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スッタニパータ520

第三 大いなる章

〈6.サビヤ〉

520 安らぎに帰して、善悪を捨て去り、塵を離れ、この世とかの世とを知り、生と死とを超越した人、──このような人がまさにその故に〈道の人〉と呼ばれる。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
安らぎに帰して――samitāvi . 第四九九詩にも出てくる。

以上註記より引用しました。

「安らぎに帰する」という言葉を聞いて、サビヤさんははたと思い至ります。心が静まった状態という意味もあるこの言葉は、のちに静慮(じょうりょ)とも訳されます。禅定のことであります。善いとか悪いとか、この世の出来事は全て善悪を基準とした道徳で支えられています。法律はもちろん社会慣習も道徳規範といわれるように、互いの信義誠実の原則がなければ成り立ちません。いわば道理ではありますが、それは当然の前提でありますが、ここでブッダ釈尊が述べられているのは、自身の内面のことであります。表向きには立派な社会人が、とんでもない破廉恥な行為に及ぶことがあるでしょう。表面は取り繕っていても、内心には大きな波が荒れ狂っているのかもしれません。あの人がああいった、この人はこういう、そうした反応が自分の心の水を撹乱しているのです。

沙門の道

禅定を修している人の心の水は、月が映っているようなものであります。どのような罵倒を受けようとも、蔑まれようとも、全く反応しません。善悪という判断や評価をしないのです。それを人に告げることもありません。自然がそうであります。山や川、海や樹木が、ただそこにあるのと同じです。川の流れが石ころを洗うように、海の波が砂浜を洗うように、ただ塵芥から離れていく。

「岩もあり木の根もあれどさらさらと、たださらさらと水のながるる。」

この世を知っていても、あの世を知っていないのであれば、この世もあの世も知らないことと同じです。表だけを見て裏を見ないと全体はわかりません。昔何かの手違いでしょうか、裏面が印刷されていない紙幣が発見されたというニュースがありました。手にした人はびっくりしたでしょうね。これは偽札ではありません。ちゃんと額面通りに換金されたそうです。あの世を信じるとか信じないという話ではないのです。本質を見極めているかどうかです。死んだらおしまいという簡単な話でもありません。生死というものが、自分のものとなり、そしてそれを手放すことであります。

「生を明らめ死を明らめるは仏家一大事の因縁なり。」

道元禅師様は、わかりやすく釈尊の教えを解説してくださった大恩人、身近な佛であります。佛の書かれたこと、正法眼蔵から抽出して明治時代に「修証義」が編纂されました。この一番最初に、総序という第一章があって、その冒頭にこの生死について解説されています。これが結論です。これが全てと言ってもいいでしょう。生死を明らかにすること。これが沙門の道、仏道を歩む出発点であり到達点であります。

庭造り和風に徹することにする(月路)

お寺の崖面、法面の土や石が駐車場に崩れて落ちています。鹿や猪が駆け下りるのが原因です。お寺の正面でもあり、何とかせねばと思って、石垣のうえに、土留のブロックを並べようとしていました。ところが昨日の夜、本屋さんで庭園に関する本を見て、愕然としました。『図解・日本庭園の見方・楽しみ方』という日本造園組合連合会理事長の宇田川辰彦さん監修の堀内正樹さんの著書です。鹿脅しの作り方まで描いてあって、とても楽しく読みました。そうなんです。お寺なんですからしかも禅寺なのですから、ブロックで直線でズバッーとやるのは相応しくない。徹底して和風でいこうと思いました。幸いに寺の裏山には石ころや竹がいっぱいあります。これを使わない手はありません。新たなスタートです。これをやりだしたら面白くてやめられません。大好きな作務であります。無心になれます。

安らぎに帰して、善悪を捨て去り、塵を離れ、この世とかの世とを知り、生と死とを超越した人、──このような人がまさにその故に〈道の人〉と呼ばれる。

スッタニパータ517

第三 大いなる章

〈6.サビヤ〉

517 あらゆる宇宙時期と輪廻と(生ある者の)生と死とを二つながら思惟弁別して、塵を離れ、汚れなく、清らかで、生を滅ぼしつくすに至った人、──彼を〈目ざめた人〉(ブッダ)という」

そこで、遍歴の行者であるサビヤは、師の説かれたことをよろこび、随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
あらゆる宇宙時期と……――ブッダガヤーにおけるブッダの成道に関する伝記参照。

以上註記より引用しました。

Buddha-gayā(ブッダガヤー)は一般にブッダガヤ(仏陀伽邪)と呼ばれています。釈尊成道の地として仏教の最高の聖地とされています。この地でブッダは覚りを開かれ覚者と成られたとされています。中村元先生の註記にある成道に関する伝記は様々ですが、中でも宇宙時期と輪廻と生死に関することは、次の記述から読み解いて参りましょう。

