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スッタニパータ475

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

475 あれこれ一切の事物をさとって、それらが除き去られ滅びてしまって存在しないで、平安に帰し、執著を滅ぼしつくして解脱している〈全き人〉(如来)は、お供えの供物を受けるにふさわしい。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

 

あれこれ一切の事物をさとって

一切のものごとを悟るというのは、かんたんなことではありません。それは世界の現象や世間の知識を悉く知り得ているということではありません。どだいそのようなことに何の意味もありませんし不可能なことです。では事物をさとるというのは、どういうことでしょうか。悟るというのは自己の心を解明することでもあります。この不可解なる小宇宙は大宇宙をそのまま小さくしたようなものです。徹底して自らを知り尽くすことが、あれこれと一切の事物をさとることです。

道元禅師の正法眼蔵現成公案の巻に「仏道をならふといふは、自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」とあります。自己を習うというのは己事究明といいまして、己のことをまずは徹底的に明らかにすることです。誰もが一番自分をよく知っていると思っておりますが、人のこと以上に自分を全く知りません。いや知りたくないのです。知ろうともしない。怖いのです。それを勇気をもって知るのです。これはやるかやらないかです。放おっておけば、知らずに自分さえもわからなくなる時が来ますが、しっかり知ってから(結論として)しっかり忘れることです。

それらが除き去られ滅びてしまって存在しないで

「それら」とは「あれこれ一切の事物をさとった」こと自体を指します。自分を知り尽くして得たこと全てです。全てを知って全てを忘れる。何か勿体無いように思いますが、それは知らないからそう言えるのです。知り尽くした時に、全てを捨てたくなります。これは大変に危険なことです。己事究明というのは実に命がけなのです。へたをすると自己嫌悪に苛まれて自ら命を断ってしまうことにもなりかねません。精神に異常をきたしてしまう場合もあります。ですからいいかげんな姿勢でこれを行ってはいけないのです。結跏趺坐して身を正しつつ行うこと。つまり佛の力を借りて、佛に身を預けて、自己を忘れる必要があるのです。

「除き去られ滅びてしまって存在しない」というのは身心脱落ということです。身も心も全てを脱ぎ落とした状態になることです。こころに塵も垢もついていない。解脱の境地ということです。この境涯は言葉では説明できるものではないでしょう。

平安に帰し

解脱をすると心が平安に満たされます。解脱というのは完全な自由ということです。何にも縛られていない囚われていない拘っていない状態です。腹が減ろうが、寒かろうが、暑かろうが、たとえ暴言を吐かれようが、たとえ危害を加えられようが、たとえ殺されようが、理不尽な状況にあっても困難な窮地に立たされようが、全く動揺しないでおれるのです。これが平安ということであって、傍目からみれば平安には決して見えないことでしょう。平安に帰すという何気ないことばであっても、その境地はまことに尊く、また厳しく壮絶なことであります。

執著を滅ぼしつくして解脱している

執著を滅ぼし尽くすことなど出来るはずがないとふつう誰もが思います。それは執著の怖さを知らないからです。とらわれというものがどれほど自己を苛み、自己を苦しめ、他己を傷つけ、他己に拘り、結局は苦の大きな原因となっていることを知らないから、そう思っています。執著と戦いこれを滅ぼすこと。一気には滅ぼせませんが、ひとつひとつ虱潰しに滅ぼしていきます。これは観念ではなく現実的な行動です。己に対する執著を根こそぎ根絶やしにする。これが平安に至る道であり、解脱の行動です。解脱しているというのは常に現在進行形であること。いつも直ぐに執著と戦っている。常在戦場といってもいいでしょう。草むしりのようなものです。毎日しておれば庭はきれいなものです。

