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スッタニパータ433

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

433 (はげみから起る)この風は、河水の流れも涸らすであろう。ひたすら専心しているわが身の血がどうして涸渇しないであろうか。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
この風――苦行による激しい呼吸。

専心している――pahitattassa,つとめて自己を専注すること。

以上註記より引用した。

激しい呼吸をしていると手足が痲れてきます。一般には過呼吸というもので、荒行の一つです。血液がアルカリ性に変わり、血液中の酸素の量が増え二酸化炭素の量が減ります。たちまちには死に至らないようですが、動悸、息苦しさ、眠気、激しい耳鳴り、悪寒などに苛まれます。河水の流れというのは血流のことです。血流が涸れるというのは、心臓の鼓動が止まる、すなわち死を意味します。何もそこまでと、ナムチならずとも思ってしまいますが、なぜ荒行を重ねたのかという理由が次の詩句からつぶさに述べられていきます。

ひたすら専心しているということは、道元禅師の言葉を借りれば「只管打坐(しかんたざ)」ということです。ただひたすらに坐禅に打ち込む。昨日添付しました釈迦苦行像をみれば一目瞭然です。背筋を伸ばし、何が起ころうとも心を動かさず、ひたすら結跏趺坐している。骨と皮ばかりになりながら、何も食べず、飲まず、荒行中の荒行である坐に徹しきっておられます。黙って、じっとしているほど辛いことはありません。安楽の法門といわれますがそれは後世のこと。足が痛くなるのを通り越して、足の皮が腐り出します。肩が凝るのを通り越して、血が真っ青に固まってしまいます。何度も心臓が止まるのがわかる。

一番の難関が眠気との戦いです。睡魔が襲ってまいります。この大軍は遥かに強力な戦隊であります。矢継ぎ早に襲ってきて苦しめます。一人で坐禅をするとわかるのですが、空腹とか喉の渇きや足の痛み、肩の辛さや、腰の重さとは比べものにならないほど、眠気には負けそうになるものです。怠惰と対極にあるものが精励ということです。怠惰は悪魔と同義です。ナムチの軍勢は、あの手この手を使って苦行者ならずとも精励している者を滅ぼそうと手ぐすね引いています。少しの隙きをついて怒涛のごとく押し寄せる大軍勢に、ほとんどの人々はあっさりと陥落してしまうのであります。

暦みて 吉祥なるか 初薬師 (月路)

昨日まで初祈祷の御札などと一緒に「吉祥暦(きっしょうれき)」というものを配っておりました。一枚広げて見たのですが、江戸時代に流行した昔ながらのもので、今風にいえばカレンダーなのですが、本だとどこかへしまい忘れてしまいますが、壁に貼っておくと何かと便利です。古希まであと六年。えらい年寄りになったのかなあと思わずにはいられません。昭和32年生まれの人が今年は還暦ですよ。感慨深いものがあります。自分では今でも青春だと思ってはいますが、だいたい考えることや思うことが年寄り臭くなってきたことは確かです。そうは言ってもわたしにも目標というものがあります。そうそうナムチ君とつきあってもおれません。今日は初薬師。薬師如来は無明という病気をなおす仏さまです。大乗仏教が御利益信心みたいに思われている向きもありますが、無明すなわち迷いを捨てる薬は自身の精励(はげみ)以外にないことを改めて教えてくれています。

↓朝の爽やかさと同じ爽快な気分になりました。吹石一恵さん風?

(はげみから起る)この風は、河水の流れも涸らすであろう。ひたすら専心しているわが身の血がどうして涸渇しないであろうか。

スッタニパータ368

第二 小なる章

〈13、正しい遍歴〉

368 修行者が、自分に適当なことを知り、世の中で何ものをも害(そこな)うことなく、如実に理法を知っているのであるならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
世の中で何ものをも害うことなく――第五一五詩及びそれに対する註参照。

515 あらゆることがらに関して平静であり、こころを落ち着け、全世界のうちで何ものをも害うことなく、流れをわたり、濁りなく、情欲の昂まり増すことのない〈道の人〉、──かれは〈温和な人〉である。

註 全世界のうちで何ものをも害うことなく――ジャイナ教においても全く同じことを言う。第三六八詩参照。

以上註記より引用した。

昨日はお寺で、町内会主催の第一回目の「坐禅会」を開催いたしました。参加者老若男女12名。坐禅のあとでお茶を頂き、その後観音経を全員でお唱えして、『本日参詣参禅の善男子善女人各家・・・』と回向させていただきました。色々とありましたが、ここでは書けませんので、感じたことだけ一言申し上げると、20分間ほんとうに静かでした。