成道直後

「わたしはこのように聞いた。或るとき尊師は、ネーランジャラー河の岸辺で、ウルヴェーラー(村)において、アジャパーラという名のニグローダ樹(=バニヤンの樹)のもとでとどまっておられた。さとりを開かれたばかりのときであった。
 さて尊師が独り静かに坐して瞑想しておられたときに、次のように思われた、――「わたしは、もはや苦行から解放された。わたしが、あの(ためにならぬ苦行)から解放されたのは、善いことだ。わたしが安住し、心を落ち着けて、さとりを達成したのは、善いことだ」と。
 そのとき悪魔・悪しき者は、尊師が心で思われたことを知って、尊師のところにおもむいた。近づいてから、尊師に詩を以って語りかけた。――「人々は苦行によって浄められるのに、その苦行の実行から離れて、清浄に達する道を逸脱して、浄くない人が、みずから浄しと考えている」と。
 そこで尊師は、「この者は悪魔・悪しき者なのだ」と知って、悪魔・悪しき者に、次の詩を以って答えた。――「不死に達するための苦行なるものは、すべてためにならぬものであると知って、――乾いた陸地にのり上げた船の舵や艫のように、全く役にたたぬものである。さとりに至る道――戒めと、精神統一と、智慧と――を修めて、わたしは最高の清浄に達した。破滅をもたらす者よ。お前は打ち負かされたのだ。」
 そこで悪魔・悪しき者は、「尊師はわたしのことを知っておられるのだ。幸せな方はわたしのことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。」(サンユッタ・ニカーヤ 第一集 第四篇 悪魔についての集成 第一章 第一節(「ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤ Ⅱ」中村元訳 岩波文庫)

有名な降魔成道の瞬間を表した記述から、釈尊の成道は偶然の出来事ではないことが解ります。戒めと、精神統一と、智慧と。戒定慧の三学に依らずして覚りはありません。そして覚りの内容は「縁起」と「四聖諦」「八正道」「十二因縁」などの思想や哲学といった学問的なものではありません。これは後世に智慧の説明としてまとめられたものです。ブッダがさとられた内容をわれわれが言葉で知ることはできないのです。以外に思われるかもしれませんが、抽象的に伝えるしかないのです。思惟弁別して、とあります。普通に考えたぐらいで覚りに入ることはできません。ところが自らを調御し、手を組み足を組んで、為になることだけを考えると段階をおって見えてまいります。あらゆる宇宙時期とは何か。輪廻とは何か。生死とは何か。これらの鮮明な理解が自己に生じます。これは「さとりに至る道」いわゆる修行で身体全部で知ることなのです。理論で知ろうとするから理論の激流にあっさりと流されるのです。離塵尊(りじんそん)です。塵を離れて汚れなくなり清くなり生を滅ぼす、つまりは解脱し完全なる死を迎え、涅槃に入る。それがブッダであると説かれております。

まだ咲かぬ咲いてしまえば散るのみぞ(月路)

東京では桜が満開とか。こちらはまだまだ寒い。近くの乗鞍岳には雪が降っているらしく山が白くなっていました。春まだ遠し。しかし蕾は少しずつ少しずつ膨らんでいます。楽しみです。花は愛惜に散り。見向きもしない花もあれば桜のようにちやほやされる花もあります。好き好きですが、わたしは梅の花が好きですね。ようやく散り初めです。息が長い。われもかくありたいと。

あらゆる宇宙時期と輪廻と(生ある者の)生と死とを二つながら思惟弁別して、塵を離れ、汚れなく、清らかで、生を滅ぼしつくすに至った人、──彼を〈目ざめた人〉(ブッダ)という」

スッタニパータ500

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

500 生と死とを捨てて余すところなく、あらゆる疑惑を超えた人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

この詩句もまた解脱した人々について説かれたものです。人々ということは複数ですからブッダ釈尊お一人ではありません。解脱して阿羅漢となり涅槃に入った人々もいれば、釈尊の前世のように遷化され菩薩として生きておられる方々もあられます。ここで佛すなわち仏陀となるにはどうしたら成れるのかという疑問が生じます。南伝仏教は釈尊一人が仏陀であるとし、北伝仏教では釈尊以外にも多数の佛がおわすとしています。するとどちらが正しいのかという単純な問題が起こります。見解の相違というだけなのですが、双方とも自己の見解、観念にこだわり決して譲りません。そんな議論をするのは決まって解脱していない人々であります。解脱した人々は議論することがありません。議論の必要がないのです。

生と死とを捨てて余すところなく

生死(しょうじ)を超える。生きることにも死にいくことにも捕らわれていない。これは完全な生であり完全な死である。生を全うし、今生限りの命を終える。また死後を望まない。そうした言葉をどれほど重ねようとも、生死について理論的に説明することは不可能であります。なぜならば今生きている者が死というものを知り得ることは理論上不可能であるからです。当り前です。体験しているのは生だけです。そして死を体験していない。だから半信半疑なのです。いずれ誰もが死ぬことは誰でも知っています。知っているからこそ生死を捨てられない。生死にとらわれる。かんたんに言います。死んだらどうなるんだろうか。死んだら死んだとき。生きておるうちは余計なことを考えない。生死という仏教の一大事因縁であっても、これにこだわらない、とらわれない。あっさりと自己の見解を捨てるということです。佛の家に投げ入れるというのは、人間としての考えや想像、いわば妄想を捨てて、未だ知らぬ佛の命にいだかれることではないでしょうか。

