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スッタニパータ453

第三 大いなる章

〈3.みごとに説かれたこと〉

453 真実は実に不滅のことばである。これは永遠の理法である。立派な人々は、真実の上に、ためになることの上に、また理法の上に安立しているといわれる。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
類句が『テーラ・ガーター』一二二九に存する。

永遠の理法――dhammo sanantano.

ためになること――attha.漢訳仏典では「義」とか「利」と訳される。或る場合には「道義」と訳してもよい。本当の意味で人のためになることである。

以上註記より引用した。

同じ原典からいくつもの解釈が成り立ちます。いつの時代においても人々は、伝えられた言葉から必死にその真意を探ろうと努力してきました。そのなかには誤って解釈しているものもあれば、自己の信ずる方向へ正しいと信じてかかり誘導するための道具として用いてきた側面もあろうかと存じます。原典や註解書と呼ばれているもの自体が、真理や理法そのものではない可能性も否定できるものではありません。

人は生まれも育ちも皆それぞれに違います。言葉も違えば生まれ育った環境、教育、出会った人々の影響などなど様々な要因によって個性という名の人格を形成しています。それを一律に統御することなど決してできません。このスッタニパータとて金科玉条、最高の真理として崇めるものではありません。宗教や思想あるいは哲学、科学、心理学によって人をコントロールすることは厳に慎まなければなりません。

昨日、書店にてNLP(神経言語プログラミング)に関する書籍を買って読みました。いわゆる自己啓発の本なのですが、こうした本やセミナーに影響を受けて多額の出費を行い、のめり込んでいく人が多いと思います。確たる科学的心理学的な裏付けや、歴史的経緯と時間的蓄積が浅いものに、商業主義的な、もっと端的に申せばほとんど詐欺的な手法によって、マインドコントロールされてしまって、結局は蟻地獄に落ちていくさまが手に取るようにわかりました。言葉の刺激ほど怖いものはありません。

たとえば、わかりやすい例が「プラス思考」という言葉です。この言葉は大変便利らしく、今やあらゆるところで使われています。この言葉に踊らされて本質を見失い、非常に偏った考え方に染まり、妄想を理論づけて拘泥し、その思想に基づかない考えを否定していくのです。完全に洗脳されてしまって、もはや自分が洗脳されていることすら気づかないのであります。

仏教を標榜する諸団体のなかにも、こうしたいかがわしい思想を流布しているものもあります。具体的に列挙すれば膨大な数になるでしょう。これも八万四千の法門に数えるのでしょうか。とりもなおさず、騙されてはいけませんとだけ申し上げておきます。

では何を信ずれば善いかということですが、これはもう自分で判断するしかありません。ですが基本的には常に疑問をもって、あるいは冷めた眼で観ることをお勧めします。近所にとても大きな「十一面観世音菩薩」を祀った観音堂があります。先日お参りして中のご本尊をしげしげと観察させていただきました。文字通り十一ある面のそれぞれに特徴があります。頭上に如来(化仏)、向って右に三面が瞋怒(憤怒)面、正面三面が菩薩面、左三面が狗牙上出面そして真後ろが大笑面なのですが、これはバランスを現しているともいえます。偏らないということです。人々の信仰の対象ですから冒涜するわけにはまいりませんが、お叱りを覚悟で申せば、言葉では言い表せないことを造形で表そうとした先人の智慧であろうと存じます。仏菩薩像とてある種の言語であり言葉であると思います。

人々の 為になるかや 耳すまし (月路)

昨晩久しぶりにジブリアニメ映画の「耳をすませば」をテレビで観ました。懐かしいと同時に主人公の月島雫ちゃんの仕草に淡い初恋の想い出が蘇りました。また彼氏の天沢聖司くんは、ある意味ストーカーで恋の達人というか女たらしではないかとする意見に思わず同調してしまいそうでした。昨今の映画やアニメは、あり得ない奇想天外な物語が多いのですが、たとえば大ヒットした「君の名は」などもそうなのですが、この耳すまは、普通の生活の中での出来事を綴りながらもファンタスティックであることが特長ではないでしょうか。

とまれ、人との出会い体験経験は言うに及ばず、映画にしろ小説にしろ物語や伝承にせよ、実生活の中でそのまま役立つものでなくとも、良し悪しではなく言葉が様々な影響を人に与えます。どこかで見た情景や状況が個性に与える影響は計り知れません。こわいものです。これもまた真実かと考えます。

