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スッタニパータ530

第三 大いなる章

〈6.サビヤ〉

530 内的には差別的〈妄想とそれにもとづく名称と形態〉とを究め知って、また外的には病いの根源を究め知って、一切の病いの根源である束縛から脱れている人、──そのような人が、まさにその故に〈知りつくした人〉と呼ばれるのである。

中村 元「ブッダのことば スッタニパータ」より


自分から見た合掌の絵
合掌はブッダのすがた
究め知って――このあたりの文章は難解であるため註釈にしたがって解釈した。so ca anuvicca papañcanāmarūpaṃ ajjhattaṃ attano santāne tanhaditthi-mana-bhedaṃ papañcam tappaccayā nāmarūpan ca aniccanupassanādihi anuviditva,na kevalañ ca ajjhattaṃ, bahiddhā ca rogamūlaṃ……anuvicca(Pj.p.431).

以上註記より引用しました。

 この詩句は大変難解であると思われますが、ここが仏教の根幹をなす部分ですから、出来る限りがんばって腹に修めるように致しましょう。このpapañcanāmarūpaṃという原語は、仏教学では「心と身体の妄想」と訳しています。何のこっちゃさっぱりわからんという向きには単に「妄想」でもいいと思います。もっとかんたんに申しますと「観念」ですね。作り事です。頭のなかで認識していることは、そのままズバリではないといっても過言ではありません。普通の人は、自分の経験や体験あるいは本を読んだり映画を観たりして、自分で認識(認知)方法を編み出して来ているわけです。いわばあらゆる出来事を自分に都合のいいように(というかごく自然に)捏造して観ているわけです。認知というのは、認知症ですっかりおなじみになりましたから、説明するまでもないかと思いますが「外界にある対象を知覚した上で、それが何であるかを判断したり解釈したりする過程のこと」です。現代では認知科学の研究がさまざまな学問領域で進められていますが、ブッダは2500年前の大昔にこの認知というものに言及されています。この認知という脳の機能によって、私たちは世界を実感しているのです。手をたたけば、パーンと音がします。これは単純な例ですが、この音を聞いて、また手をたたくのを見て、何を感じるかです。また何を思うかです。唯識につながっていきますが、ここでは深入りせずに、そういうことを研究した人々がいて、その研究結果がきちんと残されているということだけ知っておきましょう。

もう一つ、一切の病いの根源が束縛であるというのは、何を意味しているかということです。人間が生れるということは、すなわち老化が始まるということでもあります。成長も病気も同じ現象です。これを成長と観るか、老化と観るかの違いです。そして病にかかり死んでいきます。生老病死という四苦も人間の成長過程であります。悲しむことでも辛いことでもありません。苦というのは苦しいという感想ではないのです。現実を指した言葉であります。事実として、生きているということは苦であるという認識です。それを生きるということは苦しいとやるものですから、わかったようで、いつまで経ってもわからない。束縛という言葉を聞いても、誰かに縛られているように感じてしまう。これも勘違い。自分が束縛の主体です。自分で自分を観念という鎖・縄で縛っておるようなものです。それを解くのが解脱です。病というのは現象です。あらゆる現象は自分がこころに作った世界であります。たとえばガンに罹ったとしましょう。検査の結果、余命宣告を受けたとしましょう。これは現象です。ところが何年たっても死なない人だっているわけです。宣告どおりの人もいます。もっと速く進行する場合だってあります。そうした現象は誰にも予測できません。しかしながら、ガンと聞いただけで病が病気になります。ガンと闘う。ガンと戦わない。どちらが正解というものではありません。ガンですよ。ああそうですか。これだけなんです。くよくよしたって始まりません。

先日、知り合いの方が壊疽という病気に罹りました。私の伯父も壊疽で足を切断しました。エノケンさんも確か同じような病気だったと記憶しています。こうした病は誰でも罹る可能性があります。聞いただけでも可哀想でたまらない話ですが、放おっておけば命はありませんと医師から云われれば手術する以外に選択は無いように思います。家族や友人の辛さは察するにあまりあります。他人事ではありません。そのときに、自分事としての学びがあります。自分がそうなったらどうするか。これが仏教を学ぶ意義とは申しません。現実の生活の中で、仏教がなければ、仏教ではないのです。生死の中に仏あれば生死なし。仏というのは仏法のことです。仏法は、まさに解脱と涅槃が目的です。ここを学ぶために、これを身にするために、これを心とするものであります。

内に差別、外に病

今日の結論は、仏教というものは結局「解脱」の教えであるということです。差別的(妄想とそれにもとづく名称と形態)と訳された中身は、実物(ほんもの)に適当に名前を付けて、こころの中で勝手に形作って認知しているのが実態である。これは本物からしてみればえらい差別的なあつかいです。失礼にもほどがあるのです。たとえばレンギョウという名の木に人間が勝手に連翹という名を付けて、黄色い可愛い花が咲くから庭木にどうぞと思っているようなものです。このような差別的な(観念)こころが現実世界(実相)を歪めているということが一つ。もう一つは、外に病いの根源である束縛というものがあります。これは自己を取り巻く環境ですが、じつはこれも自分が作った檻のようなものです。その束縛から脱する。解脱ですね。例えていえば会社や組織に身をおいていても、こころは本来自由なのですが少しも自由を感じないとしたら、それは実に自分の外に檻をこしらえているからです。檻でも何でもない実際に無いものを頑丈なコンクリートと鉄で作ってしまったのは誰かということです。つまり有るものを無いとしたり、無いものを有るとしている心を開放しましょう。解脱しなさいということでありましょう。

半月過ぎ銀杏切る日が近づきし(月路)

この19日の水曜日に銀杏の枝を切ることになっています。先月総代会で決まったのですが、それまでにあれもこれもして置かなければならないことが沢山ありました。まだ予定の半分もできていません。なぜ銀杏の枝を切るのかと言えば、秋になるとこの銀杏の葉が落ちて墓地に向う路がイチョウの葉で埋め尽くされてしまうからです。この枝も葉も燃えにくくそれで神社や寺院の傍に植えるらしいのですが、この葉は滑りやすくとても危険ですので、景観はいいのですが、実際に困ったものとされました。銀杏に罪はないのですが、管理上切ることにしました。だれが上に登って切るのか?一番若いもの?どうやら私になりそうですが、和尚はやめておけ。そういう声があるのも確かです。このあいだ、傷害保険に加入してきました。ひとり一ヶ月1,220円。高いのか安いのか知りませんが、死亡保険金300万円です。これは誰にも伝えません。

内的には差別的〈妄想とそれにもとづく名称と形態〉とを究め知って、また外的には病いの根源を究め知って、一切の病いの根源である束縛から脱れている人、──そのような人が、まさにその故に〈知りつくした人〉と呼ばれるのである。