タグ別アーカイブ: 精励

スッタニパータ446

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

446 (悪魔はいった)、「われは七年間も尊師(ブッダ)に、一歩一歩ごとにつきまとうていた。しかもよく気をつけている正覚者には、つけこむ隙(すき)をみつけることができなかった。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
つけこむ隙――otāra.ṃ.chance;fault(Mayrhofer:PaliGrammatik,Bd.Ⅱ,p.95f.)=randhaṃ vivaraṃ(Pj.p.393).

みつけることができなかった――nādhigacchissaṃ(=nādhigamiṃ.Pjp.393).ただしādhigacchissaという読みを採用すると、'he would have attained'(Mayrhofer:PaliGrammatik,Bd.Ⅱ,p.95f.)となる。

以上註記より引用した。

悪魔ナムチの敗北宣言

ナムチは正直に素直に敗北を認めます。自らの心と行いに常に気をつけているブッダには、悪魔のささやきが通用しませんでした。一歩一歩ごとにつきまとったナムチでしたが、ついに付けこむ隙間がなかったと述懐します。この敗北宣言は、後に神話的に述べられたものとは思えないほどの現実味があります。なぜならば「われは」という主語は文脈としてはもちろん悪魔ナムチのことですが、これはブッダ釈尊自身の回想でもあるからです。かれの内心に悪魔があらわれます。幾度となく甘い言葉が浮かぶのです。だれでも分かるはずです。やめる。怠り。断念。そうした言葉自体が頭に浮かぶのはやむをえません。これが悪魔の正体です。言葉によって、頭に浮かぶ言葉によって人は行為を選択するのです。悪魔の言葉に勝つか、負けるかのいずれかを選ぶことができるのであります。

正覚者ブッダの勝利宣言

私たちの妄想や執著あらゆる観念は、すべて言葉・言語で出来ています。このことは言うまでもないことかもしれません。しかしながら言葉の強さを意識しなければ観念を克服することはできません。どのような言語であれ、言葉は悪魔にも神々にもなります。言葉は凶器どころか悪魔そのものに成り得るのです。また言葉は友であり家族です。自らに励ましを与えてくれ、あるいはいたわり、あるいはなぐさめ、癒やしてくれるのも内なる言葉です。ですから譬喩としての悪魔ではなく、現実に悪魔がつねにつきまとっているわけです。六年間の修行の間はもちろん正覚者となった後の一年も、あわせて七年間を振り返ったときに、いつの時にも悪魔の言葉に動揺することがなかったと釈尊は正直に述べておられるのです。

精励ということの本質

精励、努め励むということは、結局自身の中の言葉で決まります。このことを悪魔との戦いとして表現されています。怠けを悪魔と呼んだのであります。世間一般でもよく魔が差すといいます。悪い行為は悪魔という化け物が勝手にさせたのではありません。悪い言葉の通り行動した結果であります。怠けたのは「怠け」という言葉によって怠けたのです。疲れたとか調子が悪かったというのも全て言い訳です。勝利を得るためには自身の言い訳を許さないことでしょう。朝起きられない。なすべきことを先送りにする。そうした甘えが自身の中にあるときに精励とは程遠い悪魔に敗北した姿、様子となります。

大統領 就任式の 言葉かな (月路)

日本時間の今日未明、合衆国の大統領にトランプさんが就任しました。今日からはトランプ大統領ですね。この就任式の模様をテレビで見ました。政権交代がこのように平和裏に執り行われる風景にあらためて感慨を深くします。世界では戦争を繰り返し、醜い争いどころか殺戮が日常の国や地域がまだまだ沢山あります。演説の内容や支持の割合はともかく無事に就任されたことを素直に賞賛したいと思います。関係者の努力でしょうね。これに尽きると思います。何事もなく無事であることは、努力、精励の賜物。人々に感謝を述べる大統領。言葉はいかようにもなるものです。言葉に気をつけます。

(悪魔はいった)、「われは七年間も尊師(ブッダ)に、一歩一歩ごとにつきまとうていた。しかもよく気をつけている正覚者には、つけこむ隙(すき)をみつけることができなかった。

 

スッタニパータ444

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

444 みずから思いを制し、よく念い(注意)を確立し、国から国へと遍歴しよう。──教えを聞く人々をひろく導きながら。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
444-445 この二つの詩句から見ると、人々に対して教えを説くことが、義務とされているのである。