あらゆる疑惑を超えた人々がいる。

全ての疑惑を超える。何の疑問もない。これは何も学ばないことと同じ意味でしょうか。真理を知りたいと望む人々が、真理に触れて、真理を実行することが無意味でしょうか。この辺を明らかにするために『本事経』の一節をご紹介しておきたいと思います。和訳されたものですが、ご存知かもしれませんが、わたし自身たいへん心うたれた一節であります。

「弟子達よ、たとえわが弟子であっても、私の衣の裾をとって後ろに従い、私の足あとを踏んでいても、欲深く心乱れているならば、彼は私から遠く、私も彼から遠い。なぜならば、彼は法を見ておらず、法を見ない者は私を見ない者だからである。しかるに私から百里離れていて、彼が欲を離れ正しい心でいるならば、彼は私の傍にいる者である。なぜならば、彼は法を見、法を見ることによって私を見る者であるからである。」

ここで法とは教えということです。また理法という意味もあります。「教えは何のためにあるかといえば、それは実行するためにある。人が見ておろうが見ていまいが、黙って真理を実行する。疑いのない、わたくしのない、正しい道をまことという。真直ぐということや」宮崎禅師のことばと重なります。真理というものが遠くにあるものではなくて、今ここに勇気が風のように、わたしの背中を押してくださいます。仏法。まことに有り難き縁でございます。

なぜならば生きておるから梅の花(月路)

梅の花は一番先に咲いて一番長く咲いております。息が長い。道元禅師が愛したとされる梅の花。香りもよく、色形もよく、音さえ聞こえてまいります。そうです梅花流詠讃歌。とくに無常御和讃にはいつも泣かされます。ところで今日はスッタニパータ500という節目を迎えました。それがどうしたと言われそうですが、どうしてどうしてこの飽き性のわたしが500日以上も続けたというのは、およそ考えられないことです。異常なことなのです。以上であります。

生と死とを捨てて余すところなく、あらゆる疑惑を超えた人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ467

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

467 諸々の欲望を捨て、欲にうち勝ってふるまい、生死のはてを知り、平安に帰し、清涼なること湖水のような〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
全き人――tathāgata.漢訳仏典では普通「如来」と訳される。
 
以上註記より引用した。

1,まず内なる欲望を捨てる。

2,つぎに外なる欲に負けない。

3,そして生死を明らかに知る。

4,解脱して心の平安に至る。

清涼な状態にある人。まるで湖水のごとくあられる如来(タターギャタ)。完全なる人。ブッダのことです。そのような人こそが献菓されるに相応しい、供に応ずる(応供)方である。供物を受け取るに値する尊き人であるといいます。ですから私たちは仏様に供物をささげるのであります。

今日からはまた新しい締めの言葉が繰り返されます。「〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。」です。こういう繰り返しを漢字圏では韻を踏むといいます。漢詩などでお馴染みの手法ですが、仏典ではいささか意味が異なります。それは、強調であると同時に共通項ともいえます。この詩でいえば、供物をささげるに値するかどうかが問われているわけですから、順序よくその修行を完成させなさいということを一番教えてあげたい。そういうブッダの優しさがにじみ出ていると思います。

なぜなら世間での商売であれ仕事であれ家事であれ芸術や科学であれ、到達したように見えて、その実、完成に至ることは決してありません。それこそ一生が勉強といえば勉強。修行と言えば修行で終わるわけです。完成ということがないのです。ところが、ブッダの教えときたら完成があるのです。解脱そして涅槃であります。ブッダと同じ状態に成れる。信じられないことのようですが、これは挑戦に値することです。

今から発見したり発明する必要はありません。ブッダのつけた道を愚直に歩むかどうかです。自分にはとても無理と思えば無理です。可能かどうかはやればわかります。難しく考えれば出来ません。やるかどうか。教えられたとおり実行する以外に道はありません。教えに酔うことなく、教えのとおりやっていく。坐禅を毎日していればわかります。していなければいつまでたってもわからない。ただそれだけの話しです。

ただ坐る他にあるなら出してみよ(月路)

一年の計は元旦にあり。では一日の計は?もう坐禅しかないでしょう。一日の計は坐禅にあり。昨日は朝から桜井市の斎場にお葬式で出かけ、帰ってから夕方まで雪除け。遅くまでほとんど明日の法要の準備でした。少々筋肉が痙攣気味ですが、それでも朝の坐禅が一日響いています。ただ坐っているだけですが、一息一息だけなのですが、40分間の静けさは一日中鳴り響いています。うまく言えませんがそんな感じです。

濁りなき心の水にすむ月は波もくだけて光とぞなる(道元禅師)

諸々の欲望を捨て、欲にうち勝ってふるまい、生死のはてを知り、平安に帰し、清涼なること湖水のような〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。