タグ別アーカイブ: 理法

スッタニパータ578

第三 大いなる章

〈八、矢〉

578 若い人も壮年の人も、愚者ぐしゃも賢者も、すべて死に屈服してしまう。すべての者は必ず死に至る。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

あらゆる人々が必ず死に至ることを、この詩は明確に説いていますが、なぜこのように当り前のことを語られたのでしょうか。今日は全く別の観点から読み解いていきたいと思います。

ここで例として掲げられた年齢と賢愚の差に注目してみます。幼い子供が死んだ場合と百歳を越えた方の場合を比較してみます。あるいは、善人と悪人のそれぞれの死を比べてみます。他人の評価はどうあれ、残された家族の悲しみにいささかの違いもないように、死に至ることは全く同じなのです。人智ではおよそ想像もつかない残酷なことが、厳然と事実としてそこにある「死」という現実をどう受け止めているのかという課題であります・

極論を申せば、どのような丁重な弔いも、またいわゆる「直葬」も、その結果において何ら変わることはありません。不昧因果ふまいいんがということです。因果をくらまさずと読みますが、原因と結果は至ってシンプルな理法であります。では何のために、お経をお唱えするのかといえば、それは生きている人が教えを反芻するためです。何度も何度も繰り返し繰り返し、真理を声に出すのです。それが功徳と成る。いつしか縁が重なって、よりよき道へ進んでいけるということです。死んだ人々は元々生きていた人ばかりであるという現実に目を向けましょう。それが来生の善き縁につながっていくのであります。

若い人も壮年の人も、愚者ぐしゃも賢者も、すべて死に屈服してしまう。すべての者は必ず死に至る。

スッタニパータ557

第三 大いなる章

〈七、セーラ〉

557 師が答えた、「セーラよ。わたしがまわした輪、すなわち無上の〈真理の輪〉(法輪)を、サーリプッタがまわす。かれは〈全き人〉につづいて出現した人です。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

全き人(tathāgata:如来)とは釈尊ご自身のことです。

サーリプッタ(Sāriputta)とは有名な舎利弗尊者のことです。サンスクリットではシャーリープトラといいます。直訳すればシャーリーさんの子供という名前でしたから舎利子しゃりしとも漢訳されています。般若心経で観音様が「舎利子よ」と呼びかけられていますね。あの舎利子です。お釈迦様のまごうかたなき一番弟子でした。釈尊より年長で残念ながら釈尊よりも先に亡くなりますが、智慧第一とされ目連尊者と共に二大弟子と呼ばれています。お釈迦様の後継者の筆頭であったことは多くの仏典に示されています。

舎利佛尊者から真理を聞いた人々もたくさんおられました。このことは弟子から弟子へ教えが伝わっていくことを示しています。輪を回す、転法輪ということです。輪が回っても回転軸や輪の大きさが変わらないように、真理(理法)というものは変わりません。変わりゆく社会にあって、地軸や地球の回転が変わらないのと同様に、ブッダ釈尊の教えは変わらないのです。それはゴータマという人間の教えではなく、この世と、かの世の真理であるからです。ブッダは真理を説かれ、その実践の方法(道)を教えられたのであります。

師が答えた、「セーラよ。わたしがまわした輪、すなわち無上の〈真理の輪〉(法輪)を、サーリプッタがまわす。かれは〈全き人〉につづいて出現した人です。

スッタニパータ500

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

500 生と死とを捨てて余すところなく、あらゆる疑惑を超えた人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

この詩句もまた解脱した人々について説かれたものです。人々ということは複数ですからブッダ釈尊お一人ではありません。解脱して阿羅漢となり涅槃に入った人々もいれば、釈尊の前世のように遷化され菩薩として生きておられる方々もあられます。ここで佛すなわち仏陀となるにはどうしたら成れるのかという疑問が生じます。南伝仏教は釈尊一人が仏陀であるとし、北伝仏教では釈尊以外にも多数の佛がおわすとしています。するとどちらが正しいのかという単純な問題が起こります。見解の相違というだけなのですが、双方とも自己の見解、観念にこだわり決して譲りません。そんな議論をするのは決まって解脱していない人々であります。解脱した人々は議論することがありません。議論の必要がないのです。

