タグ別アーカイブ: 精進

スッタニパータ425

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

425 ネーランジャラー河の畔(ほとり)にあって、安穏を得るために、つとめはげみ専心し、努力して瞑想していたわたくしに、

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
つとめはげむこと――padhāna.主として精神的な努力精励をいう。ここにえがかれていることは、諸伝説と対照して考えると、成道以前のブッダが悪魔と戦ったことをいう。

425 ネーランジャラー河――ネーランジャラー(Nerañjarā)河はサンスクリットではナイランジャナ(Nairañjarā)河といい、漢訳仏典では「尼連禅河」などと音写されている。この河は現在パルグ(Phalgu)と呼ばれている。この河がブッダガヤーの近くを流れているが、ゴータマはそのほとりのウルヴェーラー(Uruvelā)で苦行を修したと伝えられている。これは現在のUrel村にその名を残している。
 
以上註記より引用した。

本年の最後を締めくくるに相応しい新しい節に入りました。精勤経と呼ばれるこのお経は前節の出家経に続くものです。出家したゴータマ菩薩(成道以前の釈尊)が端坐六年と呼ばれる坐禅に精励されていたころに、内面に悪魔が現われます。尼連禅河(にれんぜんが)のほとりにて安穏を得る目的で修行されていたのです。昨日にもありましたように、安穏を得るためには出離を実行する以外ありませんが、今日の解説にもありますように、精神的な努力精励が主でありました。努め励み専心することを後に「精進」と呼ぶようになるのですが、言葉のイメージが先行すると抹香臭くなるかもしれません。

精神的に進むことが本来の「精進」の意味です。精神的に成長するために努力するわけです。ところで現実にどうやって努力するかといえば、専ら坐禅しかないのです。当時、出家者の修行というのはヨーガ修行が中心でした。坐禅のスタイルはヨーガのそれと何ら変わりません。外観からすれば全く同様です。現代で言えば瞑想(Meditation)とかマインドフルネスと呼ばれている内容も古来からの言葉であらわせば坐禅であります。これは外観が坐っていて内面は禅定を楽しんでいるものです。禅定とは三学の一つに位置づけられていますが、それは時代が下ったあとでの便宜上の学問的分類に過ぎません。とまれ坐禅はその三学の全てをあらわすのに最も都合の良い言葉なわけです。中村元先生の訳では「瞑想していた」となっていますが原語はjhāyantamですから禅定もしくは坐禅していたというのが従来からの翻訳でありましょう。瞑想という語はmeditationと英訳されたものを和訳して瞑想としたものです。どちらでも元々は同じですが、現在は馬鹿みたいに区別しているようです。

最近では坐禅を英訳するとZAZENと出てまいります。カラオケと同じでそのままの音訳が一番正確でありましょう。Zen meditationでは、本来の意味が通じません。なぜなら禅という一字には何の意味もないからです。 jhāna, ジャーナを禅那と音訳したものと、意味を示す定(じょう)を合せて禅定としものです。禅宗も元は坐禅ばかりしている宗派を坐禅宗とし、後に坐を省略して禅宗と呼んだに過ぎません。こんなことは余計な知識が修行を妨げているために、一々取り上げて説明していますが、勘違いしてほしくないために老婆心でちょっと解説してみただけであります。どうか忘れてください。

蟠り 忘れたしとて 大晦日 (月路)

今日切に申し上げたいことの一点は、精励であります。ブッダがビンビサーラ王の帰依を受けたのは、王様に面と向って、「諸々の欲望には患いがあることを見て、また出離こそ安穏であると見て、つとめ励むために進みましょう」と呼びかけたことです。こんなことを堂々と言えるのはブッダ以外におりません。乞食のような格好で修行している者が、華麗な出で立ちの王に、共に精進しましょうと話すのですから、王はいっぺんに惹かれたのです。仏法不思議、王法と対座す。誰が見ていようがいまいが、修行(坐禅)し続けているブッダの姿に、王は思わず合掌していたに違いありません。

全ての人々に今年最後に、この歌を贈ります。YELL。

ネーランジャラー河の畔にあって、安穏を得るために、つとめはげみ専心し、努力して瞑想していたわたくしに、

スッタニパータ389

第二 小なる章

〈14.ダンミカ〉

389 もしもかれが、教えを聞く人、或いは他の修行者とともに語る場合があるならば、その人にすぐれた真理を示してやれ。かげぐちや他人を誹謗することばを発してはならぬ。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
教えを聞く人――異学の徒または在家の人などをいう(中略)。
サーヴァカという語が在家の人を含めるのはジャイナ教と共通であって、後代の仏教とは異る。漢訳の仏典では「声聞」と訳し、小乗の修行僧を意味するが、原義とは異っているわけである。第三七六詩参照。
以上註記より抜粋して引用した。