以上註記より引用した。

本詩と次の詩は、ブッダ釈尊がさとりを開いてから、人々に教えを説きながら遍歴された45年間を統括された内容となっています。後に八正道と呼ばれる実践の在り方を簡潔に示しておられます。ナムチを退け完全に解脱しています。前の詩句までは、精励の様子を克明に描かれているのに対し、本詩においてはすっきりと旅立ちの決意が述べられております。何も心にかかることがない晴れやかな様子であります。

自らの思いを制すること

自分の思い(思惟・考え方)を制御すること。人は皆、自らの思いによって生活します。仕事であれ趣味であれ日常生活のすべてが自らの思いによって立ちふるまいます。この思いをコントロールしていく。これが基本です。正見、正思に始まる八正道の最初の部分の原典ともいうべき簡潔な表現かと存じます。

念(注意)を確立すること

日常すべてにこの念(おもい)を確立する。いつも注意している。気をつけている。これは交通事故などに気をつけるといった漠然とした思いではありません。何をするにも、よく知り、よく気をつける。一息ごとの注意です。正知と正念といいますが、阿含経典の「如来は道を教える」に詳しく述べられておりますから、ぜひ今一度参考にしてみて下さい。漢訳では「算数目犍連経」と呼ばれる比較的古い層に属するお経で、ブッダがその弟子に最初に修行の具体的方法を教えるくだりが分かりやすく紹介されています。当時の修行指導の様子が目に浮かぶ内容です。ぜひご一読下さい。→ここから

国々を遍歴された理由

ブッダ成道より八十歳で涅槃に入られるまでの四十五年間はまさしく遍歴でありました。梵天勧請(ぼんてんかんじょう)の説話もありますが、神話的な話は脇におきまして、ブッダの悟りを極言すれば、慈悲、いつくしみに尽きると思います。もの凄い修行であったのですが、死をも顧みない壮絶な魔との戦いであったのですが、その結論は、人々にはこの深い真理は決して理解できないであろうが、それでも道を教え続けることである。いずれは多くの者があとに続くとの確信でありました。

事実、仏教は二千五百年続いております。八万四千の法門と幾千万巻の経典ことごとく、ブッダの智慧と慈悲を今に伝えています。教えを聞く人々をひろく導きながら。この発願に全ての思いが込められているような気が致します。このひろく導きながらは原文のままです。色んな弟子が居ていいのです。仏教徒はみんなブッダの弟子です。中にはそれこそ様々な人々がおります。そんなことブッダは、とうの昔にご存知でありました。

閑話休題

四九日や 浴司掃除が 残りおり (月路)

四九日(しくにち)と言いまして、四と九のつく日が浴司(よくす・風呂)であったり髪と鬚を剃る日でもありました。もちろん今では毎日のように浴びておりますが、誰かと会う時は極力鬚を剃りますが、原則は四九日、まあ修行僧の休日というか一休みの日です。坐禅をお休みするお寺も多いと思います。放参(ほうさん)とかいいましたが忘れてしまいました。

みずから思いを制し、よく念い(注意)を確立し、国から国へと遍歴しよう。──教えを聞く人々をひろく導きながら。

スッタニパータ436

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

436 汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執といわれる。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
嫌悪――原文にはaratiとあるが、パーリ原典協会のパーリ語辞典の解釈に従う。註にはadhikusalesu dhammesu arati=abhiratiと解す。

第四の軍隊としての「妄執」(taṇhā)の原語はもともと渇を意味するが、ここでは第三の軍隊を「飢渇」(khuppipāsā)と呼んでいるから、taṇhāと「渇」(pipāsā)とは別の概念である。taṇhāは人間存在の奥にある意識下の、衝動的なものであるが、pipāsāは生理的な概念である。

以上註記より抜粋して引用した。

つぎの詩句では、ものうさ・睡眠、恐怖、疑惑、見せかけ・強情、さらには利得・名声・尊敬・名誉、また自己を褒め讃え他人を軽蔑すること、と続きます。これらはナムチの軍勢であると喝破されるのであります。いかがでしょうか。なにも言えません。人間に巣食う本質にみごとに迫っています。これはブッダが発見されたものではありません。だれにでもある人間性ですし、ブッダ自身のなかに存在していたものです。それを明確にされた。よく勘違いしてしまう態度に、自分はそうではない、人々がそうだという奢りがだれにでもあるものです。その部分が一番大事で、哲学的に本質を見定めることが目的ではありません。現実に、これらの軍勢を打ち破らなければ、解脱など遠い夢のような話で自分には全く関係ないことになってしまいます。