生と死とを捨てて余すところなく

生死(しょうじ)を超える。生きることにも死にいくことにも捕らわれていない。これは完全な生であり完全な死である。生を全うし、今生限りの命を終える。また死後を望まない。そうした言葉をどれほど重ねようとも、生死について理論的に説明することは不可能であります。なぜならば今生きている者が死というものを知り得ることは理論上不可能であるからです。当り前です。体験しているのは生だけです。そして死を体験していない。だから半信半疑なのです。いずれ誰もが死ぬことは誰でも知っています。知っているからこそ生死を捨てられない。生死にとらわれる。かんたんに言います。死んだらどうなるんだろうか。死んだら死んだとき。生きておるうちは余計なことを考えない。生死という仏教の一大事因縁であっても、これにこだわらない、とらわれない。あっさりと自己の見解を捨てるということです。佛の家に投げ入れるというのは、人間としての考えや想像、いわば妄想を捨てて、未だ知らぬ佛の命にいだかれることではないでしょうか。

あらゆる疑惑を超えた人々がいる。

全ての疑惑を超える。何の疑問もない。これは何も学ばないことと同じ意味でしょうか。真理を知りたいと望む人々が、真理に触れて、真理を実行することが無意味でしょうか。この辺を明らかにするために『本事経』の一節をご紹介しておきたいと思います。和訳されたものですが、ご存知かもしれませんが、わたし自身たいへん心うたれた一節であります。

「弟子達よ、たとえわが弟子であっても、私の衣の裾をとって後ろに従い、私の足あとを踏んでいても、欲深く心乱れているならば、彼は私から遠く、私も彼から遠い。なぜならば、彼は法を見ておらず、法を見ない者は私を見ない者だからである。しかるに私から百里離れていて、彼が欲を離れ正しい心でいるならば、彼は私の傍にいる者である。なぜならば、彼は法を見、法を見ることによって私を見る者であるからである。」

ここで法とは教えということです。また理法という意味もあります。「教えは何のためにあるかといえば、それは実行するためにある。人が見ておろうが見ていまいが、黙って真理を実行する。疑いのない、わたくしのない、正しい道をまことという。真直ぐということや」宮崎禅師のことばと重なります。真理というものが遠くにあるものではなくて、今ここに勇気が風のように、わたしの背中を押してくださいます。仏法。まことに有り難き縁でございます。

なぜならば生きておるから梅の花(月路)

梅の花は一番先に咲いて一番長く咲いております。息が長い。道元禅師が愛したとされる梅の花。香りもよく、色形もよく、音さえ聞こえてまいります。そうです梅花流詠讃歌。とくに無常御和讃にはいつも泣かされます。ところで今日はスッタニパータ500という節目を迎えました。それがどうしたと言われそうですが、どうしてどうしてこの飽き性のわたしが500日以上も続けたというのは、およそ考えられないことです。異常なことなのです。以上であります。

生と死とを捨てて余すところなく、あらゆる疑惑を超えた人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ461

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

461 (バラモンがいった)、「ゴータマ(ブッダ) さま。わたくしは祭祀を楽しんでいるのです。祭祀を行おうと望むのです。しかしわたくしははっきりとは知っていません。あなたはわたくしに教えてください。何にささげた献供が有効であるかを言ってください。」
(師が答えた)、「では、バラモンよ、よくお聞きなさい。わたくしはあなたに理法を説きましょう。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

このスンダリカさんは、非常に正直なバラモンでありました。というのも「祭祀を楽しんでいる」すなわち「この仕事が好きなのです。誇りをもっています」といった感じでしょうか。与えられた神職(住職)といった役割に真面目に取り組んでいる様子がうかがえます。また「祭祀を行おうと望む」とありますように「これからもこの仕事をやり続けていきたいと思います」と抱負を述べています。さらに「はっきりとは知っていません」と祭祀の真の意味を知らないことを正直に吐露しています。そしてブッダに尋ねるのであります。「何にささげた献供が有効であるか」と。ようするに献供の対象を教えてください。神々に捧げる供え物の本当の意義を教えてくださいと頼むのでありました。

これは宗教の祭祀に携わるものとして、実際に祭祀の具体的な方法や儀式の詳細を熟知していたとしても、その意味や意義といった本質の部分を良くわからなくて、あるいは疑問を持ちながらも慣例にしたがって踏襲している者にとって、すこぶる正直な質問であろうと思います。方法を知っていても目的を知らないようなものです。

この疑問に対し、ブッダ釈尊はバラモンに明確に告げます。「理法を説きましょう」と。

理法を説く

理法(達磨・ダンマ)を「真理」とか「真如」あるいは「真実」といいますが、後の仏教では仏法または単に法と呼んでいます。この訳のように、一般的には理法が一番わかりやすいと思います。それはともかく、明日から次々と理法の数々が説かれていきます。理法とは道理と法則のことです。だれもが納得する道理というものがあり、これが世界の法則であるとき、これを理法と呼びます。道理にかなった法則が理法であります。