お供えの供物を受けるにふさわしい。

お気づきでしょうか?昨日まではお菓子でしたが、今日からは供物(くもつ)に変わりました。なぜならレベルが一段上がったからです。ステップアップです。徐々に修行の内容を高めていっています。ここまで付いてこれた方には、さらに話をしたのです。ブッダは誰に対してもこのような話はされません。本格的に望み、本質的に理解しようとしている人に、同じように見える話を少しずつ角度を変えて、伝えられます。ご自信が悟られた中身を、目の前の人に合せて、溶け込むように伝えておられるのです。融合。言葉は接着剤です。接着剤の目的は離れないことです。教えから離れないよう、融合という手法を用いておられます。ブッダの話か自分のことか区別つかなくなるように、いわば洗脳されていきます。ただし、どこかの宗教のように子供だましのような教育ではありません。真理が語られているのです。この辺の見極めがつかない人が、あっさりと洗脳集団の罠にハマります。ご用心。

雨水なり三寒四温の音がする(月路)

昨日はたしか「雨水」という節気でした。文字通り雪がとけて雨水になりましたが、今日はまた寒くなるという予報でした。確実に春は近づいておりますが、冬が春になるのではありません。冬は冬の位、春は春の位です。そういう位置です。一年を二十四に分けた節気というのはよくできています。第一にわかりやすい。自然の事象をとらえて適確に表現されています。昨年の雨水と今年の雨水では、全然ちがいます。蛇足ですが、わかい頃の音に触れただけで、その違いは鮮明です。

スッタニパータ472

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

472 かれは、生存の汚れも、荒々しいことばも、除き去られ滅びてしまって、存在しない。かれはヴェーダに通じた人であり、あらゆることがらに関して解脱している〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

かれは――ブッダ自身のことです。なぜならば、もはや自己にさえとらわれていない、完全な客観でブッダを説明しているからです。またこれを「私は」とやってしまうと、聞いた人は自慢に聞こえてしまいます。「彼は」というのを「彼の人は」と訳してもよいかと思います。

生存の汚れ――これは文字通り生きていることによって生じるあらゆる汚濁です。煩悩と呼ばれていますが、あまり仏教学的に突っ込まない方がよろしいかと存じます。眼・耳・鼻・口・身体・脳神経などの感官によって感覚が生じ、あらゆる感情をもたらします。これが生存の汚れです。刺激に対する反応ということです。多くは動揺です。

荒々しいことば――言葉遣いが荒い。この逆に言葉遣いが丁寧とか優しいということではありません。悪語、妄言という意味です。乱暴な言葉でもいいでしょう。そういう言葉が彼の人からは完全に消えている。除き去られ滅びてしまっている。存在していない。だから人々の胸に響き、嫌な感じが微塵もないのです。すっと胸に入ってくるのです。

ヴェーダに通じた人――聖典に通じている。これは一バラモンに話した言葉です。直接スンダリカさんに、聖典を信奉しているであろうバラモンに向けて、彼の人はヴェーダ聖典に通底しているということをさらりと伝えたのです。

あらゆることがらに関して解脱している――これが結論です。解脱者であると宣言しているのですが、解脱という観念ではなく、あらゆること、すなわち全知者であると同時に、その知の全てから解き放たれ(開放され)、完全な自由を手にし、輪廻を脱出したと述べておられます。

いみじくも京で逢うたり彼のひとに(月路)

出逢いというのは不思議なものですが、まことによいところで出会うものです。直接のこともあれば間接のときもあります。本や音楽とて出会いでしょう。時間があれば本屋に行くことが好きです。いろいろな本を見て回り、その場で衝動的に買うこともあれば後日ネットで買うこともあります。面白くないことがあったときなどに目に飛び込んでくる情報。それは新聞記事の片隅の言葉であったり、広告の看板であったり、電車の中の人々であったり、行きつけのお店の人であったり、変な意味ではなしに、はっと、ひらめくことがあるものです。助けられます。空也上人の像を見ただけで、空なりと。腹立ちが一瞬に治まりました。

