タグ別アーカイブ: 賤しい人

スッタニパータ142

第一 蛇の章

<7、賤しい人>

142 生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのでもない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。」

このように説かれたときに、火に事(つか)えるバラモン・バーラドヴァージャは、師にいった、
「すばらしいことです。ゴータマ(ブッダ)さま。すばらしいことです、ゴータマさま。あたかも倒れた者を起こすように、覆われたものを開くように、方角に迷った者に道を示すように、あるいは『眼ある人々は色を見るであろう』といって暗夜に灯火をかかげるように、ゴータマさまは種々のしかたで法を明らかにされました。ですから、わたくしは、ゴータマさまに帰依したてまつる。また真理と修行僧のつどいに帰依したてまつる。ゴータマさまは、わたくしを在俗信者として受けいれてください。今日以後命の続く限り帰依いたします。」

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
ですから――esaham.esaという指示代名詞は、他の代名詞の前では、理由を示す。
ここでは仏・法・僧の三宝が明示されている。ここのような散文の部分は、〈三宝〉の観念の成立したのちに著わされたにちがいない。以上註より

散文の前の第142詩は、第136詩と全く同じ文章です。後世の仏教徒もこの詩は重要であると散文の前にもう一度もってきたのではないかと存じます。あくまで推測ですが、最初期においての帰依は仏陀のみであったろうと思います。仏陀の説かれた教えは後に仏法と呼ばれることになるのですが、またブッダの開かれた道を歩む人々たちの集いを僧伽(そうぎゃ=サンガ)と呼んでいるのですが、三宝への帰依は後世のことであり、ブッダの在世中はゴータマ・ブッダ(釈尊)への帰依であったろうことは想像に難くありません。わたしたちは正しくブッダによって教えを聞いたのであります。その大恩を忘れることができないのであります。南無(帰依)佛。

生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのでもない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。

スッタニパータ141

第一 蛇の章

<7、賤しい人>

141 そうすれば、現世においては非難せられ、来世においては悪いところに生まれる。(身分の高い)生れも、かれらが悪いところに生まれまた非難されるのを防ぐことはできない。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
悪いところ――duggati.漢訳では「悪趣」「悪道」と訳す。普通は「地獄」「餓鬼」「畜生」の三つをいい、後には、そのほかに「修羅」を数えることもある。以上註より抜粋して引用

現世(今生)では社会から非難され、来世には悪道に生まれる。このことは、真理としてどうしようもないと嘆いておられるのです。真理を真如とか仏法とか申しますが、簡単に言えば当然至極のことです。輪廻を肯定せざるを得ないのは、この世が因果応報の理法に貫かれた世界であり、報いを得ないことがあっては理法が理法でなくなるわけです。理法を摂理と言い換えても同じです。悪道の説明は後世に様々に解説されていますが、一言で言えば「地獄」です。この世にも地獄はたくさんあります。平気で地獄をみたなどと言いますが、かんたんにいいます。生まれ変わっても地獄です、大抵は。だからこそ生きているうちに極力善きことをするべきなのです。ひょっとしたら良きところへ赴くことができるかもしれません。それほど一般的な人間は業が深いのです。それこそ救いようがないほどです。他人事ではありません。我が事でありますし、貴方のことかもしれません。

そうすれば、現世においては非難せられ、来世においては悪いところに生まれる。(身分の高い)生れも、かれらが悪いところに生まれまた非難されるのを防ぐことはできない。

スッタニパータ140

第一 蛇の章

<7、賤しい人>

140 ヴェーダ読誦者の家に生まれ、ヴェーダの文句に親しむバラモンたちも、しばしば悪い行為を行なっているのが見られる。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

この詩句には解説がありません。まさしく解説不要でしょう。ヴェーダ読誦者の家というのは、最上級のバラモン階級の家柄です。日本でいえば公家・貴族といったところでしょうか。ヴェーダの文句というのはヴェーダ聖典のことです。昔から伝わった神々の言葉といってよいでしょう。バラモンの家に生まれたバラモンがヴェーダを読誦していても、しばしば悪いことをしているというのです。