では道理とは何かですが、ものごとの正しい筋道、ものごとの理(ことわり)、正しい理解に基づく道筋といった感じです。また法則とは「いつどこでも一定の条件のもとで成立する関係性」ということでしょうが、こんなことは辞書を引けば何となく分かったような気持ちになれます。肝心なことは、言葉の理解ではなく、言葉を通して得られる「納得」であります。

あらためて理法を説かれた時に、人は、はっと思い至ります。自己の全人格をもってして、すなわち理性と感性でこれを受け止めるのです。過去の体験と経験。勉学。そうした積み上げてきた信念や見解を駆使してこれを聞きます。そのときに、その人が、動くかどうかです。心を揺るがすものがあるかどうかです。一時的な感動などではなく、芯から温まるような「実感」が生まれるかどうかであります。

祭祀の目的は何か。献供の対象は何なのか。そうした素朴で単純な疑問に、ブッダは「理法を知れ」という単純明快な回答を行いました。理法を知れば実践するのみです。何の迷いもなく、これを実行することでしょう。そうした姿勢をもっている人に、この理法はとても効果的です。素直な人、正直な人、へその曲がっていない人、根性が腐っていなければ誰でも成る程と得心のいく答えが得られるでありましょう。これは予言です。

信心も 鰯の頭 柊刺す (月路)

「イワシの頭も信心から」という文句は知っておりましたが、まさか本当にイワシの頭を刺して魔除けにする風習があることを今日まで知りませんでした。ここ関西の奈良では、節分の日に焼いた鰯の頭を、ヒイラギの葉を挟んだ割り箸で刺して玄関に飾るのです。福井では見たことも聞いたことも無かったものですから驚きました。所変われば品変わると申しますが、関西では昔から節分に恵方巻きを食べる習慣が昔からあったと聞きました。いやはや、コンビニ戦略だけではありません。あな恐ろしや信心よ。それで、何故イワシの頭や巻き寿司なのかということは、じつは誰も知りませんでした。

(バラモンがいった)、「ゴータマ(ブッダ) さま。わたくしは祭祀を楽しんでいるのです。祭祀を行おうと望むのです。しかしわたくしははっきりとは知っていません。あなたはわたくしに教えてください。何にささげた献供が有効であるかを言ってください。」
(師が答えた)、「では、バラモンよ、よくお聞きなさい。わたくしはあなたに理法を説きましょう。

スッタニパータ460

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

460(師が答えた)、「それ故に、バラモンよ、あなたは求めるところがあって求めてきたのであるから、こちらに近づいて問え。恐らくここに、平安で、(怒りの)煙の消えた、苦しみなく、欲求のない聡明な人を見出すであろう。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

三帰依文は

「南無帰依佛、南無帰依法、南無帰依僧。帰依佛無上尊、帰依法離塵尊、帰依僧和合尊。帰依佛竟、帰依法竟、帰依僧竟。」

上記をまとめると

「南無帰依仏無上尊、南無帰依法離塵尊、南無帰依僧和合尊。」となります。これで三句二十四字となります。また道元禅師は正法眼蔵の帰依仏法僧宝巻において『根本説一切有部毘奈耶』巻四十五』より引いて次のようにも示されています。

帰依仏陀両足中尊、帰依達磨離欲中尊、帰依僧伽諸衆中尊

これもまた三句二十四字(第四五七詩参照)となっています。漢訳の妙味であります。

今日の詩句は、ブッダがスンダリカさんに仏法の心髄を説いておられる重要な箇所であろうと思います。と申しますのは、「あなたは求めるところがあって求めてきたのであるから、こちらに近づいて問え」と言われたことです。「求めよ、さらば与えられん」新約聖書のマタイ伝の言葉と同じように(もちろん歴史的にはブッダが先に述べておられますが)、これは原則です。聞く耳を持たない者に、何を言っても意味がありません。「せっかく道を求めてここに来たのでしょうから、もっとそばに寄って私に質問したらどうだね」といった感じでしょうか、とにかく聞いてみて「こりゃダメだ」と思ったら去ればいいだけの話です。物を買わされることもありません。勧誘ではないのです。真剣に道を求めてここにやってきたということを、ブッダは誰よりもよくご存知であります。

そこで、「恐らくここに……人を見出すであろう」とさりげなく予言されているのであります。予言ではなく、期待かもしれません。期待でもなく願いであり慈しみかもしれません。道を求めている者にとって、真理を聞くことは類稀な喜びであり希望でありますが、その逆に真理に巡り会えないことは誠に残念なことと申し上げてよいでしょう。

「平安で、(怒りの)煙の消えた、苦しみなく、欲求のない聡明な人」とは、ブッダを指すことはいうまでもありません。あらゆる煩悩を離れ解脱している人です。もう一度先程の三帰依文、三句二十四字を見てみましょう。帰依を南無と言い換えても同じです。

