タグ別アーカイブ: 真理

スッタニパータ578

第三 大いなる章

〈八、矢〉

578 若い人も壮年の人も、愚者ぐしゃも賢者も、すべて死に屈服してしまう。すべての者は必ず死に至る。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

あらゆる人々が必ず死に至ることを、この詩は明確に説いていますが、なぜこのように当り前のことを語られたのでしょうか。今日は全く別の観点から読み解いていきたいと思います。

ここで例として掲げられた年齢と賢愚の差に注目してみます。幼い子供が死んだ場合と百歳を越えた方の場合を比較してみます。あるいは、善人と悪人のそれぞれの死を比べてみます。他人の評価はどうあれ、残された家族の悲しみにいささかの違いもないように、死に至ることは全く同じなのです。人智ではおよそ想像もつかない残酷なことが、厳然と事実としてそこにある「死」という現実をどう受け止めているのかという課題であります・

極論を申せば、どのような丁重な弔いも、またいわゆる「直葬」も、その結果において何ら変わることはありません。不昧因果ふまいいんがということです。因果をくらまさずと読みますが、原因と結果は至ってシンプルな理法であります。では何のために、お経をお唱えするのかといえば、それは生きている人が教えを反芻するためです。何度も何度も繰り返し繰り返し、真理を声に出すのです。それが功徳と成る。いつしか縁が重なって、よりよき道へ進んでいけるということです。死んだ人々は元々生きていた人ばかりであるという現実に目を向けましょう。それが来生の善き縁につながっていくのであります。

若い人も壮年の人も、愚者ぐしゃも賢者も、すべて死に屈服してしまう。すべての者は必ず死に至る。

スッタニパータ557

第三 大いなる章

〈七、セーラ〉

557 師が答えた、「セーラよ。わたしがまわした輪、すなわち無上の〈真理の輪〉(法輪)を、サーリプッタがまわす。かれは〈全き人〉につづいて出現した人です。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

全き人(tathāgata:如来)とは釈尊ご自身のことです。

サーリプッタ(Sāriputta)とは有名な舎利弗尊者のことです。サンスクリットではシャーリープトラといいます。直訳すればシャーリーさんの子供という名前でしたから舎利子しゃりしとも漢訳されています。般若心経で観音様が「舎利子よ」と呼びかけられていますね。あの舎利子です。お釈迦様のまごうかたなき一番弟子でした。釈尊より年長で残念ながら釈尊よりも先に亡くなりますが、智慧第一とされ目連尊者と共に二大弟子と呼ばれています。お釈迦様の後継者の筆頭であったことは多くの仏典に示されています。

舎利佛尊者から真理を聞いた人々もたくさんおられました。このことは弟子から弟子へ教えが伝わっていくことを示しています。輪を回す、転法輪ということです。輪が回っても回転軸や輪の大きさが変わらないように、真理(理法)というものは変わりません。変わりゆく社会にあって、地軸や地球の回転が変わらないのと同様に、ブッダ釈尊の教えは変わらないのです。それはゴータマという人間の教えではなく、この世と、かの世の真理であるからです。ブッダは真理を説かれ、その実践の方法(道)を教えられたのであります。

