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スッタニパータ490

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

490 実に執著することなく世間を歩み、無一物で、自己を制した〈全き人〉がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
全き人──kevalin.完全に束縛を離れ解脱した人のことを、ジャイナ教ではkevalinと称する。仏典一般ではそういう呼称を用いることはないのであるが、ここでは例外的にジャイナ教と共通な呼称を用いていることから見ると、この詩を作った人はジャイナ教と共通な精神的雰囲気のうちに生活していたことを示す。或る場合には「なすべきことを完了した人」と解せられている。pariniṭṭhitakiccatāyakevali(Pj.p.427,ad Sn.519).

実に執著することなく

世間に暮らしていながら全てにおいて執著しないということは実に至難であります。否、至難というよりも殆んど不可能なことでしょう。これを実行している。世間のどのような眼に晒されていようとも、何事においても動揺することなく毅然と歩みを続けている。これは誰にもなかなか真似ができません。その真似をする。一日真似すれば一日の真似。二日しても三日しても、それは真似であります。ところが、それを一生やっておったらそれは本物や、と教えられています。

一生やる。そうした心がけ。志。具体的には「日常底(にちじょうてい)」に努力を重ねる以外にありません。普段の日常に不断の努力を行っていく。日常こそ修行であるとする所以であります。「修行というと何か特別なものがあると思っておる。そうではなくして、ふつうの毎日の勤め、毎日のなすべきことを黙ってやる。それ以外にないんだ。面倒だとか意味がないとか余計なことを考えておったら、それはみな妄想(もうぞう)や。妄想することが執著(しゅうじゃく)やね。何か考えたらそれは余計や。余計なものはさっさと捨てるほかない。久修練行(くしゅれんぎょう)。それが日常底でなければ仏祖が歩まれた道とは言わんのや」と。

無一物

久修練行とは久しく修行することです。修行という言葉はこの四字熟語が語源です。修行は英語でプラクティスと訳されています。突き詰めれば「日常が修行」ということです。修行に余計なものは何も持たない。だから無一物といえます。無所有ともいいます。人間本来無一物。何も持たない。何も握りしめているものはない。無執着が無一物であるわけです。これが修行の目的です。無一物になれば、無常が「常」となる、つまり解脱するということです。

翻って我々は、余計なものをいっぱい携えて歩んでいます。だから重たい。徳川家康は「重荷を背負いて遠き道を行くが如し」と結んでいますが、これが家康の人生を振り返ったときの実感であったのです。重荷ならば捨てればよろしい。重荷とは責任でありましょう。世間ではそれが常識です。当時トップの座にありながら組織や部下の責任がほとんどで自分は裁可の責任しかないと強弁した自称武士(もののふ)とは大違いです。重荷なら捨てればいい。プライドだとか意地だとか見栄とか、そんなものが重荷です。家康と、ある元知事とは似ても似つかない。重荷を果たした人と重荷から逃げる人。重荷の扱いがまるで逆です。他人事ではありません。誰もが、ある意味、ある元知事と同じなのです。

「仏道を歩む」とかんたんにいいますが、それは仏仏祖祖の道を歩むという重い責任があります。自己が自らの責任で無一物となることが他己の福田となるのだという責任です。重荷かもしれません。重い責任があるということです。できなければただの物乞い、我執です。無一物、かんたんなことではありませんが「捨ててこそ」。何を捨てるべきかは今更申すまでもありません。

自己を制した人

自制。これを完全に出来る人が「全き人」如来であります。宇宙人。全宇宙の尊き人です。めったにお目にかかれません。ですが、おられたのです。ブッダその人です。自己を制したものが全宇宙を制した人であります。己を制することができれば、それは我慢でもなく、辛抱でもありません。耐え忍ぶことが修行の中身です。あの人がこういった。そんな余計な小さなことで目くじらを立てているようでは自制には程遠い。こだわらない、とらわれない。無執着で無一物が自制の姿であります。

発心・修行・菩提・涅槃は仏道の四大要門とも言われています。けだし、正しい発心によって仏門に入り、戒律にしたがって修行し、仏祖の教えを究め解脱して、一切の苦を滅するというものです。今日だけというものではありません。仏門に入った以上は毎日毎時間が全て修行であり、修行以外にはありません。