帰依仏陀両足中尊、帰依達磨離欲中尊、帰依僧伽諸衆中尊(帰依三宝)

両足中尊とは、仏陀(ブッダ)の尊称です。生類には多足,無足,両足がいて、中でも両足のもの(神々と人間) が尊く、両足の者の中で最も尊い人という意味です。人天の師ということです。

離欲中尊とは、達磨(ダンマ)を尊ぶことです。世の道理と法則の中で、欲を離れることが最も尊く、そのために聡明な智慧をもってこれを実行すれば、怒りが消え、苦しみのない平安の境地が実現します。真理、真如、理法、仏法ということです。

諸衆中尊とは、僧伽(サンガ)の尊さです。世界の無数の集団、集いの中でも、仏教を実践する仲間ほど心強いものはありません。衆生というのは人間(衆)とその他の生類(生)のことですが、和合衆、すなわち慈悲の心で自分ができることに取り組んでいる人々は、時間空間を超えても友であります。勝友(しょうゆう)、和合尊ともいいます。

まことに仏に出会うことは稀有なことです。人に生まれたことは、それだけで尊ぶべき境涯であります。前生の功徳と申し上げておきましょう。そして仏法(仏の教え)にめぐり遭えたことは何にも代え難いことです。ましてやスンダリカさんは、ブッダその人に実際にお会いしたのです。その話でありますから、これは一言ももらさず聞いておきましょう。幸いにも今の私たちは文献でその言葉を読むことが出来ます。ただこの文字面を読み流してもいいのですが、それは縁の深浅の問題ですからあえて強調いたしませんが、今日の詩句は、寺の外観になぞらえて申せば、山門(三門)のようなものでしょう。門に入るか否か、むろん自由意志で決めることができます。いつでも門は開かれております。

立春や 寒中見舞い 遅かりし (月路)

無常迅速。はや立春ですよ立春。そういえば日が長くなってきました。六時で薄明るく、また薄暗くなります。このお寺では毎日自動的に正午ならびに午前と午後の六時に鐘が鳴ります。これが一番ありがたい。ものぐさのわたしの為にあるようなシステムです。しかしこれって一人でお寺を預かる者にとっては、超助かるんですよ、実際。

(師が答えた)、「それ故に、バラモンよ、あなたは求めるところがあって求めてきたのであるから、こちらに近づいて問え。恐らくここに、平安で、(怒りの)煙の消えた、苦しみなく、欲求のない聡明な人を見出すであろう。」

 

スッタニパータ457

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

457「バラモンはバラモンと出会ったときには、『あなたはバラモンではあられませんか?』とたずねるものです。」

「もしもあなたがみずからバラモンであるというならば、バラモンでないわたしに答えなさい。わたしは、あなたに三句二十四字より成るかのサーヴィトリー讃歌のことをたずねます。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
サーヴィトリー――Sāvitri.『リグ・ヴェーダ』第三編第六二詩篇の一〇にある三句二十四字より成る詩で、太陽神サヴィトリSāvitrに対する讃歌である。この讃歌は普通はGāyatriと称せられ、特に重要な讃歌である。バラモンたちのあいだでは殊に神聖視され、今日に至るまでバラモンは毎朝この詩をとなえている。「サーヴィトリーはヴェーダの詩句のうちで最上のものである」(中略)。ところが仏教は、サーヴィトリーに相当するものとしての別の文句をもち出した。このサーヴィトリー詩と同様に、仏教徒が最初に学ぶべきものは
Buddhaṃ saraṇaṃ gacchāmi.(仏に帰依したてまつる)
Dhammaṃ saraṇaṃ gacchāmi.(法に帰依したてまつる)
Saṃghaṃ saraṇaṃ gacchāmi.(つどいに帰依したてまつる)
という三句二十四文字よりなる三帰依文である。今ここでサーヴィトリ―というのは、仏教のサーヴィトリ―である三帰依文を指す、と註釈は解する。
 
以上註記より引用した。

ぶっだん さらなん がっちゃーみ (南無帰依仏)

だんまん さらなん がっちゃーみ (南無帰依法)

さんがん さらなん がっちゃーみ (南無帰依僧)

仏陀(ブッダ)と達磨(ダンマ)と僧伽(サンガ)に帰依する三帰依文(さんきえもん)ですが、三宝に帰依する内容です。世界中の仏教徒の集まりで唱和することが多いですから覚えておくとよいと思います。

今日の詩句の内容は、ブッダの前の詩句を受けて、スンダリカ・バーラドヴァージャさんが行った返答とそれに続いてのブッダの再返答です。少しややこしく感じられるかもしれませんが、バラモンの特に重要視している讃歌を「三句二十四字」と端的に言い表したことで、スンダリカさんの態度が一変します。日本的にいえば、「三帰依とは何か」と返答したようなものでしょう。信教の本質に見事に迫ったのであります。以後の問答はスンダリカさんの質問にブッダが一つ一つ答えるのでありますが、この問答の内容が一人のバラモンを根本から変えていきます。