すぐれた真理(四諦)

  1. 苦悩の人生であること。
  2. 苦悩には原因と条件があること。
  3. 苦悩の原因と条件を無くせば苦悩が無くなる。
  4. そのための道理を実践する。

1.苦悩の人生であること。

あらためて水滸伝を読み始めました。友人に薦められたようなもので、中国三大奇書の一つとして西遊記や三国志と共に多くの人に読み継がれていますが、豪傑や好漢たちの活躍に溜飲が下がる快感に酔いしれています。この物語でわたしが特に注目している部分は人々の苦悩が描かれていることです。戦略とか戦術といった作戦や妙案の部分よりも、水滸伝の醍醐味は何と言っても「義」にあると思います。それは感想というより私自身のまとめとして、人に言えない苦しみに耐えつつ、愛する人への情を忍びつつも、義に生きる「生き様」と「死に様」を問うておるのではあるまいか。そう考えた時にあらためて諸仏が申された「苦の娑婆」を生きている人間の悲しみを思わずにはおれません。じっさいにこれが幾時代を経ても人間の現実でありましょう。幸せな日々も束の間、思ってもいなかった出来事が起こり、信じていた人々に裏切られ、はたまた命の瀬戸際に立たされるなどということは、非日常のようでいて、それこそ日常茶飯事であります。そういう現状の認識というものが「苦悩の人生」という言葉で示されました。これに異論のある人は、およそお目出度い方でありましょうし、能天気といえましょう。楽天家であることは意味がありますが、楽観はできませんし、ポジティブという言葉に踊らされて本質を見失っている思想や思考が多すぎます。もっと単純にいえば、だれでも死ぬわけです。それが今日であっても何の不思議でもありません。それほど危なっかしい橋をお互い渡っているという現実を直視したいものです。

2.苦悩には原因と条件があること。

縁起という言葉があります。縁起でもないという風に使われることが多いのですが、縁起はもともと仏教用語です。縁りて起る。すなわち縁によって生じるという道理です。起因と関係性といえば解りにくいのですが、端的に直接の原因と間接的な原因(条件)によって苦悩が生まれるわけです。たとえば水滸伝で林冲師範?の最愛の妻が、彼女を付け狙う悪漢によって狼藉をはたらかれ、首を吊って自害するシーンがあります。この場面では憤りが最高潮に達します。物語なのですが感情移入してしまって、わが妻が寝取られるような地獄の気分を味わってしまいます。それはともかく、この原因は妻が見目麗しいことでしょう。そして悪漢が邪な心を抱いた。彼女を守る者が弱かった。さらには彼女の貞操観念の強さが自殺という最悪の結果を生みます。他人は同情を惜しみませんが、師範の怒りは「怒らないように」という無責任な道徳では治まるはずがありません。師範の弟子が寝過ごして彼女を守れなかった自分を悔いて、師範に私を殺してくれと懇願します。そこで師範は、はじめて全てを理解するのです。真理というと何か神秘的なものを観念してしまうかもしれませんが、本当の道理のことです。この原因と条件があるという事実を理解できなければ、苦悩は理解できません。それは同情や道徳ではどうにもならない。そんなことは誰でも知っていますし、分かっています。けれども「究極の場面」で冷静になることは非常に困難なことです。原因と条件は、図らずも突然その結果を現します。心配すればキリがないほど、原因と条件の網は張り巡らせられております。全ての責任が自分にあるとは言いません。言えませんが、生きていることがそもそも原因なのです。だれもが避けて通れない仕組みです。

3.苦悩の原因と条件を無くせば苦悩が無くなること。

それではどうすれば苦しみから脱出できるかといえば、滅ぼすことです。滅ぼすことは無くすることです。敵に報復することではありません。敵を許すことでもありません。怒りを外に向ければ怒りは増幅します。許すことも外に向けた意思です。そうではなしに自分に向ける。自分を責めるのでは決してありません。自分を責めるというのは他人や世間を責めていることと変わりありません。人のせいにしたり自分のせいにしたりすることとは次元が違うのです。苦悩の原因や多くの条件は自己の中に起きています。それが成長しているのです。よく怒りを鎮めるなどという言い方をしますが、沈静化するのではないのです。鎮めようとすれば逆に火に油を注ぐようなものです。ここはあっさりと滅ぼします。無くしてしまう。消すといってもいいでしょうか。原因を断ち切る。原因を殺してしまうということです。具体的な怒りの原因や条件はちょっと考えればすぐに判明します。それに反応した自己がいるわけです。生じたものが滅しないことは絶対にありません。これが真理です。生まれたものは必ず死にます。死ぬのは生まれたからです。多くの苦しみは怒りです。怒りを一刀両断に殺す。瞬殺です。これは日頃の訓練というか鍛錬が必要です。瞬間瞬間、怒りを切り捨てる毎日の努力、それが坐禅であります。