桜植え紅葉を植えて腰掛けて(月路)

昨日は戴いたモミジの苗木を檀家さんといっしょに玄関先に植えました。寒椿、梅花、桜花、紫陽花エトセトラ、秋には紅葉と季節の彩りが豊かになってまいりました。落ち花もまた風情です。玄関横の階段に腰掛けながら、ちょっと一服。いいものです。ほんの御礼の気持ちでお寺から線香を差し上げました。線香投資。くだらんことを言っている場合ではありません。今日からは福井に戻って引っ越しの準備とか何やらいっぱいあります。ただいま午前三時半。さあ今日も坐禅にはじまり坐禅に終わる如常(日常)が始まりました。さあ、やるぞ。

実に執著することなく世間を歩み、無一物で、自己を制した〈全き人〉がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ375

第二 小なる章

〈13、正しい遍歴〉

375 「尊いお方(ブッダ)さま。まことにこれはそのとおりです。このように生活し、みずから制する修行者は、あらゆる束縛を超えているのです。かれは正しく世の中を遍歴するでしょう。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

今日の言葉は化仏がブッダに対して述べたものとされます。その結論は「自制」であります。この自制が、あらゆる束縛を超える。自制は自戒と同義です。みずからが自らを制御しないで、だれかのコントロールを待っていたら、それは即ち「束縛」以外の何物でもないという道理です。

この意味をわからない人が、何かをわかろうとしても無理です。さっさとこの場を立ち去るしかない。それほどに明確な真理です。化仏とは自分自身のことです。自分の中の仏さまが、それで善いとか悪いとか、いろいろに判断してくれます。自灯明ということです。自らを明かりとして進む。真っ暗な中を歩む者が、明かりを持たないでどうするのかという厳しいことばであります。

今日はアメリカに敬意を表して、彼の地の伝説の人となったスティーブ・ジョブズ氏の神スピーチをもう一度聞きました。ある意味、かれはスーパーマンでした。わたしも彼に憧れた者の一人として、卒業の日の学生の一人になって、静かに聴き入りました。

「尊いお方(ブッダ)さま。まことにこれはそのとおりです。このように生活し、みずから制する修行者は、あらゆる束縛を超えているのです。かれは正しく世の中を遍歴するでしょう。」

スッタニパータ216

第一 蛇の章
<12、聖者>

216 自己を制して悪をなさず、若いときでも、中年でも、聖者は自己を制している。かれは他人に悩まされることなく、また何びとをも悩まさない。諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
これは、現代でも大きな意味をもっている生活信条であろう。
以上註より引用した。

自制は基本中の基本でありますが、これほど言うは易く行うは難しものはありません。自制をしていれば他人を悩ますことがないと同時に、他人に悩まされることもないのであります。他人から受けるいかなる刺激に対しても反応しないという修行を積み重ねることによって、自己を制御することが可能であります。ここに修行が一生続く所以があります。一時的な修行は訓練や練習といったものに過ぎません。もちろん練習期間は必要ですが、一生続ける覚悟でしっかりと身につける、言うなれば習慣化しなければならないと思います。「悪をなさず自己を制している」という現在進行形で表現されているところに着目したいものです。

さて、この「聖者」の節は終始一貫してブッダの偉大さを説いたものでありましょうか。私にはそう思えません。もちろん聖者はブッダや阿羅漢果に達したブッダの弟子たちのことを指しているのでしょうが、主語は「かれ」であります。彼とは誰を指すのかといえばブッダが教えようとしている対象の人々です。その「かれ」に対して聖者はかくあるべしと繰り返し繰り返し述べておられるのです、友よかくあれと。

「諸々の賢者」は後代に「善知識」と呼ばれることとなる智者のことです。知識として現実を適確に捉えることができる「善友」と申し上げてよいでしょう。諸々の賢者は知っているのであります、聖者となる道を。

ものごとをよく知っていることは大変重要な事ではありますが、それで聖者となるわけではありません。解っていただけでは善き理解者の域を脱することは決してありません。修行者の足元に及ばないのです。ブッダが説かれた教えのたった一つでも身につけて実践している者が、時間と空間を超えてブッダの側近くに生きることになります。永平寺の前貫主であられた故宮崎禅師はそれを「真理を黙って実行する」と常々申されておりました。