まず今日は、第一から第四の軍勢を肝に銘じておきたいものです。欲望が第一です。全ては欲望に帰一します。全部自己の欲望から派生したものばかりです。だれでも自分が一番大事です。それを一言でいってしまえば、「欲望」なのです。この欲望をしっかり見つめることから始めたいものです。ついで嫌悪。自分が可愛いゆえの嫌悪、人の欠点が見えてしまう、嫌だと思うことです。これについては他人の悪口をいうのが証拠でしょう。胸が痛みます。さらに飢渇。飢えと渇き。腹が減った、喉がかわいた。なんでもないことのようですが、食べ物、飲み物によって自分の身体が出来ています。口にするものが人間を維持しているのですが、これに貪欲であるとどうなるか。結果は歴然としております。少欲知足。足るを知らなければ、大変なことが待っています。ときには断食をすることも必要かもしれません。そして妄執。妄想と執著。この大軍勢は難敵です。この妄執が生え抜きの精鋭部隊ですから、ここまでであっさりと陥落してしまいます。

餅が割れ 鏡開きぞ 何しとる (月路)

正月もはや半ば。時は急流。もろい筏にのって竿をさしておりますと、転覆どころか筏ごとバラバラになってしまいそうです。年末にやり残したことを、まあいいやとそのままにしておいたつけが、いつやってくるかとハラハラしながら目移りばかり。困ったものです。何かに集中していると、これは後でいいや、放おっておこうと思い、事実そのままにしておく。悪い性格が最近もろに出ています。反省と謝罪。どこかの国のようですが、これも欲望ですね。第一の軍勢だけで充分です。わたしを倒すのは。今日はここまで、また明日。

汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執といわれる。

スッタニパータ433

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

433 (はげみから起る)この風は、河水の流れも涸らすであろう。ひたすら専心しているわが身の血がどうして涸渇しないであろうか。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
この風――苦行による激しい呼吸。

専心している――pahitattassa,つとめて自己を専注すること。

以上註記より引用した。

激しい呼吸をしていると手足が痲れてきます。一般には過呼吸というもので、荒行の一つです。血液がアルカリ性に変わり、血液中の酸素の量が増え二酸化炭素の量が減ります。たちまちには死に至らないようですが、動悸、息苦しさ、眠気、激しい耳鳴り、悪寒などに苛まれます。河水の流れというのは血流のことです。血流が涸れるというのは、心臓の鼓動が止まる、すなわち死を意味します。何もそこまでと、ナムチならずとも思ってしまいますが、なぜ荒行を重ねたのかという理由が次の詩句からつぶさに述べられていきます。

ひたすら専心しているということは、道元禅師の言葉を借りれば「只管打坐(しかんたざ)」ということです。ただひたすらに坐禅に打ち込む。昨日添付しました釈迦苦行像をみれば一目瞭然です。背筋を伸ばし、何が起ころうとも心を動かさず、ひたすら結跏趺坐している。骨と皮ばかりになりながら、何も食べず、飲まず、荒行中の荒行である坐に徹しきっておられます。黙って、じっとしているほど辛いことはありません。安楽の法門といわれますがそれは後世のこと。足が痛くなるのを通り越して、足の皮が腐り出します。肩が凝るのを通り越して、血が真っ青に固まってしまいます。何度も心臓が止まるのがわかる。

一番の難関が眠気との戦いです。睡魔が襲ってまいります。この大軍は遥かに強力な戦隊であります。矢継ぎ早に襲ってきて苦しめます。一人で坐禅をするとわかるのですが、空腹とか喉の渇きや足の痛み、肩の辛さや、腰の重さとは比べものにならないほど、眠気には負けそうになるものです。怠惰と対極にあるものが精励ということです。怠惰は悪魔と同義です。ナムチの軍勢は、あの手この手を使って苦行者ならずとも精励している者を滅ぼそうと手ぐすね引いています。少しの隙きをついて怒涛のごとく押し寄せる大軍勢に、ほとんどの人々はあっさりと陥落してしまうのであります。

