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スッタニパータ435

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

435 わたしはこのように安住し、最大の苦痛を受けているのであるから、わが心は諸々の欲望にひかれることがない。見よ、心身の清らかなことを。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
最大の苦痛――苦行を行っているので、かくいう。vedanaは感覚、感受をいうが、特に苦痛を意味し、漢訳では「痛」と訳されることがある。

諸々の欲望にひかれることがない――Kāmesu nāpekkhate.諸々の欲望を顧慮することがない、諸々の欲望に依存することがない、というほどの意味。

見よ、心身の清らかなことを――原文にはpassa sattassa suddhataṃとあるが、註にはsattaをattanと書きかえている。これはウパニシャッドの思想を受けている。「食物が清浄なるときに、本性(心身)の清浄(sattvasuddhi)がある。本性の清浄なるときに、記憶(念いsmrti)が堅固である。(堅固な)記憶を得たときに、一切の束縛から解放される」(中略)。そうしてここでも、苦行(食物を制することを含む)の結果として「念いが確立する」と説く。他のウパニシャッドでも同様にいう。(中略)

また同様の表現として、bhāva-suddhiとは「気持(情操)の浄化」をいうらしい。気持(情操)の浄化。表現に関してはsattvasuddhiに対応する。

このように「心身の清らかなこと」(sattassa suddhatā)という表現は、バラモン教とも共通である。この場合のsattvaは恐らく中性名詞で、仏教一般で言うパーリ語satta(=Skrt.sattva)(男性名詞)すなわち有情とは意味合いを異にする。なお大罪を犯した人が、心を統一して托鉢の食物を摂する(bhaiksāhāra)ことをしたならば、悪から浄められるという思想は、『マヌ法典』第11章二五七詩にも出ている。

以上註記より抜粋して引用した。

苦痛を受け入れる。ブッダの苦行ならずとも病気や怪我をしたときに苦痛を味わうことは誰にでもあると思います。わたしも福井の病院で全身麻酔から覚めたときに激痛に襲われました。痛みに耐える他ないのですが、寝返りすることもままならず、まさに「痛」一色。何も食べられませんし、息を止めて、指先に力をこめて、何かにすがりたい気持ちでしょうか、シーツを爪先で掴んでおりました。間断なくやってくる激痛。喉元過ぎれば熱さをすっかり忘れてしまっていますが、最大の苦痛を受けているのに比べたら、蚊に刺されたようなものでしょう。お母さんが出産されるときの激痛にも到底比べられません。

痛みを受け入れながら、欲望に引かれることがない。苦行の最中には、あらゆる欲望が襲います。もうやめよう。赤ちゃんを生み出す母のような強さでしょうか。それでもやめようとしない、渇きや飢えを癒やさない。心がますます澄んできて、清らかな心身となる。身体から水分がなくなる。生きたミイラのようなものです。心がすっかり浄められている。あらゆる偏見や固執や妄想を捨て切っている。何も考えていない。心は空っぽ。彼はナムチに勝利しました。後に「降魔成道」と呼ばれる所以であります。ブッダの誕生でありました。

生まれくる 吾が子のみをぞ 思ふ母 (月路)

吾が子の誕生のシーンを思い出しました。男とは情けなや何もできんで立ちつくす。奥さんの激闘にこころから尊敬をし感謝したものです。あれから何十年。母も妻も偉い人たちでした。「女は弱し、されど母は強し」と申しますが、これは「男は強し、されど父は弱し」かも。いや「女は強し、母はさらに強し」と言い換えておきましょう。さてもブッダは真理を産んでくれました。だれにでも通ることのできる道を切り開いてくれたのでありました。

わたしはこのように安住し、最大の苦痛を受けているのであるから、わが心は諸々の欲望にひかれることがない。見よ、心身の清らかなことを。

スッタニパータ433

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

433 (はげみから起る)この風は、河水の流れも涸らすであろう。ひたすら専心しているわが身の血がどうして涸渇しないであろうか。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
この風――苦行による激しい呼吸。

