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スッタニパータ626

626 すでにこの世において自己の苦しみの滅びたことを知り、重荷おもにをおろし、とらわれのない、──かれをわたくしは〈バラモン〉と呼ぶ。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
『ダンマパダ』第四〇二詩に同じ。
『ウダーナヴォルガ』三三・二七(岩波文庫『ブッダの感興のことば』二九八頁)参照。
とらわれのない人――visaṃyutta.

以上註記より引用した。

自己の苦しみが滅びるということは、この世において何の憂いもないということであります。つまり「解脱」していることを自覚できる状態と申せましょう。人生は楽しいことばかりではありません。辛いことも悲しいこともあるのが普通であり、何の悩みもない人がいるとは到底思えないことでしょう。

ところが「重荷をおろし、とらわれのない人」になれば、すなわちあらゆる責任ある立場を離れれば、自由になれるわけです。束縛を自ら解き、何にもとらわれないで生きることができます。いわば「無責任」な状態になることは、普通できません。家族や職場あるいは義理人情を大事に思えば、自由など夢のまた夢かもしれません。

「生活費はどうするの?どうやって食べていくの?」こうした思いがあることは、世間では至って健全な考え方ですし、社会人としての基本であります。在家というのは、責任ある立場の人ということです。そして本来の出家者というのは、大変非現実的ではありますが、無責任な立場の人ということになります。反社会的な風に思われることでしょうが、ブッダの本来の教えは「解脱」することにあります。ここらへんを曖昧にしますと、仏教というものが途端にわからなくなってしまいます。単なる倫理・道徳を教えているのではありません。いや、道徳を教えるのであれば、わざわざ仏教と申すまでもなく、道徳で良いのであります。

スッタニパータ536

第三 大いなる章

〈6.サビヤ〉

536 この世において諸々の実践を実行し、有能であって、常に理法を知り、いかなることがらにも執著せず、解脱していて、害しようとする心の存在しない人、──かれは〈行いの具わった人〉である。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

▶行いの具わった人(実践者)とは、何を具えているのか。一般に円満具足といいます。また出家者は具足戒(大戒)を受けた比丘・比丘尼であります。何を充分に具えるのかが、今日のテーマです。まずもって実行です。教えが何のためにあるのかと言えば、それは教えを実践し、教えどおりに実行する以外ありません。それは頭ではわかっていても、何をどのように実践したらよいかわからない人に、釈尊は丁寧に具体的に示されています。ここまで学んでこられた方は、もうご存知でしょうが、念のために申し上げておきますと、具体的には坐禅だけなのです。こんなことを申し上げると、禅宗だからとか、我田引水のように思われるかもしれませんが、ブッダ釈尊は心を説かれたのです。それでご自身は何をされていたかといえば、もっぱら坐禅されていたわけです。心を鍛えるには坐禅だけなのです。具体的な実践は。この坐禅に、戒律の戒も、禅定の禅も、智慧の智も全部入っております。毎日同じように足を組み、手を組んで、ひたすら坐る。毎日この繰り返しなのですが、毎日違います。何をしていても一日中が坐禅であります。坐禅の中身は自分の心の中身であります。大小便のときも、食事を頂くときも、作務に汗を流すときも、買い物にいくときも、車に乗っていても、歩いていても、走っていても、腰掛けているときも、寝ているときも、行住坐臥。ことごとく坐禅のときと同じであります。人と話をしていても坐禅です。わかりやすい表現を使えば自然体ですね。無理がないのです。あっけらかんとしている。腹が立たない。泰然自若。虚心坦懐。何でもいいのですが、とにかく坐るということは、修行そのものであり、これが悟りであります。別にどうってことないのです。実践実行の証拠に過ぎません。有能ということは能が有ると書きます。能というのはあたうという本来の意味があります。われわれ人間にはもともと具わっているものがあります。それが仏性ということです。覚るべくして生まれておるのであります。すなわち覚醒ですね。眠っている仏性(仏種)を呼び覚ますのは、坐禅をするという行動であります。朝早く起きて、皆が寝ている間に、新聞を読んでいる間に、二度寝をしている間に、どこでもいいのです。自宅で、ベッドの上で、部屋の片隅でもいいです。できればお仏壇の前に坐って、線香を一本まっすぐに立てる。これで準備OKです。5分間でもよろしい。ただ坐ってみる。ごちゃごちゃ理屈をこねる前に実行です。誰も見とりゃせんのです。そんな朝早くから。寝る前でもいいです。とにかく一日に5分間だけ。仏になる。五分坐れば五分の立派な仏です。これで仏縁ができます。仏がほっとかん。こんな五月蝿い時代に、こんなにも清々すがすがしく坐っておるというだけで、有能ということです。能無しにならんでいただきたい。実行できる能力を確かに持っておられるわけですから。

