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スッタニパータ514

第三 大いなる章

〈6.サビヤ〉

514 師は答えた、「サビヤよ。みずから道を修して完全な安らぎに達し、疑いを超え、生存と衰滅とを捨て、(清らかな行いに)安立して、迷いの世の再生を滅ぼしつくした人、──かれが〈修行僧〉である。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

自ら道を修してとは、人から勧められて、あるいは寺を継ぐために仕方なくといった動機ではなく、自ら進んで求めた道を歩み修行している状態です。もちろんきっかけは人それぞれですから、たとえ人から勧められたり、寺を継ぐという動機であっても、教えに触れ、心に感じ入るところがあって、志をもって修行している人は、まさしく自ら道を修しているのであります。発心といいますが、やむにやまれぬ強い動機のことです。志といってもいいでしょう。完全な安らぎ、すなわち涅槃に達して、あらゆる疑問が解消し疑念が無くなり安定して、生きていく執著も老いて死んでいく不安も捨て去り、ただ日々における清浄な行いに終始し、妄想することなく安定した心で日々を過ごしている。二度と生まれ変わらない最後の生を淡々と生きている。そういう人が比丘(修行僧)なのであります。

比丘(修行僧)

比丘(びく)のことを沙門(しゃもん)と呼んだりもしますが、こだわらなくて良いと思います。平たく言えば仏教の修行僧です。単に修行と言えば、何もかもが修行であります。生きていること自体が修行です。しかしここでは仏教を修行しているものを僧侶とか比丘と申します。今日の問題は、じつに自分が比丘であるかどうかです。剃髪し衣を着て袈裟をかけているから比丘ではないのです。サビヤさんの質問に戻れば、比丘は何ものを得たのかということになろうかと思います。その質問では何かを得る、たとえば悟りとか法力とか神通力といった超のつくような能力を手にするように思われたのですが、真逆でした。正反対です。得るのではなくして捨てたのであります。見栄や体裁はおろか、プライドとかアイデンティティとか、自己を構成している観念さえあっさりと捨てているのであります。終いには自己の見解さえも捨てて、すっかり身軽になっている状態、様子であります。ほとんどの苦しみ痛みは自己の思いというものが原因です。その思い込みを捨てる。拘らず捕らわれない。そういう日々を過ごしているかどうかで、自分が比丘であるかどうかを確かめることができます。ブッダは修行僧を定義しているのではありません。修行僧とはどのような人を指すのかと客観的に言っておられるのでないのです。佛の付けた道を現に愚直に歩んでいる、そうした自分事の確認です。

草むしり右手の鎌に沿う左(月路)

いつも下手を通り越した俳句や川柳をほとんど思いつきで書いているのですが、凡人中の凡人の愚作中の愚作でも、脳の体操ぐらいの気持ちでやっております。それで今日の草むしりの句は、昨日の実際の草むしりが我ながら熟練の域に達してきたなあという自負であり自慢であります。苔を取らずに草を抜く技なぞは、小浜のお寺で教えていただいた秘伝を長年やってきたスゴ技であります。短時間に広範囲の草を取る。これが修行だなどと見得を切るつもりではありません。何か一つぐらいは役に立ちたい。これがわたしの仕事、商売であります。時給0円

師は答えた、「サビヤよ。みずから道を修して完全な安らぎに達し、疑いを超え、生存と衰滅とを捨て、(清らかな行いに)安立して、迷いの世の再生を滅ぼしつくした人、──かれが〈修行僧〉である。

 

スッタニパータ486

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

486 「目ざめた人(ブッダ)であるあなたさまは、お供えの菓子を受けるにふさわしい。あなたは最上の福田であり、全世界の布施を受ける人であります。あなたにさし上げた物は、果報が大きいです。」

そこでバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァージャは、尊き師にいった、「すばらしいことです、ゴータマ(ブッダ)さま。すばらしいことです、ゴータマさま。あたかも倒れた者を起すように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色やかたちを見るであろう』といって暗闇の中に灯火をかかげるように、ゴータマさまは種々のしかたで理法を明らかにされました。だから、わたくしはゴータマさまに帰依したてまつる。また法と修行僧のつどいに帰依したてまつる。わたくしはゴータマさまのもとで出家し、完全な戒律(具足戒)を受けたいものです。」