達磨(理法)というものが、ブッダによって説かれ、その教えを実行する者の集いがサンガであります。この基本的な道理によって仏教というものが成り立っています。昨日ある禅宗のお坊さんから連絡を頂きました。話の中身が明確で、ともに力を合わせていこうという仕儀に相成りました。これからどうなるかは皆目わかりませんが、残された人生を静かに歩み続けたいと思います。

「バラモンはバラモンと出会ったときには、『あなたはバラモンではあられませんか?』とたずねるものです。」「もしもあなたがみずからバラモンであるというならば、バラモンでないわたしに答えなさい。わたしは、あなたに三句二十四字より成るかのサーヴィトリー讃歌のことをたずねます。」

スッタニパータ453

第三 大いなる章

〈3.みごとに説かれたこと〉

453 真実は実に不滅のことばである。これは永遠の理法である。立派な人々は、真実の上に、ためになることの上に、また理法の上に安立しているといわれる。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
類句が『テーラ・ガーター』一二二九に存する。

永遠の理法――dhammo sanantano.

ためになること――attha.漢訳仏典では「義」とか「利」と訳される。或る場合には「道義」と訳してもよい。本当の意味で人のためになることである。

以上註記より引用した。

同じ原典からいくつもの解釈が成り立ちます。いつの時代においても人々は、伝えられた言葉から必死にその真意を探ろうと努力してきました。そのなかには誤って解釈しているものもあれば、自己の信ずる方向へ正しいと信じてかかり誘導するための道具として用いてきた側面もあろうかと存じます。原典や註解書と呼ばれているもの自体が、真理や理法そのものではない可能性も否定できるものではありません。

人は生まれも育ちも皆それぞれに違います。言葉も違えば生まれ育った環境、教育、出会った人々の影響などなど様々な要因によって個性という名の人格を形成しています。それを一律に統御することなど決してできません。このスッタニパータとて金科玉条、最高の真理として崇めるものではありません。宗教や思想あるいは哲学、科学、心理学によって人をコントロールすることは厳に慎まなければなりません。

昨日、書店にてNLP(神経言語プログラミング)に関する書籍を買って読みました。いわゆる自己啓発の本なのですが、こうした本やセミナーに影響を受けて多額の出費を行い、のめり込んでいく人が多いと思います。確たる科学的心理学的な裏付けや、歴史的経緯と時間的蓄積が浅いものに、商業主義的な、もっと端的に申せばほとんど詐欺的な手法によって、マインドコントロールされてしまって、結局は蟻地獄に落ちていくさまが手に取るようにわかりました。言葉の刺激ほど怖いものはありません。

たとえば、わかりやすい例が「プラス思考」という言葉です。この言葉は大変便利らしく、今やあらゆるところで使われています。この言葉に踊らされて本質を見失い、非常に偏った考え方に染まり、妄想を理論づけて拘泥し、その思想に基づかない考えを否定していくのです。完全に洗脳されてしまって、もはや自分が洗脳されていることすら気づかないのであります。

仏教を標榜する諸団体のなかにも、こうしたいかがわしい思想を流布しているものもあります。具体的に列挙すれば膨大な数になるでしょう。これも八万四千の法門に数えるのでしょうか。とりもなおさず、騙されてはいけませんとだけ申し上げておきます。

では何を信ずれば善いかということですが、これはもう自分で判断するしかありません。ですが基本的には常に疑問をもって、あるいは冷めた眼で観ることをお勧めします。近所にとても大きな「十一面観世音菩薩」を祀った観音堂があります。先日お参りして中のご本尊をしげしげと観察させていただきました。文字通り十一ある面のそれぞれに特徴があります。頭上に如来(化仏)、向って右に三面が瞋怒(憤怒)面、正面三面が菩薩面、左三面が狗牙上出面そして真後ろが大笑面なのですが、これはバランスを現しているともいえます。偏らないということです。人々の信仰の対象ですから冒涜するわけにはまいりませんが、お叱りを覚悟で申せば、言葉では言い表せないことを造形で表そうとした先人の智慧であろうと存じます。仏菩薩像とてある種の言語であり言葉であると思います。

人々の 為になるかや 耳すまし (月路)