師が答えた、「セーラよ。わたしがまわした輪、すなわち無上の〈真理の輪〉(法輪)を、サーリプッタがまわす。かれは〈全き人〉につづいて出現した人です。

スッタニパータ527

第三 大いなる章

〈6.サビヤ〉

527 全世界のうちで内面的にも外面的にも正邪の道理を知っていて、人間と神々の崇敬を受け、執著の網を超えた人、──かれは〈聖者〉である。」

そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

正邪の道理を知るということは、戒律を知るということです。むろんこの段階でサビヤさんは完全な戒律を受けているわけではありません。しかしながらブッダは弟子以外の人にも問われれば同様に真理を説かれました。ここが他の六師たちと決定的に違うところです。ブッダ釈尊(釈迦牟尼佛)は手に握りしめるものは何もないのです。偉そうにして自分が特別の存在であるかのように振る舞うことがありません。事実、ブッダは内からも外からも尊敬されていました。世間の道理を弁えることは誰にでもできます。そんなことは大したことではありません。正邪の道理は、世間の道理と根本的に違います。なぜなら時代を超えて通用するのであります。人間と神々の崇敬を受けるに値する真理を知っており、知っておるからこそ実行できるのであります。知らずには実行できないのであります。執著という頭の中に張り巡らされた網、ネットですね。このネットのようにビッシリと執著に囚われている。このネットを打ち破り、完全な自由を得ることが、聖者の道であります。このは正か邪か、このは正か邪か、認識において正か邪か、そして執著において正か邪か。正しい道か、邪しま道か。そうした真っ直ぐな眼を持つことなのです。それは身体の一部としての眼ではありません。正見といいますが、正しい見解というような安物レベルの話ではありません。あるがままに見るという心眼であります。人間の道理、神々の道理、梵天の道理。これに共通する誰もが納得できる道理、これを真理と名付けているわけです。これは言葉には完全に表せませんが、その時における、その場における、その人における真実というものがあります。事実でもいいです。その事実を観念のメガネをかけて見るのではなくして、あるがままに見る。それには執著を超える必要があるのです。自分に対する執著を捨てないで、何事も正見をもって見ることは出来ません。この最も執著しているところの自分という存在に対してさえ執著しない。それが無我ということの本義であります。一番愛している自分に執著しないこと。これが実行できるかどうかです。これは頭の中で考えていたって、いつまで経っても実行できません。修行しかないのであります。そしてその修行をしていることがそのまま覚りであります。修証一如と申します。これが真理でありますが、あえて真如と申しておきます。真理が言葉では表せないからであります。

聖者の道

このくだりではサビヤさんの質問に真っ向から答えて、聖者の道を示しておられます。いわば暗闇で明かりを灯したようなものであります。執著の網を超えたとさりげなく仰っておられますが、これは光明であります。これにサビヤさんは身の震えるほどの歓喜を味わっておられます。ここで喜べないようでは、話だけを聞いてふーんと思っているようなことでは、何を話しても伝わりませんし、ほとんど無意味です。ですが、ブッダはそういう人にも、惜しげなく真理を説かれ続けました。問われれば道を教えたのであります。この聖者とは誰のことでありましょう。サビヤさんは既に確信していました。ですが押して、さらに心から聞きたいと思われて、さらに質問をされました。質問をしないということは、いわば驕りであります。自ら成長を阻止してしまう悲しい観念です。この観念に覆われている方がほとんどです。ですから聖者というのは稀有なのであります。質問することの勇気がなくして、修行とは呼べません。問答というのは学生でも職人でも会社人でも何でも必要でしょう。独学とか独習には明らかに限度があります。アマチュアや趣味ならばそれでいいでしょうが、プロの世界では師弟関係なくして一流にはなれません。師を持つことです。「たとい七歳の女流なりともすなわち四衆の導師なり衆生の慈父なり」道元禅師さまの言葉です。

雨上がり枝垂れ桜の色に酔ふ(月路)

ようやく雨が上がり、昨日はお寺でさるお檀家様の三回忌の法要を営みました。94歳で亡くなられたお母様は、たいそう信仰に篤く、その思い出話を伺って感動しました。お墓参りをしたいと申されて親戚のお嫁さんに連れて行ってもらったのですが、足がお悪く、その親戚の方は自分一人では何かあったら大変だからということで、ご家族を呼んだとのことでした。その一ヶ月も経たない一昨年の4月16日にお亡くなりになりました。それが家族との最後の楽しい一時であったと述懐されたとのことでした。ご自分の最期がわかっていらっしゃった。ご主人を早くなくされた苦労の連続のなかでも、やさしく明るい方であったと聞きました。お母様のご冥福を心からお祈りいたします。南無大悲観世音菩薩。

全世界のうちで内面的にも外面的にも正邪の道理を知っていて、人間と神々の崇敬を受け、執著の網を超えた人、──かれは〈聖者〉である。」

スッタニパータ500

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

500 生と死とを捨てて余すところなく、あらゆる疑惑を超えた人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