つぎの詩句ではそのバラモンが死んでどこに生まれるかということをリアルに説いています。これは例え話で道徳を説いているようなレベルではありません。究極の悟りを開かれたブッダの言葉であります。実際に人間は生まれ変わること、すなわち輪廻転生を明確に肯定しています。輪廻転生という前提があって、普通は普通の人間は生まれ変わるが、そこから悟りを得て、蛇が脱皮するように、輪廻から解脱しなさいというのがブッダの教えです。善因善果、悪因悪果は当り前なのです。

ヴェーダ読誦者の家に生まれ、ヴェーダの文句に親しむバラモンたちも、しばしば悪い行為を行なっているのが見られる。

スッタニパータ139

第一 蛇の章

<7、賤しい人>

139 かれは神々の道、塵汚れを離れた大道を登って、欲情を離れて、ブラフマン(梵天)の世界に赴いた。(賤しい)生まれも、かれがブラフマンの世界に生まれることを妨げなかった。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

神々の道――devayana.神々の道とは、『リグ・ヴェーダ』では神々が天界から祭場へ往来する路、或いは死者の霊が神々のもとへ赴く路を意味したが、ウパニシャッドになると、ブラフマンの明知を得た個我が身体を脱出してのち、火葬の炎とともに上昇し、日、月の盈ちつつある半カ月、太陽の北行する六ヶ月、歳、風、太陽、月、電光、ヴェルナ神の世界を経てブラフマンの世界に達する。そのブラフマンの世界に到達したならば、人はもはやこの世に帰来することがない。これが人間の理想であり、解脱に相当するものであると考えていた。この思想はヴェーダーンタ学派及び叙事詩にも継承されている。ところで仏教はウパニシャッド以来のこの思想をいちおう承認し、それを道徳的精神的な意味に転化したのである。なお原始仏教聖典では「神々の道」に相当するものを「ブラフマンへの道」(brahmayana)としるしていることもある。以上註より抜粋して引用しました。

ここで重要なことは、生まれによる差別なく、善きことをした者(この例ではマータンガ)は、神々の世界へ生まれ変わったというブッダの言明であります。ブッダは決して死後の世界を否定していません。むしろ積極的に現実感を持って、ブラフマン(梵天)を肯定しています。行為の善悪をはっきり説いてその結果を明示しているのです。

かれは神々の道、塵汚れを離れた大道を登って、欲情を離れて、ブラフマン(梵天)の世界に赴いた。(賤しい)生まれも、かれがブラフマンの世界に生まれることを妨げなかった。

スッタニパータ138

第一 蛇の章

<7、賤しい人>

138 かれマータンガはまことに得がたい最上の名誉を得た。多くの王族やバラモンたちはかれのところに来て奉仕した。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
マータンガは当時の社会制度では最下の賤民であったが、徳性がすぐれていたために、人々から尊敬されたのである。と註にありました。

彼が何を為したのかは、次の詩句でも詳細には述べられておりませんが、とにかく人々は彼を賞賛したのであります。

徳性が優れているとは、生まれや育ちではなく、その人が徳分として遺伝子とかDNAなどと呼ばれる持って生まれた素晴らしい才能とか努力を惜しまないなどの性格、性分といったほうが良いかもしれませんが、なにしろそうした気概をもっていた、いいかえれば志をもっていた、まことの人であったろうことは想像に難くありません。かく、ありたいものです。人間至る処青山あり、今からでも決して遅くありません。