昨晩久しぶりにジブリアニメ映画の「耳をすませば」をテレビで観ました。懐かしいと同時に主人公の月島雫ちゃんの仕草に淡い初恋の想い出が蘇りました。また彼氏の天沢聖司くんは、ある意味ストーカーで恋の達人というか女たらしではないかとする意見に思わず同調してしまいそうでした。昨今の映画やアニメは、あり得ない奇想天外な物語が多いのですが、たとえば大ヒットした「君の名は」などもそうなのですが、この耳すまは、普通の生活の中での出来事を綴りながらもファンタスティックであることが特長ではないでしょうか。

とまれ、人との出会い体験経験は言うに及ばず、映画にしろ小説にしろ物語や伝承にせよ、実生活の中でそのまま役立つものでなくとも、良し悪しではなく言葉が様々な影響を人に与えます。どこかで見た情景や状況が個性に与える影響は計り知れません。こわいものです。これもまた真実かと考えます。

真実は実に不滅のことばである。これは永遠の理法である。立派な人々は、真実の上に、ためになることの上に、また理法の上に安立しているといわれる。

スッタニパータ450

第三 大いなる章

〈3.みごとに説かれたこと〉

わたしが聞いたところによると、──或るとき尊き師ブッダはサーヴァッティー市のジェータ林、〈孤独な人々に食を給する長者の園〉におられた。そのとき師は諸々の〈道の人〉に呼びかけられた、「修行僧たちよ」と。「尊き師よ」と、〈道の人〉たちは師に答えた。師は告げていわれた、「修行僧たちよ。四つの特徴を具えたことばは、みごとに説かれたのである。悪しく説かれたのではない。諸々の智者が見ても欠点なく、非難されないものである。その四つとは何であるか? 道の人たちよ、ここで修行僧が、〔ⅰ〕みごとに説かれたことばのみを語り、悪しく説かれたことばを語らず、〔ⅱ〕理法のみを語って理にかなわぬことを語らず、〔ⅲ〕好ましいことのみを語って、好ましからぬことを語らず、〔ⅳ〕真理のみを語って、虚妄を語らないならば、この四つの特徴を具えていることばは、みごとに説かれたのであって、悪しく説かれたのではない。諸々の智者が見ても欠点なく、非難されないものである。」尊き師はこのことを告げた。そのあとでまた、〈幸せな人〉である師は、次のことを説いた。

450 立派な人々は説いた──〔ⅰ〕最上の善いことばを語れ。(これが第一である。)〔ⅱ〕正しい理(ことわり)を語れ、理に反することを語るな。これが第二である。〔ⅲ〕好ましいことばを語れ。好ましからぬことばを語るな。これが第三である。〔ⅳ〕真実を語れ。偽りを語るな。これが第四である。

そのときヴァンギーサ長老は座から起ち上がって、衣を一つの肩にかけ(右肩をあらわして)、師(ブッダ)のおられる方に合掌して、師に告げていった、「ふと思い出すことがあります! 幸せな方よ」と。「思い出せ、ヴァンギーサよ」と、師は言われた。そこでヴァンギーサ長老は師の面前で、ふさわしい詩を以て師をほめ称えた。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
みごとに説かれたこと――この教えは殆んどそのままのかたちで他の仏典(SN.ⅷ,5,Subhāsitā.vol.1,p.188f.)に出ている。漢訳相当経としては『雑阿含経』第一二一八経(大正蔵、二巻、三三二頁上)、『別訳雑阿含経』第二五三経(大正蔵、二巻、四六二頁中以下)などがある。

450 立派な人々――santo(MBh.Ⅻ,242,2参照).

以上註記より引用した。

1,善い言葉を語り、悪い言葉を語らない

今日からまた新しい節に入ります。このお経は全部で五句の短いお経ですが「善言経」と呼ばれ、言葉に関する修行の角目を端的に示されております。身口意三業(しんくいさんごう)といいますが特に言葉は気をつけなければなりません。内なる言葉によって外なる行いが生じ、全ての行為が全ての心と呼ばれるからです。まことに身の行いが口(語)に伴い意(こころ)となり、それが業(ごう)すなわち因縁となってまいります。怖いものです。

立派な人々とは、いわゆる「善人」のことです。言葉と行いが合致していて、善き言葉を語り善き行いをしている人が善人であります。善き言葉を語りながら、悪しき行いをしていれば、そもそも悪人どころか嘘つきであります。悪しき言葉を語りながらも、善き行いをしている人もたまにはいますが、へそ曲がりでしょう。何も難しく考える必要はありません。

2,理法を説き、道理に反することを説かない

理法については、今まで何度も学んでまいりました。あらためて申すまでもありませんが、ものごとの道理と法則です。当然と必然。誰が聞いてもなるほどと納得できるものかどうかです。事実の裏付けがあるかどうか、自己満足や独断偏見でないことです。この道理に反すること、道理にそぐわないことを説くな、語るなということです。