↓人間顔じゃないよね。こだわりなくに、こだわりたい。

かれは、生存の汚れも、荒々しいことばも、除き去られ滅びてしまって、存在しない。かれはヴェーダに通じた人であり、あらゆることがらに関して解脱している〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

スッタニパータ467

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

467 諸々の欲望を捨て、欲にうち勝ってふるまい、生死のはてを知り、平安に帰し、清涼なること湖水のような〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
全き人――tathāgata.漢訳仏典では普通「如来」と訳される。
 
以上註記より引用した。

1,まず内なる欲望を捨てる。

2,つぎに外なる欲に負けない。

3,そして生死を明らかに知る。

4,解脱して心の平安に至る。

清涼な状態にある人。まるで湖水のごとくあられる如来(タターギャタ)。完全なる人。ブッダのことです。そのような人こそが献菓されるに相応しい、供に応ずる(応供)方である。供物を受け取るに値する尊き人であるといいます。ですから私たちは仏様に供物をささげるのであります。

今日からはまた新しい締めの言葉が繰り返されます。「〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。」です。こういう繰り返しを漢字圏では韻を踏むといいます。漢詩などでお馴染みの手法ですが、仏典ではいささか意味が異なります。それは、強調であると同時に共通項ともいえます。この詩でいえば、供物をささげるに値するかどうかが問われているわけですから、順序よくその修行を完成させなさいということを一番教えてあげたい。そういうブッダの優しさがにじみ出ていると思います。

なぜなら世間での商売であれ仕事であれ家事であれ芸術や科学であれ、到達したように見えて、その実、完成に至ることは決してありません。それこそ一生が勉強といえば勉強。修行と言えば修行で終わるわけです。完成ということがないのです。ところが、ブッダの教えときたら完成があるのです。解脱そして涅槃であります。ブッダと同じ状態に成れる。信じられないことのようですが、これは挑戦に値することです。

今から発見したり発明する必要はありません。ブッダのつけた道を愚直に歩むかどうかです。自分にはとても無理と思えば無理です。可能かどうかはやればわかります。難しく考えれば出来ません。やるかどうか。教えられたとおり実行する以外に道はありません。教えに酔うことなく、教えのとおりやっていく。坐禅を毎日していればわかります。していなければいつまでたってもわからない。ただそれだけの話しです。

ただ坐る他にあるなら出してみよ(月路)

一年の計は元旦にあり。では一日の計は?もう坐禅しかないでしょう。一日の計は坐禅にあり。昨日は朝から桜井市の斎場にお葬式で出かけ、帰ってから夕方まで雪除け。遅くまでほとんど明日の法要の準備でした。少々筋肉が痙攣気味ですが、それでも朝の坐禅が一日響いています。ただ坐っているだけですが、一息一息だけなのですが、40分間の静けさは一日中鳴り響いています。うまく言えませんがそんな感じです。

濁りなき心の水にすむ月は波もくだけて光とぞなる(道元禅師)

諸々の欲望を捨て、欲にうち勝ってふるまい、生死のはてを知り、平安に帰し、清涼なること湖水のような〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

スッタニパータ436

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

436 汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執といわれる。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
嫌悪――原文にはaratiとあるが、パーリ原典協会のパーリ語辞典の解釈に従う。註にはadhikusalesu dhammesu arati=abhiratiと解す。

第四の軍隊としての「妄執」(taṇhā)の原語はもともと渇を意味するが、ここでは第三の軍隊を「飢渇」(khuppipāsā)と呼んでいるから、taṇhāと「渇」(pipāsā)とは別の概念である。taṇhāは人間存在の奥にある意識下の、衝動的なものであるが、pipāsāは生理的な概念である。