常に理法を知れ

宣言しておきます。わたしが認知症になったら、それは坐禅をせなんだという証拠です。別に認知症患者のことを馬鹿にしておる訳ではありません。病気というのは死ぬまでに必ず罹ります。人間だれしも完全では無いということです。気の病というておるのではありません。実際に身体のあちこちが不全になるということです。これは仕方がないことです。また結構なことでもあります。みんな死んでいくのに自分だけいつまでたっても死ななんだら格好がつきません。それぐらいに思っておいて丁度ええのかもしれません。ええですか。理法というのは誰が何をほざこうが、すっくと在るのです。別に誰にへつらうこともしません。常にここに有ります。有時うじというのですが、この世は時で出来ておるのです。まあ、こんなことを申し上げると尚更わけがわからなくなりますから止めておきますが、一寸先は闇です。決してわからない。一寸前ならわかっておるようで、わかっちゃいない。単なる過去の認識に過ぎません。こんな過去に、取るに足らない過去にいつまでグチグチと拘っておるのかという馬鹿さ加減であります。エエカゲンにしなければなりません。今を生きる。この瞬間瞬間に命がある。それ以外には無い。明日は明日でがんばればいいのです。昨日のことは追憶にすぎません。そんなことにかかづらっていたのでは、埒が明きません。今しかない。これが坐禅の真骨頂です。常に理法を知るというのは、この世をなめてかかることではありません。ぎりぎりの瀬戸際であります。真面目しんめんぼくが一番です。わたくしの友は、軽く、坐禅でもしてみませんかと一回だけ、ぎりぎりの推奨をしたのですが、見事に続けて居られます。これには正直頭が下がります。前生因縁としか言いようがありません。生きた観音様であります。何が彼をそうさせたのか皆目見当がつきません。何しろ続けて居られます。

棚作り出来た尻から棚に上げ(月路)

奥さんが、よくご主人に棚を作ってとせがむ時があります。ご主人は、たいてい作り事が好きですから、喜んで普請にかかります。ホームセンターに行き、材料を仕入れて悪戦苦闘。出来栄えを心から喜んでいるのはご主人様です。奥様は涼しい顔です。「割りと速く出来たわね」ねぎらいの言葉と受け止めて、嬉しそうな顔をしているご主人を尻目に、早速出来上がった棚に片付けられない処分できないものが並んでいきます。困ったものです。本来は今までのままでも十分機能している収納箇所がまた一つ増えただけです。と、申し上げながら、わたしも棚を作っております。棚上げにした課題を山と積むために。

この世において諸々の実践を実行し、有能であって、常に理法を知り、いかなることがらにも執著せず、解脱していて、害しようとする心の存在しない人、──かれは〈行いの具わった人〉である。

スッタニパータ532

第三 大いなる章

〈6.サビヤ〉

532 内面的にも外面的にも執著の根源である諸々の束縛を断ち切り、一切の執著の根源である束縛からのがれている人、──そのような人が、まさにその故に〈育ちの良い人〉と呼ばれるのである。」

そこで、遍歴行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに尊師に質問を発した。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

一般に、生れ育ちの良い人というのは出自というか血統や家柄で言うことが多いのは今も昔も変わりません。当時はカーストなどの身分制度が厳格でしたから当然にその線で回答がなされると思われたことでしょう。ところが、ブッダは全く別の観点で理法を説かれました。今回の4つの質問に対する4つの回答のうち、今日のこの詩句はまとめでもあります。繰り返しになりますが、生れ育ち(家)を離れた人が、まさにその故に、生れ育ちの良い人、つまり高貴な人、選ばれし人であると説かれたのであります。

解脱するには

生れ育ちというのは、執著の根源である諸々の束縛ということです。これを象徴してと言っているわけです。外面的な家というのは、環境ということです。認識の対象といってもいいでしょう。内面的というのは感受と認識であります。これは今までさんざん学んできましたから繰り返しません。この束縛を断ち切り、一切の執著の根源である束縛からのがれている人。すなわち解脱した人。出家するというのは、外も内も家という束縛から脱出することであります。執著というとらわれから脱するには、束縛を解くほかにありません。解き脱することから、解脱げだつと呼ばれております。解脱するには執著しないこと。それは束縛を断ち切り、束縛から脱することであると説かれているのであります。束縛からのがれることなくして、執著を離れることはまことに困難であります。まさにここを適確に突いておられます。

一番や花の名所は多けれど(月路)

あっという間に花が散りましたが、ここ西吉野のお寺の桜が一番です。昨日は高田までバーベキュー用のお肉を書いに出かけました。檀家さんの差し入れです。ありがたいことです。道道すっかり散り終わった桜。葉桜となった町々を抜けて、お寺に帰ってきました。吉野は見事でしたが、桜の木の多さからいえば世界一かもしれませんが、ここの枝垂れ桜は満開。我が家が一番。みんなそうでしょう。どこへ出かけていっても、帰ってくるところが一番落ち着きます。まるでお帰りなさいと言わんばかり。ただいま。だれに告げるというより、だれも聞いていませんが、只今。「ただ今」しかありません。お後がよろしいようで。

内面的にも外面的にも執著の根源である諸々の束縛を断ち切り、一切の執著の根源である束縛からのがれている人、──そのような人が、まさにその故に〈育ちの良い人〉と呼ばれるのである。」