専心している――pahitattassa,つとめて自己を専注すること。

以上註記より引用した。

激しい呼吸をしていると手足が痲れてきます。一般には過呼吸というもので、荒行の一つです。血液がアルカリ性に変わり、血液中の酸素の量が増え二酸化炭素の量が減ります。たちまちには死に至らないようですが、動悸、息苦しさ、眠気、激しい耳鳴り、悪寒などに苛まれます。河水の流れというのは血流のことです。血流が涸れるというのは、心臓の鼓動が止まる、すなわち死を意味します。何もそこまでと、ナムチならずとも思ってしまいますが、なぜ荒行を重ねたのかという理由が次の詩句からつぶさに述べられていきます。

ひたすら専心しているということは、道元禅師の言葉を借りれば「只管打坐(しかんたざ)」ということです。ただひたすらに坐禅に打ち込む。昨日添付しました釈迦苦行像をみれば一目瞭然です。背筋を伸ばし、何が起ころうとも心を動かさず、ひたすら結跏趺坐している。骨と皮ばかりになりながら、何も食べず、飲まず、荒行中の荒行である坐に徹しきっておられます。黙って、じっとしているほど辛いことはありません。安楽の法門といわれますがそれは後世のこと。足が痛くなるのを通り越して、足の皮が腐り出します。肩が凝るのを通り越して、血が真っ青に固まってしまいます。何度も心臓が止まるのがわかる。

一番の難関が眠気との戦いです。睡魔が襲ってまいります。この大軍は遥かに強力な戦隊であります。矢継ぎ早に襲ってきて苦しめます。一人で坐禅をするとわかるのですが、空腹とか喉の渇きや足の痛み、肩の辛さや、腰の重さとは比べものにならないほど、眠気には負けそうになるものです。怠惰と対極にあるものが精励ということです。怠惰は悪魔と同義です。ナムチの軍勢は、あの手この手を使って苦行者ならずとも精励している者を滅ぼそうと手ぐすね引いています。少しの隙きをついて怒涛のごとく押し寄せる大軍勢に、ほとんどの人々はあっさりと陥落してしまうのであります。

暦みて 吉祥なるか 初薬師 (月路)

昨日まで初祈祷の御札などと一緒に「吉祥暦(きっしょうれき)」というものを配っておりました。一枚広げて見たのですが、江戸時代に流行した昔ながらのもので、今風にいえばカレンダーなのですが、本だとどこかへしまい忘れてしまいますが、壁に貼っておくと何かと便利です。古希まであと六年。えらい年寄りになったのかなあと思わずにはいられません。昭和32年生まれの人が今年は還暦ですよ。感慨深いものがあります。自分では今でも青春だと思ってはいますが、だいたい考えることや思うことが年寄り臭くなってきたことは確かです。そうは言ってもわたしにも目標というものがあります。そうそうナムチ君とつきあってもおれません。今日は初薬師。薬師如来は無明という病気をなおす仏さまです。大乗仏教が御利益信心みたいに思われている向きもありますが、無明すなわち迷いを捨てる薬は自身の精励(はげみ)以外にないことを改めて教えてくれています。

↓朝の爽やかさと同じ爽快な気分になりました。吹石一恵さん風?

(はげみから起る)この風は、河水の流れも涸らすであろう。ひたすら専心しているわが身の血がどうして涸渇しないであろうか。

スッタニパータ432

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

432 わたくしには信念があり、努力があり、また智慧がある。このように専心しているわたくしに、汝はどうして生命(いのち)をたもつことを尋ねるのか?

