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スッタニパータ517

第三 大いなる章

〈6.サビヤ〉

517 あらゆる宇宙時期と輪廻と(生ある者の)生と死とを二つながら思惟弁別して、塵を離れ、汚れなく、清らかで、生を滅ぼしつくすに至った人、──彼を〈目ざめた人〉(ブッダ)という」

そこで、遍歴の行者であるサビヤは、師の説かれたことをよろこび、随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
あらゆる宇宙時期と……――ブッダガヤーにおけるブッダの成道に関する伝記参照。

以上註記より引用しました。

Buddha-gayā(ブッダガヤー)は一般にブッダガヤ(仏陀伽邪)と呼ばれています。釈尊成道の地として仏教の最高の聖地とされています。この地でブッダは覚りを開かれ覚者と成られたとされています。中村元先生の註記にある成道に関する伝記は様々ですが、中でも宇宙時期と輪廻と生死に関することは、次の記述から読み解いて参りましょう。

成道直後

「わたしはこのように聞いた。或るとき尊師は、ネーランジャラー河の岸辺で、ウルヴェーラー(村)において、アジャパーラという名のニグローダ樹(=バニヤンの樹)のもとでとどまっておられた。さとりを開かれたばかりのときであった。
 さて尊師が独り静かに坐して瞑想しておられたときに、次のように思われた、――「わたしは、もはや苦行から解放された。わたしが、あの(ためにならぬ苦行)から解放されたのは、善いことだ。わたしが安住し、心を落ち着けて、さとりを達成したのは、善いことだ」と。
 そのとき悪魔・悪しき者は、尊師が心で思われたことを知って、尊師のところにおもむいた。近づいてから、尊師に詩を以って語りかけた。――「人々は苦行によって浄められるのに、その苦行の実行から離れて、清浄に達する道を逸脱して、浄くない人が、みずから浄しと考えている」と。
 そこで尊師は、「この者は悪魔・悪しき者なのだ」と知って、悪魔・悪しき者に、次の詩を以って答えた。――「不死に達するための苦行なるものは、すべてためにならぬものであると知って、――乾いた陸地にのり上げた船の舵や艫のように、全く役にたたぬものである。さとりに至る道――戒めと、精神統一と、智慧と――を修めて、わたしは最高の清浄に達した。破滅をもたらす者よ。お前は打ち負かされたのだ。」
 そこで悪魔・悪しき者は、「尊師はわたしのことを知っておられるのだ。幸せな方はわたしのことを知っておられるのだ」と気づいて、打ち萎れ、憂いに沈み、その場で消え失せた。」(サンユッタ・ニカーヤ 第一集 第四篇 悪魔についての集成 第一章 第一節(「ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤ Ⅱ」中村元訳 岩波文庫)

有名な降魔成道の瞬間を表した記述から、釈尊の成道は偶然の出来事ではないことが解ります。戒めと、精神統一と、智慧と。戒定慧の三学に依らずして覚りはありません。そして覚りの内容は「縁起」と「四聖諦」「八正道」「十二因縁」などの思想や哲学といった学問的なものではありません。これは後世に智慧の説明としてまとめられたものです。ブッダがさとられた内容をわれわれが言葉で知ることはできないのです。以外に思われるかもしれませんが、抽象的に伝えるしかないのです。思惟弁別して、とあります。普通に考えたぐらいで覚りに入ることはできません。ところが自らを調御し、手を組み足を組んで、為になることだけを考えると段階をおって見えてまいります。あらゆる宇宙時期とは何か。輪廻とは何か。生死とは何か。これらの鮮明な理解が自己に生じます。これは「さとりに至る道」いわゆる修行で身体全部で知ることなのです。理論で知ろうとするから理論の激流にあっさりと流されるのです。離塵尊(りじんそん)です。塵を離れて汚れなくなり清くなり生を滅ぼす、つまりは解脱し完全なる死を迎え、涅槃に入る。それがブッダであると説かれております。

まだ咲かぬ咲いてしまえば散るのみぞ(月路)