以上註記より抜粋して引用した。

つぎの詩句では、ものうさ・睡眠、恐怖、疑惑、見せかけ・強情、さらには利得・名声・尊敬・名誉、また自己を褒め讃え他人を軽蔑すること、と続きます。これらはナムチの軍勢であると喝破されるのであります。いかがでしょうか。なにも言えません。人間に巣食う本質にみごとに迫っています。これはブッダが発見されたものではありません。だれにでもある人間性ですし、ブッダ自身のなかに存在していたものです。それを明確にされた。よく勘違いしてしまう態度に、自分はそうではない、人々がそうだという奢りがだれにでもあるものです。その部分が一番大事で、哲学的に本質を見定めることが目的ではありません。現実に、これらの軍勢を打ち破らなければ、解脱など遠い夢のような話で自分には全く関係ないことになってしまいます。

まず今日は、第一から第四の軍勢を肝に銘じておきたいものです。欲望が第一です。全ては欲望に帰一します。全部自己の欲望から派生したものばかりです。だれでも自分が一番大事です。それを一言でいってしまえば、「欲望」なのです。この欲望をしっかり見つめることから始めたいものです。ついで嫌悪。自分が可愛いゆえの嫌悪、人の欠点が見えてしまう、嫌だと思うことです。これについては他人の悪口をいうのが証拠でしょう。胸が痛みます。さらに飢渇。飢えと渇き。腹が減った、喉がかわいた。なんでもないことのようですが、食べ物、飲み物によって自分の身体が出来ています。口にするものが人間を維持しているのですが、これに貪欲であるとどうなるか。結果は歴然としております。少欲知足。足るを知らなければ、大変なことが待っています。ときには断食をすることも必要かもしれません。そして妄執。妄想と執著。この大軍勢は難敵です。この妄執が生え抜きの精鋭部隊ですから、ここまでであっさりと陥落してしまいます。

餅が割れ 鏡開きぞ 何しとる (月路)

正月もはや半ば。時は急流。もろい筏にのって竿をさしておりますと、転覆どころか筏ごとバラバラになってしまいそうです。年末にやり残したことを、まあいいやとそのままにしておいたつけが、いつやってくるかとハラハラしながら目移りばかり。困ったものです。何かに集中していると、これは後でいいや、放おっておこうと思い、事実そのままにしておく。悪い性格が最近もろに出ています。反省と謝罪。どこかの国のようですが、これも欲望ですね。第一の軍勢だけで充分です。わたしを倒すのは。今日はここまで、また明日。

汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執といわれる。

スッタニパータ431

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

431 わたしはその(世間の)善業を求める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

ブッダその人に棲んでいた悪魔ナムチは、人々が求める輪廻を目指すように執拗に勧めたのですが、ブッダは耳を貸そうとはしませんでした。人々が求める輪廻とはいうまでもなく善所に生まれ変わることです。「ええとこに参る」つまり極楽往生というものです。悪道に落ちずに天界に昇るもしくは人間界に戻ってくることを意味しています。ブッダ在世当時にもこうした輪廻思想は既に人々に敷衍しており、釈尊もそれ自体は否定されなかったと言われています。ブッダ釈尊は、その輪廻からの脱出に挑んだわけです。出離から解脱へ、そして涅槃と呼ばれる完全な自由を求めていたのです。

人間であれば、およそ誰も果たしていない未踏の地、それは輪廻という縛りからの開放であります。世界は空であります。実態はあるようで無い。無いようで有る。それは形而上の言葉で表現すれば、眼や耳などの感官によって得られる感覚によってのみ掴んでいる実態のない世界に実感をもって実在しているというようなものです。ああややこしや。そこにあるのは、パソコンやスマホの世界の中のような電子的な世界と同様に、一定の摂理によって世界が構築されており、だれか絶対的な存在が支配しているわけではなく、互いの緻密で綿密かつ膨大な無限ともいえる連鎖、ネットワーク社会の中に生きているということなのです。さらにややこしい話ですが、一言でいえば色即是空。受・想・行・識またかくの如し。