この詩句もまた解脱した人々について説かれたものです。人々ということは複数ですからブッダ釈尊お一人ではありません。解脱して阿羅漢となり涅槃に入った人々もいれば、釈尊の前世のように遷化され菩薩として生きておられる方々もあられます。ここで佛すなわち仏陀となるにはどうしたら成れるのかという疑問が生じます。南伝仏教は釈尊一人が仏陀であるとし、北伝仏教では釈尊以外にも多数の佛がおわすとしています。するとどちらが正しいのかという単純な問題が起こります。見解の相違というだけなのですが、双方とも自己の見解、観念にこだわり決して譲りません。そんな議論をするのは決まって解脱していない人々であります。解脱した人々は議論することがありません。議論の必要がないのです。

生と死とを捨てて余すところなく

生死(しょうじ)を超える。生きることにも死にいくことにも捕らわれていない。これは完全な生であり完全な死である。生を全うし、今生限りの命を終える。また死後を望まない。そうした言葉をどれほど重ねようとも、生死について理論的に説明することは不可能であります。なぜならば今生きている者が死というものを知り得ることは理論上不可能であるからです。当り前です。体験しているのは生だけです。そして死を体験していない。だから半信半疑なのです。いずれ誰もが死ぬことは誰でも知っています。知っているからこそ生死を捨てられない。生死にとらわれる。かんたんに言います。死んだらどうなるんだろうか。死んだら死んだとき。生きておるうちは余計なことを考えない。生死という仏教の一大事因縁であっても、これにこだわらない、とらわれない。あっさりと自己の見解を捨てるということです。佛の家に投げ入れるというのは、人間としての考えや想像、いわば妄想を捨てて、未だ知らぬ佛の命にいだかれることではないでしょうか。

あらゆる疑惑を超えた人々がいる。

全ての疑惑を超える。何の疑問もない。これは何も学ばないことと同じ意味でしょうか。真理を知りたいと望む人々が、真理に触れて、真理を実行することが無意味でしょうか。この辺を明らかにするために『本事経』の一節をご紹介しておきたいと思います。和訳されたものですが、ご存知かもしれませんが、わたし自身たいへん心うたれた一節であります。

「弟子達よ、たとえわが弟子であっても、私の衣の裾をとって後ろに従い、私の足あとを踏んでいても、欲深く心乱れているならば、彼は私から遠く、私も彼から遠い。なぜならば、彼は法を見ておらず、法を見ない者は私を見ない者だからである。しかるに私から百里離れていて、彼が欲を離れ正しい心でいるならば、彼は私の傍にいる者である。なぜならば、彼は法を見、法を見ることによって私を見る者であるからである。」

ここで法とは教えということです。また理法という意味もあります。「教えは何のためにあるかといえば、それは実行するためにある。人が見ておろうが見ていまいが、黙って真理を実行する。疑いのない、わたくしのない、正しい道をまことという。真直ぐということや」宮崎禅師のことばと重なります。真理というものが遠くにあるものではなくて、今ここに勇気が風のように、わたしの背中を押してくださいます。仏法。まことに有り難き縁でございます。

なぜならば生きておるから梅の花(月路)

梅の花は一番先に咲いて一番長く咲いております。息が長い。道元禅師が愛したとされる梅の花。香りもよく、色形もよく、音さえ聞こえてまいります。そうです梅花流詠讃歌。とくに無常御和讃にはいつも泣かされます。ところで今日はスッタニパータ500という節目を迎えました。それがどうしたと言われそうですが、どうしてどうしてこの飽き性のわたしが500日以上も続けたというのは、およそ考えられないことです。異常なことなのです。以上であります。

生と死とを捨てて余すところなく、あらゆる疑惑を超えた人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ470

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

470 こころの執著をすでに断って、何らとらわれるところがなく、この世についてもかの世についてもとらわれることがない〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
こころの執著をすでに断って……――『ダンマパダ』第二〇詩参照

 以上註記より引用した。

ダンマパダ(法句経)

20 たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄とを捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執著することの無い人は、修行者の部類に入る。

参考に

19 たとえためになることを数多く語るにしても、それを実行しないならば、その人は怠っているのである。──牛飼いが他人の牛を数えているように。かれは修行者の部類には入らない。

とても耳に痛いブッダの声がします。今日はもうこれに尽きるでしょう。多く語りたくもありません。話せば話すほどに、修行者の部類から離れていく気がして、気が気でありません。

