我を忘れてはたらくことです。執着をいとも簡単に超えながら、しかも簡単に執著を持たない。自分に対する執著をもたないということです。

慢心にとらわれている者たちの中にあって慢心にとわれることなく。

自分が一番偉いなどと決して思わないことです。世の中は理屈ではありません。やったもの勝ちです。実行するかどうかです。ひとつ例え話をいたしましょう。昨日ある檀家さんから葬式費用の相談がありました。年金暮らしで、こども達には負担をかけたくない。どうしたら最低限のお葬式をできるでしょうか?といったご相談でありました。なんでも終活とやらで、葬儀社に事前に相談したら、百万円は最低かかる、家族葬でも軽く50万円はかかると断定されたそうです。

わたしは申し上げました。寺ですれば20万円で全部できますよ。お寺のお布施を含めて、と。棺桶などのお見送りセットは3万円もあれば十分です。ワゴン車があれば病院までご遺体を引取に行って、枕経をあげ、お寺でお通夜とお葬式をして、火葬場まで送るのは、住職と遺族の一人が協力すればかんたんにできます。火葬許可証も住職が代理人となって役所へ足を運べばいいのです。もっと簡単にも出来ますが、戒名含めて葬儀費用一式20万円は破格です。直葬ならいざしらず、それでも葬儀社を頼めば15万円を下ることはないでしょう。

こんなことを書くと、おそらく宗門からは弾き飛ばされるかもしれませんが、その時はその時です。わたしはお寺の価値というものがあるとすれば、お経を上げてお金を頂くのは大いに問題ありと思っていますから、檀家さんの、それも年老いた、年金暮らしで貯蓄も少ない人であっても、こころから良かったと思えるお葬式をあげて差し上げたいと心から思うのです。慢心と言われようが思われようが、これがこの道に入った人間の実感です。高尚なことはどうでもいいとはいいませんが、結局観念です。観念に惑わされることなく、その人の得道に寄与したいと願うのは、僧侶としての最低限の良識ではないでしょうか。その現実がお葬式であり、法事です。そんなものは必要ないと思っておられるのならともかく、お経の一つもあげてあげたいと思っておられる方の受け皿。地元のお寺ならではの出来ることではないでしょうか。

業と因縁

日本という国に生れて、日本の習俗に育ち、日本の伝統文化を大切にする人々にとって、合理的な考えはなじまないのです。不合理に見えても、親親から受け継いだDNAには、先祖さんを大事にすることは今の家族ひいては子孫の幸せを大事にする、大切に思うまごころが脈々と息づいています。田舎に参りまして、地域の人々の交流のなかで培われた伝統や習俗の重みをいやというほど味わいました。そうです。人々は純粋であり素朴なんです。難しいことなどどうでもいいのです。それはお坊さんの勉強であって、人々の「願い」とは遠くかけ離れたものです。業論はさておき、因縁論もさておいて、目の前の人々の安心こそが最優先であります。

苦しみを知り尽くす

自分の苦しみなんかはしれたものです。それより何より、人々の苦しみを知り尽くすことではないでしょうか。年金だけで細々と暮らしている健気な人々の不安と心配と問題と恐怖を少しでも和らげてあげること。坊さんのできることはそれぐらいのことです。てめえの自己満足で住職している場合ではないのです。仕事として、ど真剣に向きあい、ど真剣に考え、ど真剣に出来るだけの努力を行わなければ、罰が当たります。今日のブッダの声には、力強いメッセージが込められているように感じてなりませんでした。

何をいい何を言いたい分かる友(月路)

へたくそな文章ですが、一気に書きました。推敲なんかしてません。思ったまま感じたママを書きなぐりました。この燃えるような指先の感覚。ひさしぶりです。やっぱ友はあらかじめ布線を張っていたのです。この俺様が落ち込むのを。知っていてわざと泳がしました。意地の悪いことです。随分遠回りしましたが、やるっきゃないですね。これは。やっと自信が持てました。お寺でお葬式を。これがこれからの常識になります。いや、ならなきゃ嘘です。

執著を超えていて、執著をもたず、慢心にとらわれている者どものうちにあって慢心にとわれることなく、畑及び地所(苦しみの起る因縁)とともに苦しみを知りつくしている〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。