タグ別アーカイブ: 煩悩

スッタニパータ562

第三 大いなる章

〈七、セーラ〉

562(セーラは弟子どもに告げていった)、──「きみたちよ。まなこある人の語るところを聞け。かれは(煩悩の)矢を断った人であり、偉大なたけき人である。あたかも、獅子ししが林の中でえるようなものである。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

獅子吼ししく」については何度かこのブログでも取り上げてきましたが、これほど明瞭に獅子吼について説かれているのは本詩が最初でありましょう。後世の仏典の典拠がここにもあります。

この詩句での重要なポイントは二点あります。その第一点は「眼ある人」第二点は「矢を断った人」です。順をおって確認しておきましょう。

まず眼とは何かということです。両眼でないことは明らかです。これを心眼と解すると途端に迷路に入ってしまいます。訳がわからなくなります。そうではなくして、正法眼蔵のことです。本来は仏法の端的な、すなわち肝心要の事柄を意味するとされています。道元禅師様の著作のタイトルに使われた禅家の心印でもありますが、ここでの眼は本来の正法眼蔵の意であります。簡単にいうと眼とは一番大事なことです。眼ある人とは、じつに一番肝心なことを知っている人ということ、つまり真理を知っている人ということです。

次の「矢を断った人」は決して忘れてはならないほど大事な話です。ここは目を皿のようにしてしっかりと聞いて下さい。煩悩の本質です。悪魔の正体です。今日このブログを見逃した人は、一生知らないで後悔することになります。さっと読み飛ばしてしまうほど愚かなことはありません。よろしいでしょうか。このことを知っていれば、清らかな境地に一歩も二歩も近づきます。

矢のように瞬時に刺さる煩悩

結論から申しますと、脳の働きの最も大きな部分です。現代的にいえば、そうなります。誰にでも脳はあります。様々な身体の働きを制御している中枢です。その脳の働きの中で、悪魔、敵ともいえる攻撃神経が実際に存在します。それは瞬間瞬間に間断なく襲ってくる神経回路です。これを抽象的に欲望とか妄想とか執著とか傲慢さとか勝手に名付けていますが、これは一言でいえば、矢なのです。自分を煽ったり、傷つけたり、落ち込ませたり、喜怒哀楽の元凶であります。この得体の知れない実際に沸き起こる感情を「煩悩」と呼んだだけなのです。

この矢は普通、断つことは出来ません。寝ている最中にも攻撃してきますから、夜熟睡できないのです。夜に熟睡できないでいるとどうなるか。これは科学的にも証明されていますが、認知症の原因物質が脳から排出しにくくなるのです。よろしいでしょうか。認知症になりたくなければ、この矢を断つ努力が必要です。

ブッダは単に結跏趺坐して瞑想していたわけではありません。何も考えないというのは、半端な努力じゃないのです。頭に降りかかる火の粉を払うがごとく、何も考えない時間を日課とする必要があるのです。よく坐禅を始めた人がいう科白ですが「色んなことが頭に浮かんできまして、中々無念無想とはまいりません」。当り前です。正常な人は先程申し上げた「攻撃神経」に気づくはずです。矢でも鉄砲でもいいんですが、それこそ矢継ぎ早にやってくる「煩悩」の火を消すしかないのです。

消し方は、ただ一つです。呼吸に意識を向けるだけです。一息一息しかないことがお分り頂けましたか。この火を妄想と呼ぶのが一番実態に近いでしょう。全て頭に浮かんでくることは、妄想と決めつけて良いのです。妄想なんですから。攻撃神経という悪魔の放った矢を片っ端から断つ。これが坐禅の実際です。昨日坐禅を始めた人も悟りを得た高僧も、やっていることは全く同じです。これ以外ありません。やるかやらないかだけです。寝ている場合じゃないのです。

(セーラは弟子どもに告げていった)、──「きみたちよ。まなこある人の語るところを聞け。かれは(煩悩の)矢を断った人であり、偉大なたけき人である。あたかも、獅子ししが林の中でえるようなものである。

 

