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スッタニパータ494

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

494 偽りもなく、慢心もなく、貪欲を離れ、わがものとして執することなく、欲望をもたぬ人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
偽りもなく、慢心もなく――第四六九詩、『ダンマパダ』第二〇詩参照。

以上註記より引用した。

ダンマパダ(中村元先生訳)
20 たとえためになることを少ししか語らないにしても、理法にしたがって実践し、情欲と怒りと迷妄とを捨てて、正しく気をつけていて、心が解脱して、執著することの無い人は、修行者の部類に入る。

偽りもなく

嘘をつかない。子供の頃に誰もが「嘘つきは泥棒のはじまり」と教えられたことと思います。では大人になって今までの人生で嘘をついたことのない人というのはどれだけおられるでしょうか。「嘘と坊主の頭だけはゆったことはない」坊主の頭はともかく嘘を言ったことがないと断言できる人は皆無でしょう。自分では嘘をついたつもりはなくても言った言葉が嘘になることもあるからです。明日の午後三時に会いましょうと約束したとします。ところが急な病気や怪我で約束の場所に赴けない場合もあります。これは嘘にならないかといえば実は約束違反ですから嘘になります。本当のことを話さないことが嘘偽りであるとするなら、どのような理由や言い訳があろうとも、残念ながら「偽り」になってしまいます。では未来の約束をするときにはどうしたら良いかと言えば、ブッダは無言で承認の意を伝えました。現在の日本では考えられませんが、現在のインドでもそういう慣習となっています。これは聞いた話ですから実際はどうか分かりませんが、とにかく偽りがないということは並大抵なことではないと同時に、それぐらいに注意するべきだというのが仏教の徹底ぶりなのです。いい加減なことばかり話すのとは大違いです。下手に冗談も言えないのが元来の教えです。

慢心もなく

この慢心もまた誰にでも身についています。驕りです。極端なことをいえば、自我というのが慢心の最たるものです。俺が俺がの我を捨てて、お陰お陰の悔に生きる。私がこうしてあるのは皆さんのお陰ですと口ではいいながら、内心は自分は少しも悪くないと思っている。こう思った途端に全く逆の方向に歩んでいる証拠だと気づけるかどうかであります。我思うゆえに我ありと、この我にとらわれている間は慢心状態が続きます。無我。どこまでいっても我というものは存在しない。自分だと思っている事自体が根本的な勘違い。我もまた我に非ずと達観して、謙虚に生きることができるかどうかです。

貪欲を離れ

最低限の欲は必要です。お腹が空いたら食事をいただけばいいのです。托鉢で頂いたものを有り難くいただく。そこにはもうちょっとというものがありません。足りないと思うこともありません。必要以上に求めることを貪欲といいます。自分のためのものは最低限にしておく。少欲知足。足るを知る。言葉はかんたんですが、実行は難しい。難行中の難行といわれる所以であります。この貪欲を離れることが出来たら修行は道半ばどころではありません。八合目までは軽くいきます。

わがものとして執することなく

執著しないことです。とらわれない。自分の持って生まれた性分だから、好きでやっているので、誰に遠慮があるものか。これが我がものとしてのとらわれであります。しまいには人のものまで欲しくなる。お金がないのに買ってしまう。安請け合いしてしまう。自分の時間を割きたくない。などなど。無執着の状態になればもうあと一歩となります。頂点は近いのですが、ほとんどの人は、ここまでたどり着けません。それほど執著というのは壁が高いのです。絶壁かもしれません。

欲望をもたぬ人々がいる

欲望を持たない人などいません。そう断言できるほど人は誰でも何かしらの欲望をもっています。ところが、ブッダは「欲望を持たぬ人々がいる」と断言されているのです。不可能ではないということです。登山をするように周到な準備をして身体を整え、一歩一歩登っていく。そうすると成長ですね。だんだんと向上していく。麓から頂上までを一気に駆け上がることはありません。千里の道も一歩から。当たり前ですが、頂上を目指すかどうかです。気がつけば頂上にいる。そういう歩みを続ける。欲望を持たなくていいようになるということです。

気をつけて行ってらっしゃい道しるべ(月路)