解脱の方法をいくら知っていても、禅の奥義を極めたと豪語している方よりも、わたしは一日にたった五分でも教えられたとおり実践している素直な人の方が、ブッダに近いと思いますし、現にそうでしょう。儀式にいくら精通していようが、坐禅の作法を誰よりも上手に説明できる人よりも、素直に、愚直に実践している人の方が解脱は速いと思います。立派なことを説いて、立派な寺に住み、お布施をたんまり懐にしている人を尊敬できるわけがありません。ブッダが真のバラモンと形式だけのバラモンと明確に区別されたように、誰だってわかっているのです。

禅というと何かことさら別にあると思う。そんなものは何もない。一息一息しかないんや。(宮崎禅師の声が聞こえます)今この瞬間に、たとえ五分でもよいから、佛の真似をする。一日だけやったらそれは真似や。ところが、一生続けたらこれは本物や。形だけの出家をして、それで満足しておったら、それは佛に近いように見えて、じつは遠い。さとりとか、涅槃とか、そういう言葉はあるけれども、考えたら、観念になってしもとるようでは、我慢やね。辛抱という意味の我慢ではなくして、わがままちゅうことや。わたくしというものがない。坐禅をしておれば坐禅。作務をしておるときには作務と一つになる。そういうわたくしの無い、自然の姿が修行であり、真理だ。

わが内なるブッダ。われら正法眼蔵の道元禅師。わが心の中の宮崎禅師。全ては黙って真理を実行することに尽きます。泣きたいときには泣けばいいし、嬉しいときには笑えばいい。悔しいときも、辛いときにも、腹がたっても、情けなくても、愚痴を吐いても、溜息ついても、自分は自分。自分だけが自分を忘れることができる。そういう日日の生活の中で、ひとり黙ってすわる。誰が見ておらいでも、佛が佛をすわる。なにもそこにはない。無いと思うこともない。空もまた無し。

空を見て空言うことなし雨雪よ(月路)

夕方に檀家さんから美味しいコロッケを頂きました。美味しいものは美味しい。美味しく感じているということです。これがたとえば最愛の人と別れた時に同じものを食べても美味しいわけがありません。それと同じです。自分を忘れて美味しく頂く。人の真心をそのまんま受け取れるかどうかです。こころを澄ますというのは洗面器の水のようなもの。洗面器を動かしただけで揺れるしこぼれます。見上げてごらん夜の星を。星はなんでも知っている。知りすぎたのね。お富さん。

↓付加された詩に遠い日を想い出しました。聴いて下さい。

こころの執著をすでに断って、何らとらわれるところがなく、この世についてもかの世についてもとらわれることがない〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

スッタニパータ463

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

463 真実もてみずから制し、(諸々の感官を)慎しみ、ヴェーダの奥義に達し、清らかな行いを修めた人、──そのような人にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
ヴェーダの奥義に達し――vedantagu.叙事詩にも同様の語がある(Vedapāraga,MBh.Ⅻ,243,8)。

以上註記より引用した。

真理を知って自己を制し、感覚による反応を慎んで、聖典の奥義であるところの「清らかな行い」を修行している人に、適宜、供え物をささげなさい。もし貴方が、功徳を求めて祭祀を行うのであれば。

功徳を求めて祭祀を行う

これから幾つか同じフレーズが続きます。それはこの「バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば」というリフレインです。お経はこのリフレインというのでしょうか、繰り返し同じ文句をしばしば使って、耳に慣れるよう工夫してあるように思います。なにしろ紙に書いて残すというようなことをしなかった。つまり口承、口伝でありましたから、絶対に間違わない必要があって、また重要なポイントでもあったのです。

われわれ僧侶がお経を唱えた直後に、回向というものを行います。これはお経を唱えた功徳を何に対して回向するか、つまり功徳を振り向けるかということです。たいていは自分のために回向するなどということはありません。誰かの功徳、それはご先祖さんだったり、ご家族であったりするわけです。もちろんご本尊やその他の仏菩薩、祖師、歴代住職、檀家各家先祖代々に回向するのは毎日の日課です。

