タグ別アーカイブ: 祭祀

スッタニパータ508

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

508(マーガがいった)、「誰が清らかとなり、解脱するのですか? 誰が縛せられるのですか? 何によってひとはみずから梵天界に至るのですか? 聖者よ、お尋ねしますが、わたくしは知らないのですから、説いてください。尊い師は、わたくしの〈あかし〉です。わたくしは今梵天をまのあたり見たのです。真にあなたはわれわれにとっては梵天に等しいかただからです。光輝ある方よ。どうしたならば、梵天界に生まれるのでしょうか?」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
清らかとなる――sujjhati.前の箇所との連絡から見ると、祭祀が成功し、その功徳が成就することをいう。

縛せられる――原文にはbajjhatīとあるが、Hare は bujjhatī と読む。

以上註記より引用した。

マーガ青年には最期の疑問がありました。それはどうしたら梵天界(天上界)に生まれるのであろうかという疑問です。三通りの道があるという前提です。一つの道は聖者の道であり、一つの道は悪道に堕ちる。更にもう一つの道は天上へと昇る。自身は何処の道を進むのかと思ったときに、直感として天上界に生れたいと願ったのです。

祭祀とは

一般に日本では「祭り」が神社で使われ、「祀り」は仏教関係で使われることが多いと思います。日本は長く神仏混淆でありましたから、祭祀という言葉は祭祀継承などと広く使われています。そういう文字の解釈ではなくして、これまでブッダが説かれた祀りを行うとは、どういうことであるかということを、もう一度考えてみたいと思います。

私たちは普通に仏壇にご本尊をお祀りする、あるいは、ご先祖のお位牌をお祀りして、などとごく自然に「祀る」ということを行います。仏壇やお墓が典型的な祭祀の形ではありますが、何故にこのように祀ることを覚えたのでしょうか。いわく先祖代々そうしてきたからなのでしょうが、元々は場所を決めて、お参りする対象を荘厳したものでありましょう。清らかな場所で不敬にならないような所にお祀りした。それはとても自然であったと思います。宗教学の根本的な部分ですから、学問的な知識は脇においたとしても、素直な感情として祀りたい気持ちが先にあったのかと思います。

たしか「大地の子」という山崎豊子さんの小説で、日本人の親にもらったお守りを中国で取り上げられる日本人孤児のシーンに言いようのない胸の痛みを覚えました。肌身離さずに大事にしていた「偶像」を取り上げられる辛さ。当時、思想というものは残酷であるとさえ思いました。遺骨であれ、位牌であれ、骨を残し名を残された象徴であります。その人の思い出とともに最も大事なもの、祈りの場所を奪われるに等しい仕打ちに、なぜこんなにも心が痛むのかと不思議でありました。

今日は説教じみた解説は行いません。どうかご自身の中で、「祀り」とは何かと問いかけて頂きたいと存じます。手を合わせる対象のことです。どうか、どうかと祈る心。供養ということ。その純粋な思いに立ち返ってください。そうすれば、ご自身にとって、マーガ青年の質問が手に取るように実感できることと思います。

桜にはこの春の音聞こえるか(月路)

桜の開花の便りが届く季節になりました。もうタイヤも履き替えなければなりません。ずいぶんと摩耗したことでしょう。すっかりゴムが硬くなってきております。日中は暑いくらいで朝晩はまだまだ冷え込みます。桜は敏感で少し温度が低いと咲きません。そして咲いたと思ったら直ぐに散ります。その点、梅の花はじっくりとその可愛らしい色を長く楽しませてくれます。なんか女の人のようですね。花は桜木人は武士。男は桜かもしれません。まあこれぐらいのゆとりもあっていいのでは。やはり日本人で良かったと思います。

マーガがいった)、「誰が清らかとなり、解脱するのですか? 誰が縛せられるのですか? 何によってひとはみずから梵天界に至るのですか? 聖者よ、お尋ねしますが、わたくしは知らないのですから、説いてください。尊い師は、わたくしの〈あかし〉です。わたくしは今梵天をまのあたり見たのです。真にあなたはわれわれにとっては梵天に等しいかただからです。光輝ある方よ。どうしたならば、梵天界に生まれるのでしょうか?」