暦みて 吉祥なるか 初薬師 (月路)

昨日まで初祈祷の御札などと一緒に「吉祥暦(きっしょうれき)」というものを配っておりました。一枚広げて見たのですが、江戸時代に流行した昔ながらのもので、今風にいえばカレンダーなのですが、本だとどこかへしまい忘れてしまいますが、壁に貼っておくと何かと便利です。古希まであと六年。えらい年寄りになったのかなあと思わずにはいられません。昭和32年生まれの人が今年は還暦ですよ。感慨深いものがあります。自分では今でも青春だと思ってはいますが、だいたい考えることや思うことが年寄り臭くなってきたことは確かです。そうは言ってもわたしにも目標というものがあります。そうそうナムチ君とつきあってもおれません。今日は初薬師。薬師如来は無明という病気をなおす仏さまです。大乗仏教が御利益信心みたいに思われている向きもありますが、無明すなわち迷いを捨てる薬は自身の精励(はげみ)以外にないことを改めて教えてくれています。

↓朝の爽やかさと同じ爽快な気分になりました。吹石一恵さん風?

(はげみから起る)この風は、河水の流れも涸らすであろう。ひたすら専心しているわが身の血がどうして涸渇しないであろうか。

スッタニパータ429

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

429つとめはげむ道は、行きがたく、行いがたく、達しがたい。」この詩を唱えて、悪魔は目ざめた人(ブッダ)の側に立っていた。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

ナムチの最後通告は、説得力に満ち溢れています。けだし「行き難く、行い難く、達し難い」とはあっぱれな言いようであります。この「行き難く」というのは、原語でduggoですから難路つまり赴きにくいほどの意味です。ようするに努め励む道は、歩み出すことも、歩み続けることも、到達することも困難であると言っているわけです。これは一般的かつ現実的な理解といっていいでしょう。

ナムチ君は、人間の本質を充分理解しています。普通の人間はイチコロでありましょう。「精励」と口でいうのは簡単ですが、なかなかどうして出来るものではありません。彼に説得されたら私などは「その通り」と思わず膝を打っていたに違いありません。彼はブッダの傍らに立っていました。坐って修行しているゴータマ菩薩を見下ろし、どうだと言わんばかりで勝ち誇るように立っていた。そんな情景が手に取るように見えます。多くの人は自分を基準に物事をとらえます。陰口にしても面と向かって話すことも、全部自分が基準です。善いことをしようとしていても、悪いことをしていても、常に「やめておけ」なのです。自分を高い棚の上にあげて、偉そうに物知り顔で語ります。上から目線ぐらいは可愛いものですが、良い人なんて世の中にはほとんど居ないのが現実です。強いて申せば、ほんのわずか良いところもあるのが実態です。他人の悪口を言う人は、決まって付け加えます。根は悪い人間じゃないんだけどね。当り前です。根っからの悪人なんてそうざらにはいません。悪魔と呼ばれているナムチ君を見てご覧なさい。彼ほど人間らしい奴はいません。馬鹿正直者です。

今日からが 仕事初めの 世間なり (月路)

こんな記事を書いていながら言うのも変でありますが、人の悪口や陰口を聞いた時あるいは面と向かって罵倒されたときや注意されたときに感情を顔に出さないでいられる人をある意味尊敬しているのですが、鉄面皮ならともかく、ポーカーフェイスで微笑んでおられるほど人間は出来ておりません。いわゆる我慢や忍耐というものは限度があります。テメエ何様だと思ってるんだ。お互い様。だとは思いますが、何を言われても腹が立たない人間はもう人間じゃありません。腹の底では怒っているのに顔に出さないのならまだしも、この感情をコントロールする術というものを身に着けなければならないのが、昔からのわたしの課題です。

そこで効果的なのが、「こだわらない、とらわれない、カッパえびせん」という呪文です。昨日やってみました。こころの中で。何もカッパえびせんが好きなわけではないのですが、思わず心のなかで笑って済ませます。考えるまでもなく、どうでもいいことですし、他愛のない人間が相手です。ブッダには遠くおよびませんが、ナムチかキムチか知りませんが、一々反応するほどの相手ではありませんから、適当にうっちゃっておけば宜しい。虚心坦懐。こころに何のわだかまりもないこと。泰然自若。なんでもいいのです。およそ宇宙規模で考えたら塵にも満たない。永遠の時間感覚で100年もすれば、みんな骸骨。よき隣人。かわいい人ばかりです。そうやって人間やってる。友達。すべて許してしまえる。書きなぐっておりますが、だれかの参考になればと思っています。どうか、クダランことで、いまある命を捨てんで下さい。そう、こころから願っています。一おっさんより。涙。無。