3,慈悲の言葉(愛語)で話し、冷たい言葉を出さない

愛語は優しい言葉という意味です。いたわり、ねぎらい、慈しみ、あわれみ。ともに励ましあい、ともに慰め合う。それが愛し合うことですが、どんな相手に対しても、どんな状況であっても自分からは優しい言葉を貫くことです。なかなかどうして、大変むずかしいことですが、これを努力することが修行です。決して冷たい言葉を吐かないこと。ときには黙って聞いてあげることも愛語であります。愛語の実力を信じてください。

4,真実を語り、嘘をつかない

真実とは何か。本当のことです。これは実は確かめられません。真実だと信じ切っていることでも、真実とは限りません。ですが、ここではそこまでの厳密な意味ではありません。本心、良心にしたがって本当のことを言うということです。嘘をつかない。事実を曲げないという意味です。

この四つともいわれてみれば、至極あたりまえのことを言っているようですが、ここで少し自分自身を振り返ってみますと、穴があったら入りたくなるほどの過去があります。いや、今日ももしかしたら嘘をつき、冷たい言葉を吐き、道理に外れたことを云い、悪い言葉を語っていたかもしれません。

我昔所造諸悪業、皆由無始貪瞋癡、従身口意之所生、 一切我今皆懺悔。(懺悔文)

きのうきょう あしたとてまた さんげかな (月路)

昨日、降りしきる雪の中をお寺から県道までの参道、階段、坂道、通路、橋を順次雪かきをしておりました。橋の上をかいている時に、橋の袂の警察犬訓練所のお兄さんが出てきて、一緒に除雪してくれ、二人で融雪剤(塩化カルシウム)を撒きました。一昨日は彼一人でやってくれたそうです。おたがいニッコリ笑いあって挨拶らしい挨拶もしなかったのですが、心は通じ合いました。重い塩カルの袋を彼が運んでくれ、私は撒くだけでした。あっという間に融けていく雪、降りしきる雪。なんか、こころの中まで融けていくようで、あったかくて、うれしくて、足は軽く、あの人はいい人なんだなあとか勝手に思いながら、ずぶ濡れになりながらも、気分は爽快でした。あしたもいい天気。雪でも構わない。明日もいい天気。

愛語

立派な人々は説いた──〔ⅰ〕最上の善いことばを語れ。(これが第一である。)〔ⅱ〕正しい理(ことわり)を語れ、理に反することを語るな。これが第二である。〔ⅲ〕好ましいことばを語れ。好ましからぬことばを語るな。これが第三である。〔ⅳ〕真実を語れ。偽りを語るな。これが第四である。

スッタニパータ365

第二 小なる章

〈13、正しい遍歴〉

365 ことばによっても、こころによっても、行為によっても、逆(さから)うことなく、正しく理法を知って、ニルヴァーナの境地をもとめるならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

スッタニパータ365ということは、本ブログが一周年を迎えたということです。パチパチパチ(自画自賛)。スッタニパータ以外は僅かですので、満一年といってもいいでしょう。一日一句を目標に毎日続けること。これだけが目標でしたが、何度挫折しそうになったことか知れません。

ブログを毎日更新すること。これは言うは易く行うは難しですが、いろいろな意味で強力なSEOになることは確かです。ま、わたしにすれば日記のようなものですが、コメントをはじめ、お付き合いいただいている方には本当に頭が下がります。この場を借りて厚く御礼申し上げます。

さてさて、今日の詩句は一周年に相応しい端的な文章となっております。言葉と心と行為。これの逆らうことがない、つまり自然で、素直なという受け止めで良いと思います。日本に伝わった仏教では、「身口意」(しんくい)などと言いますが。身とは行為、口とは言葉、意はもちろん心に該当します。身口意三業(さんごう)と申しまして、懺悔文では三毒(貪瞋痴)は三業より生じるものとされています。

懺悔文(さんげもん)

  • 我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
  • 皆由無始貪瞋痴(かいゆうむしとんじんち)
  • 従身口意之所生(じゅうしんくいししょしょう)
  • 一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)

この身口意を慎むこと。その上で、正しく理法を知る。これは教えられても、わからない場合があります。理屈ではわかっても実感が伴わない。なぜか。実践していないからです。問題に直面した時に、そのときにはじめて証拠が出てくる。やはり真理を理屈で、頭でわかっていたつもりなのです、大抵は。自分はそうではないと思っている、これが不遜です。

懴悔というのは謝罪ではありません。謝ってすむものではない。ごめんなさいで済むのなら警察はいらないって、昔はやりましたね。じゃあ何かといえば、それは今後です。而今(にこん)と申しておりますが、今からでも遅くない。たった今、決める。