東京では桜が満開とか。こちらはまだまだ寒い。近くの乗鞍岳には雪が降っているらしく山が白くなっていました。春まだ遠し。しかし蕾は少しずつ少しずつ膨らんでいます。楽しみです。花は愛惜に散り。見向きもしない花もあれば桜のようにちやほやされる花もあります。好き好きですが、わたしは梅の花が好きですね。ようやく散り初めです。息が長い。われもかくありたいと。

あらゆる宇宙時期と輪廻と(生ある者の)生と死とを二つながら思惟弁別して、塵を離れ、汚れなく、清らかで、生を滅ぼしつくすに至った人、──彼を〈目ざめた人〉(ブッダ)という」

スッタニパータ496

第三 大いなる章

〈5.マーガ〉

496 この世でもかの世でも、いかなる世界についても、移りかわる生存への妄執の存在しない人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
移りかわる生存――その原語bhavābhāvaはbhavaのreduplicationからつくられた語である。calācala(拙書〈中村元著〉『ヴェーダーンタ哲学の発展』三六二頁)という語と同様である。

以上註記より引用した。

人々は、この世においても、かの世(あの世)においても、そしてその他のいかなる世界においてでも、それはいずれ去らねばならない場所であり、そのような移り変わりの生存の中に生きている。これを一般に輪廻とよぶのでありますが、地獄・餓鬼道・畜生道を三悪道、人間界がこの世、天上界がいわゆるあの世と云われています。後世に人間と畜生との中間に修羅をもうけて六道輪廻とも謂われております。仏典は一般に、このように釈尊が説かれたことを分類整理して人々に解りやすく伝えられたのでありますが、現在ではかえって煩雑になったきらいがあります。ですが原典を繙きながら理解を進めていけば、時代と場所をこえてブッダ釈尊の伝えられた意図が鮮明になってまいります。仏法を学ぶこと(学道)の意義もまたここにあろうかと存じます。

移りかわる生存への妄執の存在しない人々

人は変化を望まない。変化を嫌うものです。そのくせ変化を望んだりする実に不可解な存在であります。これは妄想からきておる。そして執著している。変化に対する妄執とは、生きることについての執著であり、生きることの迷妄であります。迷いながらとらわれている状態です。ここから解き放たれ脱出することを「解脱」と呼んでおります。この句は、じつに解脱した人々の本質を説いておられるのですが、これに気づかない。気付いていても、そんなことを信じようとしない。信じたくない。それも自由です。勝手に思っていればいいのですが、誰もが輪廻に縛られているということは、確かめようがないのですから、それは致し方ないと言えば、それまでです。それでも輪廻は存在している。人間が妄執から完全に離れなければ、とこうなります。解脱できるチャンスはどの世界においてもというわけではありません。じつは人間のときにしか解脱はできないとされています。三悪道はおろか、かの天上界においても解脱はできません。善なれば昇る、悪なれば落ちる。この因果の法則は微塵も違うことはないのです。人間だけに分別があるのではありませんが、この人間界ほど修行の出来る場所はない。人間こそが、喜怒哀楽の中に生きているからこそ、その大いなる悲しみのなかで、全てをさとり、全てを愛し慈しみ、解脱の道を歩むことが出来るのであります。お釈迦様は菩薩のとき天上界におられましたが完全な涅槃のために、人間界に生れ、人々を救いたいと発心され、出家得度し、解脱しさとり(菩提)を開かれ、45年間教えを弘められ、そして最後の生を全うされて涅槃に入られました。そのお釈迦様、ブッダ釈尊の説かれたことが真実であると心から信じられるかどうかであります。

陰暦の二月十五夜満月に(月路)

お釈迦様は陰暦の2月15日に涅槃に入られたといわれていますが、その日は満月であったと伝えられています。まさしく菩提を円満されたわけです。今日はここ立川渡観音堂もとは釈迦堂において、恒例の涅槃会が開かれます。昨日は区の公民館でなんと五斗もの餅を搗きました。涅槃会のときに御供撒きするためです。きょうは四ヶ村が集まっての涅槃会ですから大勢お集まり下さる予定です。お練りといって、公民館から観音堂まで行列するのですが、涅槃会はじめての導師ということで些か緊張いたしております。なお今宵の月は、真夜中の本日24時にちょうど満月になるそうです。