スッタニパータ493

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

493 貪欲と嫌悪と迷妄とを捨てて、煩悩の汚れを減しつくし、清らかな行いを修めている人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

後世に貪瞋癡(とんじんち)の三毒と呼ばれることになる貪欲と嫌悪と迷妄とを捨てることが、煩悩の汚れ、すなわち迷いをなくす道(方法)であり、清らかな修行であると説かれております。この三毒はいずれも強力な毒です。人を殺傷することにつけてはサリンやVXに勝るとも劣らぬ力を秘めています。それは全ての人類が保有しており、それどころか人類の破滅にも至る猛毒中の猛毒です。先日の金正日氏の暗殺一つとってみても、権力の保持という貪欲と、権力に逆らう者への嫌悪と、権力の過信という迷妄に冒された暴挙であることは論を待たないでしょう。しかしこれは他人事ではありません。誰もがそうした毒を少なからずもっています。貪欲と嫌悪と迷妄。この三つのキーワードに当てはめれば、人々の言動が明瞭となります。ブッダ釈尊の透徹した眼は、この三毒を見逃すことなく鮮明に分類整理されたのです。

修行の中身

文字面をいくら研究しようが、仏典の解説を読み解こうが、実際に修行の中身であるところの本質を身体で理解していなければ、それは単なる知識で終ります。後世の仏教はあまりにも煩雑な理論のジャングルを育て上げ、知覚できないまでの膨大な仏教学を打ち立てました。そこに仏教徒はいません。さしずめ仏教学徒と申しておきましょう。理論や論説の中身を知ろうとせずに論法や技法に陶酔しているとしか思えない学徒たちが沢山います。呆れるほどです。皮肉を申し上げているのではありません。三毒を知っていたとしても、まさか自分の中にこの三毒が回っていることに気づかないでいたら取り返しがつきませんよ、と申し上げたいのです。これは特に自分に言い聞かせています。自己と他己のためにならない学問なら意味はありません。三毒に気づくための、またその解毒のための、一番効果的な修行は何であるか。何をすればこの三毒を捨てられるか。これを自分自身で決めておく。そして愚直に実行する。いわば修行の中身をどうするかが一番大事なことです。でなければブッダ釈尊一代の言説は自分にとって表面上のものになりかねません。教えを皮や肉を味わって終えるか、骨の髄までしゃぶるかであります。骨髄を得る。これは決して皮肉で申し上げてはおりません。ここが肝なのです。

春の雪淡く重たく伸し掛る(月路)

冬に逆戻りとまではいきませんが、ここ敦賀では雪が30センチも積もりました。朝起きてびっくり。昼過ぎにはずいぶん融けてやはり三月の雪だなあと感慨しきりです。昨日は市内の檀家さんに配り物をポスティングしておりました。狭い道路は除雪していなくてあちこちで立ち往生。おそらくノーマルタイヤに履き替えておられたんでしょうね。ここは不精の勝利でした。さて早木曜日です。明日は奈良に戻りますが、それまでにして置かなければならないことは、塔婆書と議事録。確定申告は来週住所移転後に奈良で行います。これ、このブログ、わたしの日記でもあります。悪しからず。

貪欲と嫌悪と迷妄とを捨てて、煩悩の汚れを減しつくし、清らかな行いを修めている人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ484

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

484 限界を超えたもの(煩悩)を制し、生死を究め、聖者の徳性を身に具えたそのような聖者が祭祀のために来たとき、

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
限界を超えたもの(煩悩)――原文にはsimantaとあるが、註によると「限界」とは善人の行為をいい、その「端」とはそれと異なったものをいう。sīmā ti mariyādā sādhujanavutti, tassā antā pariyosānā aparabhāgā ti katvā simantā vuccanti kilesā(Pj.)
聖者の徳性――moneyya(paññā.Pj.).