 

スッタニパータ530

第三 大いなる章

〈6.サビヤ〉

530 内的には差別的〈妄想とそれにもとづく名称と形態〉とを究め知って、また外的には病いの根源を究め知って、一切の病いの根源である束縛から脱れている人、──そのような人が、まさにその故に〈知りつくした人〉と呼ばれるのである。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
究め知って――このあたりの文章は難解であるため註釈にしたがって解釈した。so ca anuvicca papañcanāmarūpaṃ ajjhattaṃ attano santāne tanhaditthi-mana-bhedaṃ papañcam tappaccayā nāmarūpan ca aniccanupassanādihi anuviditva,na kevalañ ca ajjhattaṃ, bahiddhā ca rogamūlaṃ……anuvicca(Pj.p.431).

以上註記より引用しました。

 この詩句は大変難解であると思われますが、ここが仏教の根幹をなす部分ですから、出来る限りがんばって腹に修めるように致しましょう。このpapañcanāmarūpaṃという原語は、仏教学では「心と身体の妄想」と訳しています。何のこっちゃさっぱりわからんという向きには単に「妄想」でもいいと思います。もっとかんたんに申しますと「観念」ですね。作り事です。頭のなかで認識していることは、そのままズバリではないといっても過言ではありません。普通の人は、自分の経験や体験あるいは本を読んだり映画を観たりして、自分で認識(認知)方法を編み出して来ているわけです。いわばあらゆる出来事を自分に都合のいいように(というかごく自然に)捏造して観ているわけです。認知というのは、認知症ですっかりおなじみになりましたから、説明するまでもないかと思いますが「外界にある対象を知覚した上で、それが何であるかを判断したり解釈したりする過程のこと」です。現代では認知科学の研究がさまざまな学問領域で進められていますが、ブッダは2500年前の大昔にこの認知というものに言及されています。この認知という脳の機能によって、私たちは世界を実感しているのです。手をたたけば、パーンと音がします。これは単純な例ですが、この音を聞いて、また手をたたくのを見て、何を感じるかです。また何を思うかです。唯識につながっていきますが、ここでは深入りせずに、そういうことを研究した人々がいて、その研究結果がきちんと残されているということだけ知っておきましょう。

もう一つ、一切の病いの根源が束縛であるというのは、何を意味しているかということです。人間が生れるということは、すなわち老化が始まるということでもあります。成長も病気も同じ現象です。これを成長と観るか、老化と観るかの違いです。そして病にかかり死んでいきます。生老病死という四苦も人間の成長過程であります。悲しむことでも辛いことでもありません。苦というのは苦しいという感想ではないのです。現実を指した言葉であります。事実として、生きているということは苦であるという認識です。それを生きるということは苦しいとやるものですから、わかったようで、いつまで経ってもわからない。束縛という言葉を聞いても、誰かに縛られているように感じてしまう。これも勘違い。自分が束縛の主体です。自分で自分を観念という鎖・縄で縛っておるようなものです。それを解くのが解脱です。病というのは現象です。あらゆる現象は自分がこころに作った世界であります。たとえばガンに罹ったとしましょう。検査の結果、余命宣告を受けたとしましょう。これは現象です。ところが何年たっても死なない人だっているわけです。宣告どおりの人もいます。もっと速く進行する場合だってあります。そうした現象は誰にも予測できません。しかしながら、ガンと聞いただけで病が病気になります。ガンと闘う。ガンと戦わない。どちらが正解というものではありません。ガンですよ。ああそうですか。これだけなんです。くよくよしたって始まりません。

先日、知り合いの方が壊疽という病気に罹りました。私の伯父も壊疽で足を切断しました。エノケンさんも確か同じような病気だったと記憶しています。こうした病は誰でも罹る可能性があります。聞いただけでも可哀想でたまらない話ですが、放おっておけば命はありませんと医師から云われれば手術する以外に選択は無いように思います。家族や友人の辛さは察するにあまりあります。他人事ではありません。そのときに、自分事としての学びがあります。自分がそうなったらどうするか。これが仏教を学ぶ意義とは申しません。現実の生活の中で、仏教がなければ、仏教ではないのです。生死の中に仏あれば生死なし。仏というのは仏法のことです。仏法は、まさに解脱と涅槃が目的です。ここを学ぶために、これを身にするために、これを心とするものであります。

内に差別、外に病

今日の結論は、仏教というものは結局「解脱」の教えであるということです。差別的(妄想とそれにもとづく名称と形態)と訳された中身は、実物(ほんもの)に適当に名前を付けて、こころの中で勝手に形作って認知しているのが実態である。これは本物からしてみればえらい差別的なあつかいです。失礼にもほどがあるのです。たとえばレンギョウという名の木に人間が勝手に連翹という名を付けて、黄色い可愛い花が咲くから庭木にどうぞと思っているようなものです。このような差別的な(観念)こころが現実世界(実相)を歪めているということが一つ。もう一つは、外に病いの根源である束縛というものがあります。これは自己を取り巻く環境ですが、じつはこれも自分が作った檻のようなものです。その束縛から脱する。解脱ですね。例えていえば会社や組織に身をおいていても、こころは本来自由なのですが少しも自由を感じないとしたら、それは実に自分の外に檻をこしらえているからです。檻でも何でもない実際に無いものを頑丈なコンクリートと鉄で作ってしまったのは誰かということです。つまり有るものを無いとしたり、無いものを有るとしている心を開放しましょう。解脱しなさいということでありましょう。