なにはともあれ多くの人は生かされているわけです。それを有難く受け取って、できるだけ善いことをして、輪廻の法則にしたがって生を全うし、心安らかに天上界に生まれ変わりましょうというのが、ナムチくんの誠心的な勧誘であります。こう書くと、非難轟々かもしれませんが、般若心経に書かれている大意は、無と空です。ナムチ君の勧誘に乗っては、またこの辛い輪廻をぐるぐる廻って、時には地獄に落ちたり、時には餓鬼や畜生に身を落としたりしながら、人間のときには喜怒哀楽。天上では極楽気分に浮かれ、ああ知らないよ。そうやって無限の連鎖社会に生きて死んでまた生きて死んでいく。

猿沢や 起きては巡る 輪廻かな (月路)

今朝は奈良のビジネスホテルにて目覚めました。善業の功徳を説くものをナムチとブッダは呼んでいます。仏教の本質は、既存の宗教観にない危険な思想だと思われるかもしれません。ここだけを切り取ったら確かにそうでしょうが、これはあくまでも輪廻からの解脱を求める修行者に対するものです。ここに述べられていることは、偽りのない真実であって、多くの人々にナムチが訪れることはありません。なぜならばナムチが囁くまでもなく、人々はその善業さえ求めようとしないのですから。

わたしはその(世間の)善業を求める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。

スッタニパータ428

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

428 あなたがヴェーダ学生としての清らかな行いをなし、聖火に供物をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる。(苦行に)つとめはげんだところで、何になろうか。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
あなたがヴェーダ学生としての清らかな行いをなし……――ここでは独身の学生として師のもとでヴェーダ聖典を学習する第一の時期と、次に家に帰ってから結婚して家長となり祭祀を司る第二の時期とに言及している。いずれもバラモン教の律法書に規定されていることであり、その規定を守るべきことを、ここで悪魔が勧めているのである。
 
供物――火を燃やして、その中に牛乳、油、粥などをそそいで火神を祭ることをいう。
  
以上註記より引用した。

ナムチは手強い。この詩句で悪魔ナムチが説いているのは、当時のバラモンのあるべき姿そのものです。これは四住期と呼ばれるアーシュラマ(āsrama)の前半の学生期と家住期について述べたものです。現代日本で言えば、神職や僧侶の学校で勉強し、つぎに神社や寺院に戻ってそれぞれの祭祀を勤めなさい、それが多くの功徳を積むことになりますと従来からの規定を守っていくことを強く勧めています。

また、坐禅や様々な苦行に励んだところで、それが何になるのかと常套文句で迫ります。よく言うではありませんか。心のこもった供え物をしてありがたい儀式を行って祈祷しているほうがよほど人々の心の安寧になる。人はそれを聖職者に望んでいるのだから、それが君の仕事なんだから、黙って先輩の言うとおりにしておればいいのだよ、と。お叱りを受けるのを覚悟で、ややひねくれて申し上げておりますが、それが世間の常識であり、修行者からすれば、悪魔ナムチのことばです。

初の付く 言葉に飽きて 三が日 (月路)

自分のために修行(坐禅)をする。これもまた観念であります。ブッダのこころを突き動かしたものは、そういう世間並みの修行ごっこではありません。使命感。これもまた違います。こんな気概では、おそらく六年も七年も一刻もたじろがず修行し続けることなど到底無理であったことでしょう。では何か。これが今日のテーマだと思います。出離あるいは解脱という言葉で説明するほかないのですが、この世のどうでもよいことに囚われている世間と自分、この世のどうでもよいことに拘っている世間と自身に、気がついたのであります。