所々に道標があって「京まで十里」とか書かれていたりします。この道標というのはよく出来ていて四角い柱の面の方向に矢印で方角まで示してあります。お経というのもこの道標みたいなものかもしれません。行くべき道の方向をちゃんと書いてあります。ところが気をつけていないと、それこそ「お題目、空念仏」になってしまってはあまりに申し訳がありません。毎日毎日こうやってスッタニパータを一句ずつ辿りながら、同じようなことを何遍も読んでいるような気がして、いいかげん飽きてきて、こんなこと何か意味があるのかなあ、と考えでもしたら、簡単に言えば止めてしまうことになります。止めるのはいつでもできますが、意地でも最後までやってやろう。こうした野望を抱いております。これもまた縁ですよ。縁。

偽りもなく、慢心もなく、貪欲を離れ、わがものとして執することなく、欲望をもたぬ人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ493

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

493 貪欲と嫌悪と迷妄とを捨てて、煩悩の汚れを減しつくし、清らかな行いを修めている人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

後世に貪瞋癡(とんじんち)の三毒と呼ばれることになる貪欲と嫌悪と迷妄とを捨てることが、煩悩の汚れ、すなわち迷いをなくす道(方法)であり、清らかな修行であると説かれております。この三毒はいずれも強力な毒です。人を殺傷することにつけてはサリンやVXに勝るとも劣らぬ力を秘めています。それは全ての人類が保有しており、それどころか人類の破滅にも至る猛毒中の猛毒です。先日の金正日氏の暗殺一つとってみても、権力の保持という貪欲と、権力に逆らう者への嫌悪と、権力の過信という迷妄に冒された暴挙であることは論を待たないでしょう。しかしこれは他人事ではありません。誰もがそうした毒を少なからずもっています。貪欲と嫌悪と迷妄。この三つのキーワードに当てはめれば、人々の言動が明瞭となります。ブッダ釈尊の透徹した眼は、この三毒を見逃すことなく鮮明に分類整理されたのです。

修行の中身

文字面をいくら研究しようが、仏典の解説を読み解こうが、実際に修行の中身であるところの本質を身体で理解していなければ、それは単なる知識で終ります。後世の仏教はあまりにも煩雑な理論のジャングルを育て上げ、知覚できないまでの膨大な仏教学を打ち立てました。そこに仏教徒はいません。さしずめ仏教学徒と申しておきましょう。理論や論説の中身を知ろうとせずに論法や技法に陶酔しているとしか思えない学徒たちが沢山います。呆れるほどです。皮肉を申し上げているのではありません。三毒を知っていたとしても、まさか自分の中にこの三毒が回っていることに気づかないでいたら取り返しがつきませんよ、と申し上げたいのです。これは特に自分に言い聞かせています。自己と他己のためにならない学問なら意味はありません。三毒に気づくための、またその解毒のための、一番効果的な修行は何であるか。何をすればこの三毒を捨てられるか。これを自分自身で決めておく。そして愚直に実行する。いわば修行の中身をどうするかが一番大事なことです。でなければブッダ釈尊一代の言説は自分にとって表面上のものになりかねません。教えを皮や肉を味わって終えるか、骨の髄までしゃぶるかであります。骨髄を得る。これは決して皮肉で申し上げてはおりません。ここが肝なのです。

春の雪淡く重たく伸し掛る(月路)

冬に逆戻りとまではいきませんが、ここ敦賀では雪が30センチも積もりました。朝起きてびっくり。昼過ぎにはずいぶん融けてやはり三月の雪だなあと感慨しきりです。昨日は市内の檀家さんに配り物をポスティングしておりました。狭い道路は除雪していなくてあちこちで立ち往生。おそらくノーマルタイヤに履き替えておられたんでしょうね。ここは不精の勝利でした。さて早木曜日です。明日は奈良に戻りますが、それまでにして置かなければならないことは、塔婆書と議事録。確定申告は来週住所移転後に奈良で行います。これ、このブログ、わたしの日記でもあります。悪しからず。

貪欲と嫌悪と迷妄とを捨てて、煩悩の汚れを減しつくし、清らかな行いを修めている人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ469

第三 大いなる章

〈4.スンダリカ・バーラドヴァージャ〉

469  偽りもなく、慢心もなく、貪欲を離れ、わがものとして執著することなく、欲望をもたず、怒りを除き、こころ静まり、憂いの垢を捨て去ったバラモンである〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
偽りもなく、慢心もなく……――第四九四詩に同じ。ここに数え立てられている煩悩はジャイナ教のそれと合致し、後代の小乗仏教の体系からは離れている。ジャイナ教では古来主な煩悩を怒り(koha=krodha)、慢(māṇa=māna)、いつわり(māyā)、貪り(lobha)を挙げるのが通例である(中略)。そうしてこの一組みは後代の文献にも継承されている(中略)。この四つは汚濁(煩悩 kasāya)と呼ばれている。修行者はこの四つを断じなければならないのである。なお第三二八詩参照。