半月過ぎ銀杏切る日が近づきし(月路)

この19日の水曜日に銀杏の枝を切ることになっています。先月総代会で決まったのですが、それまでにあれもこれもして置かなければならないことが沢山ありました。まだ予定の半分もできていません。なぜ銀杏の枝を切るのかと言えば、秋になるとこの銀杏の葉が落ちて墓地に向う路がイチョウの葉で埋め尽くされてしまうからです。この枝も葉も燃えにくくそれで神社や寺院の傍に植えるらしいのですが、この葉は滑りやすくとても危険ですので、景観はいいのですが、実際に困ったものとされました。銀杏に罪はないのですが、管理上切ることにしました。だれが上に登って切るのか?一番若いもの?どうやら私になりそうですが、和尚はやめておけ。そういう声があるのも確かです。このあいだ、傷害保険に加入してきました。ひとり一ヶ月1,220円。高いのか安いのか知りませんが、死亡保険金300万円です。これは誰にも伝えません。

内的には差別的〈妄想とそれにもとづく名称と形態〉とを究め知って、また外的には病いの根源を究め知って、一切の病いの根源である束縛から脱れている人、──そのような人が、まさにその故に〈知りつくした人〉と呼ばれるのである。

スッタニパータ522

第三 大いなる章

〈6.サビヤ〉

522 世間のうちにあっていかなる罪悪をもつくらず、一切の結び目・束縛を捨て去り、いかなることにもとらわれることなく解脱げだつしている人、──このような人はまさにその故に〈竜〉と呼ばれる。」

そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
罪悪をもつくらず――原文にはāguṃ na karoti とある。これは竜(nāga)という語をna+āga(罪なし)と分けて解して、このような通俗語源解釈を加えているのである。カーヴィヤ以後、後代にはnāgaという語は「象」をも意味するに至った。いずれにもせよ「すぐれた人」を意味する語として用いられた。第四二一、八四五詩参照。

845 竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執して論争してはならない。たとえば汚れから生える、茎に棘のある蓮が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は平安を説く者であって、貪ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。
以上註記より引用しました。

ここで頻繁に出てくる「通俗語源解釈」について少し説明しておきましょう。この「通俗語源」は一般に「民間語源」というもので、もともとの正しい語源が判明していても、誤った説のほうが広く流布していることがあります。これらが民間語源と呼ばれるものです。仏典の解釈や翻訳においても、本来の意味を離れて流布してしまい、それがあたかも真説かのように解釈されている場合に「通俗語源解釈」が加えられていると注釈されるわけです。例えば「言語道断」などがその一例でありましょう。

龍象

八大人覚(はちだいにんがく)の八番目は仏典によって違って伝えられております。正法眼蔵では「不戯論(ふけろん)」を掲げます。偉大な人(大人)の八つの特長をまとめたものを「八大人覚」と申すのでありますが、修行完成者である竜は、何ものにもとらわれず、一切の偏見・妄想を捨てているので、論争をしないのであります。禅宗でも「龍象」と呼ばれる人は、修行完成者を意味します。このように今に伝わった仏教の根本は何も変わっていないのでありますが、いわゆる民間語源解釈のような、表面上の受けとり方によって、やれ「葬式仏教」だの「拝み祈祷」だのといった誤った仏教イメージが形成されたことも確かであります。最近ではスピリチュアルなどという言葉がもてはやされ何やら得体の知れない、わけのわからないものに縋る風潮も見逃せません。原始仏典の方が、いかに科学的かつ論理的であるかが、もう充分に理解されたことと存じます。たとえばお葬式。この式自体は亡くなった方が仏弟子となる得度の儀式であります。人の生死に臨んで、残されたものが無常をさとり、静かに葬送するものであります。最愛の人を最上の儀式で見送る気持ちに時代を超えた慈愛があります。野辺送りといいます。文字通り、村のはずれの里から遠いところまで葬列をつくって送っていきます。もう帰って来ない人を、いつものように玄関先で見送るのではなく、野辺まで送っていくのであります。二度と会えない人との別れの時であります。これは世界中に共通の民間伝承です。なぜでしょうか。無常。変化しないものはないという、常無し。色は匂えど散りぬるを我が世誰そ常ならむ。これは真理ですから、理屈は解らなくとも、感じるのであります。人間ですから。生きものですから。この世での修行を終えた人に供養する。縁のあるものが供養するのは、こころからの感謝と慈愛であります。まさしく修行完成者(竜)に対する尊敬の念であります。