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
信念――saddhā.狂熱的な信仰ではなく、道理を信ずることである。

生命――第四二七詩で命に言及しているのに対していう。

以上註記より引用した。

何度も申し上げますが、この節ではブッダ釈尊の成道前の苦行について述べられておるのです。命さえも惜しんでいない。そうした荒行をものともしないのは、狂信的な信仰によるものでは決してありません。徹底して道理を信じている、いわば信念に基づくものであります。ここが大変重要で、ややもすれば得体の知れない超能力であるとか、神通力といった不可思議な力を得るがための苦行ではないのです。

信念をもって、努力を重ね、智慧を得て、専心すること。現代においてもそのまま通用する成功哲学の根本でありましょう。何事を成し遂げるにも、まず最初に道理をわきまえて目標を設定し、たゆまぬ努力を積み重ね、試行錯誤を繰り返しながらだんだん智恵が育まれ、右顧左眄せずに一途に求めるならば、ものごとは成就いたします。反対に考えればよくわかります。適当な思いつきで、たいした努力もせず、自己批判ばかりで右顧左眄し、結果をあせり、すぐに諦めるようでは、成功はおぼつきません。

信念・努力・智慧・専心。ここには微塵も抹香臭きことはありません。透徹した道理に貫かれています。一本筋が通っているわけです。わたしがスッタニパータを読んで強く惹かれるのは、この普遍の真理がわかりやすく述べられているからです。ブッダを熱狂的に信奉しているからではありません。後世に祭り上げられた仏教用語に惑わされることなく、普通の言葉で、普通の理解によって、真理を概観しておくことはとても重要であると心底思っております。

釈尊が成道と呼ばれる成功をつかんだのは、まぎれもなくこの道理にそって苦行したからであります。もっとも釈尊は人々には中道という道を勧めています。だれでも通ることができる道です。釈尊ほどの苦行をしなさいとは誰も言っていない。いいでしょうか。電球を発明しなさいとは言っていないのです。エジソンの真似をできなくても、電球を使えばいい。当り前ですが、念のために申し上げておきます。釈尊のこころが普通の人に理解できるほど、真理というものは簡単なことではありません。電球一つとってみても、それこそ2%のインスピレーション(ひらめき)と98%のパースピレーション(努力)の賜物であることはいうまでもありません。

七草を 一草にして 粥すすり (月路)

エジソンにナムチが無理をするな、そんな無理をしていたら死んでしまうよと囁き、その甘言にエジソンが負けていたら電球や蓄音機は発明できなかったというだけの話です。エジソンのみならず多くの偉人は、「信念・努力・智慧・専心」をもってしてその成功を手にしたのです。結果的にすべて人類のためになっています。それを横目にみながら、適当に批評している圧倒的に多くの人々に、言葉は悪いですが、爪の垢でも煎じて飲めと言わんばかり。パキスタンのラホール国立美術館に所蔵されている釈迦苦行像。何も云わなくても、全てを説かれています。わたしにとって胸に刺さる痛烈な刃(やいば)でありました。

苦行像

わたくしには信念があり、努力があり、また智慧がある。このように専心しているわたくしに、汝はどうして生命をたもつことを尋ねるのか?

スッタニパータ427

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

427 あなたが死なないで生きられる見込みは、千に一つの割合だ。きみよ、生きよ。生きたほうがよい。命があってこそ諸々の善行をなすこともできるのだ。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
諸々の善行をもなすこともできるのだ――jīvaṃ puññāni kāhasi.「諸々の功徳をつむこともできるのだ」と訳することもできる。修行者にとって「善行」とは、功徳を積むことにほかならない。
  
以上註記より抜粋して引用した。

あくまでも悪魔の話でありますが、これは世間の常識でもあります。私たちは苦行者ゴータマ・シッダルタの苦行の様を見ておりませんが、伝説によると誰よりも厳しい修行を重ね、その姿は骨と皮だけのように痩せ細り死臭すらしたというのですから、それはもの凄い形相であったことでしょう。苦行像の彫刻が残っていますが、あながち誇張ではないでしょう。何しろ命をかけて修行されたのです。現在でもヒマラヤの奥地に入り極寒の中で裸で修行している行者がいます。日本でも千日回峰行に挑み達成した方もおられます。常識からすれば無謀極まりない、すぐにでも中止しなさいと進言するのが普通の考えでしょう。死んで花実が咲くものか、生きていりゃこそ、命あっての物種ではないかと考えるのが常識であり、一般的な良識とされています。