この世でもかの世でも、いかなる世界についても、移りかわる生存への妄執の存在しない人々がいる。──そのような人々にこそ適当な時に供物をささげよ。──バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであるならば。

スッタニパータ431

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

431 わたしはその(世間の)善業を求める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

ブッダその人に棲んでいた悪魔ナムチは、人々が求める輪廻を目指すように執拗に勧めたのですが、ブッダは耳を貸そうとはしませんでした。人々が求める輪廻とはいうまでもなく善所に生まれ変わることです。「ええとこに参る」つまり極楽往生というものです。悪道に落ちずに天界に昇るもしくは人間界に戻ってくることを意味しています。ブッダ在世当時にもこうした輪廻思想は既に人々に敷衍しており、釈尊もそれ自体は否定されなかったと言われています。ブッダ釈尊は、その輪廻からの脱出に挑んだわけです。出離から解脱へ、そして涅槃と呼ばれる完全な自由を求めていたのです。

人間であれば、およそ誰も果たしていない未踏の地、それは輪廻という縛りからの開放であります。世界は空であります。実態はあるようで無い。無いようで有る。それは形而上の言葉で表現すれば、眼や耳などの感官によって得られる感覚によってのみ掴んでいる実態のない世界に実感をもって実在しているというようなものです。ああややこしや。そこにあるのは、パソコンやスマホの世界の中のような電子的な世界と同様に、一定の摂理によって世界が構築されており、だれか絶対的な存在が支配しているわけではなく、互いの緻密で綿密かつ膨大な無限ともいえる連鎖、ネットワーク社会の中に生きているということなのです。さらにややこしい話ですが、一言でいえば色即是空。受・想・行・識またかくの如し。

なにはともあれ多くの人は生かされているわけです。それを有難く受け取って、できるだけ善いことをして、輪廻の法則にしたがって生を全うし、心安らかに天上界に生まれ変わりましょうというのが、ナムチくんの誠心的な勧誘であります。こう書くと、非難轟々かもしれませんが、般若心経に書かれている大意は、無と空です。ナムチ君の勧誘に乗っては、またこの辛い輪廻をぐるぐる廻って、時には地獄に落ちたり、時には餓鬼や畜生に身を落としたりしながら、人間のときには喜怒哀楽。天上では極楽気分に浮かれ、ああ知らないよ。そうやって無限の連鎖社会に生きて死んでまた生きて死んでいく。

猿沢や 起きては巡る 輪廻かな (月路)

今朝は奈良のビジネスホテルにて目覚めました。善業の功徳を説くものをナムチとブッダは呼んでいます。仏教の本質は、既存の宗教観にない危険な思想だと思われるかもしれません。ここだけを切り取ったら確かにそうでしょうが、これはあくまでも輪廻からの解脱を求める修行者に対するものです。ここに述べられていることは、偽りのない真実であって、多くの人々にナムチが訪れることはありません。なぜならばナムチが囁くまでもなく、人々はその善業さえ求めようとしないのですから。

わたしはその(世間の)善業を求める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。

スッタニパータ430

第三 大いなる章

〈2.つとめはげむこと〉

430 かの悪魔がこのように語ったときに、尊師(ブッダ)は次のように告げた。──「怠け者の親族よ、悪しき者よ。汝は(世間の)善業を求めてここに来たのだが、

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

よく「善業を積む」という言葉を聞かれることと思います。善業とは「よい果報を得る因となるべき行為」とされています。善因善果、悪因悪果と申しますように、善いことをすれば善い結果が生じ、悪いことをすれば悪い結果が生じるという道理を説いたものです。これを真っ向から「怠け者」呼ばわりするのですから、ナムチもさぞや面食らったことでありましょう。世間でいう善業は、一般に汗して働いて稼いだお金や財産を寺院などに慈善として寄付したり、労働力を提供したりすることを指します。お布施とかお供えと呼ばれるものの類です。そうすることによって次の生では善所に生まれ変わるという輪廻思想が背景にあります。また五戒を守り、十善などのよき行いをすることも、善業とされています。これはこれで普通に善いことなのですが、修行中のブッダにしてみれば、見当違い、的外れもいいところであったのです。

