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スッタニパータ589

第三 大いなる章

〈八、矢〉

589 たとい人が百年生きようとも、あるいはそれ以上生きようとも、終には親族の人々から離れて、この世の生命を捨てるに至る。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

本節のタイトルにお気づきでしょうか?そうです。「矢」です。毎日のように貼ってきましたが、なぜ矢なんだと思われるかもしれません。その答えは節の最後に明らかに示されますので今日は述べませんが、矢に刺されて死ぬという意味ではないとだけ申し上げておきます。知っていらっしゃる方もどうか確認の意味で、事実関係の整理だけはしておいてください。

荷物を捨てられないと思っている人もいずれ自らの身体とて捨てるときが必ずくるのであります。それが今日かも知れませんし100年後かも知れません。朝から縁起でもないと思われるかもしれませんが、それが現実なのです。りて起るのです。想像もしていなかったことが、想定外のことが起きるのが、この世の実態です。今朝早くNHKの番組で小惑星が地球に衝突する可能性について論説されていました。確率は限りなく低いのですが、いずれは必ず起ると言明されていました。とまれ、生身の人間が死なないはずがないのに、自分はまだ当分死なないと思って肉親の死を嘆き悲しんでいます。

この世の生命

ここでは今生こんじょうということです。今生の別れというように、今生きている世界は二度と体験できません。そういう意味では二度とない人生であります。たった一度の人生です。人が生きているのが人生。人が死んだら死人であり遺体であります。だからこそ生きているうちに死んだ気になって生きようということです。これに異論のある人はいつまでも命が続くと思って生きればいいのです。大した人生ではないでしょう。自己満足で生きていけばいい。嫌らしい言い方で申し訳ありませんが、縁なき衆生は度し難しで、これはどうしようもないのです。お釈迦様でさえ「道を教える」だけであると申されております。

読者にへつらって綺麗事をいうつもりは毛頭ありません。勘違いしないでいただきたい。これはわたしの意見表明の場です。批判は勝手にしてください。陰でグチグチ話している人よ。信念とは何の縁もない人よ。どうぞご勝手に。わたくしには失うものはありません。身を捨ててこそ、わかるものです。地位や名誉、見栄や体裁にしがみつくようなレベルではないことを「いかり」を抱きしめながら申し上げます。低レベルの放射能とは付きあって居れません。これからは何の遠慮もありません。バンバン「ミサイル」を発射していきます。覚悟して下さい。

たとい人が百年生きようとも、あるいはそれ以上生きようとも、終には親族の人々から離れて、この世の生命を捨てるに至る。

スッタニパータ562

第三 大いなる章

〈七、セーラ〉

562(セーラは弟子どもに告げていった)、──「きみたちよ。まなこある人の語るところを聞け。かれは(煩悩の)矢を断った人であり、偉大なたけき人である。あたかも、獅子ししが林の中でえるようなものである。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

獅子吼ししく」については何度かこのブログでも取り上げてきましたが、これほど明瞭に獅子吼について説かれているのは本詩が最初でありましょう。後世の仏典の典拠がここにもあります。

この詩句での重要なポイントは二点あります。その第一点は「眼ある人」第二点は「矢を断った人」です。順をおって確認しておきましょう。

まず眼とは何かということです。両眼でないことは明らかです。これを心眼と解すると途端に迷路に入ってしまいます。訳がわからなくなります。そうではなくして、正法眼蔵のことです。本来は仏法の端的な、すなわち肝心要の事柄を意味するとされています。道元禅師様の著作のタイトルに使われた禅家の心印でもありますが、ここでの眼は本来の正法眼蔵の意であります。簡単にいうと眼とは一番大事なことです。眼ある人とは、じつに一番肝心なことを知っている人ということ、つまり真理を知っている人ということです。

次の「矢を断った人」は決して忘れてはならないほど大事な話です。ここは目を皿のようにしてしっかりと聞いて下さい。煩悩の本質です。悪魔の正体です。今日このブログを見逃した人は、一生知らないで後悔することになります。さっと読み飛ばしてしまうほど愚かなことはありません。よろしいでしょうか。このことを知っていれば、清らかな境地に一歩も二歩も近づきます。

矢のように瞬時に刺さる煩悩

結論から申しますと、脳の働きの最も大きな部分です。現代的にいえば、そうなります。誰にでも脳はあります。様々な身体の働きを制御している中枢です。その脳の働きの中で、悪魔、敵ともいえる攻撃神経が実際に存在します。それは瞬間瞬間に間断なく襲ってくる神経回路です。これを抽象的に欲望とか妄想とか執著とか傲慢さとか勝手に名付けていますが、これは一言でいえば、矢なのです。自分を煽ったり、傷つけたり、落ち込ませたり、喜怒哀楽の元凶であります。この得体の知れない実際に沸き起こる感情を「煩悩」と呼んだだけなのです。

この矢は普通、断つことは出来ません。寝ている最中にも攻撃してきますから、夜熟睡できないのです。夜に熟睡できないでいるとどうなるか。これは科学的にも証明されていますが、認知症の原因物質が脳から排出しにくくなるのです。よろしいでしょうか。認知症になりたくなければ、この矢を断つ努力が必要です。

ブッダは単に結跏趺坐して瞑想していたわけではありません。何も考えないというのは、半端な努力じゃないのです。頭に降りかかる火の粉を払うがごとく、何も考えない時間を日課とする必要があるのです。よく坐禅を始めた人がいう科白ですが「色んなことが頭に浮かんできまして、中々無念無想とはまいりません」。当り前です。正常な人は先程申し上げた「攻撃神経」に気づくはずです。矢でも鉄砲でもいいんですが、それこそ矢継ぎ早にやってくる「煩悩」の火を消すしかないのです。

消し方は、ただ一つです。呼吸に意識を向けるだけです。一息一息しかないことがお分り頂けましたか。この火を妄想と呼ぶのが一番実態に近いでしょう。全て頭に浮かんでくることは、妄想と決めつけて良いのです。妄想なんですから。攻撃神経という悪魔の放った矢を片っ端から断つ。これが坐禅の実際です。昨日坐禅を始めた人も悟りを得た高僧も、やっていることは全く同じです。これ以外ありません。やるかやらないかだけです。寝ている場合じゃないのです。

(セーラは弟子どもに告げていった)、──「きみたちよ。まなこある人の語るところを聞け。かれは(煩悩の)矢を断った人であり、偉大なたけき人である。あたかも、獅子ししが林の中でえるようなものである。