スッタニパータ505

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

505 マーガ青年が(さらにつづけて)いった、「この世で施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人が、他人に飲食物を与えるに当って、どうしたならば祀りが成功成就するかということをわたくしに説いてください。先生!」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

マーガ青年はさらに尋ねます。理法を説いて下さった釈尊に、つぎに具体的には在家の施主はどのように供養したら良いのかを率直に尋ねます。ここが一番聞きたかったのではないでしょうか。誰に供養したら良いのかは理解しても、その方法がわからないのです。相撲の力士が何をしたら良いのかを質問したようなものですが、ここは黙って聞いておきましょう。笑い話のようで、非常に単純で明解な質問だと思います。勘違いしてしまうところです。明日はこれに対するブッダ釈尊の意外な回答があります。どうか今日の段階では、このマーガ青年学徒の気持ちになって、静かに答えを待ってみて下さい。

花粉症お構いなしの人もいる(月路)

昨日までの三日間は大変暖かく良いお天気でしたが、花粉症の症状で眼が痒くなりくしゃみはするは、鼻水は出るは、何となく頭は重いように感じられて、困ったちゃんになっております。昔はこんなことは無かったのに、何故だろうと思います。杉やヒノキの花粉は昔も今と変わらないはずですが、人間が弱くなったのか、それとも花粉の量が増えたのか。ところが友は全く平気とのこと。黄色い花粉が目に見えて頭から降ってきても、なんともないとのこと。訳がわかりません。やはり体質でしょうね。花粉との付き合いがまだしばらく続きそうです。

マーガ青年が(さらにつづけて)いった、「この世で施しの求めに応ずる在家の施主、福徳をもとめ福徳をめざして供物をささげる人が、他人に飲食物を与えるに当って、どうしたならば祀りが成功成就するかということをわたくしに説いてください。先生!」

スッタニパータ484

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

484 限界を超えたもの(煩悩)を制し、生死を究め、聖者の徳性を身に具えたそのような聖者が祭祀のために来たとき、

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
限界を超えたもの(煩悩)――原文にはsimantaとあるが、註によると「限界」とは善人の行為をいい、その「端」とはそれと異なったものをいう。sīmā ti mariyādā sādhujanavutti, tassā antā pariyosānā aparabhāgā ti katvā simantā vuccanti kilesā(Pj.)
聖者の徳性――moneyya(paññā.Pj.).

以上註記より引用した。

限界を超えたもの(煩悩)を制し

▶普通の人間には限界というものがあります。もうこれが限界、精一杯というものです。それは生存への執着という壁であります。それ以上であれば死んでしまう最後の恐怖です。煩悩を制することは死に直面した時にも義(まこと)を貫く覚悟であるかもしれません。普通に善なる行いを続けている人でも、まったく異なった状況、極めて苛酷な境遇に置かれたときには、善人であり続けることはまことに困難であります。限界を超えるのではなくして、そうした限界を超えたものであるところの「煩悩」の炎を制御している聖人、すなわち解脱した人ということです。

生死を究め

▶生死(しょうじ)というものが真に理解できれば、仏教を理解したといえるでしょう。それほどにこの「生死」というものは深いのであります。修証義の冒頭の一節に「生を 明らめ 死を 明らむるは 佛家 一大事の 因縁なり」とあります。これほど端的に仏教を述べた文章をわたしは知りません。端的というのは極みということです。

▶原語にはjātimaraṇakovidaṃとあります。「生死を究める」という表現もまた見事な翻訳でありましょう。言葉面に酔いしれている場合ではありません。この生死を自己と他己のものにできるかどうかです。身体で理解できるかどうかです。刹那生滅。一瞬一瞬に生れて死んでいる。今という間にも既に今はなく、今また今に、生死をくりかえしている現実を実感できるかということです。これは観念ではなく現実です。生きているという事実と死んでいるという事実。いわば生死の中に全てが内含されている。生れてから死ぬまでが人の一生という概念では、決して理解できません。一秒間に75回も生死を繰り返していると後代の仏教では説明されていますが、そういった科学的な観念もさておいて、生死を熟知するというか、やはり生死を究めるという、大事な、もっとも大切な角目であります。