さて今日の詩句のポイントは、申すまでもなく「無害」であります。なにものをも損なわない、害しない、それは「温和であること」です。自分の意に沿わないことがあると、人は何かしらの感情を抱いてしまいます。なぜかといえば、無智であるから。仏教一般には無明と申します。智慧のないことが、感情的になる所以であります。

「自分に適当なことを知り」という前提も大事なポイントです。自分にとって知る価値があり知る必要がある情報を得て、これを学ぶことと理解してみます。というのは、私たちお互いは、圧倒的に多くの無駄な情報を得ながら、本当に必要な僅かな情報を積極的に得ようとしないからであります。そうしてどうでもよいことを、さも大事なことのように大袈裟に後生大事に、日々を過ごしているのではないでしょうか。

昨日までの二日間、昔のショートストーリーをご覧いただきました。誰にでもある悲しい出来事を乗り越えて今日があるという現実を、自分のこととしてまとめ、自分のことばで話すことを意図したいと思ったからです。体験や経験が人を育てることは紛れもない事実です。それが聡明ということであり育成ということであります。わたしが聡君と育美ちゃんから学んだことは、自分だけの悟りを求めるのは理論的には正しいのかもしれないが、自分のことは忘れて、誰かのために精一杯生きることだということです。言い換えれば「愛と勇気」ですが、わかりにくい。もっとかんたんに「いっしょうけんめい」生きていきます。

修行者が、自分に適当なことを知り、世の中で何ものをも害うことなく、如実に理法を知っているのであるならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

スッタニパータ347

第二 小なる章

〈12、ヴァンギーサ〉

347 この世で、およそ束縛なるものは、迷妄の道であり、無智を朋とし、疑いによって存するが、全き人(如来)にあうと、それらはすべてなくなくなってしまう。この〔全き人〕は人間のための最上の眼であります。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

ヴァンギーサさんは師から教えられた真実を自分の言葉で語り続けます。本節の中でブッダが答えられた部分は僅かです。第三五五詩の二行だけです。そのたった二行の言葉を聴くために、その前後にややもすれば饒舌ともとれる懇請と感激が綴られております。

こういった形態は珍しいのかもしれませんが、お経とはほとんど如是我聞、わたしはこのように聞いております、という伝聞なのです。これをブッダの前で話すのです。すると間違っていれば訂正が入ります。それはこうだということがなければインド一般の慣習で無言で承諾の意を示すのであります。

今日の詩句にも「束縛なるものは、迷妄の道であること。迷妄の道は、無智を朋とし疑いによって存すること」という真理が説かれています。何が束縛かって、それは自分自身の迷いや妄想を繰り返しているからだよ。なぜって無智だから疑問だらけで自分勝手に誤魔化しているわけさ。全部知っている人に聞いたほうが早いし正確なんだな。ってところでしょうか。そうした智慧を言葉を選んでブッダ釈尊の前で発表しているのです。まるでどこかのセミナー会場に見えてくるではありませんか。

ここでの注目点は「無知」ではなく「無智」であることです。単なる知識ではなしに、智慧の無いことです。後に「無明」と伝えられることになる根本的な無智のことです。真理を知らないということです。真理を知らないで悩み苦しむ。悪いことをすれば悪いようにしかならない。善きことをすれば善きことが巡ってくる。愚痴を言いながらクヨクヨしていたのでは、どうしようもありません。前に進むべきです。怠っている暇は全く無いのであります。と、今日の声が内に響いて、強い励ましであり、勇気を与えて下さいます。有難きかな仏教

この世で、およそ束縛なるものは、迷妄の道であり、無智を朋とし、疑いによって存するが、全き人(如来)にあうと、それらはすべてなくなくなってしまう。この〔全き人〕は人間のための最上の眼であります。

 

スッタニパータ277

第二 小なる章

〈6、理法にかなった行い〉

277 かれは無明に誘(いざな)われて、修養をつんだ他の人を苦しめ悩まし、煩悩が地獄に赴く道であることを知らない。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

無明(むみょう)とは、迷いであり、真理に暗いことを指し、智慧の光に照らされていない状態であります。無明の闇は自分が暗いと気づいていないところに大きな問題があります。つまり自分は全て知っているという思い込みであります。これを観念と申します。観念の色眼鏡をかけているのですからまともに見えるはずがないのです。ところが困ったことにまるで全てを悟ったかのようにふるまい、傲慢で、余計な言葉で混乱しているのであります。

これは一部の人に留まりません。ほとんどの人々、修行者であっても自己の見解に固執して他人をも混乱させておきながら平気な顔をしています。吾がこととして猛省が必要です。でなければこの無明の闇が広がり、煩悩の海におぼれてしまいます。そしてこの海のそこには地獄が待ち構えております。