真実は実に不滅のことばである。これは永遠の理法である。立派な人々は、真実の上に、ためになることの上に、また理法の上に安立しているといわれる。

スッタニパータ446

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

446 (悪魔はいった)、「われは七年間も尊師(ブッダ)に、一歩一歩ごとにつきまとうていた。しかもよく気をつけている正覚者には、つけこむ隙(すき)をみつけることができなかった。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
つけこむ隙――otāra.ṃ.chance;fault(Mayrhofer:PaliGrammatik,Bd.Ⅱ,p.95f.)=randhaṃ vivaraṃ(Pj.p.393).

みつけることができなかった――nādhigacchissaṃ(=nādhigamiṃ.Pjp.393).ただしādhigacchissaという読みを採用すると、'he would have attained'(Mayrhofer:PaliGrammatik,Bd.Ⅱ,p.95f.)となる。

以上註記より引用した。

悪魔ナムチの敗北宣言

ナムチは正直に素直に敗北を認めます。自らの心と行いに常に気をつけているブッダには、悪魔のささやきが通用しませんでした。一歩一歩ごとにつきまとったナムチでしたが、ついに付けこむ隙間がなかったと述懐します。この敗北宣言は、後に神話的に述べられたものとは思えないほどの現実味があります。なぜならば「われは」という主語は文脈としてはもちろん悪魔ナムチのことですが、これはブッダ釈尊自身の回想でもあるからです。かれの内心に悪魔があらわれます。幾度となく甘い言葉が浮かぶのです。だれでも分かるはずです。やめる。怠り。断念。そうした言葉自体が頭に浮かぶのはやむをえません。これが悪魔の正体です。言葉によって、頭に浮かぶ言葉によって人は行為を選択するのです。悪魔の言葉に勝つか、負けるかのいずれかを選ぶことができるのであります。

正覚者ブッダの勝利宣言

私たちの妄想や執著あらゆる観念は、すべて言葉・言語で出来ています。このことは言うまでもないことかもしれません。しかしながら言葉の強さを意識しなければ観念を克服することはできません。どのような言語であれ、言葉は悪魔にも神々にもなります。言葉は凶器どころか悪魔そのものに成り得るのです。また言葉は友であり家族です。自らに励ましを与えてくれ、あるいはいたわり、あるいはなぐさめ、癒やしてくれるのも内なる言葉です。ですから譬喩としての悪魔ではなく、現実に悪魔がつねにつきまとっているわけです。六年間の修行の間はもちろん正覚者となった後の一年も、あわせて七年間を振り返ったときに、いつの時にも悪魔の言葉に動揺することがなかったと釈尊は正直に述べておられるのです。

精励ということの本質

精励、努め励むということは、結局自身の中の言葉で決まります。このことを悪魔との戦いとして表現されています。怠けを悪魔と呼んだのであります。世間一般でもよく魔が差すといいます。悪い行為は悪魔という化け物が勝手にさせたのではありません。悪い言葉の通り行動した結果であります。怠けたのは「怠け」という言葉によって怠けたのです。疲れたとか調子が悪かったというのも全て言い訳です。勝利を得るためには自身の言い訳を許さないことでしょう。朝起きられない。なすべきことを先送りにする。そうした甘えが自身の中にあるときに精励とは程遠い悪魔に敗北した姿、様子となります。

大統領 就任式の 言葉かな (月路)

日本時間の今日未明、合衆国の大統領にトランプさんが就任しました。今日からはトランプ大統領ですね。この就任式の模様をテレビで見ました。政権交代がこのように平和裏に執り行われる風景にあらためて感慨を深くします。世界では戦争を繰り返し、醜い争いどころか殺戮が日常の国や地域がまだまだ沢山あります。演説の内容や支持の割合はともかく無事に就任されたことを素直に賞賛したいと思います。関係者の努力でしょうね。これに尽きると思います。何事もなく無事であることは、努力、精励の賜物。人々に感謝を述べる大統領。言葉はいかようにもなるものです。言葉に気をつけます。

(悪魔はいった)、「われは七年間も尊師(ブッダ)に、一歩一歩ごとにつきまとうていた。しかもよく気をつけている正覚者には、つけこむ隙(すき)をみつけることができなかった。