死に顔を間近で拝む無常なり(月路)

お葬式が立て続けに3件ありました。最近の棺桶はお顔の部分の扉が開かれていて透明のビニール板越しに、ご遺体を拝めるようになっています。3件ともご婦人でありました。遺影のお写真とは全く違ったお顔に、ただただお疲れ様でしたとお別れを告げます。南無大悲観世音。さて、今日は雨の中を寺割の集金に檀家さん宅を回ります。雨の日はご在宅が多いのも確かです。皆さん嫌な顔ひとつされずに、ご苦労様といわれます。こちらは仕事のつもりでしたが、最近は仕事とはとても思えません。ご供養をお預かりする大切なつとめです。もちろん修行であります。大慈大悲の観世音。

世間のうちにあっていかなる罪悪をもつくらず、一切の結び目・束縛を捨て去り、いかなることにもとらわれることなく解脱げだつしている人、──このような人はまさにその故に〈竜〉と呼ばれる。」

スッタニパータ500

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

500 生と死とを捨てて余すところなく、あらゆる疑惑を超えた人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

この詩句もまた解脱した人々について説かれたものです。人々ということは複数ですからブッダ釈尊お一人ではありません。解脱して阿羅漢となり涅槃に入った人々もいれば、釈尊の前世のように遷化され菩薩として生きておられる方々もあられます。ここで佛すなわち仏陀となるにはどうしたら成れるのかという疑問が生じます。南伝仏教は釈尊一人が仏陀であるとし、北伝仏教では釈尊以外にも多数の佛がおわすとしています。するとどちらが正しいのかという単純な問題が起こります。見解の相違というだけなのですが、双方とも自己の見解、観念にこだわり決して譲りません。そんな議論をするのは決まって解脱していない人々であります。解脱した人々は議論することがありません。議論の必要がないのです。

生と死とを捨てて余すところなく

生死(しょうじ)を超える。生きることにも死にいくことにも捕らわれていない。これは完全な生であり完全な死である。生を全うし、今生限りの命を終える。また死後を望まない。そうした言葉をどれほど重ねようとも、生死について理論的に説明することは不可能であります。なぜならば今生きている者が死というものを知り得ることは理論上不可能であるからです。当り前です。体験しているのは生だけです。そして死を体験していない。だから半信半疑なのです。いずれ誰もが死ぬことは誰でも知っています。知っているからこそ生死を捨てられない。生死にとらわれる。かんたんに言います。死んだらどうなるんだろうか。死んだら死んだとき。生きておるうちは余計なことを考えない。生死という仏教の一大事因縁であっても、これにこだわらない、とらわれない。あっさりと自己の見解を捨てるということです。佛の家に投げ入れるというのは、人間としての考えや想像、いわば妄想を捨てて、未だ知らぬ佛の命にいだかれることではないでしょうか。

あらゆる疑惑を超えた人々がいる。

全ての疑惑を超える。何の疑問もない。これは何も学ばないことと同じ意味でしょうか。真理を知りたいと望む人々が、真理に触れて、真理を実行することが無意味でしょうか。この辺を明らかにするために『本事経』の一節をご紹介しておきたいと思います。和訳されたものですが、ご存知かもしれませんが、わたし自身たいへん心うたれた一節であります。

「弟子達よ、たとえわが弟子であっても、私の衣の裾をとって後ろに従い、私の足あとを踏んでいても、欲深く心乱れているならば、彼は私から遠く、私も彼から遠い。なぜならば、彼は法を見ておらず、法を見ない者は私を見ない者だからである。しかるに私から百里離れていて、彼が欲を離れ正しい心でいるならば、彼は私の傍にいる者である。なぜならば、彼は法を見、法を見ることによって私を見る者であるからである。」

ここで法とは教えということです。また理法という意味もあります。「教えは何のためにあるかといえば、それは実行するためにある。人が見ておろうが見ていまいが、黙って真理を実行する。疑いのない、わたくしのない、正しい道をまことという。真直ぐということや」宮崎禅師のことばと重なります。真理というものが遠くにあるものではなくて、今ここに勇気が風のように、わたしの背中を押してくださいます。仏法。まことに有り難き縁でございます。

なぜならば生きておるから梅の花(月路)

梅の花は一番先に咲いて一番長く咲いております。息が長い。道元禅師が愛したとされる梅の花。香りもよく、色形もよく、音さえ聞こえてまいります。そうです梅花流詠讃歌。とくに無常御和讃にはいつも泣かされます。ところで今日はスッタニパータ500という節目を迎えました。それがどうしたと言われそうですが、どうしてどうしてこの飽き性のわたしが500日以上も続けたというのは、およそ考えられないことです。異常なことなのです。以上であります。

生と死とを捨てて余すところなく、あらゆる疑惑を超えた人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ496

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

496 この世でもかの世でも、いかなる世界についても、移りかわる生存への妄執の存在しない人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
移りかわる生存――その原語bhavābhāvaはbhavaのreduplicationからつくられた語である。calācala(拙書〈中村元著〉『ヴェーダーンタ哲学の発展』三六二頁)という語と同様である。