4.そのための道理を実践する。

八正道という教えがあります。これは一言でいえば教えの実践です。八つに分けて教えられた道ですが、正しく生きるということに尽きます。昔ながらの古風な言い方をすれば、正義に生きる。もっと端的に「義に生きる」といってもいいでしょう。今日は水滸伝になぞらえて話しておりますから、最後までこれでいきましょう。人生は戦いの連続です。修行でもあり試練でもあります。われわれは戦士です。他人との闘いにみえますが、実は自分との死闘であります。武士道は死ぬことと見つけたり。生まれたばかりの赤ちゃんを立たせると必死に歩こうとする映像を最近見ました。凄すぎて泣けました。あんな時分から、歩こうとしている。胎内でも歩く練習をしているそうです。お母さんが「あっ、今蹴った」というあれです。そうやって死ぬまで歩き続けるのが人間です。道理の実践といえば解りにくいのですが、日頃の訓練が、いざというときの本番に効きます。好漢と呼ばれたかの水滸伝の勇士のように、真剣に生きる。修証義の義は儀式の儀ではありません。修行とその証拠である悟りを第一義に、義に生きる。義のセルフトレーニング。自分で自分を励まし、怠ることなく進む。これを昔から「精進」と申します。

もしもかれが、教えを聞く人、或いは他の修行者とともに語る場合があるならば、その人にすぐれた真理を示してやれ。かげぐちや他人を誹謗することばを発してはならぬ。

スッタニパータ353

第二 小なる章

〈12、ヴァンギーサ〉

353 あれこれの尊い理法を知っておられるのですから、(みずからは)知りながら〔語らないで、われらを〕迷わしたりなさいますな。励むことにすぐれた方よ。
夏に暑熱に苦しめられた人が水をもとめるように、わたくしは(あなたの)ことばを望むのです。聞く者に〔ことばの雨を〕降らしてください。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
あれこれの――parovara(high and low),直訳すれば「上から下までさまざまな」という意味である。
 
ことばの雨を降らしてください――原文には Sutassa vassa とある。註によって解す(後略)。

以上註記より抜粋して引用した。

理法を知り、精進に勝れた人

前の詩句はブッダ釈尊を智慧すぐれた人と呼び、この詩句では励むことに勝れた人と呼んでいます。励むことを仏教用語として精進ということが多いのですが、努力や精励という意味であり、熱心に取り組む様子であります。一所懸命ということでいいでしょう。凡事徹底という言葉がありますが、掃除ひとつとっても心をこめて行っている姿は、とても美しく理屈抜きに素晴らしい行為であると思います。精進の反対に怠惰はもっとも醜く理屈抜きに恥ずべきことであります、このように当たり前といえば当たり前のこと、いわゆる道徳と、仏教はとてもよく似ています。ほとんど同じという方もおられます。

仏教と道徳の違い

しかしながら根本的に相違する点は、解脱を目指しているか否かという一点にあると思います。様々な理法(真理)を智識として身につけて、四諦の理を体解し、八正道を実践していく目的は、解脱なのだとする教えが基本的な意味での仏教であります。ではその解脱をする方法はといえば、修行以外にないのです。悟りを得るのが目的ではありません。ブッダ釈尊がすでに悟りを開かれておるのです。その開かれた内容が「教え」でありますから、その教えを素直に実行していく。つまり修行を続けていることが、そのまま悟り(証悟)であります。これを「修証一如」と申し上げております。その結果として得られるものが解脱であり、道元禅師様は「身心脱落」(しんじんだつらく)と申されました。わたくしは釈尊から道元禅師様に綿々として伝わった仏法をまなび、その実践であるところの仏道をあゆむものでありますが、家風は少々違っても、仏家としては伝統仏教に大差はないものと心得ております。坐禅、瞑想、念仏、読経、題目、写経などなどの家風の違いはあっても、解脱を目指していることには変わりないものと存じます。

修証義に、仏家一大事の因縁として究尽する「生死を離れる」ことに言及されておりますが、この生死というのは人生の一瞬一瞬全部のことなのです。人生まるごとを離れるというのは、非常に実感のこもった表現だと思いますが、解脱というものを、実際に修行なさって到達された境地を吐露された感嘆の言葉だと存じます。身心脱落、脱落身心。読み方は同じですが、心塵脱落といったレベルとは天地ほどの差があるものと承知いたしております。

あれこれの尊い理法を知っておられるのですから、(みずからは)知りながら〔語らないで、われらを〕迷わしたりなさいますな。励むことにすぐれた方よ。
夏に暑熱に苦しめられた人が水をもとめるように、わたくしは(あなたの)ことばを望むのです。聞く者に〔ことばの雨を〕降らしてください。