以上註記より引用した。

限界を超えたもの(煩悩)を制し

▶普通の人間には限界というものがあります。もうこれが限界、精一杯というものです。それは生存への執着という壁であります。それ以上であれば死んでしまう最後の恐怖です。煩悩を制することは死に直面した時にも義(まこと)を貫く覚悟であるかもしれません。普通に善なる行いを続けている人でも、まったく異なった状況、極めて苛酷な境遇に置かれたときには、善人であり続けることはまことに困難であります。限界を超えるのではなくして、そうした限界を超えたものであるところの「煩悩」の炎を制御している聖人、すなわち解脱した人ということです。

生死を究め

▶生死(しょうじ)というものが真に理解できれば、仏教を理解したといえるでしょう。それほどにこの「生死」というものは深いのであります。修証義の冒頭の一節に「生を 明らめ 死を 明らむるは 佛家 一大事の 因縁なり」とあります。これほど端的に仏教を述べた文章をわたしは知りません。端的というのは極みということです。

▶原語にはjātimaraṇakovidaṃとあります。「生死を究める」という表現もまた見事な翻訳でありましょう。言葉面に酔いしれている場合ではありません。この生死を自己と他己のものにできるかどうかです。身体で理解できるかどうかです。刹那生滅。一瞬一瞬に生れて死んでいる。今という間にも既に今はなく、今また今に、生死をくりかえしている現実を実感できるかということです。これは観念ではなく現実です。生きているという事実と死んでいるという事実。いわば生死の中に全てが内含されている。生れてから死ぬまでが人の一生という概念では、決して理解できません。一秒間に75回も生死を繰り返していると後代の仏教では説明されていますが、そういった科学的な観念もさておいて、生死を熟知するというか、やはり生死を究めるという、大事な、もっとも大切な角目であります。

聖者の徳性を身に具えた

▶「争いを離れ、心に濁りなく、諸々の欲望を離脱し、ものうさ(無気力)を除き去った人、限界を超えたもの(煩悩)を制し、生死を究め」た、そのような聖者の特性を身に具(そな)えた人が、祭祀のために来たときには、合掌礼拝して飲食物をささげ供養しなさい、と続くのです。

▶このあたりでもうスンダリカさんは、たしかに気づかれています。だれに供物を捧げるべきかを。眼の前のブッダには一度、供物の受容を拒否されています。詩偈を唱えて得たものを私は食うわけにはいかないと断られた。供物とは代償ではないということを思い知ったのです。しかし今、ブッダは聖者に供養しなさいといっておられる。聖者とは誰のことなのか。何を誰に捧げるべきなのか。そこではたと気づかれた、ストンと腹に落ちたのです。賢明な読者は顛末をご存知かもしれません。しかしそれは単なる知識でありましょう。知識でこのくだりは解せません。これは現実的な、しかも厳粛な「出家のすすめ」であるからです。

逃げる月逃がすものかと月走る(月路)

▶無常迅速。二月も今日で終りです。速いものです。綾小路きみまろさんではないですが、困ったものです。二月が逃げて行きます。二月中にやろうとしていたはずが、ほとんどそのまま。「お父さん、なんでこれやってないのよ。言ったでしょ。私きょうは友達と映画見に行くんだから、片付けといてって。知らないわよ。もう私行くからね。カレー作って置いたから。それ食べて、それから洗濯もの干しといて、ちゃんと午前中に中へ入れといて。畳むのは私帰ってからするから」懐かしい限りです。そうです、今は良き思い出です。

▶わたしの中の奥さんの名前は「月路」です。どうも下手な川柳か俳句か知りませんが、厚かましくいつも挿入しておりますが、閑話休題ということでお許しを戴いております。今は挿入することも無くなったのですが、なつかしい気持ちを挿入しておりまして、下世話なことで恐縮ですが、少しも淋しくはありませんが、たまには女性の感性と言いましょうか、完成かもしれませんが、そうした客観的な見地もまたはるかな記憶の中から選んでおります。感謝。これしかないですね。今はただただ感謝。ありがとう。よき想い出を。そして子供たちを産んで、育ててくれて。

