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スッタニパータ500

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

500 生と死とを捨てて余すところなく、あらゆる疑惑を超えた人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

この詩句もまた解脱した人々について説かれたものです。人々ということは複数ですからブッダ釈尊お一人ではありません。解脱して阿羅漢となり涅槃に入った人々もいれば、釈尊の前世のように遷化され菩薩として生きておられる方々もあられます。ここで佛すなわち仏陀となるにはどうしたら成れるのかという疑問が生じます。南伝仏教は釈尊一人が仏陀であるとし、北伝仏教では釈尊以外にも多数の佛がおわすとしています。するとどちらが正しいのかという単純な問題が起こります。見解の相違というだけなのですが、双方とも自己の見解、観念にこだわり決して譲りません。そんな議論をするのは決まって解脱していない人々であります。解脱した人々は議論することがありません。議論の必要がないのです。

生と死とを捨てて余すところなく

生死(しょうじ)を超える。生きることにも死にいくことにも捕らわれていない。これは完全な生であり完全な死である。生を全うし、今生限りの命を終える。また死後を望まない。そうした言葉をどれほど重ねようとも、生死について理論的に説明することは不可能であります。なぜならば今生きている者が死というものを知り得ることは理論上不可能であるからです。当り前です。体験しているのは生だけです。そして死を体験していない。だから半信半疑なのです。いずれ誰もが死ぬことは誰でも知っています。知っているからこそ生死を捨てられない。生死にとらわれる。かんたんに言います。死んだらどうなるんだろうか。死んだら死んだとき。生きておるうちは余計なことを考えない。生死という仏教の一大事因縁であっても、これにこだわらない、とらわれない。あっさりと自己の見解を捨てるということです。佛の家に投げ入れるというのは、人間としての考えや想像、いわば妄想を捨てて、未だ知らぬ佛の命にいだかれることではないでしょうか。

あらゆる疑惑を超えた人々がいる。

全ての疑惑を超える。何の疑問もない。これは何も学ばないことと同じ意味でしょうか。真理を知りたいと望む人々が、真理に触れて、真理を実行することが無意味でしょうか。この辺を明らかにするために『本事経』の一節をご紹介しておきたいと思います。和訳されたものですが、ご存知かもしれませんが、わたし自身たいへん心うたれた一節であります。

「弟子達よ、たとえわが弟子であっても、私の衣の裾をとって後ろに従い、私の足あとを踏んでいても、欲深く心乱れているならば、彼は私から遠く、私も彼から遠い。なぜならば、彼は法を見ておらず、法を見ない者は私を見ない者だからである。しかるに私から百里離れていて、彼が欲を離れ正しい心でいるならば、彼は私の傍にいる者である。なぜならば、彼は法を見、法を見ることによって私を見る者であるからである。」

ここで法とは教えということです。また理法という意味もあります。「教えは何のためにあるかといえば、それは実行するためにある。人が見ておろうが見ていまいが、黙って真理を実行する。疑いのない、わたくしのない、正しい道をまことという。真直ぐということや」宮崎禅師のことばと重なります。真理というものが遠くにあるものではなくて、今ここに勇気が風のように、わたしの背中を押してくださいます。仏法。まことに有り難き縁でございます。

なぜならば生きておるから梅の花(月路)

梅の花は一番先に咲いて一番長く咲いております。息が長い。道元禅師が愛したとされる梅の花。香りもよく、色形もよく、音さえ聞こえてまいります。そうです梅花流詠讃歌。とくに無常御和讃にはいつも泣かされます。ところで今日はスッタニパータ500という節目を迎えました。それがどうしたと言われそうですが、どうしてどうしてこの飽き性のわたしが500日以上も続けたというのは、およそ考えられないことです。異常なことなのです。以上であります。

生と死とを捨てて余すところなく、あらゆる疑惑を超えた人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ437

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

437 汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、第六の軍隊は恐怖といわれる。汝の第七の軍隊は疑惑であり、汝の第八の軍隊はみせかけと強情と、

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
みせかけ――makkha.偽善に通ずるものである。

強情――thambha.頑迷のこと。

以上註記より引用した。

こうも次から次へと我が心の内を見せられると、恥ずかしさのあまり消え入りたくなります。自分のために云われているような気がして慚愧に堪えません。とくに第五の軍隊ときたらしょっちゅう襲ってきていますので、すっかり顔なじみになっております。ナムチ軍の精鋭部隊の中でもこの「ものうさ睡眠隊」は、ひときわ強靭でありまして、急いで何かをしなければならないときは別として、ちょっとした時間があると直ぐにやってまいります。一人暮らしの弊害。といえば自分は悪くないのですが、言い訳にならないほど怠惰は、わたしにとって最大の敵であります。

「恐怖」もまた静かで確実に襲ってくる猛者(もさ)たちです。この恐怖は、過去の縛りや失敗と未来に対する不安や疑心が中心ですが、突然襲ってくることもあれば、ひそかに常にこちらを覗っている奇襲部隊のような奴らです。この恐怖によって文字通り病気になってしまう場合もあります。ご用心ご用心。

第七軍の「疑惑隊」は、自分で信じたものに自分が疑惑を向けることでしょう。この道しかないと思ってはじめても、こんなことしてていいんだろうか、という疑惑が断念を生みます。やめてしまいます。このブログを続けていったい何になるというのか、自己満足じゃないのか、つまらない、むなしい、もっと他になにかあるはずだ、と。例えは適切を欠くかもしれませんが、何が幸いするかは誰にもわかりません。その反対に何が障害になっているのかも誰にもわからないのです。それを訳知り顔で疑惑をもつ。深い部分ですね。

第八軍の「みせかけ強情隊」は私の代名詞。こいつだけは絶対に滅ぼしてやる。と思いつつも見せかけや強情は原動力でもあるわけです。見せかけの坊さん臭さが嫌でたまらないくせに、強情な人をみると嫌で嫌でしょうがないくせに、自分が「みせかけ強情隊」の隊長であったりするわけです。

十二日 出かける前に 火の用心 (月路)

冬は火事が多いものです。災害は忘れたころにやってくる。お寺を空けたときに火事にでもなったらという恐怖は常にあります。いやお寺にいても火事になったら大変です。責任なんて言葉ですみません。とくにお寺はロウソクや線香あるいはストーブ、ドラム缶、タバコの不始末などなど。昨年11月2日に立里荒神様にお参りしたときに、くれぐれも祈りました。祈りは肝に銘じることです。わざわざ山のてっぺんの高野山より高いところまで登って、何を祈ったかと言えば、火事になりませんように、でした。鎮防火燭。こころの炎を鎮め、こころの予防しかありません。用心と恐怖は裏表。用心に越したことはありません。

汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、第六の軍隊は恐怖といわれる。汝の第七の軍隊は疑惑であり、汝の第八の軍隊はみせかけと強情と、