自己を制して悪をなさず、若いときでも、中年でも、聖者は自己を制している。かれは他人に悩まされることなく、また何びとをも悩まさない。諸々の賢者は、かれを<聖者>であると知る。

 

 

スッタニパータ191

第一 蛇の章

<10、アーラヴァカという神霊>

191 ああ、目ざめた方がア-ラヴィーに住むためにおいでになったのは、実はわたくしのためをはかってのことだったのです。わたしは今日、何に施与すれば大いなる果報が得られるかということを知りました。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

ブッダは、アーラヴィの神霊の住居に住んだときに神霊からとがめられるように詰問を受けています。アーラヴァカという神霊にしてみればまさか自分のために住みに来たとは思ってもいなかったのでありました。

さて、神霊は「四種の徳」である誠実・自制・施与・忍耐のうちの施与が具体的に何を指すのかに気づいたのです。それはブッダ自らがわざわざお越しになって、こうして大いなる果報を得る方法を教えてくれた。しかも自然な問答という形で私が最も知りたかったことをズバリ教えてくれた。では私がすべきは何かといえば、これはもう決まっているではないか、私もブッダのようにこの素晴らしい真理(仏法)を伝えていくことであると、こう確信をしたのであります。

布教という言葉がありますが、現代日本では怪訝な目でみられることも多いかと存じます。自分だけやっていればいいんじゃない?人に迷惑かけないでといった雰囲気が大勢を占めているかもしれません。さまざまな邪な教えがはびこっているのは古代から現代まで変わらぬ事実でしょう。いろいろな誹謗中傷にただ黙って耐えるしかないときもあるかもしれません。そのようなときでもこの四種の徳を思い起こすのです。誠実・自制・施与・忍耐。

ブッダの偉大な教えを何としても人々に伝えたいとの熱い思いから、しかも自らの欲望・感情をおさえつつ、人々に対して自らのできることを精一杯行い、どのようなことがあっても決して心挫けることなく耐え忍ぶこと。

この詩句を聞いた人々は、我が事として多いに歓喜し、自らの生き方の指針としたことは言うまでもありません。

ああ、目ざめた方がア-ラヴィーに住むためにおいでになったのは、実はわたくしのためをはかってのことだったのです。わたしは今日、何に施与すれば大いなる果報が得られるかということを知りました。

スッタニパータ189

第一 蛇の章

<10、アーラヴァカという神霊>

189 もしもこの世に誠実、自制、施与、耐え忍びよりもさらに勝れたものがあるならば、さあ、それら他のものをも広く<道の人>、バラモンどもに問え。」

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉

自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
ここに教えらている徳目は叙事詩に出ている。

(Vedasyopanisat:satyam satyasyopanisad damah damasvopanisan moksa etat sarvanusasanam)

遡るとウパニシャッドのうちに説かれている。――atha yat tapo danam arjavam ahimsa satya-vacanam iti,ta asya daksinah.以上註より抜粋しました。

前句と同様に「四種の徳目」を別の表現で説かれたものであります。もういちど列記して整理を試みます。

1 誠実

2 自制

3 施与

4 耐え忍び(堅固)

この徳目以外にさらに勝れたものがあるならば、広く問いなさいと、自分で調べて確かめなさいと言われます。なぜならブッダはこれ以外にはないとご自身からは言明されないのです。じつは神霊は、その必要はありませんと答えるのですが、押し付けをしないで本心から得心したかどうか自主性を重んじるのであります。換言すれば徳目とは「得心」の内容です。本人がすっと心に落ちるものでなければ、ただ善いお話を聞いてハイそれまでよ、ではまことに勿体無いと存じます。現代であれば自分で紙に書いて壁に貼っておくぐらいの、そのうち諳んじるほどに大切な「心のお守り」としたいものです。日常にこの四つの角目を得心いたしましょう。これを四種(ししゅ)の徳目と申します。(現代風に申せば)「在家の成功原理」と申しても宜しいかと存じます。

もしもこの世に誠実、自制、施与、耐え忍びよりもさらに勝れたものがあるならば、さあ、それら他のものをも広く<道の人>、バラモンどもに問え。」