♪がいこつが、まじめな顔して、こう言った。どうせ、みんなみんな、くたばって、おいらみたいになっちまうんだから、せめて、命のあるあいだ。つまらぬことにクヨクヨしないで大事に大事に使っておくれよ、一度しか無い、おまはんの命♪ 岡林信康。骸骨の歌より。

つとめはげむ道は、行きがたく、行いがたく、達しがたい。」この詩を唱えて、悪魔は目ざめた人(ブッダ)の側に立っていた。

スッタニパータ425

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

425 ネーランジャラー河の畔(ほとり)にあって、安穏を得るために、つとめはげみ専心し、努力して瞑想していたわたくしに、

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
つとめはげむこと――padhāna.主として精神的な努力精励をいう。ここにえがかれていることは、諸伝説と対照して考えると、成道以前のブッダが悪魔と戦ったことをいう。

425 ネーランジャラー河――ネーランジャラー(Nerañjarā)河はサンスクリットではナイランジャナ(Nairañjarā)河といい、漢訳仏典では「尼連禅河」などと音写されている。この河は現在パルグ(Phalgu)と呼ばれている。この河がブッダガヤーの近くを流れているが、ゴータマはそのほとりのウルヴェーラー(Uruvelā)で苦行を修したと伝えられている。これは現在のUrel村にその名を残している。
 
以上註記より引用した。

本年の最後を締めくくるに相応しい新しい節に入りました。精勤経と呼ばれるこのお経は前節の出家経に続くものです。出家したゴータマ菩薩(成道以前の釈尊)が端坐六年と呼ばれる坐禅に精励されていたころに、内面に悪魔が現われます。尼連禅河(にれんぜんが)のほとりにて安穏を得る目的で修行されていたのです。昨日にもありましたように、安穏を得るためには出離を実行する以外ありませんが、今日の解説にもありますように、精神的な努力精励が主でありました。努め励み専心することを後に「精進」と呼ぶようになるのですが、言葉のイメージが先行すると抹香臭くなるかもしれません。

精神的に進むことが本来の「精進」の意味です。精神的に成長するために努力するわけです。ところで現実にどうやって努力するかといえば、専ら坐禅しかないのです。当時、出家者の修行というのはヨーガ修行が中心でした。坐禅のスタイルはヨーガのそれと何ら変わりません。外観からすれば全く同様です。現代で言えば瞑想(Meditation)とかマインドフルネスと呼ばれている内容も古来からの言葉であらわせば坐禅であります。これは外観が坐っていて内面は禅定を楽しんでいるものです。禅定とは三学の一つに位置づけられていますが、それは時代が下ったあとでの便宜上の学問的分類に過ぎません。とまれ坐禅はその三学の全てをあらわすのに最も都合の良い言葉なわけです。中村元先生の訳では「瞑想していた」となっていますが原語はjhāyantamですから禅定もしくは坐禅していたというのが従来からの翻訳でありましょう。瞑想という語はmeditationと英訳されたものを和訳して瞑想としたものです。どちらでも元々は同じですが、現在は馬鹿みたいに区別しているようです。

最近では坐禅を英訳するとZAZENと出てまいります。カラオケと同じでそのままの音訳が一番正確でありましょう。Zen meditationでは、本来の意味が通じません。なぜなら禅という一字には何の意味もないからです。 jhāna, ジャーナを禅那と音訳したものと、意味を示す定(じょう)を合せて禅定としものです。禅宗も元は坐禅ばかりしている宗派を坐禅宗とし、後に坐を省略して禅宗と呼んだに過ぎません。こんなことは余計な知識が修行を妨げているために、一々取り上げて説明していますが、勘違いしてほしくないために老婆心でちょっと解説してみただけであります。どうか忘れてください。

蟠り 忘れたしとて 大晦日 (月路)

