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スッタニパータ477

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

477  自己によって自己を観じて(それを)認めることなく、こころが等しくしずまり、身体が真直ぐで、みずから安立し、動揺することなく、疑惑のない〈全き人〉(如来)は、お供えの供物を受けるにふさわしい。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
自己を観じて――cf.SN.I,p.116G.「自己を自己なしと見て(drsṭvātmānaṃ nirātmānaṃ)、かれはそのとき解脱する」(中略)。

それを認めることなく――nānupassati.自己を実体としてそこにあると認めることなく、の意であろう。(後略)

以上註記より抜粋して引用した。

自己によって自己を観じて(それを)認めることなく

これは解脱するための最も肝心なところです。たいへん難しい言い回しのようですが、簡潔にまとめられております。自己というものが実体として存在するという前提では、この文章は意味が通じません。ところが自己と思っているのは自我であり感官によって得られた自分自身の姿形や自己認識に過ぎない。すなわち世界のどこにも自己という実体は存在しないとする無我説によれば、かんたんに意味が通じます。そこで後代の仏教一般には無我という概念をひねり出したのです。いわば魂とか精神といった真我というものを否定したのです。ところが、輪廻という概念を持ち出すとどうにも都合が悪くなります。ようするに矛盾するわけですね。そこでこの矛盾を埋めるのに都合のいい論法はないかと、またまた思考を重ねて考え出されたものが非我という概念です。我は無しとするのではなく、我は我なれど我に非ずとしたのです。ああややこしや仏教論。平たく申し上げればそういうことなのですが、これは全き人の悟られた(言葉に出来ない)ことを論理的に解き明かそうとするものですから、行き詰まったり、訳がわからなくなったり、適当に解釈して無理やり納得してきたのです。何度も申し上げているとおり、解脱を言葉で理解しようとしてもそれは無理です。ここはこれ以上、余計なことを考えないで、すなおに「自己によって自己を観じて、それを認めることなく」と受け止めればそれでいいと思います。考えすぎないことです。

こころが等しくしずまり

心が等しく静まる。これもわかりにくい表現です。われわれは通常有ることでは平静でありましても、何かのことでは波風が立っているものです。具体的に申し上げれば、体の健康面では悩むことがなくても金銭的に悩んでいることもあります。また家族のことで心配があったり、漠然とした不安とか、過去の体験による障害であるとか、様々な憂いというものを抱えています。それらの全てがとらわれやこだわりをもとに波打っているものです。それらが全て静かになっている状態をこころの安定とか平安と呼ぶのです。静かな水面をイメージすると良いでしょう。

身体が真直ぐで

身体が真っ直ぐというのは、姿勢を正しているということです。常に身体を捻じ曲げないでいる。一挙手一投足にも常に気をつけている。足を投げ出さない。手を抜かない。そうした所作が身についているということです。真直ぐを形にあらわした姿が坐禅であります。身体の芯が地球の中心に向っている。そうした安定的な様子であります。

みずから安立し

安定して自立していることです。昨日も今日も明日もゆらぎがない。そうした不動の姿勢です。誰から何を言われようが、たとえ蹴飛ばされようともどっしりと安立している様子です。誰かのためとか、自分のためとか、皆のためとか、為を意識していないこともまた安立といえるでしょう。誰かに依存しているところが少しでもあれば、それはもう安立とは呼べません。安らかに立っておれないのですから。

動揺することなく

外的な刺激で動揺しない。これが安立の安全な立場です。揺れ動くところに立たないことも大事です。安定した場所に安定した姿勢で安定した気持ちでいることは誰でもできますが、不安定な場所でも、どのような状況でも動揺しないことは、誰にでもできることではありません。動揺しないことではなく、動揺することがない安定さを保つことが出来るかどうかです。

疑惑のない〈全き人〉

完全なる人(如来)には疑惑がありません。人を疑うことも惑わすこともないのです。もちろん人から疑われるような人ではないのですが、心無い攻撃を受けたことはありました。殺されかけたこともあります。ブッダは殺害されませんでしたが、ブッダの弟子には殺害された人もおられます。それでもブッダには疑惑がありませんでした。こんなことは稀有なことです。ふつう考えられないのです。後ろから棍棒で殴られたシャーリープトラ(舎利佛)尊者は、殴られても平然と前に進んで歩かれたそうです。殴った方が恐れて詫びを入れると、尊者はそうでしたかと全く動揺がありません。疑惑のない人とはそういう人のことです。全き人と凡人の大きな違いがここにあります。

雨が降り風の吹くなか桜植え(月路)

戴いた桜の苗木、といっても樹高3メートルもある桜の木を観音様の後ろに植えました。古いアスナロの木を昨年伐りましたので、その横に今後のセンターツリーとするべく本堂の前に植樹しました。もう一本モミジの木も贈呈くださるとかで、これは玄関前にどうかなと思っています。そういえば紅梅が咲き始め、冬景色に彩りを添えてくれています。一昨日からのお天気と昨日午後からの雨でお寺のまわりの雪もすっかり融けました。春は確実にやってきております。昨日は牡丹鍋も頂いてお腹いっぱいになりました。この桜が咲く頃には、外で花見ができるぞと子供のように一人はしゃぎながらスコップを片付けました。

自己によって自己を観じて(それを)認めることなく、こころが等しくしずまり、身体が真直ぐで、みずから安立し、動揺することなく、疑惑のない〈全き人〉(如来)は、お供えの供物を受けるにふさわしい。