以上註記より抜粋して引用した。

ではどうしたらこのように澄んだな水のような心に成れるのでしょうか。ここが今日のポイント(ブッダの声の透徹したところ)かと思います。後代に三毒と呼ばれまとめられることになる「貪瞋痴(とんじんち)」すなわち「貪り、怒り、愚かさ」は心の毒のようなものであると考えると、それはいつまで経っても消すことが出来ない煩悩ということになってしまいます。すなわち何かにすがって消してもらいたいと願う信仰に結びつき祈願に向うのです。

そうではなくして「わがものとして執著することなく」と述べられているように、我執に気づくことが基本です。我がものと思うからこそ、また自分というものにとらわれているからこそ全ての煩悩が生じるのであります。全ては空であると思い知ること。これが核です。本来は何も無い。五官によって感覚が生れ、自己中心的にものごとを捉えてしまっているのが現実です。あるがままを見ていないということです。自分勝手に悩んだり苦しんでいる、全ての原因です。この原因となっている考え方をあっさり手放してしまうことです。

そうしないと我執によって「怒り、慢、いつわり、貪り」の四つを断じることは永遠に為しえません。なぜ怒るのか腹が立つのか。なぜ驕り高ぶりが生じるのか。なぜ嘘をついたり騙してしまったりするのか。なぜに欲望が次から次へと生まれるのか。それは汚れて濁った水(汚濁水)だと分かってはいても、自分ではどうしようもできない。人間なんだから。そういう結論で片付けてしまいます。しかもその方がずっと楽ですし慰めになると本気で思っています。腹が立つのは全部人のせい、世の中のせい、だから戦わなければならないと真剣に憤っている。愚の骨頂です。

取り組むべきは空を知ることです。この世の現実は空であります。空を完全に自分のものにしたとき、一気に「偽りも、慢心も、貪欲も、欲望も、怒りも」全てが無くなります。そうした心が生じなくなります。生じませんから消す必要もありません。「心が静まり憂いという垢」も生じない澄み切った水のようになるのです。何を見ても何を言われても、たとえ棒で頭を叩かれようが鞭打たれようとも、穏やかな顔でおられるのです。腹が立たない。動じない。これが解脱の姿であります。蛇が皮を脱いでしまうようなもの。脱皮であり脱出です。自己からの解脱。無我ということです。

キリストも釈迦牟尼仏と成給う(月路)

昨日久しぶりに「ベン・ハー」を観ました。十字架を背負って丘に向って歩くキリストをローマの兵士が鞭打ちます。よろけながらも、地に倒れても、血だらけになって傷つきながらも、そのお顔は穏やかで澄んだ瞳をされていました。映画ではその顔を映し出しませんが、人々は驚くのです。そして悲しみます。ところがキリストは磔刑のまさに命終えんとするとき、静かに述べます。「父なる神よ、人々を許し給え。彼らは罪を知らないのです」と。

かれもまた人として生れた神であります。そしてわたしは「キリスト様もブッダである」とさえ思えました。数々の逸話はともかくも、わたくしというものが無い。超越とは超のつく能力なんかではありません。正に乗り超えたのです。人々の苦しみの原因がほんとうにわかっていたのです。それは空(くう)を知ったことに他ならないと思います。罪と表現しようが煩悩と呼ぼうが、それは文字の差程度のものです。言葉では表現できない「あるがまま」が空そのものであります。

偽りもなく、慢心もなく、貪欲を離れ、わがものとして執著することなく、欲望をもたず、怒りを除き、こころ静まり、憂いの垢を捨て去ったバラモンである〈全き人〉(如来)は、お供えの菓子を受けるにふさわしい。

スッタニパータ173

第一 蛇の章

<9、雪山に住む者>

173 「この世において誰が激流を渡るのでしょうか? この世において誰が大海を渡るのでしょうか? 支えなくよるべのない深い海に入って、誰が沈まないのでしょうか?」

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
激流――迷いの輪廻の生存を激流または海に譬えるのである。

大海――前註に同じ。「大海」(annava)という場合には、インド人は洪水によって出現した大海原を考えていたと思われる。中部インドの人々は海洋(ocean)を知らなかった。以上註より引用。

