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スッタニパータ496

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

496 この世でもかの世でも、いかなる世界についても、移りかわる生存への妄執の存在しない人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
移りかわる生存――その原語bhavābhāvaはbhavaのreduplicationからつくられた語である。calācala(拙書〈中村元著〉『ヴェーダーンタ哲学の発展』三六二頁)という語と同様である。

以上註記より引用した。

人々は、この世においても、かの世(あの世)においても、そしてその他のいかなる世界においてでも、それはいずれ去らねばならない場所であり、そのような移り変わりの生存の中に生きている。これを一般に輪廻とよぶのでありますが、地獄・餓鬼道・畜生道を三悪道、人間界がこの世、天上界がいわゆるあの世と云われています。後世に人間と畜生との中間に修羅をもうけて六道輪廻とも謂われております。仏典は一般に、このように釈尊が説かれたことを分類整理して人々に解りやすく伝えられたのでありますが、現在ではかえって煩雑になったきらいがあります。ですが原典を繙きながら理解を進めていけば、時代と場所をこえてブッダ釈尊の伝えられた意図が鮮明になってまいります。仏法を学ぶこと(学道)の意義もまたここにあろうかと存じます。

移りかわる生存への妄執の存在しない人々

人は変化を望まない。変化を嫌うものです。そのくせ変化を望んだりする実に不可解な存在であります。これは妄想からきておる。そして執著している。変化に対する妄執とは、生きることについての執著であり、生きることの迷妄であります。迷いながらとらわれている状態です。ここから解き放たれ脱出することを「解脱」と呼んでおります。この句は、じつに解脱した人々の本質を説いておられるのですが、これに気づかない。気付いていても、そんなことを信じようとしない。信じたくない。それも自由です。勝手に思っていればいいのですが、誰もが輪廻に縛られているということは、確かめようがないのですから、それは致し方ないと言えば、それまでです。それでも輪廻は存在している。人間が妄執から完全に離れなければ、とこうなります。解脱できるチャンスはどの世界においてもというわけではありません。じつは人間のときにしか解脱はできないとされています。三悪道はおろか、かの天上界においても解脱はできません。善なれば昇る、悪なれば落ちる。この因果の法則は微塵も違うことはないのです。人間だけに分別があるのではありませんが、この人間界ほど修行の出来る場所はない。人間こそが、喜怒哀楽の中に生きているからこそ、その大いなる悲しみのなかで、全てをさとり、全てを愛し慈しみ、解脱の道を歩むことが出来るのであります。お釈迦様は菩薩のとき天上界におられましたが完全な涅槃のために、人間界に生れ、人々を救いたいと発心され、出家得度し、解脱しさとり(菩提)を開かれ、45年間教えを弘められ、そして最後の生を全うされて涅槃に入られました。そのお釈迦様、ブッダ釈尊の説かれたことが真実であると心から信じられるかどうかであります。

陰暦の二月十五夜満月に(月路)

お釈迦様は陰暦の2月15日に涅槃に入られたといわれていますが、その日は満月であったと伝えられています。まさしく菩提を円満されたわけです。今日はここ立川渡観音堂もとは釈迦堂において、恒例の涅槃会が開かれます。昨日は区の公民館でなんと五斗もの餅を搗きました。涅槃会のときに御供撒きするためです。きょうは四ヶ村が集まっての涅槃会ですから大勢お集まり下さる予定です。お練りといって、公民館から観音堂まで行列するのですが、涅槃会はじめての導師ということで些か緊張いたしております。なお今宵の月は、真夜中の本日24時にちょうど満月になるそうです。

この世でもかの世でも、いかなる世界についても、移りかわる生存への妄執の存在しない人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。