ようするに何がしかの功徳を求めているわけです。それが勤めだといえばそれまでですが、かんたんにいえば功績を讃えている。これ自体が功徳です。尊敬をし、感謝をしている報恩の行いです。祭祀といった仰々しいものを行わなくても良さそうなものですが、花を立て燭を灯し蜜湯やお茶お菓子などを供えて勤めます。朝課、晩課はもちろん法事法要はすべからく功徳を求めて行うものです。

ところが、ブッダはどうもそういうことを全部肯定しているとは思えません。どこか方向性が違うよと、当時のバラモンであったスンダリカさんに説くのです。そうした雰囲気がこの詩からうかがえます。それが「真実もて自ら制し、慎しみ、ヴェーダの奥義に達し、清らかな行いを修めた人」を冒頭に述べられたのです。

そのような人にこそ供物を

はっきりいってしまえば、「清らかな行いを修めた人」にこそ供物を捧げるべきだと断言されているのです。つまりブッダやブッダの教えを実践して修行している人に、食べ物を捧げなさいと大変やわらかく断言しています。托鉢に修行僧がやってきたら、彼らは自分で食べ物を買うことができないから、供養してあげてほしいといった意味も含まれているように思います。

真理を知り自己を制し慎む

ここに修行の全容を端的に述べられています。まず正しく知ることから、そして自己を制御する。清らかな行いとは何かということを暗に問いかけておられます。ますます更に聞きたくなるように言葉を巧みに使っておられます。お見事というより他ありません。

ほとほとと寒の戻りやホトトギス(月路)

一日置きに寒かったり暖かかったりで、風邪を引いてしまいそうです。鼻水が出てくるような寒さをこらえながら法要の準備に余念がありません。これが済んだら、あれをして、ああこれもせんならん。ほとほと後回しの性分に手を焼いています。たしか去年の春にはホトトギスが鳴いていました。北陸は雪だろうなと思いながらチラチラまた降ってきそうですが、時おり日差しがあり、有り難いことだと。

昨日三時間ほどかけて、無料ホームページとやらでお寺のホームページを作りました。写真を並べただけですが一度御覧くださいませ。→禅龍寺

真実もてみずから制し、(諸々の感官を)慎しみ、ヴェーダの奥義に達し、清らかな行いを修めた人、──そのような人にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ461

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

461 (バラモンがいった)、「ゴータマ(ブッダ) さま。わたくしは祭祀を楽しんでいるのです。祭祀を行おうと望むのです。しかしわたくしははっきりとは知っていません。あなたはわたくしに教えてください。何にささげた献供が有効であるかを言ってください。」
(師が答えた)、「では、バラモンよ、よくお聞きなさい。わたくしはあなたに理法を説きましょう。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

このスンダリカさんは、非常に正直なバラモンでありました。というのも「祭祀を楽しんでいる」すなわち「この仕事が好きなのです。誇りをもっています」といった感じでしょうか。与えられた神職(住職)といった役割に真面目に取り組んでいる様子がうかがえます。また「祭祀を行おうと望む」とありますように「これからもこの仕事をやり続けていきたいと思います」と抱負を述べています。さらに「はっきりとは知っていません」と祭祀の真の意味を知らないことを正直に吐露しています。そしてブッダに尋ねるのであります。「何にささげた献供が有効であるか」と。ようするに献供の対象を教えてください。神々に捧げる供え物の本当の意義を教えてくださいと頼むのでありました。

これは宗教の祭祀に携わるものとして、実際に祭祀の具体的な方法や儀式の詳細を熟知していたとしても、その意味や意義といった本質の部分を良くわからなくて、あるいは疑問を持ちながらも慣例にしたがって踏襲している者にとって、すこぶる正直な質問であろうと思います。方法を知っていても目的を知らないようなものです。

この疑問に対し、ブッダ釈尊はバラモンに明確に告げます。「理法を説きましょう」と。

理法を説く

理法(達磨・ダンマ)を「真理」とか「真如」あるいは「真実」といいますが、後の仏教では仏法または単に法と呼んでいます。この訳のように、一般的には理法が一番わかりやすいと思います。それはともかく、明日から次々と理法の数々が説かれていきます。理法とは道理と法則のことです。だれもが納得する道理というものがあり、これが世界の法則であるとき、これを理法と呼びます。道理にかなった法則が理法であります。