限界を超えたもの(煩悩)を制し、生死を究め、聖者の徳性を身に具えたそのような聖者が祭祀のために来たとき、

スッタニパータ472

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

472 かれは、生存の汚れも、荒々しいことばも、除き去られ滅びてしまって、存在しない。かれはヴェーダに通じた人であり、あらゆることがらに関して解脱している〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

かれは――ブッダ自身のことです。なぜならば、もはや自己にさえとらわれていない、完全な客観でブッダを説明しているからです。またこれを「私は」とやってしまうと、聞いた人は自慢に聞こえてしまいます。「彼は」というのを「彼の人は」と訳してもよいかと思います。

生存の汚れ――これは文字通り生きていることによって生じるあらゆる汚濁です。煩悩と呼ばれていますが、あまり仏教学的に突っ込まない方がよろしいかと存じます。眼・耳・鼻・口・身体・脳神経などの感官によって感覚が生じ、あらゆる感情をもたらします。これが生存の汚れです。刺激に対する反応ということです。多くは動揺です。

荒々しいことば――言葉遣いが荒い。この逆に言葉遣いが丁寧とか優しいということではありません。悪語、妄言という意味です。乱暴な言葉でもいいでしょう。そういう言葉が彼の人からは完全に消えている。除き去られ滅びてしまっている。存在していない。だから人々の胸に響き、嫌な感じが微塵もないのです。すっと胸に入ってくるのです。

ヴェーダに通じた人――聖典に通じている。これは一バラモンに話した言葉です。直接スンダリカさんに、聖典を信奉しているであろうバラモンに向けて、彼の人はヴェーダ聖典に通底しているということをさらりと伝えたのです。

あらゆることがらに関して解脱している――これが結論です。解脱者であると宣言しているのですが、解脱という観念ではなく、あらゆること、すなわち全知者であると同時に、その知の全てから解き放たれ(開放され)、完全な自由を手にし、輪廻を脱出したと述べておられます。

いみじくも京で逢うたり彼のひとに(月路)

出逢いというのは不思議なものですが、まことによいところで出会うものです。直接のこともあれば間接のときもあります。本や音楽とて出会いでしょう。時間があれば本屋に行くことが好きです。いろいろな本を見て回り、その場で衝動的に買うこともあれば後日ネットで買うこともあります。面白くないことがあったときなどに目に飛び込んでくる情報。それは新聞記事の片隅の言葉であったり、広告の看板であったり、電車の中の人々であったり、行きつけのお店の人であったり、変な意味ではなしに、はっと、ひらめくことがあるものです。助けられます。空也上人の像を見ただけで、空なりと。腹立ちが一瞬に治まりました。

↓人間顔じゃないよね。こだわりなくに、こだわりたい。

かれは、生存の汚れも、荒々しいことばも、除き去られ滅びてしまって、存在しない。かれはヴェーダに通じた人であり、あらゆることがらに関して解脱している〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

スッタニパータ464

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

464 諸々の欲望を捨てて、家なくして歩み、よくみずからを慎しんで、梭のように真直ぐな人々、──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
第四六四、四六五詩は第四九七、四九八詩に同じ。
 
以上註記より引用した。

梭(ひ)については第二一五詩を参照して下さい。機織りの縦糸に対して横糸を通すときに使われる道具(シャトル)のことです。

欲望を捨てる。あっさりと説かれていますが、これは口でいうほど簡単なことではありません。だいたいそういう人に、お目にかかったことがありません。自身を振り返ってみても欲望だらけです。欲望はしばしば煩悩と呼ばれますが、何のことはありません。普通の人の普通の感情です。感情のほとんどが欲望です。ああしたい、こうしたい、嫌だ、好きだ、暑い、寒い、冷たい、熱い、何もしたくない、眠い、疲れた、あらゆる欲望とはこうした気持ちのことです。あらためて申し上げるまでもありませんが、気持ちを捨てるということは、感情を殺すことではなく、さっと離れることです。

