タグ別アーカイブ: 道の人

スッタニパータ529

第三 大いなる章

〈6.サビヤ〉

529 師が答えた、「サビヤよ、道の人ならびにバラモンどもの有するすべてのヴェーダを弁別して、一切の感受したものに対する貪りを離れ、
一切の感受を超えている人、──かれは〈ヴェーダの達人〉である。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

ヴェーダとは、釈尊以前に、すなわち紀元前1000年頃から同500年頃までの間に編纂されたインドのバラモン教の聖典であります。当時における最高権威の経典といえるでしょう。インド神話、インド哲学の源流でもあり、一口にヴェーダと申しましてもその意味する範囲は広く、概念的には「神聖なる不可侵の教え」であったことでありましょう。そうしたヴェーダが既に道の人(修行者・沙門)やバラモン(神職・宗教祭祀者)に浸透していて、これを修行の基盤として、これを宗教の規範として、当時の社会の秩序が保たれていました。誰もが伝統宗教に異を唱えることなく、またこれを疑うことなく、その聖典解釈においても厳密な更正が繰り返されたとされます。現代においても過去の文献を論説の典拠とすることが取り決められているようなものであります。ところが釈尊在世当時、すなわち紀元前500年頃に、このヴェーダに対して様々な論客が現れたわけです。新たな主義主張が打ち出され、あるいはまた様々な宗教指導者が出現しました。ブッダ釈尊も歴史学的にはその一人であります。そうした大前提に立って、本詩を読み解きたいと思います。

一切の感受したものに対する貪りから離れる

原語ではsabbavedanāsu、一切の感受したものにおいて。vītarāgo、貪りから離れる。これは、全ての感覚器官から入ってきた情報を処理する過程において、すなわちあらゆる刺激に対し自らの反応に気づき、これに執着しないことであります。貪りというのは欲望であり執著であります。一切の感受を超えるとは、決して我慢することでも辛抱することでもありません。欲しがらないでもなく、目をそむけることでもありません。何を見ても聞いても感じても、心に動揺というものがない。憂いもなく淋しさもない。誤魔化すことのない清らかな眼であります。感受した感覚そのもの、眼に見えるもの、耳に聞こえるもの、鼻腔に感じる匂い、舌に感じる味覚、身に触れる感触、意(こころ)に浮かぶ思い。それらを感受していることだけであることに目覚めるのであります。それ以上は全て余計であります。絵画でいえば写実に似ています。温度に対して暑いとか寒いとか思わないことです。感じたままであって、感想を述べないことでもあります。言葉を重ねれば良いというものでもありません。感受を超えるとしか言いようがありません。普通の言葉に置き換えれば「何も考えない」ということです。宮崎禅師様は「何か考えたら、それは余計や」と端的に申されました。

ヴェーダの達人

今日の結論は、感受を超えた人が、聖典を巧みに実践している人、つまり聖典の達人であると述べられているのです。これには、サビヤさん、愕然としたことでしょう。なにしろあの膨大な一生かかっても読破することさえ出来ない聖典を、たった一言で喝破さたのです。「感覚を貪るな、超えろ」と。

散る桜残る桜も散る桜(大愚良寛)

この句は故郷であった越後の地で遷化された良寛和尚の辞世の句とされています。しかしながらそもそも道人にとって辞世というのは遺偈(ゆいげ)と申しまして通常漢詩で残すのが通例ですから、どうもこの俳句は良寛さんの辞世の句というのは一寸違うなあと思います。それはともかく、この句の素晴らしいのは、俳句とはこうあるべきというより、ありのままを詠んでいるところです。この句の意味を考えるからおかしくなる。意味も何も、桜の花が散っていく。残っている桜の花も散るのだと事実だけを述べています。これが俳句や短歌の醍醐味でしょう。仏教と俳句には密接な関係があるのでは?これもまた余計な考えですね。

師が答えた、「サビヤよ、道の人ならびにバラモンどもの有するすべてのヴェーダを弁別して、一切の感受したものに対する貪りを離れ、
一切の感受を超えている人、──かれは〈ヴェーダの達人〉である。

スッタニパータ515

第三 大いなる章

〈6.サビヤ〉

515 あらゆることがらに関して平静であり、こころを落ち着け、全世界のうちで何ものをも害うことなく、流れをわたり、濁りなく、情欲の昂まり増すことのない〈道の人〉、──かれは〈温和な人〉である。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
全世界のうちで何ものをも害うことなく――ジャイナ教においても全く同じことを言う(na hammai kamcaṇaṃ savva-loe.Āy.1,3,3,3)。第三六八詩参照。