聖者の徳性を身に具えた

▶「争いを離れ、心に濁りなく、諸々の欲望を離脱し、ものうさ(無気力)を除き去った人、限界を超えたもの(煩悩)を制し、生死を究め」た、そのような聖者の特性を身に具(そな)えた人が、祭祀のために来たときには、合掌礼拝して飲食物をささげ供養しなさい、と続くのです。

▶このあたりでもうスンダリカさんは、たしかに気づかれています。だれに供物を捧げるべきかを。眼の前のブッダには一度、供物の受容を拒否されています。詩偈を唱えて得たものを私は食うわけにはいかないと断られた。供物とは代償ではないということを思い知ったのです。しかし今、ブッダは聖者に供養しなさいといっておられる。聖者とは誰のことなのか。何を誰に捧げるべきなのか。そこではたと気づかれた、ストンと腹に落ちたのです。賢明な読者は顛末をご存知かもしれません。しかしそれは単なる知識でありましょう。知識でこのくだりは解せません。これは現実的な、しかも厳粛な「出家のすすめ」であるからです。

逃げる月逃がすものかと月走る(月路)

▶無常迅速。二月も今日で終りです。速いものです。綾小路きみまろさんではないですが、困ったものです。二月が逃げて行きます。二月中にやろうとしていたはずが、ほとんどそのまま。「お父さん、なんでこれやってないのよ。言ったでしょ。私きょうは友達と映画見に行くんだから、片付けといてって。知らないわよ。もう私行くからね。カレー作って置いたから。それ食べて、それから洗濯もの干しといて、ちゃんと午前中に中へ入れといて。畳むのは私帰ってからするから」懐かしい限りです。そうです、今は良き思い出です。

▶わたしの中の奥さんの名前は「月路」です。どうも下手な川柳か俳句か知りませんが、厚かましくいつも挿入しておりますが、閑話休題ということでお許しを戴いております。今は挿入することも無くなったのですが、なつかしい気持ちを挿入しておりまして、下世話なことで恐縮ですが、少しも淋しくはありませんが、たまには女性の感性と言いましょうか、完成かもしれませんが、そうした客観的な見地もまたはるかな記憶の中から選んでおります。感謝。これしかないですね。今はただただ感謝。ありがとう。よき想い出を。そして子供たちを産んで、育ててくれて。

限界を超えたもの(煩悩)を制し、生死を究め、聖者の徳性を身に具えたそのような聖者が祭祀のために来たとき、

スッタニパータ482

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

482「先生!わたくしのような者の施しを受け得る人、祭祀の時に探しもとめて供養すべき人、をわたくしは──あなたの教えを受けて──どうか知りたいのです。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

スンダリカさんは重ねてブッダに尋ねました。私のようなバラモンの祭祀(儀式)を行う際に、供養を受け得る資格のある人とは、私が供養すべき人とは、いったいどのように探したらよいですか。知りたいのです。どうか教えてください。といった感じであったことでしょう。施しというのは、祭祀そのものです。祭祀の主催者を施主といいます。いわば施主をどう探したらいいですかということを聞いているのです。

供養を儀式(祭祀)で行う伝統

昨日は月遅れの大般若会(だいはんにゃえ)に随喜(ずいき)いたしました。お坊さんが法要に出席することを随喜といっています。本来は釈尊の話を聞いて感激し至福に浸り歓喜した様子であります。現代では釈尊をはじめ仏菩薩を讃える法要に参加することが随喜といえるでしょう。今日のテーマは何故儀式を行うのかということです。伝統行事だからといえばそれまでかもしれませんが、ここはもう少し突っ込んでみたいと思います。

結論からいえば、今後も続けるべきであると思います。儀式不要論というものがあります。仏教の目的はそもそも個々人の心の平和にあるのだから集団で祭祀を行うことは必要ないし、むしろ害悪であるとさえいえるという立場です。これは極論かも知れませんが、今日の社会でそのように考えておられる人は意外と多いと思います。とくに仏教を学んだことのある人のほうが反ってそのような思考になるかもしれません。比較的若い方がお寺の法要に参加することは、仕事や遊びの関係もありますが、ほとんど無いのもよくわかります。爺さん婆さんの行く所がお寺だと何となく思っている人がほとんどでしょう。