欲望の対象にとらわれない。見たまま聞こえたまま感じたままの感覚にこだわらない。こんなことが果たして可能でしょうか。可能です。家という一番気持ちが表れている欲望の具体的な対象から離れて住むこと。たとえば、豪邸や高級マンションをイメージしてください。こうした住まいに住みたいと思ったから、そこに住んでおられる。またそれを買ったり借りておられる。気持ちが表れているのが現在の生活です。これも当然のことですが、あっさりとその思い、気持ちを捨てれば、家から離れることは実に可能です。可能ではありますが、これがなかなか至難です。

そういう気持ちを捨て、家から離れて歩み、よく自らを慎んでいる人々にこそ、供物をささげなさい、と。それは梭のように真っ直ぐな歩みを続けている人々、つまり修行者にこそ供物をささげる、供養しなさいという意味です。例によって、もし貴方が功徳を求めて祭祀を行うのであれば。と続きます。

これは明確にブッダがバラモンを試しておられるところだと思います。解脱を求めて出家し慎ましく生活している修行者に供養をささげなさい。それが祭祀を行う在家の勤めですと言わんばかりです。事実そう繰り返し説いておられる。祭祀を祈りと言い換えてもよいと思います。これからも供物をささげ祈りを続けるのであれば、その供物は立派に修行されている人々に捧げなさい。出家者に在家者が供養する、それは善きことなのです。そういう生き方ももちろんありますよ、と。

風強し幡が纏わる雪が飛ぶ(月路)

夜中にお腹がすいて目が覚めました。観音様ののぼり幡が千切れんばかりに風にあおられています。あれは風が動いているのか、幡が動いているのか。ある人は自分の心が動いているのだと言われた、という大河ドラマの一シーンが、なぜか腹減ったという夢でした。まったく意味がわからないのが夢ですが、欲望とか、気持ちというのも夢の様なものではないでしょうか。つじつまというか、理路整然とはいきません。結局、気持ち。この不可解な気持ちとまだ当分付き合うことになりそうです。

諸々の欲望を捨てて、家なくして歩み、よくみずからを慎しんで、梭のように真直ぐな人々、──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ406

第三 大いなる章

〈1.出家〉

406 「この在家の生活は狭苦しく、煩わしくて、塵のつもる場所である。ところが出家は、ひろびろとした野外であり、(煩いがない)」と見て、出家されたのである。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

煩悩という字は、煩わしく悩むと書きます。世間の中で修行を進めるのは至難の技かもしれません。仕事をはじめ、雑務が多いのはもちろん、家族や親戚、友人との付き合いなど、人間関係も複雑であれやこれやと心を煩わされる時間が多いと思います。

その点出家は自分のことだけを考えておればいい、非常に気楽な立場に見えるかもしれません。否、現実にそうなのですが、それと気づくのに時間がかかるかもしれません。あらかじめ出家の修行のやりやすさを意識しておかないと、何のための出家なのか訳がわからなくなるやもしれません。

正法眼蔵(12巻本)出家功徳(現代語訳)抜粋

龍樹菩薩が申されるには、確かに、「仏の教えでは、在家の戒に従えば天上界に生まれることも、菩薩の道を得ることも、また涅槃を得ることも出来るという。それならば、なぜ出家の戒を用いるのか。」と問われれば、

私は答えよう。在家の戒であれ出家の戒であれ、どちらも生死を解脱できるが、そこには難易の違いがある。在家には生業や様々な務めがあり、もし仏道に専心しようとすれば家業が廃れ、もし専ら家業に励めば仏道が疎かになる。そこで両方を取らず捨てずして仏法を実践しなければならない。これが難しい。

もし出家であれば、世俗を離れて世の煩いを断ち、専心に仏道修行するので容易なの である。また、在家の生活は騒がしく多忙であり、煩悩の起きる根源であり、多くの罪の集まる場所である。これらのことが 在家の仏道をはなはだ困難にしている理由である。

もし出家したならば、例えば 人が外に出て人気のない広い野原に座り、その心を一つにして 何も思い煩うことがないようなものである。心の煩悩は除かれ、世事からも離れ去っている様は、次の詩に説かれている通りである。