以上註記より引用した。

人々は、この世においても、かの世(あの世)においても、そしてその他のいかなる世界においてでも、それはいずれ去らねばならない場所であり、そのような移り変わりの生存の中に生きている。これを一般に輪廻とよぶのでありますが、地獄・餓鬼道・畜生道を三悪道、人間界がこの世、天上界がいわゆるあの世と云われています。後世に人間と畜生との中間に修羅をもうけて六道輪廻とも謂われております。仏典は一般に、このように釈尊が説かれたことを分類整理して人々に解りやすく伝えられたのでありますが、現在ではかえって煩雑になったきらいがあります。ですが原典を繙きながら理解を進めていけば、時代と場所をこえてブッダ釈尊の伝えられた意図が鮮明になってまいります。仏法を学ぶこと(学道)の意義もまたここにあろうかと存じます。

移りかわる生存への妄執の存在しない人々

人は変化を望まない。変化を嫌うものです。そのくせ変化を望んだりする実に不可解な存在であります。これは妄想からきておる。そして執著している。変化に対する妄執とは、生きることについての執著であり、生きることの迷妄であります。迷いながらとらわれている状態です。ここから解き放たれ脱出することを「解脱」と呼んでおります。この句は、じつに解脱した人々の本質を説いておられるのですが、これに気づかない。気付いていても、そんなことを信じようとしない。信じたくない。それも自由です。勝手に思っていればいいのですが、誰もが輪廻に縛られているということは、確かめようがないのですから、それは致し方ないと言えば、それまでです。それでも輪廻は存在している。人間が妄執から完全に離れなければ、とこうなります。解脱できるチャンスはどの世界においてもというわけではありません。じつは人間のときにしか解脱はできないとされています。三悪道はおろか、かの天上界においても解脱はできません。善なれば昇る、悪なれば落ちる。この因果の法則は微塵も違うことはないのです。人間だけに分別があるのではありませんが、この人間界ほど修行の出来る場所はない。人間こそが、喜怒哀楽の中に生きているからこそ、その大いなる悲しみのなかで、全てをさとり、全てを愛し慈しみ、解脱の道を歩むことが出来るのであります。お釈迦様は菩薩のとき天上界におられましたが完全な涅槃のために、人間界に生れ、人々を救いたいと発心され、出家得度し、解脱しさとり(菩提)を開かれ、45年間教えを弘められ、そして最後の生を全うされて涅槃に入られました。そのお釈迦様、ブッダ釈尊の説かれたことが真実であると心から信じられるかどうかであります。

陰暦の二月十五夜満月に(月路)

お釈迦様は陰暦の2月15日に涅槃に入られたといわれていますが、その日は満月であったと伝えられています。まさしく菩提を円満されたわけです。今日はここ立川渡観音堂もとは釈迦堂において、恒例の涅槃会が開かれます。昨日は区の公民館でなんと五斗もの餅を搗きました。涅槃会のときに御供撒きするためです。きょうは四ヶ村が集まっての涅槃会ですから大勢お集まり下さる予定です。お練りといって、公民館から観音堂まで行列するのですが、涅槃会はじめての導師ということで些か緊張いたしております。なお今宵の月は、真夜中の本日24時にちょうど満月になるそうです。

この世でもかの世でも、いかなる世界についても、移りかわる生存への妄執の存在しない人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ492

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

492 一切の結び・縛めから解き放たれ、みずから慎しみ、解脱し、苦しみなく、欲求のない人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

今日は昨日の解説を参照して下さい。前の詩句と同じく「解脱の人」を説かれた類まれな表現です。これ以上簡潔にはできません。一切から解放された人が、自らを慎み解脱しました。それはもう苦しみもなく求めることもない静かな境地であります。「一切の結び」とはいわゆる縁のことです。関係性といってもいいでしょう。また「縛め」とは束縛です。逃れられない義理とか捨てられない人情といってもいいでしょう。これらから解き放たれるというのは、具体的にイメージできないかもしれません。はっきり言います。自分が死ぬことと同じです。生きながら死ぬということです。どこにも属さない、戸籍も、住所も無くなるようなものです。もう何の憂いも無くなる。完全に解放されるのであります。

解脱

解脱というのは完全な死であり、完全な生であります。不死不生。二度と生まれることもなく故にもう二度と死なない。二度と生まれ変わらない。換言すれば解脱できないということは、また縁をもって生れてくる、故にまた愛する人々と別れなければならないということです。これほどの苦しみはありません。最も愛する人、己とも別れなければならない。そういう苦しみです。もうゴメンだと心底思うのであれば、いっそのこと解脱を目指しましょう。今生で解脱できるかどうかは保証できませんが、得度の因縁は必ず成就します。来生には、再来生には、解脱できるかもしれません。夢のような話と思われるかもしれません。それでいいでしょう。自分には関係ない話と思われるかもしれません。それでいいでしょう。生まれ変わりたいと思う人もいます。どんな生まれ変わりかも知らないで。悲しみが好きな人にとっては、悲しみを嫌う人であっても、悲しみを予測できません。人は知らないから予測できないから適当に将来に憧れるのです。もうこれ以上は申しません。