では道理とは何かですが、ものごとの正しい筋道、ものごとの理(ことわり)、正しい理解に基づく道筋といった感じです。また法則とは「いつどこでも一定の条件のもとで成立する関係性」ということでしょうが、こんなことは辞書を引けば何となく分かったような気持ちになれます。肝心なことは、言葉の理解ではなく、言葉を通して得られる「納得」であります。

あらためて理法を説かれた時に、人は、はっと思い至ります。自己の全人格をもってして、すなわち理性と感性でこれを受け止めるのです。過去の体験と経験。勉学。そうした積み上げてきた信念や見解を駆使してこれを聞きます。そのときに、その人が、動くかどうかです。心を揺るがすものがあるかどうかです。一時的な感動などではなく、芯から温まるような「実感」が生まれるかどうかであります。

祭祀の目的は何か。献供の対象は何なのか。そうした素朴で単純な疑問に、ブッダは「理法を知れ」という単純明快な回答を行いました。理法を知れば実践するのみです。何の迷いもなく、これを実行することでしょう。そうした姿勢をもっている人に、この理法はとても効果的です。素直な人、正直な人、へその曲がっていない人、根性が腐っていなければ誰でも成る程と得心のいく答えが得られるでありましょう。これは予言です。

信心も 鰯の頭 柊刺す (月路)

「イワシの頭も信心から」という文句は知っておりましたが、まさか本当にイワシの頭を刺して魔除けにする風習があることを今日まで知りませんでした。ここ関西の奈良では、節分の日に焼いた鰯の頭を、ヒイラギの葉を挟んだ割り箸で刺して玄関に飾るのです。福井では見たことも聞いたことも無かったものですから驚きました。所変われば品変わると申しますが、関西では昔から節分に恵方巻きを食べる習慣が昔からあったと聞きました。いやはや、コンビニ戦略だけではありません。あな恐ろしや信心よ。それで、何故イワシの頭や巻き寿司なのかということは、じつは誰も知りませんでした。

(バラモンがいった)、「ゴータマ(ブッダ) さま。わたくしは祭祀を楽しんでいるのです。祭祀を行おうと望むのです。しかしわたくしははっきりとは知っていません。あなたはわたくしに教えてください。何にささげた献供が有効であるかを言ってください。」
(師が答えた)、「では、バラモンよ、よくお聞きなさい。わたくしはあなたに理法を説きましょう。

スッタニパータ453

第三 大いなる章

〈3.みごとに説かれたこと〉

453 真実は実に不滅のことばである。これは永遠の理法である。立派な人々は、真実の上に、ためになることの上に、また理法の上に安立しているといわれる。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
類句が『テーラ・ガーター』一二二九に存する。

永遠の理法――dhammo sanantano.

ためになること――attha.漢訳仏典では「義」とか「利」と訳される。或る場合には「道義」と訳してもよい。本当の意味で人のためになることである。

以上註記より引用した。

同じ原典からいくつもの解釈が成り立ちます。いつの時代においても人々は、伝えられた言葉から必死にその真意を探ろうと努力してきました。そのなかには誤って解釈しているものもあれば、自己の信ずる方向へ正しいと信じてかかり誘導するための道具として用いてきた側面もあろうかと存じます。原典や註解書と呼ばれているもの自体が、真理や理法そのものではない可能性も否定できるものではありません。

人は生まれも育ちも皆それぞれに違います。言葉も違えば生まれ育った環境、教育、出会った人々の影響などなど様々な要因によって個性という名の人格を形成しています。それを一律に統御することなど決してできません。このスッタニパータとて金科玉条、最高の真理として崇めるものではありません。宗教や思想あるいは哲学、科学、心理学によって人をコントロールすることは厳に慎まなければなりません。

昨日、書店にてNLP(神経言語プログラミング)に関する書籍を買って読みました。いわゆる自己啓発の本なのですが、こうした本やセミナーに影響を受けて多額の出費を行い、のめり込んでいく人が多いと思います。確たる科学的心理学的な裏付けや、歴史的経緯と時間的蓄積が浅いものに、商業主義的な、もっと端的に申せばほとんど詐欺的な手法によって、マインドコントロールされてしまって、結局は蟻地獄に落ちていくさまが手に取るようにわかりました。言葉の刺激ほど怖いものはありません。

