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スッタニパータ442

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

442 軍勢が四方を包囲し、悪魔が象に乗ったのを見たからには、わたくしは立ち迎えてかれらと戦おう。わたくしをこの場所から退けることなかれ。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

ブッダ釈尊が坐禅している周りに旗を翻した悪魔の軍勢が取り囲みます。悪魔の総大将ナムチが王の象徴である象にまたがり勝ち誇るようにして陣触れを発します。最後の総攻撃が開始されました。

「立ち迎えて彼らと戦おう」とありますが、ここでは実際に立ち上がって戦うのではありません。一歩も退かないという意味であり決してその場を動かないという不動の決意であります。

降魔成道とは実際に何をしたのか?

降魔成道といわれるように成道に降魔という言葉がついています。この降魔は文字通り悪魔を降したという意味ですが、文献によれば触地印あるいは降魔印といって右手を地面につけている像がたくさん残っておりまして、その降魔の様子が克明に描かれています。わたしの家の仏壇にも降魔成道の釈尊像を祀ってあります。この触地印(そくちいん)ですが、なぜ地面に触れているのかが、長い間疑問でありました。いわく悪魔よ地獄に戻れ、地にひれ伏せよ、あるいは大地の神を出現させといった解説もされるのですが、いずれも神話的であり、どこか釈然としませんでした。

決してこの場を離れない不動心

その答えが「私をこの場所から退けることなかれ」という言葉でありました。結跏趺坐しながら左手を上に向け、右手を地面に触れているのは正しくこの場を退かない、すなわち誘惑に負けないことを指し示しているのではないでしょうか。やってみるとわかりますが、この釈尊の教えが身体で再現されるのです。坐禅の最中にも、ありとあらゆる妄想が襲ってまいります。その妄想を断ち切るべく、たまには触地印をいたします。神秘的ではありますが、そのとき、すっと妄想から抜け出すことができます。密教の不動明王(お不動様)はこの降魔成道の説話から象徴的に祀られていったとする説もあります。不動尊とも無動尊とも呼ばれる所以かと存じます。さりながら……

言葉の観念だけでは理解できない

仏教を学ぶにつれ、だんだんと仏教概念が頭のなかに張り付いてまいります。さまざまな仏教知識が知らず知らずのうちに思想を展開していきます。何もそれを全否定するわけではありませんが、言葉による観念で空腹を満たしていると、すぐに飽きてきたり、どこかに真理が埋もれているような気がして探し求めるようになります。答えはどこにも見つかりません。それでも師を求め、あるいは道を求めています。ところが簡単な実践を行うだけで、言葉では言い表せないような発見があるものです。やってみること。やり続けること。やり遂げること。坐禅は釈尊の成道の姿であることは申すまでもありません。

二十二年 正月中旬 かの地震 (月路)

今日は1月17日、阪神淡路大地震より22年経ちました。生まれた赤ちゃんが22歳。わたしが40歳のときのことでした。妻はもう起きていました。二階で寝ていたわたしは、あまりの衝撃に家が壊れるのではないかと、火は大丈夫かととっさに階下へよろけながら降りていきました。

地震。家が縦に揺さぶられるようでした。家族は全員無事。200キロ以上も離れた場所で震度5、震度7というのは想像を絶します。高速道路が倒れ、ビルが倒れ、火災が発生。すさまじい映像に息を飲みました。あれから22年。あれから22年が過ぎました。しみじみ、速いものです。

地震になれば誰もがじっとしてはいません。じっとしては居れないでしょう。地面が動くのですから。地響きを上げて怒涛のごとく攻めてくるナムチ軍にブッダは静かに右手を地面に触れました。その時に大地が裂けるような地震が起きたのでしょう。その大地震によって、すべてのナムチ軍が地割れの中に落ちていくなか、ただ一人、ブッダは坐禅したまま動きませんでした。動揺しなかったのです。

軍勢が四方を包囲し、悪魔が象に乗ったのを見たからには、わたくしは立ち迎えてかれらと戦おう。わたくしをこの場所から退けることなかれ。

 

スッタニパータ212

第一 蛇の章
<12、聖者>

212 智慧の力あり、戒めと誓いをよく守り、心がよく統一し、瞑想(禅定)を楽しみ、落ち着いて気をつけていて、執著から脱して、荒れたところなく、煩悩の汚れのない人、ーー諸々の賢者は、かれを〈聖者〉であると知る。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

ここでは、心の統一と瞑想(禅定)について考察してみます。禅定は戒律や智慧とともに仏教の三学と呼ばれています。もとより後世の仏教一般における分類であり、戒と定(じょう)と智慧は分けて捉えるべきものではありません。

戒は自己の戒めであり、定は別名「果」と訳されるように四向四果とか四沙門果の果でありまして、悟りの階梯を指す言葉ですが、これもまた仏滅後何百年も経ってから後世の仏教学者の研究によるものです。

あまり学問的なことに拘らずあっさりと申し上げますと、実際の修行段階であります。その中身は外観からは瞑想とか坐禅といったスタイルです。何もしていないように見えるのが特徴です。ただ寝そべっているのではありません。きちんと坐って修行しているのであります。これはブッダ以前のインド社会でヴェーダ以来もしくはそれ以前からの最もポピュラーな修行スタイルなのです。ヨーガも源流は同じです。坐るだけが修行ではありませんが、一番安定した身体に負担の少ない精神統一に最も適した姿勢であります。

形式は結跏趺坐という足を組んで手をその上に乗せて法界定印という両親指をつける手の組み方をします。仏像(坐像)でおなじみでありましょう。

こうして坐ってからすることは呼吸ぐらいのものです。これもことさら作り事をしないで息を長いなら長いまま短いなら短いまま、いわゆる特別な呼吸法を用いずに、ただ坐って一息一息を刻々とありのまま気をつけるだけで何も考えません。最初のうちは色々と頭に浮かんできますが、それに執著しないであっさりと手放します。

よく精神統一を精神集中と勘違いすることがありますが、心の統一とか精神統一というのは、簡単に言えば普通の人でもバラバラになってしまっている心の意識の運転を完全に止めることです。いわば思考停止するわけです。考えない努力と言ってもいいでしょう。まあそれさえも考えない。考えないということも考えない。何かに集中することもしない。

たとえば念仏でも唱題でも読経であっても集中していると間違います。余計なことを思っても当然間違います。集中することなく集中すると言ったら変ですが、頭を空っぽにするような感じで、とにかく無心になって坐禅なら坐禅、読経なら読経になりきる。無念無想と申しますが、大宇宙のど真ん中にポツンと坐っている、そういう姿勢と心が一つになっている状態が心の統一ということです。

心と身体が別々になっているというのは、今ここに居ながら坐っておきながら、過去や未来に心が向いてしまっている状態です。大便をするときは大便になる。小便のときは小便そのもの、他の余計なことを頭に置かない。

この方法が正しいとか、あれが間違っているとか余計なことばかり考えて今ここに居ない。心ここにあらずの状態から、今、心ここにあり、ありのまま、あるがままを修行いたしましょう。

智慧の力あり、戒めと誓いをよく守り、心がよく統一し、瞑想(禅定)を楽しみ、落ち着いて気をつけていて、執著から脱して、荒れたところなく、煩悩の汚れのない人、ーー諸々の賢者は、かれを〈聖者〉であると知る。