良寛さん最后の言葉は死にとうない(月路)

裏を見せ表を見せて散る紅葉。散る桜残る桜も散る桜。数々の歌や句を残された良寛さんは曹洞宗の僧侶でした。今でも人気のある良寛さんですが、その最后の言葉は「死にとうない」であったと言われております。事実かどうか今となっては確かめようもありませんが、まことに正直な最后の言葉であると思います。それゆえ良寛さんが好きです。お坊さん臭きことが大嫌い。誰だって死にたくはありません。未練とかそういうものではなくて、人々と別れることがつらい。死ぬということは別れることです。もう二度と会えないほど辛いものはありません。死にたくない。最後まで正直な良寛さんのようでありたいと、ふと思いました。

一切の結び・縛めから解き放たれ、みずから慎しみ、解脱し、苦しみなく、欲求のない人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ491

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

491 一切の結び・縛めを断ち、みずから慎しみ、解脱し、苦しみなく、欲求のない人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

つぎの四九二詩とほぼ同じことが二句に亘って説かれます。「一切の結び・縛めを断ち」と「一切の結び・縛めから解き放たれ」の違いだけです。原語ではsabbasaṃyojanabandhanacchidāとsabbasaṃyojanavippamuttāの違いです。では断つと解き放たれではどう違うのかというのが疑問に感じられるかと思います。解脱の様子を述べた重要な箇所ですから、強調の意味ももちろんあります。しかし最も重要な点は釈尊をはじめとする独覚佛陀と佛陀の教えを聞き阿羅漢果に達した者との違いではないでしょうか。

 みずから慎しみ

自ら慎む。自制と同じように、セルフコントロールができており穏やかであるという語感もあります。平安である。心に平和があるということです。平和を環境や他人に求めるのではなくして自らが平安である様子です。眼に映るもの、耳に聞こえるもの、におい香り、寒さ暑さ、身体に感じるもの全てにおいて、さらには内なる意識において、自らの見解や感情にもとらわれることなく、さらりとしている。岩もあり木の根もあれどサラサラとただサラサラと水の流るる。河の流れのようにゆったりと。そのような境地に至る様子です。

解脱し苦しみなく欲求のない人々がいる

解脱すると一切の苦しみがなくなります。解脱すると何も求めることがなくなります。こんなことが果たしてあり得るのでしょうか。この世は一切「苦」につながれています。苦の対義語は「楽」です。「常楽我浄」は「無常」と「苦」「無我」「不浄」の仏教一般の世界観を真逆に述べた言葉として有名です。延命十句観音経に「観世音。南無仏。与仏有因。与仏有縁。仏法僧縁。常楽我浄。朝念観世音。暮念観世音。念念従心起。念念不離心」とあります。すなわち解脱とは常楽我浄になることなのです。こんなことが果たしてあり得るのでしょうか。可能性を否定して不可能だと断定したときに正に不可能となります。可能性を信じ断定することなく実行したときに正に可能です。当然です。現に仏教はそうした解脱した人々によって伝えられ2500年続いてきております。田舎の一見ただの見窄らしい老人が解脱していることもあるのです。信じられないかもしれません。仏教の解説書をしきりに読みながら論説ばかりに眼を奪われ、得意気になっている人には、申し訳ありませんが何時まで経っても解脱のときはまいりません。何か一つでも貫いて実行している人が、この解脱という最上の「楽」に至るのであります。これを「大解脱地」と賞賛するのであります。

皆ともに成ぜんことをこひ願ふ(月路)

普回向(ふえこう)。願以此功徳、普及於一切、我等與衆生、皆倶成佛道。願わくはこの功徳をもって、普く一切におよぼし、我らと衆生と、皆ともに仏道を成ぜんことを。この後に南無釈迦牟尼仏と三辺お唱えして読経を終えます。晩課がこうして終えますと薬石の時間。そして沐浴。夜坐。ようやく一日が終えようとするその時に、もう一度この普回向を心の中で唱えます。今日一日のわが動静が仏作仏行であります。これが功徳であります。この功徳が一切に及びますように。自分が解脱しようとか、悟りを得ようとか、四向四果を目指そうとか、そんなことを考えるよりも、この道を愚直に歩む以外ないと確信する。これが菩薩道。やっぱ日本の仏教は世界一じゃないですかねえ。

一切の結び・縛めを断ち、みずから慎しみ、解脱し、苦しみなく、欲求のない人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

 

スッタニパータ477

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

477  自己によって自己を観じて(それを)認めることなく、こころが等しくしずまり、身体が真直ぐで、みずから安立し、動揺することなく、疑惑のない〈全き人〉(如来)は、お供えの供物を受けるにふさわしい。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
自己を観じて――cf.SN.I,p.116G.「自己を自己なしと見て(drsṭvātmānaṃ nirātmānaṃ)、かれはそのとき解脱する」(中略)。