昨日お寺の大般若会にお参りされた方の中で最年少の中年女性が「はじめてお参りしましたが感動しました。こんな凄いのは初めてみました。ぜひ皆に伝えます」という感想を話してくれました。たしかに祈祷太鼓や大般若経の転飜法(てんぱんほう)、経本をパラパラと右に左にと翻して転読する様や大声で「降伏一切大魔最勝成就(ごうぶくいっさいだいまさいしょうじょうじゅ)」と唱えるシーンなどは圧巻でしょう。お坊さんになったら一度はやってみたいと思ったのは私だけではないかもしれません。やってる本人が一番燃えます。

それはともかく、お葬式にせよ法事にせよ葬儀会場や個人宅でお経を唱えることも儀式、祭祀と言えば祭祀です。修正会、涅槃会、春秋のお彼岸、花祭り、お盆、成道会、除夜の鐘。お寺での法要も一年を通して数多いものです。さらにはお墓参り。最近では家族だけのご主人や奥様だけの法事も増えてきました。お盆に棚経でお参りに寄せて頂いても昔に比べて集まる方が少なくなったことは否めません。こうした現状にどうしたものかと考えるお寺さんも多いのですが、これは時代の流れもありますが、多くは主催者の「伝え方」の問題であろうと思います。現に今でも沢山のお参りで賑やかなお寺もあります。仏教ブームでもあるともいわれています。先程のご婦人の感想の通り、知らないだけかもしれません。

お釈迦様にせよ、キリスト様にせよ、多くの偉大な聖人は丘に登って、大衆に向って話を説かれました。人々が集まり熱心に話を聞いたのです。真剣に道を求める人はさらに仏陀と一対一で話をしました。これが仏教における集会の原点です。キリスト教も同様でしょう。このスタイルを踏襲したものが儀式であります。多くの宗教で儀式は営まれます。本尊を定め儀式を行わない宗教は宗教法人法では宗教法人と認められません。朝晩の勤行とて儀式であります。儀式とは人のなす義(まこと)を形で表現したものです。

どうやって儀式の参加者を集めるか。スンダリカさんの本音でしょう。どのような人に供養するのか。ブッダの回答は鮮明でありました。明日からいよいよ本節の核心が始まります。この両者の会話の中身が布教の原点です。目をこらして読み進めてまいりましようか。

東京マラソン走る人観る人(月路)

マラソンといえばアベベ。今朝の東京マラソンも第一集団は黒人集団。このあとどうなるかわかりませんが、ほとんど興味ないのですが、見ている暇はないのですが、テレビを付けたらマラソンでした。今朝はいいお天気です。洗濯もの干さなきゃ。今日は主夫します。

「先生!わたくしのような者の施しを受け得る人、祭祀の時に探しもとめて供養すべき人、をわたくしは――あなたの教えを受けて――どうか知りたいのです。」

スッタニパータ466

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

466  執著することなくして、常に心をとどめ、わがものと執したものを(すべて)捨て去って、世の中を歩き廻る人々、──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

執著せず、常に気をつけ、何も持たずに、世の中で生きている。そのような無私の人々にこそ供物をささげなさい。あなたが功徳を求めて祭祀を行うのであれば。

今日は「功徳」ということを掘り下げてみたいと思います。功徳は利益という意味です。世間での利益も仏教での御利益も同じ利益です。利益(りえき)というと儲かった結果のようで、利益(りやく)というと何やら有難く感じますが、漢字としては全く同じです。じつはその内容も中身そのものも全く同じであります。

ビジネスで考えて「売上-仕入れ=利益」という簡単な式に当てはめれば、「善行ーおかげ=利益」となります。商売であれ一般的な仕事であれ、それが世の中で正しいことであれば、熱心に精をだして働けば必ず結果が出ます。その結果である売上から協力業者からの仕入れや人件費などの経費を差し引いたものが純利益でありましょう。精進して修行に励めば、戴いたものを差し引いても利益があるわけです。何も変わりありません。道理に適った法則、つまり理法であります。