覚悟というのはそうした、ぎりぎりの迷いの人生にあって、とことん考えて、とことん学んで、とことん悩んでいいんです。そうして、半端ないところまできて、どうしようかと。死んでしまいたいくらいの気持ち。これが必死ですが、本気といってもいいでしょう。と、そこでどう進むかという瀬戸際です。背水の陣。そうでなければ決心でけんわけです。人はどうであっても、自分はニルバーナ(涅槃)を目的とする。解脱を目標とする。その方法は坐禅一本で行くと決める。決めるしか無い。(坐禅は真理の実行という意味。)

あのーいっておきますが、これは私にわたしが勝手に放つ言葉、文章ですからお気になさらないでください。教えが自分のものでなかったら、他人事でお喋りに過ぎません。わたしは私に言い聞かせるために、このブログをやっておりますし、今後も続けます。偉そうに人様に説いて聞かせるものではありません。自分の話は、自分がいちばんよく聞こえるのであります。また誰のためでもありません。己のためではあります。ではありますが、もし、万一、何かの縁で、間違ってこのブログにたどり着いた方が、もし、万一、やけになっていたり、死にたくなっていたりしたら、死ぬ前に、死んじゃ終わりだから、坐禅一本でいく人生ってものもあるんだと、そう思ってマッチの明かりほどでも、何かぽっとしたものを感じてもらえれば、よいな、と。今日はこのブログの誕生日みたいなもんだから、ちょっと一句。

霜月の朔日(ついたち)坐禅一本道。 正道。

365 ことばによっても、こころによっても、行為によっても、逆(さから)うことなく、正しく理法を知って、ニルヴァーナの境地をもとめるならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

スッタニパータ358

第二 小なる章

〈12、ヴァンギーサ〉

358 先生! カッパ師は執著の根元を見たのです。ああ、カッパ師は、いとも渡りがたい死魔の領域を超えたのです。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
執著――upādāna.

以上註記より引用した。

この節の締めは、解脱した人が涅槃に入ったことをヴァンギーサさんが確信したところで終わります。なぜそう言えるのか。それは「執著の根元」という言葉の意味を考えれば解ります。

執著が始まるのは母胎に宿ったときから。へその緒から無意識に栄養を取り込み、猛スピードで成長していきます。この頃は生きたいなどといった半端な考えは持ちません。赤ちゃんの生命力の強さは、真冬で裸同然で投げ出されようと、崖から転げ落ちようとちょっとやそっとでは死にません。もちろん放おって置かれれば脆い命ではありますが、必死に泣きわめき援助を求めるのです。誰もが愛くるしく、援助せずにはおれない力を最大限に発揮しています。これが人間の執著の根元です。

子供から大人へ変貌しても、この執著は衰えることはありません。知恵がつき図々しくなっていきますが、さまざまな形態をとりながらも、執著はモンスターのように大きくなっていきます。自己への執著は、妄想を限りなく想起し、感情が理性を完全に支配し、理屈で雁字搦めに自己を縛り、人間を化物にしてしまうのであります。執著こそが人間の本質といっても過言ではないでしょう。自分が誰よりも自分を一番愛しているという事実です。

結局この世に生まれたということは、地獄の始まりであります。自分の主張が通らないからといって競売に附される予定の自宅に火を付け、創作爆弾を腹に巻いて自殺した人が周りに重軽傷をはじめ、多大な迷惑をかけていいわけがありません。しかしながら殆どの人々は自分の姿であるとは思っていません。いい年をして馬鹿な人迷惑な話で片付けているのです。自分もいずれ棺桶に入れて頂き火葬場で焼却してもらう身でありながら。

そうしてまた生まれてきます。これが死魔の領域という名の輪回の姿です。目出度い、おめでとうと喜びます。ですが、本当にお目出度いでしょうか。これからの人生をわずかな希望や喜びで騙されながら、健気に生きていくだろう赤ちゃんを見たとき、自分を見るのです。これは世間一般の目からみれば、大変にマイナス思考、暗い考え、虚無主義と思われるに違いありません。ですが、残念ながら事実です。じつに明白な理法なのです。

永遠の命というのは、この世に二度と生まれないことです。不生ということです。そして最後の死を迎えます。二度と死なない。不死ということです。これを涅槃と呼んでいます。輪廻からの解脱。これが修行の完成であり、ブッダになるということ。すなわち成仏です。これは教えられていないと解りません。聞きたくないことかもしれませんが、事実であり理法であります。輪回から解脱した人が死ぬことを般涅槃(はつねはん)と呼ぶのであります。

先生! カッパ師は執著の根元を見たのです。
ああ、カッパ師は、いとも渡りがたい死魔の領域を超えたのです。」