そこでバラモンであるスンダリカ・バーラドヴァージャは、師のもとで出家し、完全な戒律を受けた。それからまもなく、このスンダリカ・バーラドヴァージャさんは独りで他から遠ざかり、怠ることなく精励し専心していたが、まもなく、無上の清らかな行いの究極──諸々の立派な人たち(善男子)はそれを得るために正しく家を出て家なき状態に赴いたのであるが──を現世においてみずからさとり、証し、具現して、日を送った。「生まれることは尽きた。清らかな行いはすでに完成した。なすべきことをなしおえた。もはや再びこのような生存を受けることはない」とさとった。そうしてスンダリカ・バーラドヴァージャさんは聖者の一人となった。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
散文 そこでバラモンである……――以下の文章は、第八二詩のあとの散文の箇所にも出てくる。そこの註解参照。

以上註記より引用した。

第八二詩ではバラモン・バーラドヴァージャとなっています。この散文は「チッチタ、チッチタ」でお馴染みですね。なつかしく思います。

 

最上の福田

今日でこの節は終ります。終りに当って結局この「献菓経」と呼ばれるお経の趣旨は、ブッダ釈尊こそが「最上の福田」であり、人々が出家するに当っては皆「ブッダの弟子」となります。そのブッダにささげる供物(菓子)とは、教えを実行するということなのです。全世界の布施を受けるということは、全世界のブッダとして、人々の献供を受けるに相応しい、まさに応供であるということです。

私たちが得度の式に参加したときに、驚くべきことが起こります。そのとき授戒師はなんと偏袒右肩の袈裟を、ブッダのみが許される通肩という掛け方にします。すなわちブッダから直接に戒を授けられるのです。受戒した得度者(発心の人)は九拝して、今度は須弥壇に登壇します。そして、今度は偏袒右肩に直した授戒師が壇上の得度者に九拝するのです。この作法が何を意味するのかは、今日のブッダの言葉、ブッダの声を聞かれた人には説明を要しないでしょう。

修証義に「衆生佛戒を受くれば、即ち諸佛の位に入る、位大覺に同うし已る、眞に是れ諸佛の子なりと」とあります。これは漢訳の梵網経盧舍那仏説菩薩心地戒品第十巻下に「衆生受佛戒。即入諸佛位。位同大覺已。真是諸佛子」から引かれた和訳です。また「過去現在未来の諸仏、共に仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏と成るなり」とあります。まさに仏恩(ぶっとん)に報いる日々を歩みたいものです。

 雨降りて三寒四温に梅の咲く(月路)

お寺の紅梅がきれいに咲きました。さーびしかった僕のテーラに梅がさーいた♪ええもんですね。梅よ梅よ、産めよ産めよ。秋になると梅の実がたくさんできます。今年はこの梅で梅干しを漬けてみたいと思いました。約束はしませんが、たぶんしないでしょうが、梅の香りだけは届けたくて、なんと梅干しの匂いがするんです。錯覚でしょうが、梅よ増やせよ、梅の実を。

「目ざめた人(ブッダ)であるあなたさまは、お供えの菓子を受けるにふさわしい。あなたは最上の福田であり、全世界の布施を受ける人であります。あなたにさし上げた物は、果報が大きいです。」

スッタニパータ421

第三 大いなる章

〈1.出家〉

421 象の群を先頭とする精鋭な軍隊を整えて、わたしはあなたに財を与えよう。それを享受なさい。わたしはあなたの生れを問う。これを告げなさい。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
ビンビサーラ王の申し出は注目すべきである。マガダ国は、北方にあるヴァイシャーリー国(ヴァッジ族)やコーサラ国と争って、戦争をひき起したことがある。シャカ(Sākiya 釈迦)族はさらに北方に位置しているので、ビンビサーラ王がシャカ族の王子(釈尊)に対して軍事援助と経済援助とを申し出て、南北両方面から諸国を挟み打ちにしようとしたのである。この詩の文句の裏には、そういう意図が潜んでいる。

ところがゴータマはこの申し出を拒絶した。かれは世俗の世界を出て、出家修行者となっていたからである。いかなる説得もかれの決心を翻えさせることができなかった。

以上註記より引用した。

いよいよ本編のクライマックスが近づきました。じつはビンビサーラ王は、この修行者ゴータマの出自を知っていたのです。知っていながら問うのは調略の常套手段でありましょう。部下と予算を与えるから我が配下となりなさいと思惑を持って迫るのであります。まるで戦国時代の策略に似た申し出にブッダは毅然とその申し出を拒絶するのですが、その拒絶の態度が王の心を強く打ちます。