功徳も功を為して徳を得ることですから、その結果は利益です。これは当然であり必然です。何の不思議もありません。世の中の仕事はすべからくこの道理にかなっているかどうかが問われます。精進なくして得られる利益、功徳というものは全くございません。当り前です。すなわち欲望が先ではないのです。まず自分が「何を為すか」が最初であり全てであります。努力に努力を重ねて今日があります。そこに他の人々の協力や支援があります。その結果のジャッジが利益であると申し上げたいと存じます。

儲けようと思ってやるようでは商売はうまくいきません。「利益=売上ー経費」と考えるか「売上ー経費=利益」と考えるかどうかです。数学では全く同じですが、利益を先に考えてやるようでは、おそらく一時的でありましょう。長続きはしないと思います。目的を利益にするか、結果を利益と呼ぶかの違いです。

今日のブッダの声も最初に「執著することなくして」と始まります。功徳(利益)を求めて、ではありません。執著せず、常に気をつけ、何も持たずに、世の中で生きていく。見返り報酬を期待してかかるようでは、大したことは出来ません。世間の仕事も言い換えればほとんどが修業であります。多くの熟達した職業人は例外なく「一生修業」といいます。修業も修行も変わりありません。毎日毎日休むことなく本気で働いている人々は、みんな功徳を積んでいるのであり、みんな利益を上げているのであります。ことさら特別扱いすることではありません。

何がため修行をなすや六地蔵(月路)

昨日はお寺の総代さんの家の法事でした。観音経は比較的に長いお経ですが、最初はゆっくりと重々しく始まります。そして徐々にスピードが増していき、最後の方の偈文ではハイスピードで突っ走ります。お唱えする声にも熱が帯びてきて終いにはものすごく熱くなります。声のトーンは同じですが、終わってジーンとくるものがあります。法話では「利益」の話をさせていただきました。車中で株の話を聞いていましたので、また総代さんの会社の壮大さを拝見しましたので、とっさに用意していた話を代えて、利益も御利益も同じだという話を致しました。最後に生前にこそ戒名をご夫婦そろって頂きましょう。仏門に入ることですと結びました。

何の為に。何を為すか。功徳のためか。利益のためか。それとも、人々や社会のためか。自分のためか。家族のためか。何をするのか。何をやればいいのか。何がしたいのか。何を成し遂げたいのか。そういう根っこの部分を掘り下げてしっかりと腰を据えて坐りましょう。腹の坐った人。梵天ならぬ凡天丸もかく在りたい。

凡天丸

執著することなくして、常に心をとどめ、わがものと執したものを(すべて)捨て去って、世の中を歩き廻る人々、──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ464

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

464 諸々の欲望を捨てて、家なくして歩み、よくみずからを慎しんで、梭のように真直ぐな人々、──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
第四六四、四六五詩は第四九七、四九八詩に同じ。
 
以上註記より引用した。

梭(ひ)については第二一五詩を参照して下さい。機織りの縦糸に対して横糸を通すときに使われる道具(シャトル)のことです。

欲望を捨てる。あっさりと説かれていますが、これは口でいうほど簡単なことではありません。だいたいそういう人に、お目にかかったことがありません。自身を振り返ってみても欲望だらけです。欲望はしばしば煩悩と呼ばれますが、何のことはありません。普通の人の普通の感情です。感情のほとんどが欲望です。ああしたい、こうしたい、嫌だ、好きだ、暑い、寒い、冷たい、熱い、何もしたくない、眠い、疲れた、あらゆる欲望とはこうした気持ちのことです。あらためて申し上げるまでもありませんが、気持ちを捨てるということは、感情を殺すことではなく、さっと離れることです。

欲望の対象にとらわれない。見たまま聞こえたまま感じたままの感覚にこだわらない。こんなことが果たして可能でしょうか。可能です。家という一番気持ちが表れている欲望の具体的な対象から離れて住むこと。たとえば、豪邸や高級マンションをイメージしてください。こうした住まいに住みたいと思ったから、そこに住んでおられる。またそれを買ったり借りておられる。気持ちが表れているのが現在の生活です。これも当然のことですが、あっさりとその思い、気持ちを捨てれば、家から離れることは実に可能です。可能ではありますが、これがなかなか至難です。

