第三 大いなる章
〈5.マーガ〉
508(マーガがいった)、「誰が清らかとなり、解脱するのですか? 誰が縛せられるのですか? 何によってひとはみずから梵天界に至るのですか? 聖者よ、お尋ねしますが、わたくしは知らないのですから、説いてください。尊い師は、わたくしの〈あかし〉です。わたくしは今梵天をまのあたり見たのです。真にあなたはわれわれにとっては梵天に等しいかただからです。光輝ある方よ。どうしたならば、梵天界に生まれるのでしょうか?」

清らかとなる――sujjhati.前の箇所との連絡から見ると、祭祀が成功し、その功徳が成就することをいう。 縛せられる――原文にはbajjhatīとあるが、Hare は bujjhatī と読む。 以上註記より引用した。
▶マーガ青年には最期の疑問がありました。それはどうしたら梵天界(天上界)に生まれるのであろうかという疑問です。▶三通りの道があるという前提です。一つの道は聖者の道であり、一つの道は悪道に堕ちる。更にもう一つの道は天上へと昇る。自身は何処の道を進むのかと思ったときに、直感として天上界に生れたいと願ったのです。
祭祀とは
▶一般に日本では「祭り」が神社で使われ、「祀り」は仏教関係で使われることが多いと思います。日本は長く神仏混淆でありましたから、祭祀という言葉は祭祀継承などと広く使われています。そういう文字の解釈ではなくして、これまでブッダが説かれた祀りを行うとは、どういうことであるかということを、もう一度考えてみたいと思います。
▶私たちは普通に仏壇にご本尊をお祀りする、あるいは、ご先祖のお位牌をお祀りして、などとごく自然に「祀る」ということを行います。仏壇やお墓が典型的な祭祀の形ではありますが、何故にこのように祀ることを覚えたのでしょうか。いわく先祖代々そうしてきたからなのでしょうが、元々は場所を決めて、お参りする対象を荘厳したものでありましょう。清らかな場所で不敬にならないような所にお祀りした。それはとても自然であったと思います。宗教学の根本的な部分ですから、学問的な知識は脇においたとしても、素直な感情として祀りたい気持ちが先にあったのかと思います。
▶たしか「大地の子」という山崎豊子さんの小説で、日本人の親にもらったお守りを中国で取り上げられる日本人孤児のシーンに言いようのない胸の痛みを覚えました。肌身離さずに大事にしていた「偶像」を取り上げられる辛さ。当時、思想というものは残酷であるとさえ思いました。遺骨であれ、位牌であれ、骨を残し名を残された象徴であります。その人の思い出とともに最も大事なもの、祈りの場所を奪われるに等しい仕打ちに、なぜこんなにも心が痛むのかと不思議でありました。
▶今日は説教じみた解説は行いません。どうかご自身の中で、「祀り」とは何かと問いかけて頂きたいと存じます。手を合わせる対象のことです。どうか、どうかと祈る心。供養ということ。その純粋な思いに立ち返ってください。そうすれば、ご自身にとって、マーガ青年の質問が手に取るように実感できることと思います。
桜にはこの春の音聞こえるか(月路)
▶桜の開花の便りが届く季節になりました。もうタイヤも履き替えなければなりません。ずいぶんと摩耗したことでしょう。すっかりゴムが硬くなってきております。日中は暑いくらいで朝晩はまだまだ冷え込みます。▶桜は敏感で少し温度が低いと咲きません。そして咲いたと思ったら直ぐに散ります。その点、梅の花はじっくりとその可愛らしい色を長く楽しませてくれます。なんか女の人のようですね。花は桜木人は武士。男は桜かもしれません。まあこれぐらいのゆとりもあっていいのでは。やはり日本人で良かったと思います。
マーガがいった)、「誰が清らかとなり、解脱するのですか? 誰が縛せられるのですか? 何によってひとはみずから梵天界に至るのですか? 聖者よ、お尋ねしますが、わたくしは知らないのですから、説いてください。尊い師は、わたくしの〈あかし〉です。わたくしは今梵天をまのあたり見たのです。真にあなたはわれわれにとっては梵天に等しいかただからです。光輝ある方よ。どうしたならば、梵天界に生まれるのでしょうか?」