テレビでもネットでも世間の人々や社会を観ていると、朧気ながらその輪郭が見えてまいります。あまりにも妄想を繰り広げ、執著に執著を繰り返している現状をつぶさに観て、飛び出した。抜け出した。脱出した。では何をしたのかといえば、猛烈な修行だった。解脱したい。純粋にそう願った。シンプルにこの世から脱出したい。それは当時の求道者に共通する目標でありました。現代もそうです。あらゆる観念から逃れて精神世界に身を委ねたいと願う純粋な若者がたくさんいます。なかには、あまりにも純粋に考え過ぎて自ら命を断つ人さえいます。命をも顧みない。そんな純粋な人々がいるのです。

彼らを死なせてはならない。真理というものを知れば、死なないで済みます。彼らの流した涙は七つの海の水よりもはるかに多い。真理を得たい。これは当時においても競争でした。ブッダ在世当時、幾人もの賢者が現われます。その賢者の頂点に立った者、それがブッダその人でありました。超人だと思います。あれから二千五百年。ブッダの教えが続いてきたことがその証拠です。明日は悪魔ナムチの最後通牒であります。ご期待下さい。

あなたがヴェーダ学生としての清らかな行いをなし、聖火に供物をささげてこそ、多くの功徳を積むことができる。(苦行に)つとめはげんだところで、何になろうか。

スッタニパータ373

第二 小なる章

〈13、正しい遍歴〉

373 過去及び未来のものに関して(妄りなる)はからいを超え、極めて清らかな智慧あり、あらゆる変化的生存の領域から解脱しているならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
(妄りなる)はからいを超え――kappAtito(=sabbam pi vA tanhAditthikappam atito.). 西洋の若干の翻訳はkappaを時間(time)と解するが、kappaは「劫」ではあるが時間そのものではないから、「時間」と解する訳は不適当である。

あらゆる変化的生存の領域から――sabbAyatanehi.ブッダゴーサはこれを十二処と解する。(後略)

以上註記より抜粋して引用した。

山に帰ってから昨日は裏山の竹を伐採しました。ジャングルのように蔓や竹草が折り重なり足元が悪く困難を極めました。雨が降ってきたので午前中で終了。午後は近所の親子が時間差で来山、とりとめのない話ばかりでしたが疲れは取れました。

さて、本詩は一言で申し上げるならば「今を生きる」でありましょう。五分前も五分後も現在ではありません。変化的生存への固執が、すなわち昨日があって今日があり明日があるという時系列的な妄想や執著が、心を汚し、心を痛めることになります。そういう計らいを超えて、無駄な時間を過ごさずに今、目の前にある、為すべきことを為す。この瞬間瞬間に生きていくことが明らかな智慧であります。

解脱というと物々しく感じられるかもしれません。しかしながら吾々はすでにジャングルのような雁字搦めになっている過去や未来と称する幻影に怯えているだけなのです。そういう妄想や執著の部分を脱ぎ捨てる。あっさりと呪縛を解き、脱出をする。これが解脱なのですから難しいことは何もないのです。過去の記憶や未来の想像を捨てることではありません。それは頭脳の仕組みであり今を生きるには必要不可欠です。そういうことではなしに、過去や未来にとらわれて、いつまでたっても今を生きない。そういう不自由で不必要な依存からの脱却を説いておられる。これは出来そうにないと思えばそれまでです。訓練によって必ずだれにでも出来る。ただ、やろうとしなければ、それはもう知りません。「縁なき衆生は度し難し」と自らに言い聞かせております。

過去及び未来のものに関して(妄りなる)はからいを超え、極めて清らかな智慧あり、あらゆる変化的生存の領域から解脱しているならば、かれは正しく世の中を遍歴するであろう。

スッタニパータ358

第二 小なる章

〈12、ヴァンギーサ〉

358 先生! カッパ師は執著の根元を見たのです。ああ、カッパ師は、いとも渡りがたい死魔の領域を超えたのです。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
執著――upādāna.