無明であることを確認しましょう。ただしこの無明に誘導されてはいけません。無明であると気づき、明かりを灯せば、真理(実相)が見えてまいります。この明かりが智慧(真の理解)であります。このスッタニパータ(原始仏典)に学ぶのも、智慧の光によって無明の足元を照らし、しっかりと仏道を歩まんがためであります。

かれは無明に誘(いざな)われて、修養をつんだ他の人を苦しめ悩まし、煩悩が地獄に赴く道であることを知らない。

スッタニパータ199

第一 蛇の章

<11、勝利>

199 またその頭(頭蓋骨)は空洞であり、脳髄にみちている。しかるに愚か者は無明に誘われて、身体を清らかなものだと思いなす。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
空洞――susira.恐らく頭蓋は出口をもたないから、九つの孔のうちには数えられていないし、汚い物を外へ出すことはない。しかし「脳髄にみちている」といい、やはり脳髄というものは汚いものだと考えていたのであろう。
以上註より

身体が綺麗なものであるならば、毎日のように顔を洗いシャワーを浴びなくてもいいでしょう。血液が汚れているからこそ腎臓で濾過した後に小便として排泄します。食べ物からは僅かな栄養分を吸収して残りは全て排泄します。体液とて同様です。極端に危険視する必要はないかもしれませんが、決して清らかなものではないのであります。

説明を要しないかもしれませんが、無明とは明るく無いと書きます。迷いのことであり根本的な無知とも言い換えられますが、かんたんにいえば暗いということです。闇の中で手さぐりしているようなもので見えていないということです。人間はこれに弱いのです。確率から言えば当たるはずなどないのに「夢を買う」とかいいながら宝くじを買ったり、外観や香りに魅せられて異性の誘惑に負けてしまったり、心の暗さゆえに愚かなことを仕出かしてしまうことがあります。

無明に誘われる者が愚か者であります。あるがままを見るものは無明に誘われれることはありません。清らかでないものを清らかだと思いなして執着するようになる、そういう愚かさをブッダは指摘しているのであります。

またその頭(頭蓋骨)は空洞であり、脳髄にみちている。しかるに愚か者は無明に誘われて、身体を清らかなものだと思いなす。

スッタニパータ160

第一 蛇の章

<9、雪山に住む者>

160 雪山に住む者という神霊がいった、「かれは欲望の享楽に耽らないだろうか?その心は濁っていないだろうか?迷妄を超えているだろうか?諸々のことがらを明らかに見とおす眼をもっているだろうか?」

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

本日はお釈迦様の御誕生日です。花まつり、灌仏会(かんぶつえ)です。

欲望の享楽に耽り、その心が濁る

欲望には際限がありません。食欲、性欲、物欲、睡眠欲をはじめとする様々な欲望に苛まれ、その楽しみから抜け出せないどころか徐々に享楽の罠に嵌っていくと、本来は澄み切った透明な心がどんどん濁っていきます。そうなると何も見えなくなる。心の濁りは眼球の濁りで眼が見えなくなるように、あるがままの世界があるがままに見えなくなってしまうのです。そうして身近な大切なひとの優しい心遣いにさえ気づかない愚か者に成り下がっていきます。後世の仏教ではこれを「無明」と呼ぶようになります。闇の中に蠢いているようなものです。

迷妄を超えている

迷妄とは「物事の道理に暗く、考えが誤っていること。それによる心の迷い。」と辞書にあります。迷妄を超えるとは、物事の道理を弁えて迷いのない状態です。こころが鮮明であるということです。澄み切った眼をもっているからこそ、ものごとを透徹して揺ぎ無いのです。

 

諸々のことがらを明らかに見とおす眼をもっている

この詩句は同じ事を違う角度から問いかけているのです。欲望にとらわれていないから道理を弁えて迷いがなく、明らかに見通せるのであります。慧眼ということです。智慧の眼であります。正しい信念と言い換えてもいいでしょう。仏教が智慧と慈悲の教えといわれる所以であります。しかもこの智慧は大いなる優しさである慈悲の心すなわち「慈しみ」の後ろ姿なのです。かんたんに申せば「慈悲」と「智慧」は表裏一体です。

世界の、そして人々のありのままを姿を観れば、手を差し伸べずにはいられない、真っ暗闇の中の人々を助け出したい思いに溢れます。それが慈しみの心、ブッダの教えです。

「慈しみ」こそが仏教の真髄であり、あるがままを観る智慧をもつことは、教えを実行する、慈しみの実践のための必須条件といえます。

雪山に住む者という神霊がいった、「かれは欲望の享楽に耽らないだろうか?その心は濁っていないだろうか?迷妄を超えているだろうか?諸々のことがらを明らかに見とおす眼をもっているだろうか?」