この節のテーマは「出家」であります。出家したものに還俗して武士とならないかというのですから、無謀というか無理強いでありますが、よくあることでもあります。来年のNHKの大河ドラマは「井伊直虎」ですが、彼女は女の身でありながら尼僧ではなく男僧(なんそう)として出家しています。それで還俗できた。つまり尼僧は還俗できないのですが、古来より現在でも事情があれば比較的簡単に還俗は認められます。わたしだって還俗しようと思えば、いつでも出来ます。それはともかく、「出家の覚悟」というものは、いったいどれほどのものであるかが問われているのです。

なぜ出家したのかという「発心」の原点が、これから釈尊の言葉として説かれます。ここに仏教の仏教たる所以が明示されるのです。否、決して還俗してはならない理由がここにあります。この原点を忘れてしまっては、二度と立ち上がれないほどの苦悩を味わうことになります。それほど重要なことのために、この長々とした前置きがあるとさえ思います。単に申し出を拒絶しただけではなく、ビンビサーラ王をして、仏教に恭順せしめた「ある理由」とは何か。それがこのお経の核心であります。こう書けば明日の詩句は絶対に見逃せませんでしょう。誰にとっても、これからの人生を生き抜く上で欠かすことができない基本的な命題であると申し上げておきましょう。

出家とは かくあるものと 餅をつき (月路)

お正月の餅や門松、しめ縄の準備を始めました。昨日は総代さんたちが山に入って松や竹を切り寺に持ってきてくださいました。餅は餅屋さんに頼みました。お供えの果物やお菓子も揃ってまいりました。ここでは松竹梅を束ねて門松にするとかで、梅はどうするのか知りませんが小枝を切る他ないでしょうね。果たして正月は無事迎えることができるやら。気がかりは老僧の容態ですが、こればかりは如何ともなりません。人の寿命というものは誰にもわかりません。年齢や境遇に関わりなく、命は大自然の摂理によって定められるものと承知いたしております。

世の中では、全身全霊ということをよく言うけれど、その時その時のできることを成し遂げていったらいいんや」北海道の中央寺に赴かれたときの宮崎禅師の言葉です。身体に不安を抱えながらも、いそいそとしておられる勇気に満ちたお姿であったことでしょう。

象の群を先頭とする精鋭な軍隊を整えて、わたしはあなたに財を与えよう。それを享受なさい。わたしはあなたの生れを問う。これを告げなさい。」

スッタニパータ367

第二 小なる章

〈13、正しい遍歴〉

367 修行者が、貪りと迷いの生存(の望み)とを捨てて、(生きものを)切ったり縛ったりすることをやめ、疑惑を超え、(煩悩の)矢を抜いたのであれば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

昨日は高野山のさらに上にある荒神様にお参りしてまいりました。雲海で有名なそこは、快晴で澄み切った空気がつめたく、紅葉が進んでおりました。年始にお配りする「鎭防火蠋」(ちんぼうかしょく)の御札を祈祷するにあたり、これからそうしたいと思ったからです。

さて今日の詩句は、四つの部分に分けて示されております。後世に渇愛とよばれることになる「貪りと迷いの生存の望みとを捨てること」が最初に出てまいりますが、この基本的な欲望を捨てることは、果たして可能でしょうか。これが今日のメインテーマとなります。今日も最後に動画を貼りました。ご覧いただいて、ぜひこの課題に取り組んでいただきたいと存じます。

次に後世に「不殺生」と呼ばれることとなる五戒の第一番目が述べられております。「生きものを切ったり縛ったりすることをやめること」であります。これも果たして可能でしょうか。

三番目に「疑惑を超えること」すなわち迷わないことでありましょう。これも不可能なことと思えます。最後に「煩悩の矢を抜くこと」です。これら四つを成し遂げることは、とても難しいことのように思えて仕方がありません。これができた者は後に「阿羅漢」と呼ばれるというのですが、それはもう普通の人間ではありません。

ですが、わたしは、これは見方を変えれば、たとえ七歳の女の子にも出来るものであることを「修証義」で知りました。「たとい七歳の女流(にょりゅう)なりとも、即ち四衆(ししゅ)の導師なり、衆生の慈父なり。」とあります。これが発菩提心(ほつぼだいしん)であります。発心(ほっしん)はこの言葉を約めた言葉ですが、発心とは何かをどうか今日は体全身で味わっていただきたいと存じます。

修行者が、貪りと迷いの生存(の望み)とを捨てて、(生きものを)切ったり縛ったりすることをやめ、疑惑を超え、(煩悩の)矢を抜いたのであれば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。