それを認めることなく――nānupassati.自己を実体としてそこにあると認めることなく、の意であろう。(後略)

以上註記より抜粋して引用した。

自己によって自己を観じて(それを)認めることなく

これは解脱するための最も肝心なところです。たいへん難しい言い回しのようですが、簡潔にまとめられております。自己というものが実体として存在するという前提では、この文章は意味が通じません。ところが自己と思っているのは自我であり感官によって得られた自分自身の姿形や自己認識に過ぎない。すなわち世界のどこにも自己という実体は存在しないとする無我説によれば、かんたんに意味が通じます。そこで後代の仏教一般には無我という概念をひねり出したのです。いわば魂とか精神といった真我というものを否定したのです。ところが、輪廻という概念を持ち出すとどうにも都合が悪くなります。ようするに矛盾するわけですね。そこでこの矛盾を埋めるのに都合のいい論法はないかと、またまた思考を重ねて考え出されたものが非我という概念です。我は無しとするのではなく、我は我なれど我に非ずとしたのです。ああややこしや仏教論。平たく申し上げればそういうことなのですが、これは全き人の悟られた(言葉に出来ない)ことを論理的に解き明かそうとするものですから、行き詰まったり、訳がわからなくなったり、適当に解釈して無理やり納得してきたのです。何度も申し上げているとおり、解脱を言葉で理解しようとしてもそれは無理です。ここはこれ以上、余計なことを考えないで、すなおに「自己によって自己を観じて、それを認めることなく」と受け止めればそれでいいと思います。考えすぎないことです。

こころが等しくしずまり

心が等しく静まる。これもわかりにくい表現です。われわれは通常有ることでは平静でありましても、何かのことでは波風が立っているものです。具体的に申し上げれば、体の健康面では悩むことがなくても金銭的に悩んでいることもあります。また家族のことで心配があったり、漠然とした不安とか、過去の体験による障害であるとか、様々な憂いというものを抱えています。それらの全てがとらわれやこだわりをもとに波打っているものです。それらが全て静かになっている状態をこころの安定とか平安と呼ぶのです。静かな水面をイメージすると良いでしょう。

身体が真直ぐで

身体が真っ直ぐというのは、姿勢を正しているということです。常に身体を捻じ曲げないでいる。一挙手一投足にも常に気をつけている。足を投げ出さない。手を抜かない。そうした所作が身についているということです。真直ぐを形にあらわした姿が坐禅であります。身体の芯が地球の中心に向っている。そうした安定的な様子であります。

みずから安立し

安定して自立していることです。昨日も今日も明日もゆらぎがない。そうした不動の姿勢です。誰から何を言われようが、たとえ蹴飛ばされようともどっしりと安立している様子です。誰かのためとか、自分のためとか、皆のためとか、為を意識していないこともまた安立といえるでしょう。誰かに依存しているところが少しでもあれば、それはもう安立とは呼べません。安らかに立っておれないのですから。

動揺することなく

外的な刺激で動揺しない。これが安立の安全な立場です。揺れ動くところに立たないことも大事です。安定した場所に安定した姿勢で安定した気持ちでいることは誰でもできますが、不安定な場所でも、どのような状況でも動揺しないことは、誰にでもできることではありません。動揺しないことではなく、動揺することがない安定さを保つことが出来るかどうかです。

疑惑のない〈全き人〉

完全なる人(如来)には疑惑がありません。人を疑うことも惑わすこともないのです。もちろん人から疑われるような人ではないのですが、心無い攻撃を受けたことはありました。殺されかけたこともあります。ブッダは殺害されませんでしたが、ブッダの弟子には殺害された人もおられます。それでもブッダには疑惑がありませんでした。こんなことは稀有なことです。ふつう考えられないのです。後ろから棍棒で殴られたシャーリープトラ(舎利佛)尊者は、殴られても平然と前に進んで歩かれたそうです。殴った方が恐れて詫びを入れると、尊者はそうでしたかと全く動揺がありません。疑惑のない人とはそういう人のことです。全き人と凡人の大きな違いがここにあります。

雨が降り風の吹くなか桜植え(月路)

戴いた桜の苗木、といっても樹高3メートルもある桜の木を観音様の後ろに植えました。古いアスナロの木を昨年伐りましたので、その横に今後のセンターツリーとするべく本堂の前に植樹しました。もう一本モミジの木も贈呈くださるとかで、これは玄関前にどうかなと思っています。そういえば紅梅が咲き始め、冬景色に彩りを添えてくれています。一昨日からのお天気と昨日午後からの雨でお寺のまわりの雪もすっかり融けました。春は確実にやってきております。昨日は牡丹鍋も頂いてお腹いっぱいになりました。この桜が咲く頃には、外で花見ができるぞと子供のように一人はしゃぎながらスコップを片付けました。

自己によって自己を観じて(それを)認めることなく、こころが等しくしずまり、身体が真直ぐで、みずから安立し、動揺することなく、疑惑のない〈全き人〉(如来)は、お供えの供物を受けるにふさわしい。