今日切に申し上げたいことの一点は、精励であります。ブッダがビンビサーラ王の帰依を受けたのは、王様に面と向って、「諸々の欲望には患いがあることを見て、また出離こそ安穏であると見て、つとめ励むために進みましょう」と呼びかけたことです。こんなことを堂々と言えるのはブッダ以外におりません。乞食のような格好で修行している者が、華麗な出で立ちの王に、共に精進しましょうと話すのですから、王はいっぺんに惹かれたのです。仏法不思議、王法と対座す。誰が見ていようがいまいが、修行(坐禅)し続けているブッダの姿に、王は思わず合掌していたに違いありません。

全ての人々に今年最後に、この歌を贈ります。YELL。

ネーランジャラー河の畔にあって、安穏を得るために、つとめはげみ専心し、努力して瞑想していたわたくしに、

スッタニパータ186

第一 蛇の章

<10、アーラヴァカという神霊>

186 [師いわく、──]「諸々の尊敬さるべき人が安らぎを得る理法を信じ、精励し、聡明であって、教えを聞こうと熱望するならば、ついに智慧を得る。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
安らぎ――nibbhana.
教えを聞こうと熱望する――刊本にはsussusaとあるが、ブッダゴーサ註にはyava dhammasavanena sassusam labhatiとなっているので、後者に従って解した。以上註より引用した。

師とは、むろんブッダのことです。これから前句の質問の回答が始まります。まずは智慧を得る方法です。智慧を得るにはその条件が必要です。誰でも智慧を得れるわけではないのです。そんじょそこらの生活の知恵とは違います。猿知恵、浅知恵でもないのです。いわば崇高な「智慧」なのです。

人々の中で「尊敬に値する人」というのは、そうざらにいません。尊敬さるべき人とはそういう人です。あっさり申し上げれば「感謝されている人」と言ってよいでしょう。これが人格的な条件です。人から感謝されてもいない人は、いままで(過去に)努力していない人ですから問題外です。そういう現実に尊敬されている人が、「安らぎを得る理法」つまり仏法(ブッダの教え)を信じて、精励(努力)し、聡明であって(心から納得できて)、教えを聞こうと熱望すること。これは並大抵のことではありませんが、もっともかんたんなステップなのです。

聞いたことを一つ一つ実行すること。実行できるようになったら次にやるべきことを心から聞きたいと強く望むこと。すると新しい教え(身についていないこと)を聞くことができるのです。

一つ具体的な例をお話しましょう。私たちは幸せや平和を望んでいるとしましょう。ところがこれではいつまでたっても求める幸せは永遠に得られません。今現在に幸せや平和を感じる気づくことがなければ、幸せは観念・想像の中にしかないのです。今この瞬間に幸せを感じられるかどうかが智慧の鍵であります。

今日はひさしぶりに尊敬するマインドフルネスの師の動画をご紹介します。この動画で智慧の鍵を得てください。

諸々の尊敬さるべき人が安らぎを得る理法を信じ、精励し、聡明であって、教えを聞こうと熱望するならば、ついに智慧を得る。

スッタニパータ184

第一 蛇の章

<10、アーラヴァカという神霊>

184 「ひとは信仰によって激流を渡り、精励によって海を渡る。勤勉によって苦しみを超え、智慧によって全く清らかとなる。」

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
最初期の仏教は、精励(appamada)
、勤勉(viriya)
を勧めていたことがわかる。
以上註より引用した。

仏教は、ややもすれば虚無的な非生産的な雰囲気があるかもしれませんが、それは後世の仏教が法要などの儀式や因果論に傾注していったことと無縁ではないかもしれません。

しかしながら本詩のように、信仰と精励、勤勉と智慧といった純粋な実践を勧めていたことが、歴史的な研究で明らかとなっています。真理を尊び、日々の生活において何事にも精励し、勤勉によって労苦を乗り越えることが、そのまま「智慧」であります。その一見なんでもないことをきちんと行うことが一番重要なのです。何のテクニックも必要ありません。素直な実践の中にこそ真理があり、勤勉な努力(精進)が理法に適った生き方であると繰り返し述べられているのであります。

辛いことのほうが圧倒的に多い人生ではありますが、それに挫けることなく、いつも原点に立ち戻って教えを実践しなさいと説かれるブッダの声に、あらためて深い優しさ「慈しみ」を感じずにはいられません。

「ひとは信仰によって激流を渡り、精励によって海を渡る。勤勉によって苦しみを超え、智慧によって全く清らかとなる。」