そういう気持ちを捨て、家から離れて歩み、よく自らを慎んでいる人々にこそ、供物をささげなさい、と。それは梭のように真っ直ぐな歩みを続けている人々、つまり修行者にこそ供物をささげる、供養しなさいという意味です。例によって、もし貴方が功徳を求めて祭祀を行うのであれば。と続きます。

これは明確にブッダがバラモンを試しておられるところだと思います。解脱を求めて出家し慎ましく生活している修行者に供養をささげなさい。それが祭祀を行う在家の勤めですと言わんばかりです。事実そう繰り返し説いておられる。祭祀を祈りと言い換えてもよいと思います。これからも供物をささげ祈りを続けるのであれば、その供物は立派に修行されている人々に捧げなさい。出家者に在家者が供養する、それは善きことなのです。そういう生き方ももちろんありますよ、と。

風強し幡が纏わる雪が飛ぶ(月路)

夜中にお腹がすいて目が覚めました。観音様ののぼり幡が千切れんばかりに風にあおられています。あれは風が動いているのか、幡が動いているのか。ある人は自分の心が動いているのだと言われた、という大河ドラマの一シーンが、なぜか腹減ったという夢でした。まったく意味がわからないのが夢ですが、欲望とか、気持ちというのも夢の様なものではないでしょうか。つじつまというか、理路整然とはいきません。結局、気持ち。この不可解な気持ちとまだ当分付き合うことになりそうです。

諸々の欲望を捨てて、家なくして歩み、よくみずからを慎しんで、梭のように真直ぐな人々、──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ463

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

463 真実もてみずから制し、(諸々の感官を)慎しみ、ヴェーダの奥義に達し、清らかな行いを修めた人、──そのような人にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
ヴェーダの奥義に達し――vedantagu.叙事詩にも同様の語がある(Vedapāraga,MBh.Ⅻ,243,8)。

以上註記より引用した。

真理を知って自己を制し、感覚による反応を慎んで、聖典の奥義であるところの「清らかな行い」を修行している人に、適宜、供え物をささげなさい。もし貴方が、功徳を求めて祭祀を行うのであれば。

功徳を求めて祭祀を行う

これから幾つか同じフレーズが続きます。それはこの「バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば」というリフレインです。お経はこのリフレインというのでしょうか、繰り返し同じ文句をしばしば使って、耳に慣れるよう工夫してあるように思います。なにしろ紙に書いて残すというようなことをしなかった。つまり口承、口伝でありましたから、絶対に間違わない必要があって、また重要なポイントでもあったのです。

われわれ僧侶がお経を唱えた直後に、回向というものを行います。これはお経を唱えた功徳を何に対して回向するか、つまり功徳を振り向けるかということです。たいていは自分のために回向するなどということはありません。誰かの功徳、それはご先祖さんだったり、ご家族であったりするわけです。もちろんご本尊やその他の仏菩薩、祖師、歴代住職、檀家各家先祖代々に回向するのは毎日の日課です。

ようするに何がしかの功徳を求めているわけです。それが勤めだといえばそれまでですが、かんたんにいえば功績を讃えている。これ自体が功徳です。尊敬をし、感謝をしている報恩の行いです。祭祀といった仰々しいものを行わなくても良さそうなものですが、花を立て燭を灯し蜜湯やお茶お菓子などを供えて勤めます。朝課、晩課はもちろん法事法要はすべからく功徳を求めて行うものです。

ところが、ブッダはどうもそういうことを全部肯定しているとは思えません。どこか方向性が違うよと、当時のバラモンであったスンダリカさんに説くのです。そうした雰囲気がこの詩からうかがえます。それが「真実もて自ら制し、慎しみ、ヴェーダの奥義に達し、清らかな行いを修めた人」を冒頭に述べられたのです。