こうして見ると悪魔の言い分はもっともなことです。生きなさい。生きて功徳を積みなさい。この言葉のどこに嘘がありましょうや。現代の常識からすれば至極妥当な考えなのです。これが悪魔の言い方なら、われわれほとんどの人間が悪魔と同じ心をもっていることになります。これを悪魔と呼ぶのならば、われわれは悪魔そのもの、普通の人間は全て悪魔となります。どれほどの修行をしたのかを誇ってみても、ブッダほどの修行をされた方はいなかったとされます。単に苦行といいますが、六年間一度も休ます苦行を続けるというのは、人間業ではありません。千に一つどころか、ほとんど無理でありましょう。そんなことをしたら確実に死にます。そう考えることに何の矛盾もありません。

ところが、ゴータマ菩薩は死ななかった。何故でしょうか。悪魔の予言は外れました。何がこの苦行を続けられる理由であったのでしょうか。そして死魔はなぜ負けたのでしょうか。超常、常識を超えた能力が彼にもともと備わっていたのでしょうか。疑問は尽きませんが、氷点下以下で裸で苦行をしている人の手足の先が驚くほどの熱を帯びているとした実験報告があります。千日回峰行を遂げられた方の回想では水無しで生きていることに何の疑問も無かったといいます。子供のころにガンのため眼球を両方共切除した少年が、まるで目が見えるように動き回り、あらゆるものを感じることができる超感覚の持ち主であることも知られています。世の中には事実として不可思議なことが山ほどあるのです。

朝風呂や 二日になると 思い出す (月路)

年末の疲れがどっときて、昨日元旦は午後6時すぎに寝てしまいました。わずかに昏鐘を聴きながらその後の記憶がありません。起きたのは今朝の4時過ぎ。十時間も寝ていた勘定になります。人間寝れるものです。亡くなられた田里亦無(たざとやくむ)氏のことをふと思い出しておりました。今思えば氏の本を読んだのがきっかけでした。たしか「道元禅入門」という緑色のカバーのやたら難しい本でした。その頃は仏教に関する市販本が少なかったように思います。本屋で見つけて、貪るように読んだのを覚えています。それ以来坐禅に俄然興味をおぼえて、そうです、あの本との出会いによって今があるのかも知れません。氏によれば、布団の中で目覚めたらその場で坐禅すると良いと書かれていました。

これは確かにどこでも毎日坐禅ができます。一日も欠かさずに無理なく続けられます。氏のあとを引き継がれた法人のホームページによれば、坐禅を続けている人は三十万人に一人の割合だそうです。さもあらん。時と場所と状況にこだわるのが主な原因だと思います。朝起きます。顔を洗う前に布団の中で坐禅します。ホテルでもカプセルでも同様です。坐禅堂(僧堂)の中でする坐禅だけが正しいわけではありません。電車に乗っていても、休憩時間にでも、どこでもやろうとすればできるのが坐禅です。四六時中、行住坐臥すべてを坐禅だと思う。それは結構な考えなのですが、言っておきます。続きません。続けることに意味があります。一日も欠かさない。休まない。これがコツといえばコツ。たとえ五分でも、いや五分すれば五分の価値があります。五分間を死ぬ気で真剣に出来ない人は、今日の詩句をじっくり読み直して頂きたい。ここに答えがあります。

あなたが死なないで生きられる見込みは、千に一つの割合だ。きみよ、生きよ。生きたほうがよい。命があってこそ諸々の善行をなすこともできるのだ。