ナムチは善業を求めてブッダのもとにやってきました。彼が求める善業を、ブッダが素直に積んでくれたら彼の目的は成就します。それは普通に善きことを行い、つまらない苦行を断念してもらうことにあります。仏教での悪魔はキリスト教などのサターンと違って、人間の内面に巣食う悪意や怠惰などを指します。ナムチはさしずめ内面の意思のうちで、常識的な考えの象徴でありましょう。ですからこんなに強力な悪魔は他にいないのです。適当でいいのだよ、決して無理をするものじゃない、体を壊すよ。これはどこからどう考えても正当と思われます。至って常識的な考え方であり、誰の心にも存在する正常な心理かと思います。

しかしながら、もし、ナムチが勝っていれば、この世に仏教は存在しておりません。その理由がこれからのブッダの言葉で明瞭になります。今日は、ゴータマ・ブッダと悪魔ナムチの戦いの始まりを告げるゴングが鳴ったようなものでしょう。ブッダは、常識的な考えを「怠け者の親族、悪しき者」と一刀両断に切って捨てます。ごちゃごちゃ前置きを述べません。怠け者と同類だと決めつけます。良い悪いで言えば悪いと明確に断定されます。

子も孫も 皆居なくなり 湯豆腐し (月路)

正月も早五日です。あっという間の年末年始でした。正月の配り物が半分済んで今日からは市外に出向きます。正月三が日の初祈祷の御札などをもって檀信徒宅を廻るのですが、昨年のお盆の棚経に初めて寄せて頂いてから半年近くも経つと、お家の場所が思い出せなくてウロウロしてしまいます。その内に慣れるのでしょうが、だんだん記憶力が減退していることを痛感する今日この頃であります。それにしても春のような穏やかさに恵まれありがたかったのですが、今日からは冬将軍再来ということで気を引き締めております。ナムチに負けそうになりますが、もう一息、頑張ってまいります。いつも日記のつもりのブログにお付き合い頂きありがとうございます。どうぞよろしゅう。

かの悪魔がこのように語ったときに、尊師(ブッダ)は次のように告げた。──「怠け者の親族よ、悪しき者よ。汝は(世間の)善業を求めてここに来たのだが、

スッタニパータ244

第二 小なる章

<2、なまぐさ>

244 粗暴・残酷であって、陰口を言い、友を裏切り、無慈悲で、極めて傲慢であり、ものおしみする性(たち)で、なんびとにも与えない人々、──これがなまぐさである。肉食することが〈なまぐさい〉のではない。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

今日はお葬式でありました。いつの場合もそうでありますが、悲しみが途切れることはありません。今朝も悲しいニュースが報道されました。テロというものは、自分勝手な思想信条信仰によって、暴力によって破壊する残酷残虐極まる行為であります。こんなことを神が許し給うと信じているのであります。神の名を借りた天罰覿面の悪行であること、憐れなことに直行の無間地獄行きであります。

神も仏もあるものかと信じるのは勝手ですが、この世は天と地の理法によって、信じる信じないにかかわらず、因果応報の輪廻というプログラムが組まれております。この輪廻から脱出することは容易ではありません。悪を為せば悪道に堕ち、善を為せば善きところに生まれ往くのであります。これを往生といいます。極楽往生か地獄陥落かを決めるのは閻魔大王ではありません。誰あろう自分なのです。

子供だましのような話をしているのではありません。輪廻があるかないかなどは、過去の識者の大方の結論ではっきりしております。輪廻を否定することなどは誰にもできないことなのです。

今日のブッダの言葉を何度も噛みしめて頂きたい。言葉は単なる言語ではありません。たった一言で天にも地にもなる恐ろしい真理が込められています。「有難う」と「殺せ」同じ言葉であります。

粗暴・残酷であって、陰口を言い、友を裏切り、無慈悲で、極めて傲慢であり、ものおしみする性(たち)で、なんびとにも与えない人々、──これがなまぐさである。肉食することが〈なまぐさい〉のではない。