そのような人にこそ供物を

はっきりいってしまえば、「清らかな行いを修めた人」にこそ供物を捧げるべきだと断言されているのです。つまりブッダやブッダの教えを実践して修行している人に、食べ物を捧げなさいと大変やわらかく断言しています。托鉢に修行僧がやってきたら、彼らは自分で食べ物を買うことができないから、供養してあげてほしいといった意味も含まれているように思います。

真理を知り自己を制し慎む

ここに修行の全容を端的に述べられています。まず正しく知ることから、そして自己を制御する。清らかな行いとは何かということを暗に問いかけておられます。ますます更に聞きたくなるように言葉を巧みに使っておられます。お見事というより他ありません。

ほとほとと寒の戻りやホトトギス(月路)

一日置きに寒かったり暖かかったりで、風邪を引いてしまいそうです。鼻水が出てくるような寒さをこらえながら法要の準備に余念がありません。これが済んだら、あれをして、ああこれもせんならん。ほとほと後回しの性分に手を焼いています。たしか去年の春にはホトトギスが鳴いていました。北陸は雪だろうなと思いながらチラチラまた降ってきそうですが、時おり日差しがあり、有り難いことだと。

昨日三時間ほどかけて、無料ホームページとやらでお寺のホームページを作りました。写真を並べただけですが一度御覧くださいませ。→禅龍寺

真実もてみずから制し、(諸々の感官を)慎しみ、ヴェーダの奥義に達し、清らかな行いを修めた人、──そのような人にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ458

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

458 「この世の中では、仙人や王族やバラモンというような人々は、何のために神々にいろいろと供物を献じたのですか?」
(師が答えた)、「究極に達したヴェーダの達人が祭祀のときに或る(世俗の人の)献供を受けるならば、その(世俗の)人の(祭祀の行為は)効果をもたらす、とわたくしは説く。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
効果をもたらす――偉大な果報をもたらす、の意。
神々に供物をささげて祭祀を実行し得るのは実際問題として王族やバラモン、仙人などであり、シュードラは祭祀にあずかることが禁ぜられていたので、このように言うのである。
 
以上註記より引用した。

当時、人々は、神々に供物をささげて祭祀を行っていました。それは何のためですか、どのような功徳があるのですかと、スンダリカさんはブッダに質問しました。それに対しブッダは、「究極に達したヴェーダの達人」である解脱した修行者に供物を捧げれば「果報をもたらす」すなわち功徳があると説かれた(答えた)のであります。

現代においても仏さまに供物(くもつ)を献供するのは、そうした理由が主です。ブッダの十号の一つに「応供」という尊称があります。応供諷経(おうぐふぎん)という毎朝のお勤めでは、仏菩薩をはじめ阿羅漢や天上の神々など修行されて解脱された方々に、尊敬と敬意をもってお経を唱えます。禅宗では主に般若心経などをお唱えいたします。諷経もまた供物であります。また実際に献茶献湯し菓子や果物などを供えます。供え物に値する、供物を受ける資格があるかどうか。応供、供に応ずることの本意を噛みしめるべきであります。

「何のために神々にいろいろと供物を献じたのですか」という質問に対するブッダの答えが以外な内容であったという驚きを隠せません。崇拝ではなく尊敬なのだということを明確に示されたからです。やみくもに訳が分からずに、ただ伝統を踏襲していただけの崇拝から目覚めた瞬間でもありました。

先祖供養とて同じ理由であります。亡くなった父母や先亡(せんもう)の霊に供養するのは、先人の苦労を偲び、その遺徳に深く敬意を表するからでありましょう。ましてやブッダ釈尊の大徳に最大限の尊崇をもって、その菩提(ぼだい・悟りのこと)を荘厳(しょうごん)することは仏教徒の勤めであります。お経を唱えるということは、教えを自らの耳に聞かせ、口で覚え、姿勢を保つことに他なりません。まことに有り難き教えであります。

有り難や 声が聞こえる 音がする (月路)

昨日、突然の断水でした。近くの工事が原因だったのですが、水が出ないというのは大変不便ですね。当り前ですが蛇口をひねれば普通に水が出るということは凄いことだとあらためて強く意識しました。普段の何気ないことであっても、確かに生きているという実感があります。こうしてものが見え、音がきこえ、話すことができる。手も足も動く。思うことも感じることも考えることだってできる。今日も五感というものがあって、人間を継続しております。