たとえば、わかりやすい例が「プラス思考」という言葉です。この言葉は大変便利らしく、今やあらゆるところで使われています。この言葉に踊らされて本質を見失い、非常に偏った考え方に染まり、妄想を理論づけて拘泥し、その思想に基づかない考えを否定していくのです。完全に洗脳されてしまって、もはや自分が洗脳されていることすら気づかないのであります。

仏教を標榜する諸団体のなかにも、こうしたいかがわしい思想を流布しているものもあります。具体的に列挙すれば膨大な数になるでしょう。これも八万四千の法門に数えるのでしょうか。とりもなおさず、騙されてはいけませんとだけ申し上げておきます。

では何を信ずれば善いかということですが、これはもう自分で判断するしかありません。ですが基本的には常に疑問をもって、あるいは冷めた眼で観ることをお勧めします。近所にとても大きな「十一面観世音菩薩」を祀った観音堂があります。先日お参りして中のご本尊をしげしげと観察させていただきました。文字通り十一ある面のそれぞれに特徴があります。頭上に如来(化仏)、向って右に三面が瞋怒(憤怒)面、正面三面が菩薩面、左三面が狗牙上出面そして真後ろが大笑面なのですが、これはバランスを現しているともいえます。偏らないということです。人々の信仰の対象ですから冒涜するわけにはまいりませんが、お叱りを覚悟で申せば、言葉では言い表せないことを造形で表そうとした先人の智慧であろうと存じます。仏菩薩像とてある種の言語であり言葉であると思います。

人々の 為になるかや 耳すまし (月路)

昨晩久しぶりにジブリアニメ映画の「耳をすませば」をテレビで観ました。懐かしいと同時に主人公の月島雫ちゃんの仕草に淡い初恋の想い出が蘇りました。また彼氏の天沢聖司くんは、ある意味ストーカーで恋の達人というか女たらしではないかとする意見に思わず同調してしまいそうでした。昨今の映画やアニメは、あり得ない奇想天外な物語が多いのですが、たとえば大ヒットした「君の名は」などもそうなのですが、この耳すまは、普通の生活の中での出来事を綴りながらもファンタスティックであることが特長ではないでしょうか。

とまれ、人との出会い体験経験は言うに及ばず、映画にしろ小説にしろ物語や伝承にせよ、実生活の中でそのまま役立つものでなくとも、良し悪しではなく言葉が様々な影響を人に与えます。どこかで見た情景や状況が個性に与える影響は計り知れません。こわいものです。これもまた真実かと考えます。

真実は実に不滅のことばである。これは永遠の理法である。立派な人々は、真実の上に、ためになることの上に、また理法の上に安立しているといわれる。

スッタニパータ330

第二 小なる章

〈9、いかなる戒めを〉

330 聖者の説きたもうた真理を喜んでいる人々は、ことばでも、こころでも、行いでも、最上である。かれらは平安と柔和と瞑想とのうちに安立し、学識と智慧との真髄に達したのである。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
真髄――sAra.精、精髄、中核、本質の意。
 
以上註記より引用した。

言葉と平安、心と柔和、行いと瞑想がそれぞれ対応しています。学識と智慧との真髄とは、真理を実行している状態、すなわち坐禅(坐って足を組み禅定を修すること)であります。これこそが悪から離れ善に至る唯一の方法であると説かれておるのです。なぜこうも明瞭に断言できるかと申さば、本節は本詩が最後ですが次の節「精励」の冒頭に明確な形で坐禅せよと述べられているからあります。

余計なことは一切考えない。頭に浮かぶこと(妄想)はあっても、それに固執しない、さっさと手放す。無言で居る。耳に聞こえてくるものに頓着しない。良いも悪いもない。ただ姿勢を正し、背筋を伸ばし、ぐっと腰を入れて、あごを引いて、呼吸は自然にまかせ、あえて作り事をしない。右にも左にも前にも後ろにも傾かない。真っ直ぐである。眼は瞑ることもない、眼を見開くこともない、普通に前三尺に向ける。しっかりとした態度で行え、とブッダは申された。それを忠実に守るだけであります。