かれマータンガはまことに得がたい最上の名誉を得た。多くの王族やバラモンたちはかれのところに来て奉仕した。

スッタニパータ137

第一 蛇の章

<7、賤しい人>

137わたくしは次にこの実例を示すが、これによってわが説示を知れ。チャンダーラ族の子で犬殺しのマータンガという人は、世に知られて令名の高い人であった。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
これによってーーamina.aminaはiminaのKontaminationである。両者はそれぞれInst.sg.m.oder n.von ayam bzw.asuである。そうしてaminaはdurch diesesまたはhierdurchの意味である。詩の中ではamina pi jana thaという語形が出てくる。例えばSn.136;Itiv.89,1.それを訳すとDas erkennet auch hierdurchとなる。tadは或いは副詞的に用いられているとも解し得るであろう。以上註より抜粋して引用。

これからの詩句は、行為によってその人の価値が決まるという実例が示されます。生まれによる偏見、固定観念を捨てて、その人が行ったことを静かに見てまいりましょう。

 

スッタニパータ136

第一 蛇の章

<7、賤しい人>

136 生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

行為によってバラモンともなる――ジャイナ教でも同様のことをいう。と註にありました。

この詩句は、スッタニパータを代表する詩句と申し上げてもよいでしょう。それほど有名な言葉でありますし、またブッダの言葉ブッダの生の声が聞こえるようであります。簡潔な言葉の中に仏教の価値、仏教の本質が見事に表現されております。

われわれはややもすると、誰が言ったのか、誰の著作か、だれの言葉かといった出典というか出所を問いただします。どこの誰だ有名な人か著名であるか、いわばブランドを気にいたします。これはこれで重要なことなのですが、何を為しているか、実績はどうなのかということをを過度に気にして、もっとはっきりいえば自分のことは棚に上げて、まるで評論家のように人の言葉なり行動を論じていることが多いものです。かく申している私どもが陥りやすい盲点であります。

賤しい人を指差しながら自己を振り返る。はたして自分の行為はどうなのか。「人の振り見て我が振り直せ」とは、誰の言葉であろうと、素晴らしい言葉であります。

生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。

スッタニパータ135

第一 蛇の章

<7、賤しい人>

135 実際は尊敬さるべき人ではないのに尊敬さるべき人(聖者)であると自称し、梵天を含む世界の盗賊である人、──かれこそ実に最下の賤しい人である。
わたしがそなたたちに説き示したこれらの人々は、実に〈賤しい人〉と呼ばれる。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
尊敬さるべき人(聖者)──araha-
盗賊──原語はパーリ語coraである。尊敬されるに値しない人が尊敬を受けているのは、盗人だというのである。実に厳しい教えである。と註にありました。

最下、最低の賤しい人の登場です。自分がブッダだと公言して憚らない人もおります。梵天(創造神)を含む世界の盗賊、盗人猛々しいにも程がある見本中の見本。その他にもよくぞこんな人々に軽く騙されて、信者としてお参りしているなと、ほんとうに気の毒な囚われの人々を沢山みてまいりました。実際は尊敬に値しない人なのですよ、神や仏の偶像を操って人々を翻弄している自称聖者さんの正邪を見極めましょうと、そんな人について行ったら、この世でさえ地獄のような路が待っていますよ、と声を大にして警告したいと存じます。今までの賤しい人はせいぜいそれでも破滅の門程度です。ところがこの最下の賤しい人は、破滅そのもの、後代の仏教では、これを地獄と呼びました。その地獄への直行便が本日の詩句のテーマです。

実際は尊敬さるべき人ではないのに尊敬さるべき人(聖者)であると自称し、梵天を含む世界の盗賊である人、──かれこそ実に最下の賤しい人である。
わたしがそなたたちに説き示したこれらの人々は、実に〈賤しい人〉と呼ばれる。

スッタニパータ134

第一 蛇の章

<7、賤しい人>

134 目ざめた人(ブッダ)をそしり、或いは出家・在家のその弟子(仏弟子)をそしる人、──かれを賤しい人であると知れ。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

