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スッタニパータ522

第三 大いなる章

〈6.サビヤ〉

522 世間のうちにあっていかなる罪悪をもつくらず、一切の結び目・束縛を捨て去り、いかなることにもとらわれることなく解脱げだつしている人、──このような人はまさにその故に〈竜〉と呼ばれる。」

そこで、遍歴の行者サビヤは師の諸説をよろこび随喜し、こころ喜び、楽しく、嬉しく、欣快の心を生じて、さらに師に質問を発した。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
罪悪をもつくらず――原文にはāguṃ na karoti とある。これは竜(nāga)という語をna+āga(罪なし)と分けて解して、このような通俗語源解釈を加えているのである。カーヴィヤ以後、後代にはnāgaという語は「象」をも意味するに至った。いずれにもせよ「すぐれた人」を意味する語として用いられた。第四二一、八四五詩参照。

845 竜(修行完成者)は諸々の(偏見)を離れて世間を遍歴するのであるから、それらに固執して論争してはならない。たとえば汚れから生える、茎に棘のある蓮が、水にも泥にも汚されないように、そのように聖者は平安を説く者であって、貪ることなく、欲望にも世間にも汚されることがない。
以上註記より引用しました。

ここで頻繁に出てくる「通俗語源解釈」について少し説明しておきましょう。この「通俗語源」は一般に「民間語源」というもので、もともとの正しい語源が判明していても、誤った説のほうが広く流布していることがあります。これらが民間語源と呼ばれるものです。仏典の解釈や翻訳においても、本来の意味を離れて流布してしまい、それがあたかも真説かのように解釈されている場合に「通俗語源解釈」が加えられていると注釈されるわけです。例えば「言語道断」などがその一例でありましょう。

龍象

八大人覚(はちだいにんがく)の八番目は仏典によって違って伝えられております。正法眼蔵では「不戯論(ふけろん)」を掲げます。偉大な人(大人)の八つの特長をまとめたものを「八大人覚」と申すのでありますが、修行完成者である竜は、何ものにもとらわれず、一切の偏見・妄想を捨てているので、論争をしないのであります。禅宗でも「龍象」と呼ばれる人は、修行完成者を意味します。このように今に伝わった仏教の根本は何も変わっていないのでありますが、いわゆる民間語源解釈のような、表面上の受けとり方によって、やれ「葬式仏教」だの「拝み祈祷」だのといった誤った仏教イメージが形成されたことも確かであります。最近ではスピリチュアルなどという言葉がもてはやされ何やら得体の知れない、わけのわからないものに縋る風潮も見逃せません。原始仏典の方が、いかに科学的かつ論理的であるかが、もう充分に理解されたことと存じます。たとえばお葬式。この式自体は亡くなった方が仏弟子となる得度の儀式であります。人の生死に臨んで、残されたものが無常をさとり、静かに葬送するものであります。最愛の人を最上の儀式で見送る気持ちに時代を超えた慈愛があります。野辺送りといいます。文字通り、村のはずれの里から遠いところまで葬列をつくって送っていきます。もう帰って来ない人を、いつものように玄関先で見送るのではなく、野辺まで送っていくのであります。二度と会えない人との別れの時であります。これは世界中に共通の民間伝承です。なぜでしょうか。無常。変化しないものはないという、常無し。色は匂えど散りぬるを我が世誰そ常ならむ。これは真理ですから、理屈は解らなくとも、感じるのであります。人間ですから。生きものですから。この世での修行を終えた人に供養する。縁のあるものが供養するのは、こころからの感謝と慈愛であります。まさしく修行完成者(竜)に対する尊敬の念であります。

死に顔を間近で拝む無常なり(月路)

お葬式が立て続けに3件ありました。最近の棺桶はお顔の部分の扉が開かれていて透明のビニール板越しに、ご遺体を拝めるようになっています。3件ともご婦人でありました。遺影のお写真とは全く違ったお顔に、ただただお疲れ様でしたとお別れを告げます。南無大悲観世音。さて、今日は雨の中を寺割の集金に檀家さん宅を回ります。雨の日はご在宅が多いのも確かです。皆さん嫌な顔ひとつされずに、ご苦労様といわれます。こちらは仕事のつもりでしたが、最近は仕事とはとても思えません。ご供養をお預かりする大切なつとめです。もちろん修行であります。大慈大悲の観世音。

世間のうちにあっていかなる罪悪をもつくらず、一切の結び目・束縛を捨て去り、いかなることにもとらわれることなく解脱げだつしている人、──このような人はまさにその故に〈竜〉と呼ばれる。」