「静かに林間に坐して、安らかに自らの諸悪を滅ぼし、恬淡とした一つの心を得ている、この楽は 天上の楽に勝る。人は財産や地位、快適な生活を求めるが、これらの楽しみは安穏ではない。なぜなら、利益を求める心には際限がないからである。

僧は、質素な袈裟を着けて家々に食を乞い求め、日常 心を1つに整えている。自らの智慧の眼によって、すべての物事が真実であることを明らかに知り、仏の様々な教えの中に、皆等しく 身も心も投げ入れている。解脱の智慧の心は安らかで、この世に及ぶものはない。」
これによって理解されることは、出家して戒を修め仏道修行するほうが、在家の場合よりも 甚だ容易ということである。

道元禅師 正法眼蔵 現代訳の試みより引用した。

現代語に訳してみると、スッタニパータに書かれていることとほとんど変わりありません。出家でも在家でも解脱は可能であるが、たとえ志は高くとも、在家のままでは甚だ困難であるということです。これはきわめて当然のことを説かれているのですが、まさに道理でありまして現実的な理解であると存じます。

「この在家の生活は狭苦しく、煩わしくて、塵のつもる場所である。ところが出家は、ひろびろとした野外であり、(煩いがない)」と見て、出家されたのである。

スッタニパータ372

第二 小なる章

〈13、正しい遍歴〉

372 清らかな行いによって煩悩にうち克った勝者であり、覆いを除き、諸々の事物を支配し、彼岸に達し、妄執の動きがなくなって、生存を構成する諸要素を滅ぼす認識を立派に完成するならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
妄執の動きがなくなって――anejo(=apagatatanhAcalano.)(後略)

以上註記より抜粋して引用した。

昨日は朝一番で会社に出向き、久々にてんてこ舞いの社員らと話しました。そして社長にもお会いして現在の心境を話し了解を頂きました。胸が晴れました。それから寺にも顔を出し、友と食事したあとに冬物を積み込み、ゆっくりと寺路(家路)につき、午後8時過ぎに到着。やはり住めば都です。一番落ち着きます。ごろんとなれる場所。それが巣。龍巣(りゅうそう)を栖(すみか)とする金鳳たちが待っていてくれました。

さてさて、今日のブッダの声もまた、これ以上はないといった趣の言葉が並んでおります。逐次解説は不要でしょう。このまんまで充分かと思いますが、あえて解説をすれば一点だけ。生存を構成する諸要素を滅ぼす認識という言葉でありましょう。原語はSaṅkhāranirodhañāṇakusalo.であり「諸行止滅の智慧に明るい」ほどの意味でありますが、わかりにくいですよね。ようするに生きているうちは煩悩が生じます。それで人間が死にますね。するとロウソクの炎がふっと消えるようなもので、煩悩も消えるわけです。最後の瞬間まで一所懸命に修行しつづけた人が死んだら、それを涅槃と呼ぶのです。修行の完成。それを体で解っている者。これが一番説明しにくい。宮崎禅師はそれを遺偈で「坐断而今」と仰った。もっと分かりにくいかと思いきや、このほうが実際に分かりやすいでしょう。

今日は最後に、道元禅師さまの遺偈をご紹介いたします。

五十四年  五十四年
照第一天  第一天を照らす
打箇浡跳  箇のぼっ跳を打して
触破大千  大千を触破す
 咦      咦(いい)
渾身無覓  渾身に覓(もと)むる無し
活落黄泉  活きながら黄泉に落つ
※三行目の「浡」は正しくは足偏

清らかな行いによって煩悩にうち克った勝者であり、覆いを除き、諸々の事物を支配し、彼岸に達し、妄執の動きがなくなって、生存を構成する諸要素を滅ぼす認識を立派に完成するならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

 

スッタニパータ370

第二 小なる章

〈13、正しい遍歴〉

370 煩悩の汚れはすでに尽き、高慢を断ち、あらゆる貪りの路を超え、みずから制し、安らぎに帰し、こころが安立しているならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