ここで「目ざめた人」buddhaは単数で示されている。この詩がつくられたころには、ようやく(当時としては)ただ一人であるブッダの権威が漸く確立したのであろう。
仏弟子──
仏弟子は、出家者と在家者と両者を含んでいた。ゴータマ・ブッダに帰依する人々は、古くはすべて弟子(sa-vaka)と呼ばれていた。その原義は、恐らく「教えを聞く人」という意味であったらしい。ゴータマの弟子のことを「仏弟子」Buddha-savaka、「仏の弟子」Buddhassa savaka、「等正覚者の弟子」samma-sambuddha-savaka、「ゴータマの弟子」Gotama-savakaなどともいう。「教えを聞く人」savakaというときは、出家修行者を意味することもあったが、また在俗信者を意味することもあった。原始仏教聖典の古層においては在俗信者のことを「教えを聞く人」savakaと呼ぶことが非常に多い。これはジャイナ教における用例に一致するものであり、古い時代にはジャイナ教でも「教えを聞く人」savakaとは在家者(gihin)を意味するものであった。ジャイナ教では在家の弟子をsavakaと呼ぶことは、仏典でも記されているが、それが仏教にもとり入れられたのである。また「立派な弟子」ariyasavakaという場合には、敬虔な信者を意味することがあった。これはジャイナ教の場合と共通であり、恐らく仏教興起時代の一般宗教界で用いられていた呼称を、そのままとりいれたものであろう。ここでは出家修行者も在俗信徒も、ともに〈「教えを聞く人」savakaの資格において〉考えられている(中村『原始仏教の成立』227頁)。ところが後代の仏教では(小乗仏教でも、大乗仏教でも)savaka,sravakaとは「声聞」と漢訳され、小乗仏教教団の僧侶たちの意味になった。後代の仏教が、最初期の仏教とはいかに異なり、いかに変質したか、ということが、この点からも明らかであろう。以上註より引用しました。

仏弟子に出家も在家もありません。サンガ(僧伽)は出家と在家の修行者からなる集団に変わりありません。本来は寺院も住職や信徒の所有物ではなく僧伽(サンガ)なのですから、修行の場所であるわけです。これが軽んじられることは三宝(佛・法・僧)をそしることになるわけです。何としても教えを修行する、実行する人を守らなければなりません。

目ざめた人(ブッダ)をそしり、或いは出家・在家のその弟子(仏弟子)をそしる人、──かれを賤しい人であると知れ。

 

スッタニパータ133

第一 蛇の章

<7、賤しい人>

133 人を悩まし、欲深く、悪いことを欲し、ものおしみをし、あざむいて(徳がないのに敬われようと欲し)、恥じ入る心のない人、──かれを賤しい人であると知れ。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
悪いことを欲し──pa-piccho.
あざむいて徳がないのに敬われようと欲し──satho.
恥じ入る心のない人──ahiriko anotta-pi.後代のアビダルマ教学では、この両語の語義の相違が盛んに論議されるが、ここではhiriは「悪についてぞっと嫌悪すること」otta-paは「悪について驚愕すること」と解していたようである。
(na-ssa pa-pajigucchanalakkhana- hiri,na tato utta-sanato ubbegalakkhanam ottappan ti.)
以上註より抜粋して引用しました。

誠に申し訳ございませんが、ほとんど全ての方々に当てはまる警告であります。

人を悩ませない人がいるでしょうか?

欲の浅い人はいるでしょうか?

悪いことをしたいと思わなかった人がいるでしょうか?

物惜しみしない人はいるでしょうか?

徳がないのに敬われたいと思ったことがない(欺かない)人はいるでしょうか?

恥じ入る心を忘れない人がいるでしょうか?

ブッダは2500年前に警告を発しておられます。

人を悩まし、欲深く、悪いことを欲し、ものおしみをし、あざむいて(徳がないのに敬われようと欲し)、恥じ入る心のない人、──かれを賤しい人であると知れ。