ここでいきなり激流と出てまいりましたが、なぜ激流かといえば、迷いの海、しがらみの森といった比喩で説明してきた「貪欲」から抜けだし離れることは並大抵のことではないからです。それこそ川でいえば激流、海でいえば荒波の中を乗り越えていくほどの大変な覚悟を必要とするからです。ですからそのような激流に誰が好き好んで挑戦するものかと問いかけているのであります。およそこの世の中でそんな無茶をしなくても、平凡に生きていけばいいじゃないか、無理をすることはないじゃないか、保証のない暗く深い海、すなわち訳のわからない危なっかしい道なぞ誰が歩むものですか、みすみす沈むと解っているようなものではないか等々、それはそれは心配の種をどんどん蒔いて、ブッダに問いかけるのであります。まるでその情景が目に浮かぶようなシーンであります。この説話のクライマックスと申し上げてもいいでしょう。

この神霊の問いかけは、ずばり一般人の言葉や素直な気持ちを代弁しているように感じます。誰だって怖いのです。覚悟するということは並大抵なことではないのです。何の担保のないものに身を預けることなど、まさしく思いもよらぬことではあります。

それほど口で言うのは簡単ですか、貪欲を離れるということ、しがらみの森、迷いの海からの脱出は難しいものがあり、無理すること、波風を立てることはないではないかというのが平穏無事を望む多くの人々の言い分であり、現状維持派の正論でありましょう。

「この世において誰が激流を渡るのでしょうか? この世において誰が大海を渡るのでしょうか? 支えなくよるべのない深い海に入って、誰が沈まないのでしょうか?」

スッタニパータ171

第一 蛇の章

<9、雪山に住む者>

171 「世間には五種の欲望の対象があり、意(の対象)が第六であると説き示されている。それらに対する貪欲を離れたならば、すなわち苦しみから解き放たれる。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

五種の欲望の対象――その原文はpanca kamagunaである。gunaという語は、サンスクリット語文献では一般に徳(Tugend,virtue)の意味に用いられる。サーンキャ哲学では、これを物質的自然の三つの根本的構成要素(三徳)を称する名称となっている。ところが、原始ジャイナ教聖典の古い箇所ではこの語を「感官の対象」という意味に用いる。Ratnacandra編『アルダマーガディー辞書』631頁gunaの項によると、この語をsabda,rupa,rasaなど、感官の対象(indriyavisaya)の意味に用いるのはアーヤーランガ特有の用例であり、そのほかには殆んどあらわれない。しかも第一編のガーターのうちにのみ存する。

また叙事詩においても五種の感覚器官を通じて享受される五種の対象をgunaと呼んでいる。もちろん叙事詩(特にMoksadharma)においてgunaがサーンキヤ的な意味に用いられていることも、しばしばあるが、ジャイナ教と共通の用法も存するのである。

ところで、原始仏教聖典においても、ガーターの部分においては、gunaという語を感官の対象の意味に用いている。例えば色、香、味、触(phottabba)の五つをkamagunaと呼んでいる(kamaguna nam’ete ariyassa vinaye vuccati)。また散文の部分にも実例が存する。(中略)これらに対応する漢訳を見ると、「五色」と訳してあることもある(『雑阿含経』二八巻、大正蔵、二巻、199頁上)。また直訳して「五色功徳」(同上箇所、『中阿含経』第四九巻、大正蔵、一巻、739頁中)と訳していることもあるが、直訳にすぎて意味が通じない。玄奘は「世妙境」と訳しているが(『法蘊足論』六巻、大正蔵、二六巻、482頁中、『倶舎論』第八巻、大正蔵、二九巻、41頁下)、これはけだし適訳というべきである。

このようにジャイナ教の古いガーター(偈頌)並びに叙事詩と仏教の古いガーターとにおけるgunaの用例が一致しているが、このような用例は後世の仏典及びジャイナ教聖典からは消失した。

貪欲――chanda.これを離れることを説いているのである。以上註より抜粋

「感覚によって求めるこれら六つ」を貪り欲する、すなわち貪欲を離れることに尽きるわけです。この貪欲(とんよく)を煩悩(ぼんのう)と言い換えても同じであります。金銭欲も愛欲も子煩悩もおよそ自分が求めているものの外観かもしれません。これらを手放し、貪欲の海から抜け出し、しがらみの森から離れることが、出離であるとされています。

「世間には五種の欲望の対象があり、意(の対象)が第六であると説き示されている。それらに対する貪欲を離れたならば、すなわち苦しみから解き放たれる。