昨日は当地区で今日開かれる「山の神」さまのお祭りの準備の餅つきでした。餅つきといっても私たち男性陣は、運ぶのと並べるだけです。もっぱら餅つき機をはじめ、蒸籠やガスレンジを使いこなして丸めるまでを手際よく片付ける女性陣の真骨頂、約三時間ほどで二斗分のお餅ができました。

お寺にとっては女性陣の活躍は欠かせません。もちろん男手も必要ですが、長年培われ受け継がれてきた伝統的手法は、今後どうなっていくのであろうかと考えさせられました。だんだん毎年のように人が減っていく中で、限界をこえて、さらに消滅へと向かう地域の集落。まさしく超高齢少子化社会都市部集中の現実が目の前にあります。

さて今日のブッダの声は、さっと読めばそのまま何の抵抗もなく聞き流してしまうところです。わたしは今日のポイントが一番最初の「煩悩の汚れは既に尽き」にあると見ています。これは滅尽定といって無色界の非想非非想処の最高の禅定の先に進んだ状態とは、何の関係もありません。

全くないわけでも無いのですが、坐しての禅定修行(長ったらしいので坐禅といいます)、坐禅を長年続けていると到達できるとされるのが四向四果の最後の段階、阿羅漢果の境地なのですが、ブッダは僅かの期間で到達したとされます。だが、われわれは一生かかっても多分無理だと思います。そういう階梯を上がっていく修行は、ごく一部の方が続けていけば宜しい。そういう意味で完璧を目指すことは善いことではあるけれども、人の世の中におれば多分それは頭のなかで描くだけで、現実には無理でしょう。無理なものを無理して下さいというのは明らかに欺瞞である。そう思っていますから、上座部かぶれの方々には申し訳ないが、それは完全に出家して、それこそ日本では無理ですからスリランカにでも行って修行したら宜しい。ブッダでさえ悟りを開かれた後に遊行されておられるのですから。

脱線してしまいました。ようするに煩悩は尽きることがない。服や下着を着ていればその服や下着は必ず汚れるのと同じです。では煩悩の汚れが尽きることがないかと言えばそれはあります。わたしは自分の修行が完成したらそれで満足できる人の気持が知れません。そういう方はおそらく高慢でしょう。上から目線どころではない。自分が崇高な境地に至ったと思えて仕方が無かろうと。煩悩が尽きることは無いが、煩悩によって汚れることは無い。泥の池に咲く蓮の花のように清らかであれる。それは共に泣き、共に喜び、共に悲しみ、共に楽しむ生活の中にも現実にあります。社会の中にあって、家族の中にあって、仏道を貫くほどの修行はありません。山に篭って一人修行していることが素晴らしいことではありません。滝に打たれて、火に焼かれてする修行よりも、家族が寝ていようが、怪訝な眼で見られようが、黙って静かに坐っておる。そういう誰にも迷惑をかけない、自分にも迷惑とならない修行。それが坐禅であり、煩悩はあってもそれによって汚れることのない、菩薩行であろうと思っております。大乗仏教運動というのは、そういう簡単な理由です。現在の上座部仏教もどちらかといえば大衆部の流れで、広い意味での大乗仏教でしょう。悪しからず。

煩悩の汚れはすでに尽き、高慢を断ち、あらゆる貪りの路を超え、みずから制し、安らぎに帰し、こころが安立しているならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

スッタニパータ367

第二 小なる章

〈13、正しい遍歴〉

367 修行者が、貪りと迷いの生存(の望み)とを捨てて、(生きものを)切ったり縛ったりすることをやめ、疑惑を超え、(煩悩の)矢を抜いたのであれば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

昨日は高野山のさらに上にある荒神様にお参りしてまいりました。雲海で有名なそこは、快晴で澄み切った空気がつめたく、紅葉が進んでおりました。年始にお配りする「鎭防火蠋」(ちんぼうかしょく)の御札を祈祷するにあたり、これからそうしたいと思ったからです。

さて今日の詩句は、四つの部分に分けて示されております。後世に渇愛とよばれることになる「貪りと迷いの生存の望みとを捨てること」が最初に出てまいりますが、この基本的な欲望を捨てることは、果たして可能でしょうか。これが今日のメインテーマとなります。今日も最後に動画を貼りました。ご覧いただいて、ぜひこの課題に取り組んでいただきたいと存じます。