「この世の中では、仙人や王族やバラモンというような人々は、何のために神々にいろいろと供物を献じたのですか?」
 (師が答えた)、「究極に達したヴェーダの達人が祭祀のときに或る(世俗の人の)献供を受けるならば、その(世俗の)人の(祭祀の行為は)効果をもたらす、とわたくしは説く。」

スッタニパータ305

第二 小なる章

〈7、バラモンにふさわしいこと〉

305 部分ごとによく区画されている美事な邸宅に種々の穀物をみたして、(これらの)財をバラモンたちに与えた。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

王はバラモン達に乞われるままに豪華な邸宅と豊富な食物を与えたのでありますが、ここには明確な理由があります。バラモンに財を与えることが功徳とされたからに他なりません。

「祭祀を行いなさい。財産が豊富であるならば」とヴェーダの法典を編纂したものですから、王たちはバラモンに供養すると自らに功徳があると信じたのであります。

もちろん豊富な財産をもっているわけですから、祭祀を行うことができます。祭祀を進行するバラモンにその費用を提供するのみならず、その衣食住を豊かにしていきました。

功徳があるかないかについては中国の武帝が菩提達磨に対しての有名な問答が残されておりますが、少し意味あいが違ってまいりますので、ここではバラモンと王との関係性に注目するに留めておきたいと存じます。なにしろ昔のバラモンは裕福ではなかったという事実と、どのようにバラモンが裕福となったのかということをしっかり見てまいりましょう。これは単なるお話ではありません。理法と深く大きく関わってくるのであります。

部分ごとによく区画されている美事な邸宅に種々の穀物をみたして、(これらの)財をバラモンたちに与えた。

スッタニパータ302

第二 小なる章

〈7、バラモンにふさわしいこと〉

302 そこでかれらはヴェーダの呪文を編纂して、かの甘蔗王(かんしょおう)のもとに赴いていった、「あなたは財宝も穀物も豊かである。祭祀を行いなさい。あなたの富は多い。祭祀を行いなさい。あなたの財産は多い。」

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
呪文――manta.

甘蔗王――原名は OkkAka であるが、昔の大王で、日種族・釈迦族の祖とされている。サンスクリットでは IksvAkuという。この王の名は『リグ・ヴェーダ』以来ヴェーダ文献にしばしば現われている。 Iksu は甘庶(sugar-cane)のことである。

以上註より引用した。

釈迦族とは古代北インドの小国でブッダの父・浄飯王が治めていたとされます。それはともかく、当時のバラモンたちはこともあろうにヴェーダの呪文を編纂したとあります。現代でいえばさしづめ偽経を作ったりお経を改竄したようなものでしょう。自分たちの都合の良いように「祭祀を行いなさい」と熱心に勧めたのだと。

「あなたは財宝も穀物も豊かである。あなたの富は多い。あなたの財産は多い。」と書かれていますが、人の財産を狙った確信犯のようなものです。どだい他人の財産は自分にとって何の関係もない。あてにすべきものではありません。豊かであろうがそうでなかろうが知ったことではないのが普通でありましょうが、このバラモンたちには確信があったのです。その確信は熱望からきています。有るところから取れという泥棒感覚です。

オリンピックを開けば莫大な費用がかかります。そうして利権が利権を産みます。これは一面穿った見方ではありますが、感動のために、競争のために、経済上の理由でこうしたイベントを企画したわけではないかもしれませんが、だれかが始めるとその波紋が確かに広がります。次第にエスカレートします。平和の祭典などともてはやされておりますが、果たしてほんとうに必要なことかと考えてしまいます。祭りも行事も誰かが誰かにそっと進言したのが始まりではないでしょうか。「祭祀を行いなさい」と。

そこでかれらはヴェーダの呪文を編纂して、かの甘蔗王のもとに赴いていった、「あなたは財宝も穀物も豊かである。祭祀を行いなさい。あなたの富は多い。祭祀を行いなさい。あなたの財産は多い。」