以上註記より引用した。

この節の締めは、解脱した人が涅槃に入ったことをヴァンギーサさんが確信したところで終わります。なぜそう言えるのか。それは「執著の根元」という言葉の意味を考えれば解ります。

執著が始まるのは母胎に宿ったときから。へその緒から無意識に栄養を取り込み、猛スピードで成長していきます。この頃は生きたいなどといった半端な考えは持ちません。赤ちゃんの生命力の強さは、真冬で裸同然で投げ出されようと、崖から転げ落ちようとちょっとやそっとでは死にません。もちろん放おって置かれれば脆い命ではありますが、必死に泣きわめき援助を求めるのです。誰もが愛くるしく、援助せずにはおれない力を最大限に発揮しています。これが人間の執著の根元です。

子供から大人へ変貌しても、この執著は衰えることはありません。知恵がつき図々しくなっていきますが、さまざまな形態をとりながらも、執著はモンスターのように大きくなっていきます。自己への執著は、妄想を限りなく想起し、感情が理性を完全に支配し、理屈で雁字搦めに自己を縛り、人間を化物にしてしまうのであります。執著こそが人間の本質といっても過言ではないでしょう。自分が誰よりも自分を一番愛しているという事実です。

結局この世に生まれたということは、地獄の始まりであります。自分の主張が通らないからといって競売に附される予定の自宅に火を付け、創作爆弾を腹に巻いて自殺した人が周りに重軽傷をはじめ、多大な迷惑をかけていいわけがありません。しかしながら殆どの人々は自分の姿であるとは思っていません。いい年をして馬鹿な人迷惑な話で片付けているのです。自分もいずれ棺桶に入れて頂き火葬場で焼却してもらう身でありながら。

そうしてまた生まれてきます。これが死魔の領域という名の輪回の姿です。目出度い、おめでとうと喜びます。ですが、本当にお目出度いでしょうか。これからの人生をわずかな希望や喜びで騙されながら、健気に生きていくだろう赤ちゃんを見たとき、自分を見るのです。これは世間一般の目からみれば、大変にマイナス思考、暗い考え、虚無主義と思われるに違いありません。ですが、残念ながら事実です。じつに明白な理法なのです。

永遠の命というのは、この世に二度と生まれないことです。不生ということです。そして最後の死を迎えます。二度と死なない。不死ということです。これを涅槃と呼んでいます。輪廻からの解脱。これが修行の完成であり、ブッダになるということ。すなわち成仏です。これは教えられていないと解りません。聞きたくないことかもしれませんが、事実であり理法であります。輪回から解脱した人が死ぬことを般涅槃(はつねはん)と呼ぶのであります。

先生! カッパ師は執著の根元を見たのです。
ああ、カッパ師は、いとも渡りがたい死魔の領域を超えたのです。」

スッタニパータ355

第二 小なる章

〈12、ヴァンギーサ〉

355 師は答えた、「かれはこの世において、名称と形態とに関する妄執を断ち切ったのである。長いあいだ陥っていた黒魔の流れを断ち切ったのである。」五人の修行者の最上者であった尊き師はそのように語られた。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
黒魔――註にしたがって解す。

五人――ブッダがさとりを開いたあとで、ベナレスの郊外の鹿野苑で最初に説法したとき、教えを聞いた五人の修行者。ブッダはかれらにとっての上首であると考えられた。註に引く一説による。
 
以上註記より抜粋して引用した。

世尊は五人の最上者である(bhagavā pañcaseṭṭho.)