次に後世に「不殺生」と呼ばれることとなる五戒の第一番目が述べられております。「生きものを切ったり縛ったりすることをやめること」であります。これも果たして可能でしょうか。

三番目に「疑惑を超えること」すなわち迷わないことでありましょう。これも不可能なことと思えます。最後に「煩悩の矢を抜くこと」です。これら四つを成し遂げることは、とても難しいことのように思えて仕方がありません。これができた者は後に「阿羅漢」と呼ばれるというのですが、それはもう普通の人間ではありません。

ですが、わたしは、これは見方を変えれば、たとえ七歳の女の子にも出来るものであることを「修証義」で知りました。「たとい七歳の女流(にょりゅう)なりとも、即ち四衆(ししゅ)の導師なり、衆生の慈父なり。」とあります。これが発菩提心(ほつぼだいしん)であります。発心(ほっしん)はこの言葉を約めた言葉ですが、発心とは何かをどうか今日は体全身で味わっていただきたいと存じます。

修行者が、貪りと迷いの生存(の望み)とを捨てて、(生きものを)切ったり縛ったりすることをやめ、疑惑を超え、(煩悩の)矢を抜いたのであれば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

スッタニパータ328

第二 小なる章

〈9、いかなる戒めを〉

328 笑い、だじゃれ、悲泣、嫌悪、いつわり、詐欺、貪欲(とんよく)、高慢、激昂、粗暴なことば、汚濁、耽溺をすてて、驕りを除去し、しっかりとした態度で行え。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
いつわり、詐欺、貪欲(とんよく)、高慢……――ここに数え立てられている煩悩はジャイナ教のそれに近い。第四六九詩に対する註記参照。
 
高慢――自分の生れなどを誇ること。
 (後略)
 
以上註記より抜粋して引用した。

さまざまな煩悩を捨て、驕りを除去するとは、ここに列記された好ましくない習慣を改めることにつきます。努めてこのことを肝に銘じ魂に銘ずることです。これがしっかりとした態度となってまいります。そういう無駄な時間があったら、さっさと為すべき作務に打ち込むべきなのであります。これに言い訳は無用。本節のテーマは「いかなる戒めを」保てばよいかであることを忘れてしまわないことです。タイトルに込められた肝の部分を外さないことでもあります。

末枝末葉にこだわることはありませんが、ときに単語の響きにこころがトキメクこともあります。昨日も「魅力と磁力」を掛けたと感じた「慈力」なる言葉に魅了されました。竹本さんのコメントにあった単語ですが、言葉自体にパワーを感じます。お釈迦様の慈力ははるかに強く大きく時空を超えて私たちのこころを惹きつけます。慈しみを離れた教えは一行もなく、どのようなブッダの教えも慈しみに貫かれております。厳しい戒めもブッダの深い慈悲からの言葉と受け取れば、ただただ有り難き仏法であると歓喜できるのであります。戒と慈悲の関係は明確です。細かい戒律もまた深い慈悲の念が込められております。

敷居を踏むな、畳の縁を踏んではならないといった細かい躾も、慈悲あふれる親の思いが込められています。人の前で恥をかかないようにと、それはそれはふとした親心にそっと涙を拭いました。親思う心に優る親心……。有り難いことです。そういう親心に優る仏様の言葉を今日は噛み締めたい。危なき道を歩もうとしている者に、気をつけるのだよと何度も何度も言い聞かせて頂いております。今日の言葉は、わたしに直接ブッダが教えていただいたように強く感じています。

笑い

だじゃれ

悲泣

嫌悪

いつわり

詐欺

貪欲

高慢

激昂

粗暴な言葉

汚濁

耽溺

(以上12そして)

驕り

笑い、だじゃれ、悲泣、嫌悪、いつわり、詐欺、貪欲、高慢、激昂、粗暴なことば、汚濁、耽溺をすてて、驕りを除去し、しっかりとした態度で行え。