以上註記より引用しました。

平静であること。辞書には「おだやかで(落ち着いていて)静かなこと。心がいらだったりあわてたりしていない状態(を保つ)」などとあります。「平成」に入ってからよく変換候補に上がってきたので、ずっと見慣れた言葉でしたが、あらためて善き言葉であると思います。このブッダの回答は「何により比丘は温和となれるか」というサビヤさんの質問に対するものです。温和に成れる、温和であり続けることができるのは、まさに何事にも平静であること、動じないことと喝破されたのであります。この堂々とした姿勢・態度は威厳を保とうとしているものではありません。落ち着いているというのは単にボーっとしているのでもありません。常に気をつけていて、自己の心を落ち着けていることです。他人の言葉や態度に過剰に反応しないのです。また相手を傷つけない、何ものも害うことがない正しい言葉をかけることです。相手の話を最後まで聞く、途中で遮らないことでもあります。まことに耳の痛い話であります。

道の人、沙門

男の修行僧を沙門といいます。桑門とも貧道ともいいます。沙門のことを中村元先生は「道の人」と訳されました。仏道を歩んでいる人という感じからすれば分かりやすい表現であると思います。比丘というのはビクシュの音訳でブッダの弟子というほどの意味で良いかと思いますが、沙門は道を求めて歩む行者のイメージが強いと思います。あまりこだわらなくて良いと思いますが、この詩句では、修行中のことを述べておられるので、道の人、沙門とされたものです。

つまり修行とは何かを説いておられるのです。もっとも大事な角目が何かを具体的に説いておられる。平静であることしかり、情欲の昂まり増すことのないことしかりであります。情欲は反応です。反射といってもいいでしょう。瞬時に起る心の動きです。これを放置しておくとだんだん昂じてまいります。怒りが増幅するのです。これを抑えることは至難です。ですから念をもって最初の反応に気づくことが重要なのです。これは常に身を正す習慣がなければ実行できません。背筋を伸ばして身を正す、いつもの注意、クセになるほど身を正せということです。

ありがたや骨の安めに雨の降る(月路)

晴耕雨読。好きな言葉の一つです。晴れたら外作務、雨なら内作務。外業、内業。修行という意味では「外行(がいぎょう)・内行(ないぎょう)」がいいですね。とにかく今日は少し肌寒い朝を迎えました。今日は内行にします。午後からは住民となった初の区の総会出席です。少し緊張しそうですが、平静でいきます。

あらゆることがらに関して平静であり、こころを落ち着け、全世界のうちで何ものをも害うことなく、流れをわたり、濁りなく、情欲の昂まり増すことのない〈道の人〉、──かれは〈温和な人〉である。

スッタニパータ282

第二 小なる章

〈6、理法にかなった行い〉

282 次いで、実は〈道の人〉ではないのに〈道の人〉であると思いなしている籾殻どもを除き去れ。──悪を欲し、悪い行いをなし、悪いところにいるかれらを吹き払って。

〈中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より〉


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた

外の作務で便利な電動器具のひとつに落ち葉集塵兼吹き飛ばし機能のついたブロアバキュームというのがあります。別に落ち葉が悪い奴らではないのですが、砂利敷きの上に落ち葉があるとスカッとしません。逆にこの落ち葉くんたちを吸い取ったり吹き飛ばしてやると庭も見違えるように整然となるのです。ひとつひとつ手で取るのは大変時間がかかりますので、お寺などの比較的ひろい場所は、この集塵機があるととても重宝します。

この落ち葉くん、放おって置くとだんだん枯れて粉々になり腐葉土として雑草の栄養分になります。ところがこの落ち葉や塵などを日頃こまめに取り除いておくと、明年は草むしりがとても楽になります。何事も日頃の手入れが肝心でありまして、日常の作務の大半がこの草むしりや庭木の手入れであります。掃除・清掃・片付け・処分が外作務(そとざむ)の中心です。お寺もお店と同じで、そこを預かる者の姿勢が問われます。反省しきり、今日は自身への警告としてこれを書いております。

道の人というのは、ここでは仏道を歩む者と解しておきます。いやしくも仏道を歩むと志した以上、世間と同じような贅沢は慎むべきであります。一生楽はないと腹をくくることです。世間が求める楽しみと出世間(しゅっせけん)の安楽とは外観からすれば全く違います。ただ手をこまねいて坐っているようにみえて、その実、坐ることだけに徹しておる様子であります。心の波を鎮めるには、やはり坐禅が一番です。道元禅師様は普勧坐禅儀で、心・意・識の運転を停(や)め、念・想・観の測量(しきりょう)を止(や)めて……、非思量。坐禅の要術なりと説かれました。宮崎奕保禅師は、「何も考えない、思ったことはその場かぎり、握りしめない、いわゆる前後際断や」と申されました。宮崎禅師の禅師号は「黙照天心禅師」(もくしょうてんしんぜんじ)であります。

道元禅師様の和歌の中で、坐禅の境地と思われる有名な歌をご紹介して今日の声と致します。『濁りなき 心の水にすむ月は 波もくだけて 光とぞなる』

次いで、実は〈道の人〉ではないのに〈道の人〉であると思いなしている籾殻どもを除き去れ。──悪を欲し、悪い行いをなし、悪いところにいるかれらを吹き払って。