まことに翻訳とは難しいもので、上記タイトルの言葉だけをとっても解釈の分かれるところです。一つは五人の中の一人が世尊であるとし、または五人の師が世尊とするものです。有名な初転法輪(世尊がベナレス郊外の鹿野苑で共に修行を行った五人の修行仲間に最初の説法を行ったこと)を指すとの見解が多いと思います。

それはともかく、ブッダ釈尊(世尊)は、ついに答えられます。

かれはこの世において――ヴァンギーサの師であるカッパ尊者は、生きている間に

名称と形態とに関する妄執を断ち切った――ラベルとスキーム、すなわち名付けた言葉と姿かたちでである枠組みに対するあらゆる妄想と執着(渇愛)を断ち切った

長いあいだ――何度も生まれ変わって、生まれる前からと生まれた後の気の遠くなるほどの時間。生と死をくりかえし。

陥っていた黒魔の流れを断ち切った――暗黒(暗闇)の中で、すなわち何も解らないでいたが、ついに光の中に脱出した

渇愛を捨て、無明を克服した。すなわち解脱したということであります。

まことに仏教とは、解脱を目指す道であります。これがブッダ釈尊の智慧であり、慈悲であることは申すまでもありません。生死(しょうじ)を離れて、苦しみからの真の脱出を遂げるのであります。それには毎日の修行しかありません。

師は答えた、「かれはこの世において、名称と形態とに関する妄執を断ち切ったのである。長いあいだ陥っていた黒魔の流れを断ち切ったのである。」五人の修行者の最上者であった尊き師はそのように語られた。

 

スッタニパータ354

第二 小なる章

〈12、ヴァンギーサ〉

354 カッパ師が清らかな行いを行なって達成しようとした目的は、かれにとって空しかったのでしょうか? かれは、消え滅びたのでしょうか? それとも生存の根源を残して安らぎに帰したのでしょうか? かれはどのように解脱したのでしょうか、──わたくしたちはそれを聞きたいのです。」

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
カッパ師――原文にはカッパーヤナ(KappAyana)となっているが、ブッダゴーサに帰せられる註釈によると、「そこでカッパーヤナというのはカッパその人を尊敬して呼んでいるのである」(中略)。ayanaとは「……におもむく道」という意味であるが、それを付けると尊敬を意味するのだという。他の用例があるかどうか、わたくしは知らないが、インドでは人名のあとに「足」(pAda)という語をつけると尊敬を意味するから、それと同じ考えかたであろう。Kappa,apt wayfarer(Hare).KappAyanaという語はパーリ聖典一般の中には出てこない名であり、わずかに本書第三五四頌に一回だけ出てくる(中略)。前後関係から見ると、Nigrodha-Kappaの別名で、両者は同一人を示しているし、マララセーケーラもそのように解している。

ちなみにKappiyaという語は本書にも、またパーリ聖典一般にも出てこない。普通名詞として Kappiya,「時間に支配される」(第五二一頌)、akappiya v.860,「分別を受けることのないもの」、na kappiyo v.914,「はからいをなすことなく」という表現があるが、固有名詞ではない。それらが「分別」のkalpaに由来するか、「劫」のkalpaと関係があるかはなお研究を要する。

(中略)

……安らぎに帰したのでしょうか――原文にはnibbAyi so? Adu sa-upAdi-seso?となっている。(後略)
 
以上註記より抜粋して引用した。

清らかな行いを行なって達成しようとした目的

修行の目的は、解脱であります。

生存の根源を残して安らぎに帰したか

涅槃(ニルバーナ)に至ったのかということであります。二度と母体に宿ることのない不生すなわち不死となったのかどうかであります。四向四果の最上位である阿羅漢果に達したのかという質問であります。生存の根源を残してとありますが、生存の根源を残さずとしたほうが意味が通ずるものと思われます。

解脱し涅槃に入る

生きている間に解脱し、死すときに涅槃に入ることが、仏教ひいては修行の目的であり完成とされています。最も優れた修行の結果といえるでしょう。これをカッパ尊者が成し遂げられたのかを最後に質問して、ブッダ釈尊の言葉を待ったのであります。

カッパ師が清らかな行いを行なって達成しようとした目的は、かれにとって空しかったのでしょうか? かれは、消え滅びたのでしょうか? それとも生存の根源を残して安らぎに帰したのでしょうか? かれはどのように解脱したのでしょうか、──わたくしたちはそれを聞きたいのです。」