これが続けられるかどうかです。やるかやらんかです。どんなに立派な感動的なお話を聴いても、口だけ達者になっても、行動が伴わなければ、馬の耳に念仏です。何も得るものはない。人間は坐禅ができる。牛や豚に坐禅はできん。当たり前ですが、悔しかったらブッダの言うとおりやってみなはれ。毎日ですよ毎日。修行というものに休みの日なぞないわけです。毎日たとえ五分でも十分でも良いから、黙って坐る。この忙しい時に足を組み、手を組んで、もっと他にやることが有るだろうにと、あれもこれもごちゃごちゃ思いながらも、ただ坐る習慣というものを身につけたら、坐禅の方から、今日はまだかと催促がくる。それでいいんです。そのうちに習慣というものはこわいもので、坐禅が坐禅しよる。自分が自分になるっちゅうことです。

宮崎禅師様は、黙って真理を実行する。という言葉に集約されました。端的であり本来の面目であります。坐禅が真理の姿でなくて何でありましょうや。仏像の圧倒的多くは、みな坐禅されておる。坐禅が真理であることを象徴的にというか、ありのまま、そのまま現しているのですから、こんなに分かりやすい話はないのです。昔、澤木興道老師が坐禅して居る姿をみて、ぶったまげたお婆さんの話を聴いたことがあります。それはそうでしょう。真理を見たら、まるで想像上の龍が現れたようなもので、ゴジラ出現。腰が抜けてもしかたがない。道元禅師様は普勧坐禅儀の最後の方で、真龍を恠(あや)しむこと勿(なか)れ、と

聖者の説きたもうた真理を喜んでいる人々は、ことばでも、こころでも、行いでも、最上である。かれらは平安と柔和と瞑想とのうちに安立し、学識と智慧との真髄に達したのである。

スッタニパータ320

第二 小なる章

〈8、船〉

320 それと同じく、真理(理法)を弁え知らず、学識の深い人にことがらの意義を聞かないならば、みずから知らず、疑いを超えていない人が、どうして他人の心を動かすことができるであろうか。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
心を動かす――nijihapetum.第三二二詩参照。
 
以上註より引用した。

真理、真理と何度もこのスッタニパータには出てまいります。では真理(理法)とは何ぞやというと、それ自体はじつはどこにも出てまいりません。言葉で伝えられるものには限界があります。「ありのまま」が真理と言えるのですが、ありのままに見るとか、ありのままに思うことが「ありのまま」ではありません。人は皆自分の脳で認識したことのごく一部を自らの見解としているのであって、自己の認識の全てさえ自覚できないようにできています。これもまたわたしの見解ですから、さっと聞き流していただいて結構です。ようするに真理は万人が否定出来ないことなのですが、それを言葉で話してしまうとそれはもう完全ではないので真理とは言えないのです。

理論ではなく論理という道筋にしたがって申せば、我思う故に我ありで、わたしの意見はわたしだけのものです。ですから見解をもって議論しても答えを導き出すことは容易ではないのです。合意形成とかコンセンサスを得るとか言葉は重宝ですが、やはり誰かが先頭に立って進んでいく。その行進を認容するか唯々諾々として付いていくかはともかく、どこかの譲れない一点で支えていくのが一般でありましょう。「会社」という語は会と社から成っていますが、面白いことに仏教徒の集まりを「会」(え)と称しますし、神社の「社」(もり)は神を祀り護るものの意であるとされます。会社であれ寺院神社であれ、その目標が明確であれば存続していくものと思われます。ただし目標を捨て見失った時点でその結社は解消されていきます

今日はなぜこんな投稿になってしまったのかというと、「心を動かす」ことなど私には無理であるという自覚です。なぜならば自ら識らず、疑いを超えていない自分が、妄想にとらわれている自分が、人を導こうとか、寺の代表になろうなどと思うこと自体に、大きな過誤があると確信した次第です。これからは、やはり一修行者、一沙門の原点に戻って、行道してまいります。このブログは続けますが、わたしの頭の中の整理にすぎません。間違ってもこれが仏教の・・・であるとは思わないでいただきたい。

それと同じく、真理(理法)を弁え知らず、学識の深い人にことがらの意義を聞かないならば、みずから知らず、疑いを超えていない人が、どうして他人の心を動かすことができるであろうか。